第十九話 すれ違う二人
『嫌い、かなめさんなんか大っ嫌いです』
あの言葉が忘れられない。涙を流しながら彼女は拒む言葉を紡いだ。
よけいな事をしてしまったのか、俺はただ彼女を助けたいと思った。それだけなんだ。
駆け出す彼女の背中を見つめながらその場で固まってしまう。
あの言葉が俺を縛り付けて動けない。
「誠ちゃん!」
絹江さんが後を追いかける。何をやっているんだ、俺も追いかけるんだよ。
でも、また拒絶されたらと思うと動けなかった。
そのまま時間が経ち、絹江さんが戻って来た。
「ごめんなさいね、誠ちゃん何を言っても音沙汰が無いの。部屋に籠っちゃった」
「す、すいません。俺があんな事を訊かなければ……」
「かなめくん、あなたが誠ちゃんを傷つけるために夫の事を訊いたなんて思って無いわ。誠ちゃんの心の傷を治すために必死だったって知ってるから……だから自分を責めないで」
「絹江さん……」
「……かなめくん、申し訳ないけど今日は帰った方がいいかも知れない。誠ちゃん今日はもう出てこないだろうから」
「……分かり、ました。ご飯、ご馳走さまでし、た」
力無く廊下に出る。姫ちゃんの部屋を遠くで見つめてそのまま歩き出す。
玄関まで絹江さんが見送りをしてくれた。
「本当にごめんなさい。……またいらっしゃい、かなめくん」
「はい、お邪魔、しました」
歩いた。
ただ黙々と夜道を。辺りはすっかり黒く塗り潰されて、様々な家から漏れる光が俺を照らす。
歩き続けて気がつくと、自分の家を少し通り過ぎていた。折り返し家へと入る。
「ただ、いま」
「おかえりかなめちゃん! アイラブユー!」
姉貴が飛び掛かって来る。でも、それを避け切れなくてそのまま一緒に地面へ。
「え、兄さんが姉さんを避けられないなんて」
「痛たたた。……ふに? かなめちゃん?」
「……悪い、今日は気分が悪いんだ。だからもう寝る」
ゆっくりと起き上がり自分の部屋へ。心配そうに見つめている姉貴とめいだったが、悪いが俺はそれどころじゃない。
今は一人になりたかった。姫ちゃんの事を思う度に胸が苦しい。
部屋に入り明かりも点けず、すぐにベッドへ。
眠くも無いのに瞼を閉じる。姫ちゃんの事を考えながら。
俺がやった事はただ姫ちゃんの傷を広げてしまっただけだ、苦しんでる彼女を助けたかっただけなのに。
「……何やってるんだよ俺は」
初めて大っ嫌いと言われてしまった。その言葉がこんなにも胸を貫く様な痛みだなんて。
俺はどうしたらいいんだ?
悩みながら気がつけば夜中の2時、こんな時なのに眠気が襲う。
そのまま睡魔に引きずり込まれて行く。
翌朝は最悪だった。掛け布団をせずに寝た為か風邪をこじらせてしまう。
頭が痛い。世界が回る様な感覚。とても学校には行けそうに無い。起床がいつもより遅かったせいか、父さんが起こしに現れる。
「どうした? 顔が赤い、熱がある様だな。大丈夫か? どれ……熱いな。風邪でも引いたんだろう。学校には行けそうか?」
「ん……無理っぽい」
「なら今日は安静にしている事だ。後で病院に連れて行くから」
と言う訳で寝ることになった。今まで学校休んだ事無かったんだがな、こんな風邪くらいで。多分、学校で姫ちゃんに会うのを無意識に恐れているのかもしれない。
空ろな目で天井を見ている時だ、ノック音が聞こえて来た。
多分姉貴だろう。
「かなめちゃん、風邪大丈夫?」
「なんとか。今日は……休むよ」
「何か欲しいものがあったら仕事帰りに買って来てあげる、だから元気だして……」
そう言ってもらうと素直に嬉しい。
「兄さん、大丈夫?」
姉貴の背中からめいが出てくる。心配そうな顔で。
いつも生意気なのに、こんな時は優しい妹になるんだよな。
「大丈夫だ……ほら、風邪が移るといけないから早く学校行け。心配してくれてありがとうな」
「う、うん。じゃあ行って来るね」
「お姉ちゃんも行って来ます」
と言い残し扉が閉まる。
静かになった部屋で俺は身体がきつかったので少し眠った。
目を瞑りながら姫ちゃんを思う。今日行かなかったらどう思うだろうか?
「姫……ちゃん」
微睡み、次に目が覚めてから時計を確認すると昼前の十一時半だった。余程身体が弱ってたらしい、こんなに眠るなんて。
それから父さんが病院に連れて行く事になった。車で出掛け病院に到着して診察、それを終えて薬を貰い帰宅した。その後もベッドで体を休ませる。
昼は父さんが作ってくれたお粥を食べた。食欲が無かったから半分以上残してしまう。
「本当は食べた方が良いんだがな。食欲が無いなら仕方ない。横にスポーツ飲料を置いておくから水分補給はちゃんとしないとダメだぞ」
「うん、分かってるよ。ありがとう父さん」
「よし、安静にしていなさい」
父さんが部屋を出て行く。咳が止まらない。頭が痛い。これはもう一眠りだな。
ああ眠い。
また睡魔に身を任せた。
次に起きた時だった、目の前に居た人物を見て俺は驚いてしまった。
「お! 起きたか。なかなか可愛い寝顔だったぞ後藤」
「え? ……会長?」
ベッドの横に我らが生徒会の会長、宝条院聖羅が。
あまりに突然だったからびっくりして声が裏返ってしまった。
「ど、どうしてここにいるんですか?」
「わたくしは会長だぞ? 生徒会のトップだ。風邪を引いたお前を見舞いに来てやったんだ、有り難く思え!」
「あ、ありがとうございます」
今何時だ? 時計は四時を示してる。今は次の生徒会を決める選挙前でいろいろと忙しいはずなのに。
自分勝手な人だけど優しいんだよな会長は。
「ほらお見舞いに会計の仕事をたっぷり持って来てやったぞ? ちゃんと終わらせろよ?」
分厚いプリント用紙が枕元に。病人なんだけどな。
さっきの事、前言撤回で良いかな?
「それにしても学校休んだの初めてじゃ無いのか? わたくしが知る限りでは休まずに来ていただろ?」
「まぁそうなんですけど……引いてしまいました」
「しかし妙だな、お前と柳刃が同時に休むなんて」
え? 姫ちゃんも休んでいるだって?
「……その顔、怪しいな。後藤、柳刃と何かあったのか? これは偶然では無さそうだが」
姫ちゃんの心の傷を広げてしまった事、嫌いだと言われた事そのすべてが一気に脳裏に溢れかえる。
俺はどうしたらいいんだ?
「話せないなら無理には聞かん。だが、相談相手になってやれると思う」
姫ちゃんの事を相談してみようか? 人の傷を他人に話すのはどうだろうか?
なら、なるべく詳しく内容を言わないで相談してみよう。
「か、会長、実は……その、姫ちゃんにはトラウマがあってそれを俺が広げてしまったんです。……大っ嫌いって言われて……」
「……トラウマか。一体どんなものかは訊かんが、それを広げたか……後藤、それは柳刃の為にやった事なのか? わたくしはお前が悪意あって柳刃のトラウマを広げたとは思えない。お前はそう言う男だと分かってるつもりだ」
「俺は……ただ、姫ちゃんを救いたかっただけなんです。トラウマで苦しんでいるならなんとかならないかって」
「トラウマは簡単には治らないぞ? 心の問題だからな、柳刃自身がトラウマと向き合わないとお前が頑張っても無駄になってしまう」
「……どうしたら良いですか? 姫ちゃんに拒絶されたんです。俺、どうしたら」
なんて情けない声なんだ。姫ちゃんが言った言葉がこんなに苦しいだなんて。
「……お前は柳刃を救う為に悩み、苦しんでいる。後藤、また柳刃に拒絶されるのが怖いんじゃ無いのか?」
図星だった。
また姫ちゃんに拒絶の言葉を言われたらと思うと俺は姫ちゃんに会うのが怖い。会長はそれを見抜いたんだ。無言になり、俺は口を閉ざしてしまう。
しばらくそのまま時間が流れる。そんな空気を裂く様に会長が話し出す。
「……わたくしが何故生徒会会長をやっているか話した事あったか?」
「え? えっと、知らないです」
「そうか……前の生徒会会長はなわたくしの兄なんだ」
突然の話だった。前の生徒会会長が会長の兄さんだと言う。
「名を宝条院空夜、優しくてかっこいい兄だったんだぞ?」
「だった?」
「実はな、兄はある事故あって意識不明になった……今も病院のベッドで眠ってる。もう一年もな」
悲しそうに顔を歪める。その顔は今にも泣いてしまいそうな……。
「……兄は優しい。嫌、優し過ぎるんだ。誰にだって優しく接してその為か友達が多い。そんな兄は学校が大好きだったんだ。いろんな人が通い、勉強して同じ時間を過ごす学校が大好きだったんだ。だから生徒会会長になった、大好きな学校をより良くしたくて頑張っていた。そんな兄が大好きだった……」
優しい顔で過去を思い出していた。
「そんな兄が事故にあった。その事故って言うのは猛スピードで迫る車の前に小さな子供が飛び出してしまってな、その子供を助けて変わりに跳ねられたんだ。頭を打って意識不明になった。わたくしはな、兄が大好きだった学校が不良なんかに汚されるのが我慢ならなかったんだ……だから防衛生徒会を作った、兄が大好きだった学校を守る為に」
それが会長になった理由なのか。大好きだった兄の為に頑張っていたんだ。会長を見直したよ。
でもどうして今この話をしたんだろう。
「……事故の前の事だ。わたくしは……兄と喧嘩してしまったんだ。喧嘩と言ってもわたくしの一方的なものだ。一緒に出掛けると約束していたんだが、生徒会関係で出掛けられなくなったんだ。わたくしはそれに腹を立てて兄に……大っ嫌いと言ってしまった。それから事故にあった……わたくしはあの日の事を謝りたい、わがままを言ってごめんなさいと言いたいんだ……だから今も毎日お見舞いに行っている。兄が目覚める日までわたくしは待ち続けている、何があっても諦めないで」
そう話、俺を強く見つめる。
「お前は柳刃の為にトラウマと戦うと決めたのだろう? 柳刃に拒絶されようと、やり通す事が大切なんじゃ無いのか? 大変な道程だろう、何回も傷つけるだろう。でもそれはお前が選んだ道だ、一度決めたのなら諦めずに頑張れ! 柳刃を思うのなら自分が信じた道を行け!」
「会長……」
俺は姫ちゃんの為にトラウマと戦うと決めたんだ。なのにここで諦めたら戦うと決めたのは嘘になる気がする。
また拒絶されるかもしれない。でも、俺は……姫ちゃんに笑顔でいて欲しい。例え俺が嫌われようと。
いつまでも可愛い服を着られないなんて可哀相だ。
姫ちゃんに笑顔で可愛い服を着て欲しい。
「……会長、ありがとうございます。俺頑張ってみます。もしかしたらまた拒絶されるかもしれないけど……でも、それでも」
「良い顔になったな。お前はそうあってこそ後藤かなめなのだろう。……本当にその部分は兄にそっくりだ。今だから白状するがな、お前の事は入学した時から知っていたんだぞ?」
そんなの初耳だ。俺が初めて会長に会ったのは教室で数学のテストが良かったのを自慢している時、勢い良く教室に入って来た会長が初めてだ。
その前に会長は俺を知っていたのか?
「お前を知ったのは入学式だ。わたくしが入学式の準備をやっている時、新入生が不良に絡まれているところにお前が助けに入っただろ? 何度も殴られても止めろと言い続けるお前を遠くから見ていたんだ。喧嘩弱いのにお前は不良に立ち向かっていた。そんなところが兄にそっくりだった」
そう言えばそんな事があったな。多分在校生だったんだろうな、俺と同じ新入生をからかっていた。
そいつらが許せなくて止めに入った、まさかそんなところを会長が見ていたなんて。
「今でも覚えてるぞ? 入学式の時に顔が痣だらけになったお前を。一人目立っていたな……一目で気に入ったよ、お前みたいな他人の為に動く人間を久し振りに見たからな。わたくしはお前を絶対生徒会に入れると決めたんだ」
さてと、と言いながら会長が立つ。どうやら帰るみたいだ。
「話が逸れてしまったな。とにかく諦めるな、お前には諦めるという言葉は似合わない。後藤、わたくしが出来るのはアドバイスだけだ。後は自分でやるだけ、結果がどうなるかは分からない。だが、何もやらなかったら何も起きないんだからな……長居したな、今日は安静にしていろ」
「会長、ありがとうございます。後それと、俺を生徒会に入れてくれてありがとうございます。今は感謝してます」
「ふっ、そう言われると照れるな。それじゃ頑張れよ後藤」
会長は部屋を後にした。会長が言ってくれた事が俺の原動力になる。諦めたらそれまでだ。姫ちゃんがいつも笑っていられる様にしたい。
拒絶されようとめげない。早く風邪を治して姫ちゃんの為に頑張る。
会長が帰ってからしばらくして、妹のめいが帰って来た。慌ただしく廊下を走る音がする。急に静かになったかと思うとドアのノック音が部屋に響く。
「開いてるよ」
「……兄さん、ただいま。風邪はどう? 良くなった?」
「ああ、朝より良いよ。心配してくれてありがとうな、めい」
心配してくれる家族がいる事はこんなにも心強いんだな。
弱りかかった心を家族が支えてくれている、そんな気がしてならない。
「兄さん、何か欲しいもの無い? あ、冷蔵庫にプリンがあるの、食べる?」
「プリンか、ならお願いしようかな」
「じゃあ取って来るね!」
と言ってまた廊下を激しく走る音が。いつもは生意気な妹なのに、今日は優しい。なんだか昔、まだ俺をお兄ちゃんと呼んでた頃を思い出す。
いつも後ろを付いて来て甘えん坊だったのにな。
急いで取って来たせいで少し息切れしながら部屋に入る、可愛らしい笑顔でプリンを差し出す。
「ありがとう。じゃ、頂きます」
「……に、兄さん、た、食べさせてあげようか? えっとその……に、兄さんは病人なんだから、その……」
本当に今日のめいはいつもと違うな。
めずらし申し出だ、恥ずかしいがやってもらおうかな。
「じゃあ頼む」
「あ、うん!」
プリンの蓋を開け、スプーンに中身を乗せて俺の口に運ぶ。
めいの顔が少し赤いな。
「に、兄さん……あ、あ~ん」
「うっ、恥ずかしいな……」
プリンが口の中でとろける。うん、旨い。でも恥ずかしい。
「……兄さん、何があったか知らないけど、元気出してね、あたし、なんでも協力するから……だから元気なお兄ちゃ……んんっ、元気な兄さんになって」
「めい……ありがとう、めいにそう言われたら元気が出て来たよ。本当にありがとう」
頭を撫でるとめいは俯いて顔が真っ赤に。
とそこへ。
「あ~! めいちゃん羨ましい事してもらっちゃってる~!」
「ね、姉さん! もう帰って来たの!?」
「かなめちゃんが心配なので残業せずに飛んで帰って来たのだ! かなめちゃん、朝より顔色が良いね、良かった、良かった。あ、これお土産のアイスクリームだよ! だからお姉ちゃんにも頭ナデナデして欲しいな~」
いつもの変わらない姉貴だ。心配させたからな、やってやるか。
姉貴が近付いて来たから頭を撫でる。
「ふにゅうひゃあ! か、かなめちゃんがまりあの頭を! ふに~、ふに~、ふに~、幸せ!」
「心配してくれてありがとうな二人とも。俺もう大丈夫だから、身体も心も……」
挫けない、姫ちゃんの為に。
翌日、熱も下がって動けるまで回復した。どうにか学校に行けそうだったので行く事に。一日ぶりの学校、今まで無欠席だったから一日休んだ後に行くとズルしたみたいで変な気持ちになる。
教室に入ると友達にいろいろからかわれたが、無事一日を過ごし放課後。
生徒会室に行くと皆川先輩が先に来ていた。
「あ、後藤くん! 大丈夫? 風邪だったんでしょ」
「はい、もう大丈夫です」
「そう、良かった。でも、柳刃さんも休んでたから今風邪が流行ってるのかな? 私も気をつけなくちゃ」
そうだ、姫ちゃんは今日来ているのだろうか?
とその時、扉が開き会長と副会長が入って来る。
「お、風邪は良くなったようだな後藤」
「あ、はい、……あの会長、姫ちゃん今日来てますか?」
「実は今日も来てないんだ」
来てないのか。俺と顔を合わせたくないのだろうか。そうだとしても姫ちゃんが気になる。
どうしたら良いのかまだ分かって無い。でも、じっとしてられない。
「あの会長……」
「分かっている、会計の仕事は皆川に任せれば良い、行って来い後藤」
「会長……ありがとうございます!」
駆け出す。
どうやったら姫ちゃんを助けてあげられるか分からないけど、でも会長が言ってた事が答えの様な気がする。
姫ちゃん自身がトラウマに向き合わなければ治る事は無い。
そうだよ俺にはその手助けをする事しかないじゃないか。本人が立ち向かう気がなければ意味は無いんだから。
学校を出て、ひたすら走る。姫ちゃんを思いながら。
見えて来た、姫ちゃんの家が。俺は家の門を通り玄関まで進みインターホンを押す。呼び出し音が鳴り響き、しばらくすると扉の向こうから足音が。
扉がゆっくりと開き、そこにいたのは絹江さんだった。
「は~い。あ、かなめくん……」
「こんにちは。あの、姫ちゃんはどうですか?」
「……ずっと部屋に閉じこもったままよ。とにかく中へどうぞ」
客間へと招かれた。座布団に座り、しばらくして絹江さんがお茶と和菓子を持って来てくれた。
「はい、熱いから気をつけてね。お菓子も遠慮せずに食べてね」
「ありがとうございます。……あの、姫ちゃんはあれ以来出て来てないんですか?」
「ええ。……誠ちゃん、自分の殻に籠っちゃった。誠ちゃんにとって夫の事は心の傷になってるから……」
「俺は……姫ちゃんを助けたいだけなんです。いつまでも女の子の服が着られないなんてそんなのあんまりですよ。俺、姫ちゃんのお父さんの事を知りたいです、姫ちゃんをどう思っていたのかを……知りたい」
「かなめくん……」
絹江さんは立ち上がり部屋を出て行ってしまった。
傷つけてしまったのか? そう思っていたら絹江さんが戻って来る。その手には白い封筒を持って。
「夫はね、酷い人間では無いの。厳しい人だったけど本当は優しい人なのよ。誠ちゃんを傷つけた日、あれは夫は柳刃家の未来を思って誠ちゃんを男として育て様としたの。……だから女の子の格好をしていた誠ちゃんを見てカッとなって……だからと言って許される事じゃないわ……でも、夫はちゃんと後悔していたの」
「え?」
白い封筒が机の上に差し出された。真っ白な封筒、何も書かれていない。
「これは夫が亡くなる前に書いた手紙なの。誠ちゃん宛の」
「姫ちゃん宛の手紙……」
「夫は後悔してたわ、なんて事をしてしまったんだと何度も何度も後悔した……本当は誠ちゃんに謝ろうとしたわ、でも、誠ちゃんは夫を怖がるばかりで話を聞こうとしなかった。夫が話しかけようとするだけで身を縮めて震える。夫はそんな姿を見ていたらまともに話せなくなってしまったの……そのまま数年ギクシャクしたまま夫は天国に旅立った」
悲しそうに封筒を見つめる。姫ちゃんに宛てた手紙か、姫ちゃんはそれを読んだのだろうか。
「あの、姫ちゃんこの手紙は……」
「読んでないわ。夫の話をするだけで手で耳を塞いでしまうから」
何が書いてあるのは分からない。でも、後悔していたんだ、この中身を姫ちゃんは読むべきだ。
お父さんの思いが詰まった手紙なんだから。
トラウマは簡単には治らない。本人がトラウマに立ち向かわなければ治らない。きっと、きっとこの手紙にトラウマに立ち向かうための勇気が詰まっている。
俺に出来る事は……。
「絹江さん、この手紙を貸してもらえませんか? 俺、どうしても姫ちゃんにこれを読ませたいんです。俺に出来るのはそれだけだから」
「かなめくん……本当に誠ちゃんが好きなのね。もしかしたら、かなめくんならこれを誠ちゃんに読ませられるかもしれない。わたしには出来なかった、耳を塞ぎ、夫は拒絶する姿を今でも思い出す。……怖くて、わたしまで嫌いになっちゃうんじゃないかと怖くてこれ以上踏み込めなかった……」
そっと封筒を持ち上げ、俺の前へと置いた。
これには姫ちゃんのお父さんと絹江さんの思いが詰まってるんだ。
俺は封筒を掴んだ。
「お願いします。どうかこの手紙を誠ちゃんに」
「分かりました。俺行って来ます。姫ちゃんの元に」
そのまま部屋を後に。目指すのは姫ちゃんの部屋、廊下を進む。
後悔し、謝罪をしようと姫ちゃんのお父さんはしたんだ。でも遅過ぎた。姫ちゃんに深い心の傷がくっきりと付いてしまっていたから。
何年も苦しんだんだと思う。自分が病気になって、死ぬ最後の最後まで。姫ちゃんは分かってくれるだろうか、お父さんの気持ちを。
目の前には締め切られた障子、この向こうには姫ちゃんがいる。あの日、俺を拒絶して殻に閉じ籠ってしまった。
俺の声に耳を傾けてくれるだろうか。
一呼吸、ゆっくりと彼女を呼ぶ。
「姫ちゃん」
中でガサリと音がする。姫ちゃんが声に反応したんだ。
「いるんだろ? 開けていいか?」
何の返答も無い。このまま引き下がる訳にはいかない。意を決し、「開けるぞ」と言い障子を動かす。するとすんなりと動く。
部屋の片隅に彼女はいた。片隅で膝を抱えて座ってた。
開けた時、姫ちゃんは驚き俺に背を向ける。
「こっち向いてくれないか?」
だが無言のまま。
「俺さ、お節介だったかな?」
まだ無言のまま。
「俺は姫ちゃんが幸せならそれだけで嬉しい。嬉しいんだ……姫ちゃんの事全部知ってる、知ってしまったから俺、助けたいと思ったんだ」
背中を見つめながら少しずつ近付いて行く。
「……ないで」
「え?」
「こ、来ないで下さい。ボクを放っておいて下さい」
拒絶の言葉だ。そう言われるかもと覚悟していたのにやはり辛い。
でも、俺は引かない。引く訳にはいかないんだ。
「姫ちゃん、今俺……手紙を持ってるんだ、姫ちゃんのお父さんが書いた……」
「止めて! お父様の話をしないで! 帰って下さい! 帰って!」
「俺は帰らない、姫ちゃんのお父さんはずっと後悔していたんだ、本当は何度何度も謝ろうとしていたんだ! でも、姫ちゃんが怖がっている姿を見ていたらそれ以上踏み出せなかったんだ。亡くなる前に姫ちゃん宛てに手紙を書いているんだ、これを読んでく……」
姫ちゃんは自分の耳を両手で塞いだ、何も聞かない様に。
また殻に閉じ籠る。
ごめん、少し強引に話さないと。
姫ちゃんに駆け寄り塞いでいた両手を手で掴み、退かせる。
「嫌! 聞きたくないです! 嫌です、嫌!」
「聞いてくれ、姫ちゃんのお父さんはずっと謝りたかったんだ、謝っても許してもらえないかもしれないけど、それでも……」
「止めて! かなめさんなんか大っ嫌い! 大っ嫌いです!」
「大っ嫌いでも良い! 聞いてくれ、姫ちゃん!」
姫ちゃんは腕を振り払い、片手が俺の手から解放され勢い良く俺の頬に。バシッとビンタの音が部屋に響く。
平手打ち、痛い。凄く痛い。
でも、姫ちゃんの心にはこれ以上の痛みが残っているはずなんだ。
姫ちゃんは静かになっていた、俺の顔を見つめている。赤く腫れた頬を見つめて震えている。
「あ……ボ、ボク、ああ……」
震える自分の手を愕然と見つめて青ざめていた。
平手打ちを後悔している。
「あ、ああ、ボク、ボク……」
「……ごめん姫ちゃん。無理矢理過ぎたかもしれない。でもな、いい加減逃げるのは止めよう。お父さんから、何より自分自身から。本当は俺に姫ちゃんの家庭の事をあれこれ言う資格は無い。でも、俺は君に笑っていて欲しい、自分のトラウマから逃げないで戦って欲しい。そのためなら俺は嫌われようと姫ちゃんを助けようと決めたんだ。大好きな姫ちゃんが笑っていられるなら俺はなんだってするから」
今の言葉が届いたのかは分からない。でも、俺にはこれ以上は何も出来ない。
後は彼女次第。立ち向かう勇気をこの手紙に託してそっと彼女の前に置いた。
立上がり歩き出す。部屋を出る寸前に立ち止まり今言いたい事を口にする。
「俺待ってるから、姫ちゃんが好きだって気持ちはいつまでも変わらない。学校で、生徒会で待ってるから。自分自身に打ち勝つ姫ちゃんを待ってる」
そう言い残し、障子を閉じた。
やれる事はやったと思う。後は姫ちゃん次第だ。待つしかない。
気がつけば夜空に月が浮かぶ。
絹江さんの元に戻ると静かに待ってくれていた。
「終わりました。姫ちゃんに手紙を渡しましたけど、後は彼女次第だと思います」
「そう、ですか。かなめくん、ありがとう。わたしは手紙を渡す事すら出来なかったから。だから本当にありがとう」
「いえ、俺はただ姫ちゃんのためにしただけですから」
それから絹江さんに見送られて柳刃家を後にした。
待つしかないんだ。待つのって辛いな。何も出来ないんだから。
帰宅途中、商店街に差し掛かる。店はさすがに夜は閉まっているか。静けさで覆われた商店街を歩いていると、顔見知りを見掛けた。
「あれ? あいつは……」
見掛けたのは俺の天敵と言っても過言では無い相手だ。金髪のツンツン頭、耳にピアス。
霧島零を見掛けた。
「こんな時間に何やってるんだあいつ?」
霧島零は中学の時、俺を良くいじめていた奴だ。会う度に文句を言われたり、意味無く殴られたんだよな。その度、やられっぱなしは嫌だったから喧嘩になったんだけど、あっちが強いからいつも負けてたな。
でも、今でも信じられないが小学生の頃はあいつと仲良しだった。いつも一緒に遊んでいた親友だったのに。どうして俺達はいがみ合う様になったんだろう。
中学になってから急に仲がこじれた。
俺は何か悪い事をしたのだろうか、いくら考えてもあいつの嫌がる事をしたとは思えない。
「……ん? 霧島の他に誰かいるな」
霧島の周りには三人の男達が囲んでいる。良く見ると霧島と同じ制服だ。同じ学校か。何やら怪しい雰囲気だ、まさか喧嘩か?
しばらく何かを話していたが、何処かへ移動するみたいだ。
この時、何故か嫌な予感がしてならなかった。理由は分からないが、嫌な予感がする。俺は霧島達の後を付いて行く事に決めた。
見つからない様に出来るだけ距離を取って尾行。霧島達は廃墟のビルに入って行く。後に続き、柱に身を隠す。すると目の前にいる霧島達の話し声が聞こえて来る。
「おい金髪、お前最近調子に乗ってるらしいじゃねーーか、一年のくせに生意気なんだよ」
「生意気? そんな程度でオレを呼び出したのかよ。暇な先輩方だよな」
「なんだとテメェ、口に気をつけれよ一年の餓鬼が」
どうやら霧島を良く思って無い先輩達が霧島をシメようとしているらしい。
確か霧島は一年の中で一番喧嘩が強いと言う噂が流れてたっけ。
「一年の餓鬼だと? はっ、たかが一つ上だけで餓鬼扱いかよ。そんなに離れて無いじゃないかよ、馬ぁ~鹿」
「テメェ! もう我慢ならねぇ、光一、殺っちまっても良いよな?」
三人の真ん中で今まで静かにしていた男に話しかけている。
短い茶髪、少し小柄で目付きがまるで獣の様に鋭い。あいつがリーダーみたいだ。
「……霧島、土下座して謝れ。制限時間は三秒」
「は、誰が謝るか」
「……一、二、三秒。良いぞ殺れ」
光一と呼ばれた男の両側に居た二人が霧島に殴りかかる。
等々喧嘩が始まってしまった様だ。
両側から迫る攻撃を霧島はまず右側の奴に突撃し、蹴りを顔面に叩き込んだ。一撃で倒された男を見て、もう一人が怯んでしまい動きを止めた。霧島はそれを見逃さなかった。直ぐに懐に入り込み顎に拳を。
それはあっと言う間に終わる。こいつ、こんなに喧嘩が強かったのか。今まで喧嘩した事あったが、あんなに強くは無かったぞ? まさか手加減されてたのか?
「はっ、弱ぇ。で? オレを殺るんじゃ無かったのかよ、秋津光一先輩よぉ」
「なかなかやるじゃないか。でも、居気軽なよ霧島!」
秋津が霧島に殴りかかる。それを躱し反撃に出ようと身構えた時、秋津が直ぐに蹴りを。
それが霧島の胸に直撃。秋津って奴も喧嘩なれしている様だ。
「ぐっ! テメェ!」
「霧島、喧嘩って奴を教えてやるよ」
互角の喧嘩だ。殴り殴られ、両者は口から血を流していたり、目の辺りに痣が。
激しい殴り合いが続き、決着が着いた。
「く……くそったれ」
「はぁ、はぁ、……手間取らせやがって」
勝ったのは秋津だった。霧島は地面に仰向けで倒れている。
気がつくといつの間にか霧島に倒された二人が起き上がって霧島を睨み付けている。
「良くもやってくれたな霧島ぁ!」
「がぁあ!」
蹴りを脇腹に食らい苦痛に顔を歪める。だが、三人は構わずに霧島を蹴り続けた。秋津はいつの間にかバッドを握っているぞ、まさかあれで殴る気なのか? やばいぞあれは。
下手をしたら死ぬかもしれない。俺は気が付くと駆け出していた。何も考えずに。ただ止めさせるために。
秋津を後ろから突き飛ばす。突然の事で、ここにいる霧島を含めた全員が何が起きたのか理解するのに時間が掛かっていた。
その中、霧島が声を上げる。
「なっ、かなめ! テメェなんでここにいやがる!」
「今はそれどころじゃないだろ!」
急いで霧島に駆け寄り起こして逃げ出す。今は逃げるのが先決だ。
「何やってる! 奴等を追え!」
怒りに震える秋津、直ぐに俺達を追いかけ出す。
「ぐっ、なんでお前がいるんだよ……」
「はぁ、はぁ、たまたま見えたんだ」
「余計な事を……くっ」
さっきまで殴られてたんだ、走るだけで痛みがあるのだろう。
苦しそうに走っている。
「大丈夫か?」
「オ、オレに構うな! オレは……」
突然霧島がコケてしまった。殴られて無理して走らせてしまったから。直ぐに駆け寄り手を差し延べる。
だが手は弾じかれた。「お前だけには助けられたくない」と言いながら立上がる。俺は確かにこいつが嫌いだ。でも、どうしてこうなってしまったんだ。昔は良く遊んだのに。
「かなめ、助けてくれたのは感謝するが、二度とこんな事するな! オレはお前が……ち、追い付いちまったか」
後ろを振り返ると男二人が追って来ている。
しまった、どうする? 霧島がこんな状態だ、逃げられるか分からない。
だが霧島は二人に向かって行く。フラフラな体なのに。男の一人が殴り掛かる。それを霧島がギリギリのところで躱し、顔面に拳を叩き込む。
どうやら勢い良く殴り掛かって来たからそれを避けて拳を顔面に突き出しただけみたいだ。そうすればあっちから拳に当たってくれる。
だが、二人目の攻撃を避けられなかった。
「調子に乗るな!」
男が霧島の腹に蹴りを叩き込む。痛みに歪む顔、すかさず顔面に拳が。そのまま地面に倒された。男が更に殴り掛かろうとするのをただ見ている訳にはいかない。
「やめろ!」
霧島を庇うために男の前へ。男が体がデカく、力も強そうだ。
「うざいなお前、霧島を庇うんなら容赦しねぇぞ!」
次の瞬間、衝撃が走る。痛い、どうやら顔を殴られたみたいだ。ぐらつく視界。だが、俺は倒れなかった。どうにか踏ん張りまた男の前へ。
「馬鹿だなお前、また痛い目に合いたい訳? 良いぜ、だったらボコボコにしてやる!」
何度も殴られ、蹴られた。抵抗するが向こうが上手。
身体中が痛い、口の中が血の味で気持ち悪い。
「もう良い! かなめやめろ! オレなんかをなんで助けるんだ馬鹿!」
「知るかよ……ぐっ、気が付いたら、こうなってただけなんだ。……ただ、誰かが目の前で……傷付くのが嫌なだけだ……そう、嫌なんだよ」
不意に姫ちゃんを思い出す。心に深い傷を持った彼女を幸せにしてあげたい。
ただそう思ったから俺は……。
「まだ喋れるのか、だったらまだ殴って……」
「待て、それじゃ生温い」
男の背後には秋津が立っていた。ニヤリとなんとも嫌な笑いを浮かべて俺を見ている。
痛みでフラフラだが、俺はまだ立っている。まだ大丈夫だ。なんとかして霧島を逃がして、それから……。
「痛め付けるってのはな、こうやるんだよ」
ゴウッと空気を裂く様な音がしたかと思った瞬間、先ほどまでと比べ物にならないほどの痛みが右足に。
とてつもなく硬くて、長いものが俺の足を攻撃していた、それはバットだ。
秋津はフルスイングしたバットを俺の足にぶつけたんだ。
「がっ、あ、ああああ!」
痛みが強すぎる。痛い、痛すぎる。
そのまま地面へ。これはもしかしたら足の骨が折れたかもしれない。
「か、かなめ!」
叫ぶ霧島の声が聞こえたが、痛みで何も思えない。
ゲラゲラと笑う秋津。まるで悪魔の様な笑い。
「痛いか? だがまだ終わらないん。ほら、もう一回!」
今度はバットを胸に叩き付けられた。一瞬呼吸困難になり、頭の中が真っ白に。
だが、さっきより威力が小さい。もしかしたら痛がらせて楽しんでいるのか?
「や、止めやがれ秋津! テメェはオレに用があるんだろうが! こいつは関係無いぞ!」
「馬鹿が。お前を叩きのめすのは当たり前だ、こいつは僕を突き飛ばしたんだ……なぶり殺しにしてやるんだよ!」
何度も何度もバットが攻撃して、身体中が痛い。
痛みに耐えていると、秋津の仲間が言葉を。
「な、なぁ、やり過ぎじゃねぇ?」
「そうだよ、こいつ足がおかしな風に曲がってるし……」
「あ? お前ら何言ってんだよ、僕に盾突いたんだぞ? まだまだ甘いんだよ」
「ぐっ、止めろ!」
フラフラな身体に鞭を打って立ち上がる霧島。
秋津は霧島を睨み、標的を変えた。
「次はお前だ!」
バットを振り上げた瞬間、霧島は今あるだけの力を出して思い切り前に飛んだ。
勢い良く秋津に体当たりし、両者バランスを崩し倒れ込む。
「く……くそが! 僕にこんな……」
秋津の上に乗っかる形で霧島は倒れていた。
霧島はニヤリと笑う。
「秋津、オレすっげーー石頭だから」
「はぁ?」
次の瞬間霧島は頭を大きく振り上げ、秋津の顔面に落とす。
鈍い音がこの場に広がる。
秋津が顔を手で押さえうめいている。
霧島は立上がり、秋津の仲間二人を睨む。
「オレはこいつを病院に連れて行かなきゃならない。テメェらはオレが気に入らないんだろ? オレは逃げも隠れもしねぇ! いつでも喧嘩してやる。だが、こいつは部外者だ。だから今はオレを見逃せ!」
あまりの迫力に男二人はびびっている。
「あ、ああ……行けよ」
「良し。おいかなめ起きられるか?」
「く……どうにか起き上がれる……けど、歩けないかも」
「ちっ、肩貸してやる」
霧島に起こされて立上がり肩を借りる。殴られた足に感覚が無い。やばいかな? 普通は痛いのが当たり前なのだが、痛みが無いってもっと危ない状態だと誰かが言ってた様な気がする。
「くそ、怪我人に運ばせやがって……一応礼は言ってやる、だが、もうオレに構うなよかなめ」
「霧島……俺、お前に何か悪い事したかな? 昔は仲良かっただろ? なんでこんな関係になったんだ?」
「……お前は何も悪くは無い。ただ、オレが……」
答えが聞ける、そう思っていた。
霧島の言葉を妨げるかの如く、後ろから凄まじい勢いで迫る秋津の姿が。
鼻血を流し、前歯が折れて口から血が溢れている。
バットを持って俺達を標的に。
「許さない! 許さない、許さない、許さない!」
迫るバット、このままでは霧島に当たる。
咄嗟に霧島を突き飛ばす。
バットはそのまま俺の視界を覆った。
意識が闇の中へ。
 




