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携帯電話もメールもなかった頃の切ない恋と友情のお話です。
「俺よりもっとええ奴探せ、ええ加減。俺もちょっと他に気になる女できたし・・」受話器を通して聞こえてきた愛しい声は、イライラしたように私に突然の別れを告げてた。バイト帰り夜の駅前公衆電話。人目もはばからず「いやだ!」と泣きわめきたかった。もしかしたら、泣いていたかもしれない。でも・・何も覚えていない。どうやって電車に乗り、どうやってアパートまで帰ったのかも覚えていない。
隣の部屋から微かに聞こえてきた中島みゆきが、私の涙腺を全開にした。殺風景なアパートの片隅で、灯りも点けず、膝を抱えることすら忘れて絶望していた。月の明かりが照らし出していたのは一輪挿しのフリージアと、もう封が開けられることのない買い置きのショートホープ二つ。もう世界が終わったと思えた。
それでも、夜は明けた・・・
2時限目、大教室での講義。親友の梨花子と久実をいつもの席に見つけた。隣に座った途端、枯れてしまったと思っていた涙がまた溢れ出した。「どうしたん?」「何かあったの?」授業を受けるというよりは、この声に縋りたくて大学までたどり着いた私。
「振られた、ゆうべ修ちゃんに・・」それだけ言うのが精いっぱいの私の背中を久実がそっと撫でてくれた。突然梨花子が立ち上がり、3列前に座っていた女の子三人に耳打ちし、席に戻って私に言った。「花水木行くよ」
「えっ、授業どうするの?もうすぐ始まるよ。」いつものように久実がフワッと梨花子に質問をし、「代返依頼済み。行くよ!」といつものように梨花子がキリキリと仕切った。
大学前の烏丸通を渡り、角三つ先にある「喫茶・花水木」。オリエンテーションの日。苗字がア行の久実とカ行の梨花子と私は早々に顔見知りになった。その日のうちに花水木でお茶をし、お互いの事を紹介しあった。そういえば、あの時から仕切っていたのは梨花子だった。あれから三年間、休講・サボタージュ・ランチと何度通ったか数えられないほどおなじみの喫茶店。コーヒーはサイフォン仕立て、サンドイッチとグラタントーストが美味しくて、ちょっと渋いマスターの京都トリビアに何度も「へ~」と感心していた。
一番隅の私たちのいつもの席。優しいボリュームで流れるショパン。マスターがパリの蚤の市で見つけたと言っていたランプからこぼれる柔らかい灯り。コーヒーとトーストの香りが混ざり合った心地よい空間はいつも通りなのに、私の心はボロボロ涙を流していた。うなだれる私の横にはそっと寄り添い、労わるように見つめている久実が、向かいの席には背筋を伸ばし私を見据えている梨花子がいた。
「振られたってどういうことよ?喧嘩?売り言葉に買い言葉ってやつ違うの?」
「梨花ちゃん、声が大きいよ。」久実が周りを気にしながらそっとたしなめる。
「喧嘩なんかしてないよ。今までしたこともない。修ちゃん逆らえるはずないよ。昨日電話かけたら、なんだか修ちゃんイライラしてて、急に他に気になる女の子できたから、お前もええ奴他に見つけたら・・って」
「ハーッ⁉訳判らんわ。もう一回修ちゃんに会ってチャンと話し!」
「梨花ちゃん、声が・・」
「判ってる!久実ちゃんちょっと黙ってて!」
「無理やわ。修ちゃんに問いただすなんてできない。これ以上嫌われたくない、しつこい女って思われたくない・・」
「なんで?それでええの?後悔しないの?花ちゃんものすごく尽くしてたのに。修ちゃんひどいわ」
「修ちゃんのこと悪く言わんといて・・。きっと私に落ち度があったんよ。」
「花ちゃん・・なんやそれ」呆れたように梨花子が呟いた横で久実が泣きながら囁いた。「花ちゃんらしいな・・」
「お待たせしました。ご注文の花水木ブレンドコーヒーで~す」まったく空気が読めてない様子でマスターの息子、公平がオーダーを運んできた。国立大学の法学部現役合格という超一流の頭脳を持ちながら、我々二流大学の女子にも言い負かされるという将来不安な弁護士志望。「あれ?公ちゃん学校さぼり?マスター、公ちゃんさぼってる!」梨花子が言いつけるようにからかった。
「あほいうな。君らと一緒にせんといてか。優秀な僕は十分単位が足りておりますので、親孝行のため身を粉にしてここで手伝っております!」ふざけた調子で言う公平に対し、「どうせ、小遣いせびってるのやろ。しょうむないこと言ってないで、マスター特製ミックスサンド注文してきて。花ちゃん、昨日から何も食べてないんちゃう?こんな時こそ食べなあかん。うちのお母さんいっつも言ってる。辛い時ほど無理にでも食べなあかんって。おなかすいたらろくなこと考えへんて。 公ちゃん、マスターに花ちゃんの好きなホワイトアスパラ多めに入れてって言うてきて。花ちゃん、好きなもの食べ。全部おごったるから。パフェも食べ。公ちゃん、チョコレートパフェ追加!」
「ありがとう・・」
「それから今夜はうちの寮に泊まり。一人でアパートなんかにいたらろくなこと考えへんで」
「でも、下着の替え、今日は持ってない・・」
「花ちゃん、下着は私が買ってあげる。あとで四条の阪急行こう。梨花ちゃん、私も行っていい?」
「当たり前やん。こんな時こその友達やネンから。」
ありがとう、梨花ちゃん、久実ちゃん。持つべきものは良き友ヤワ。
いつもよりホワイトアスパラが多めに入ったマスター特製ミックスサンドイッチを味わいながら、涙も一緒に飲み込んだ。コーヒーに添えてあるバラの型のお砂糖を一つ、スプーンに乗せて沈めていく。カラカラと混ぜるカップの中に、私の青春の一ページが消えていった。
伏見深草にあるその女子寮には、いろいろな大学の学生が住んでいた。その中でもやっぱり姐御ポジションの梨花子の部屋にはいつも誰かがやって来ていたが、今夜は前もってお達しがあったようで、誰も訪れず、梨花子と久実の二人が私の話を嫌がりもせず、ただそっと聞いてくれた。梨花子はとっておきの八女茶玉露を丁寧に淹れてくれた。久実は何も言わず、私の辛さに共鳴しながら何度も頬に伝う涙を拭っていた。
三人で枕を並べて眠った。泣き疲れた私は、誰よりも先に寝息を立てていたらしい。ありがとう。久実ちゃん、梨花ちゃん。二人がいたから、悲しい夢見なかったよ。
朝が来た・・修ちゃんのいない一日の始まり。それでも朝日は輝き、人々は駅への道を忙しそうに歩いていた。世界はやっぱり終わらないんだね、私の失恋くらいでは。
待つ人のないクリスマス、寿ぐ理由のないお正月、ゼミの教授とバイト先の店長にだけ渡した義理チョコ・・・ふと気付けば円山公園の桜ももう葉桜になっていた。
初夏が明るい日差しと新緑を連れて京都にやってきた。ほんの少しだけ修ちゃんがいない暮らしを受け入れられるようになっていた。梨花子と久実と私、口の悪い友人から「三バカトリオ」と言われ、ゼミの教授には「かしまし娘」とからかわれても、いつも三人で過ごした。お気に入りの四条志津やでランチをしながらとりとめのない話。久実ちゃんの間延びした話に梨花ちゃんが茶々を入れる。まるで漫才師みたい。そして私は笑顔を取り戻す。
散々だべった後、お茶の稽古に行くという久実と寮の掃除当番だから帰るという梨花子と別れ、一人阪急四条に向かって河原町通りを歩いていたとき、「花ちゃんやん!」と声をかけられた。
「あら、公ちゃん。何してるの?」
「本探しに、ちょっとぶらっと。花ちゃん帰りか?」
「うん。今さっき、梨花子と久実ちゃんに分かれたとこ。それにしても本探してるなんてさすが法学部。休みの過ごし方も一味違うねぇ~」
「あほな。ところで花ちゃん、時間ある?お茶に付きあってや。コーヒー飲みたいからイノダ行こうと思っててん。」
「え~ナンパ?」
「はいはい、そうです。アホいうてんと行こ。」
堺町イノダ本店は京都のコーヒーの老舗。
「公ちゃん、喫茶店の息子が老舗喫茶店を調査ですか?目指せ第二のイノダって?」
「あほかいな、足元にも及ばんわ。ただ、ここのコーヒーが好きなだけ。親父も来よるよ。」
「ええ親子やね~」
「からかいな。」
馥郁としたコーヒーの香りに思わず大きく息を吸い込んだ。「コーヒーってなんでこんなにいい香りやねんやろ・・落ち着くな・・」うっとりと舌と鼻でコーヒーを味わっていた私に公平がそっと言った。
「この頃だいぶん落ち着いたみたいやな。」急な問いかけに少しむせた。
「あ、そうか。公ちゃん私が振られたの知ってたね。あの日花水木で泣いてしまったもんね・・」
「まぁな・・・。花ちゃん、人間恋愛もあれば失恋もあるわな。それが世の常や。どこのどいつか知らんけど、花ちゃんみたいなええ子振るっちゅうのはろくでもないやつや。はよ忘れてまい。」
「公ちゃん、彼は、修ちゃんはろくでもないやつと違うよ。ええ人やで。知らんくせにそんな事言わんといて。」
一瞬の沈黙。少し強く言い過ぎたかな・・
「ごめん・・・・まだ好きなんか、その人の事?」
「そんなんと違う。なんにせよ付き合ってた人のこと、たとえ振られてもその人の事悪く言うのも、人から悪く言われるのもいややねん。自分が好きで付き合ってた人やし・・」
「そうやな・・悪かった。ごめんな。」
「ええよ。公ちゃんも私を慰めてくれようとしたんやし、悪気ないって判ってる。」
芝居がかった仕草でがっくり項垂れて公平は言った「は~ぅ。これやから僕は女の子にもてへんのやな~。気持ちが全然判ってない」半分冗談っぽく、でも半分真剣に落ち込んでいる公平を慰めるように私は言った。「公ちゃん、大丈夫、もててるよ。自分で気づいてないだけ。うちの大学にも何人か公ちゃんファンがいるもの。なんやったら紹介してあげよか?え~っと、国文のさとみちゃん、宗教学部の田丸さん、英文の康子ちゃんに、せっちゃん。それから・・」
指折り数えて候補者の名前を挙げていた5人目の指を公ちゃんが捕まえた。そして言った。
「史学科の花さんはいかがでしょうか?」
「公ちゃん・・」
驚く私の小指に公ちゃんの小指が絡まった。「明日も会いたい。」「うん」
「♪指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~ます」優しく微笑む公ちゃんの目ってこんなにきれいだったんだ・・初めて知ったよ。
「梨花ちゃん、久実ちゃん、話あるねんけど・・」公ちゃんと三回目のデートのあと、私は二人に話しておかなくっちゃ・・と思った。公ちゃんと真剣に付き合っていこうと決めたから。
「どうしたの?花ちゃん?」久実ちゃんが相変わらずほっこりとした口調で微笑んでいた。
「なんかあった?でもなんか幸せそうやけど・・新しい彼氏でもできたとか!」梨花子、鋭い!
「実は、そう。」
「え~っ、誰?どこの人?いつから?」
立て続けに聞いてくる梨花子と、音を立てずに胸の前で小さく拍手しながら微笑む久実。
「実は・・公ちゃん。花水木の」二人の「え~っ!」という驚きを期待していた私は、二人の反応に拍子抜けをした。
なぜかしたり顔でウンウンとニコニコうなずいている久実。
酸っぱいものを急に噛んでしまって、シマッタ!というような顔をしている梨花子。
「私そうじゃないかな~って前から思ってた」と得意気にいう久実に梨花子が突っかかる。
「あのね、結果出てからやったら誰でも前から知ってた・・って言えるの!何を根拠に?」
「あんな~、花水木でコーヒー頼んだらバラの形のお砂糖出てくるやん。公ちゃんがお店にいるとき、花ちゃんのお砂糖だけいっつもピンクやネン。私と梨花ちゃんのは一年中シロ。だからおかしいな~とは思ってた。公ちゃん花ちゃんの事好きなんかなぁ~って。ずっと前からだよ。たぶん一年の終わり頃から。」えっ、気づいてなかったよ。
「久実ちゃん、そんなとこよう見てたね。」と感心する梨花子。それでもちょっといつもと違った。いつもなら、もっと激しく久実にちょっかいをかけ、私に質問の嵐を浴びせかけるタイプなのに・・。あっ、もしかして、梨花ちゃん公ちゃんの事好きやったのかな・・。花水木でいっつも突っかかっていってたのは、好きな子にちょっかいかける小学生の心理やったの?梨花ちゃんにはっきり聞いたほうがいいのかな・・と迷っている私を尻目に久実が直球を投げ込んだ。「あれ、梨花ちゃん。もしかして公ちゃんの事好きやったの?なんかちょっとおかしいよ、様子が」久実ちゃん・・ストレートすぎる・・・
「はぁ?悪いけど私は皆さんご存知の渋好みですから、若いお兄さんには興味ない。花ちゃん、悪いけど、彼女焼くほど彼氏もてもせず、っていうでしょ。私の理想は鬼平。長谷川平蔵様。中村吉右衛門様。あの男気、粋さ、そしてあの口跡。いつ見てもしびれる!特におまさに対するやさしさなんて・・」
「梨花ちゃん、吉右衛門ラブはもう1000回以上聞いてるって。知ってるって」と言った久実に、「吉右衛門様とお言い!」
梨花ちゃん・・ほんま?強がってない??
なんとなく気にしている私に気づいた梨花子は、いつもの姐御に戻って言った。
「花ちゃん、ホンマに私公ちゃんの事は友達としてしか見てないから、安心して。ちょっとびっくりしただけ、急やったから。今度は私らがついてる。公ちゃんが花ちゃん不幸にしたら私らがとっちめたるからな」
「私も一緒にとっちめるからね」
「久実がぽわーっととっちめても、公ちゃんのガタイでは応えへんやろうけどな」
「でも頑張る!」
「なんか二人して、公ちゃんが私を泣かすこと前提にしてない?」
「ハハ、ほんまや。ごめんな、花ちゃん。でも良かったな。公ちゃんええ子やし。」
二人ともありがとう。公ちゃんについて行くことにした。失敗せんよう、頑張るわ。ええな~友達は。
5月、薫風の中、先斗町を抜け四条大橋から三条まで鴨川の河原を二人で歩いた。
6月、しとしと降る雨に肩先が濡れるのも構わず、一つの傘に入って哲学の小道を散歩した。
7月、祇園祭の人混みで迷子にならないようにと、しっかりと手をつないで歩いた。
8月、五山送り火を厳粛に二人で見つめた。二人の未来を誓うように・・
公ちゃんとの日々は穏やかに過ぎていく・・肩に乗せていた鎧を一枚一枚外していくように、会うたびに気持ちが軽く、素直になれる自分を感じていた。いつも張りつめていた修ちゃんとの恋のような激しさはないけれど、この真綿で包まれているような安心感を愛おしく思えた。もう修ちゃんの顔を思い出さなくなっていた。
秋。高尾が彩られていくその様は、春の桜とはまた違った趣で人を季節の移ろいに誘っていく。神護寺金堂から地蔵院へ。そして眼下に広がる錦雲渓の絶景に思わず感嘆の声を上げる私。その横で突然「花ちゃん~結婚してくださぁ~い」と公平が渓谷に向かって叫んだ。周りの観光客の視線が一斉に私に集まる。
「ちょっと、公ちゃん何やってんの。恥ずかしい」
「花ちゃん。僕本気やで。なんやったらもう一回叫ぼうか?はなちゃ~」叫びかけた公平の口を思わず手でふさいだ。
「判ったから。ありがとう。よろしくお願いします」小声で応えたその時、公平は口をふさいだ私の手を握りしめ、もう一度、小さな声で、でもはっきりと言った。「結婚して下さい。」「はい。」応える私をぎゅっと抱きしめ、そしてこともあろうにさっきより大声で叫んだ。
「花ちゃ~ん。幸せにするで~!愛してる~!」
あっけにとられている観光客の中からぱち・ぱち・ぱちぱち・・という拍手が起こり始め、いろんな方向から「おめでとう!」の声が沸き起こり、割れんばかりの拍手が私たちを包んだ。
「お兄ちゃん、あんたやるな。作戦勝ちやな」真横にいた観光客のおばちゃんに肩を叩かれ、照れたようにうなずく公平。涙が溢れた・・・。「公ちゃん、私しあわせ」
街がクリスマスイルミネーションに煌めき始めた。公平のお父さん、つまり花水木のマスターにも正式にご挨拶をし、公平の亡くなったお母さんへの報告にお墓参りにも行った。冬休みには私の実家に二人で行くことになっていた。
「お嬢さんを僕に下さい、ってうまく言えるか心配や。声上ずりそうや。」
「大丈夫よ。うち、ざっくばらんな家やし。公ちゃんみたいに国大法学部出身で司法試験一度で受かるようなエリートさんには、こっちが緊張するって母が言ってたよ。でも喜んでくれてるから安心して。」
「そうか?でもまだ生活力ないし、ちゃんと頑張らなあかんな。花ちゃん幸せにするって高尾山に誓ったから。嘘はつかれへん」
「期待してまっせ!」
何をしていても、何を話していても幸せだったそんなある日、久実からお茶に誘われた。梨花子なしで二人っきりで・・という久実に心がざわめいた。
「久実ちゃん、どうしたん?何かあった?花水木じゃないほうがいいか?結構ヘビーな話あるんやったら。」いつものふわふわした久実ちゃんのとは違う思いつめた横顔に、不安が募った。「そうやね。そのほうがいいわ。交差点の向こうに”喫茶たそがれ”ってあるねんけど。そこでもいい?行ったことないけど。」
初めて入ったその店は、ものすごくレトロなおばちゃんがカウンター席に座り、お昼のワイドショーを見ていた。その視線をゆっくりと私たちに移し「いらっしゃい。どこでも座って。何する?」という親戚の家に遊びに行ったような感じでオーダーをとった。それでも一組の客もいないその空間は、久実の話を聞くのには最良の選択だったと思えた。
久実は黙っていた。うつむいたまま、左手でブラウスの胸のボタンを握りしめ、心臓の鼓動を少しでも抑えようとしているように見えた。私もただ黙って久実が話し始めるのをひたすら待った。ここに梨花子がいたらとっくに仕切り始めてるだろうな・・と思いつつ久実の口が開かれるのをじっと待っていた。
「はい、お待たせしました。どうぞごゆっくり」レトロママさんが紅茶を二つテーブルに置き、またテレビの前に戻った時、久実ちゃんの化粧気のない唇が小さく開かれた。
「花ちゃん、公ちゃんと婚約済んだ?」
「うん。結納は年明けてからやけど、両方の親はもうオッケーしてくれてる。」
「卒業したらすぐ結婚するの?」
「公ちゃんの仕事落ち着いたら、多分早々に。」
「・・・・」
「久実ちゃん、どないしたの?そんな話をするためにきたんとちゃうやろ?どないしたん」
もう待てなかった。さすがの私もちょっと待てなくなっていた。紅茶が冷めていく。
「あのな、花ちゃん。実はな、私も結婚するネン。」
「えーーーっ」突然叫んだ私に、お店のレトロママさんが椅子から滑り落ちそうになっていた。「あっ、すみません。大声だして・・」一応謝りつつ、久実に向かって興奮気味に話しかけた。
「なに、久実ちゃん。付き合ってる子いてたん?水臭いなぁ~なんにもいわへんかったやん。いつからつきあってんの?梨花ちゃんも知らんの?」なんだかハイテンションになって聞く私に、本人はいたって冷静に、というか辛そうにしていた。もしかして、不本意な結婚?久実の実家は地元の名士であり、一人娘の彼女は婿養子限定と聞いたこともあるし・・。
「久実ちゃん、嫌な結婚なん?親御さんに無理に進められてるとか?」
「違うよ。7月から付き合ってる。好きな人よ」おかしい・・はしゃいでない。
「でもなんか辛そうやん・・どうしたの?私になにかできるんやったらするよ」
「花ちゃん・・私赤ちゃんできた」
「えーーーっ」さっきより大声で叫んでしまった私に、「お姉ちゃんええ加減にしいや」とレトロママの叱責がとんだ。「ごめんなさい・・」謝りはしたけれど、心ここにあらず。久実が妊娠って・・
「それで赤ちゃん今何か月?」
「4か月」
「えっ、ということは付き合って結構すぐにできたん?早業やな!」アカン、余りの衝撃に下品なことを言ってしまった・・
「久実ちゃん、親御さんに言って無いの?それで悩んでるの叱られそうで?」
「違うよ。もう言うたよ。喜んでくれてる。彼も婿入りしてもええって言うてるから」
ほんなら何?もう、ちょっとイライラしてきた。
「そしたらなにも困らないやん。怖いの、お産が?でもそれは私にも梨花ちゃんにも経験ないし・・」
「違う。あのな、花ちゃん。実はな・・、あのな、私の旦那さんになる人な・・・修ちゃんやネン」
その後どこをどう歩いて電車に乗り、アパートまで帰ったのか記憶にない。喫茶たそがれのお茶代もきっと払わなかったに違いない。一年前確か同じようなことがあった。そしてその時のキーワードも・・修ちゃんだった。
「久実ちゃん、あんたなに考えてるの!」梨花子のどすの利いた叱責に久実は小さく怯えていた。久実の衝撃の告白から二日後、またやってきた喫茶たそがれ。こういう話をする為にはこれ以上ないベストの選択であるという確信が私にはあった。
「梨花ちゃん、あんまり言わんといたって。おなかの赤ちゃんにも聞こえてるし」当事者である私がなぜか第三者の梨花子をなだめるという不思議なバランスの中、梨花子が続けた。
「久実。修ちゃんは花の前の彼氏やで。どんなひどい振られ方やったか覚えてるやろ?!花がどれだけ泣いて、半年立ち直れなかったの一緒に見てたやん。ホンで何?その大切な友達の昔の彼と付き合い始めてすぐ妊娠って、ちょっと節操なさすぎると思わないの?あっ、もしかして前から好きやったん?狙ってたん、花と付き合ってる時から?」
まさか!そんなこと考えたこともなかった。「久実ちゃん、まさか・・」言いかけた時、「それは違う」久実がはっきりと言った。「そしたら何?」梨花子がたたみかける。
「ちがうねん。あのな、6月の終わりに実家にちょっと帰ろうと思って大阪駅まで行ったの。それでうちのお母ちゃん、モロゾフのプリン好きやから買っていって上げようと思って阪急に行ってん。うちのお母ちゃんな、あのプリンのカップも丈夫やしええいうて、ずっと置いてはんネン。」「そんなことはどうでもいいから、先に進み!」いつもの梨花子と久実ちゃんや・・と当事者の私はとても冷静に見ていた。
「ほんでな、大阪駅で修ちゃん見かけてん。その時これは一言言うたらなあかん、ってな、花ちゃんの悲しい顔思い出して。だから勇気出して修ちゃんに声かけテン。そしたらな・・」
「あれ!久実ちゃんやん。久しぶり!元気?どこ行くの?重たそうな荷物持って。」
「あ、修ちゃんこんにちは。実家帰るねんけど、モロゾフのプリン買いすぎて・・。」
「あ、あれカップがしっかりしてるから重いよな。持ったるわ。」
「あっ、ええよそんな・・」
「ええて。急いでる?久しぶりやし、お茶でも飲もうや」
「修ちゃんものすごく優しかってん。ホンでな喫茶店行ってん。」
「はぁー!修ちゃんに文句は?言うたろおもて声かけたんちゃうん?喫茶店で言うたの?」
「うぅん。なんにも言われへんかっテン。だってな、修ちゃん花ちゃんのことばっかり聞くネンもん、元気かとかどうしてるとか・・」
修ちゃん・・なんで?なんでそんなこと聞くの?コテンパンに振った女の事、そんなに気にするんやったらなんで振ったん・・
「ほんで、なんて応えたん?」
「国大の法学部の将来弁護士さんになる人と6月から付き合ってるって言ってしまった。」
修ちゃん・・・どう思ったやろ?プライドの高い人やから、なんて思ったやろ?自分と別れて半年で他の男の人と付き合ったって判ったら・・修ちゃん
久しぶりに思い浮かべたちょっと悪ぶった横顔が、私の胸を締め付けた。
「あんたなぁ・・。ただの世間話やん。まぁ、今、花が幸せや、っていうことをきちんと伝えたのはよかったとは思うけど。そもそもなんで喫茶店ついて行くかね?」
「なんとなく、行ってもテン。プリン重くて、修ちゃんに持ってもらって助かったし。あのな、でもな、私も喫茶店で文句言うたろとは思ってテンよ。でも、話しているうちに修ちゃんかわいそうで・・」可哀想?修ちゃんが?振った修ちゃんが?なんで?
「何が可哀想なん?可哀想なンは花ちゃんやったやん?知ってるやん、憔悴しきった花の事。覚えてるやろ?」
「あんな、花ちゃん。修ちゃん、花ちゃんの事振ってナイネンで。」
えっ、何言うてるのこの子は?
「修ちゃんな、花ちゃんが修ちゃんになんにもわがまま言わないし、無条件に尽くすし、こわかってんて。こいつホンマに俺の事好きなんやろか?って不安やっテンて。花ちゃんから会いたいって言ったこと一回もないねんやろ?花ちゃんと喧嘩にもならんかったって、なんでも花ちゃんは許してくれたからって。なんか保護者といてるみたいで、花ちゃんにとって自分は一緒に居ても意味ないんちゃうかって、思ってたって。」
なにそれ?修ちゃん、なんやのそれ??私が修ちゃんをどんなに求めてたか、気づいてなかったの?修ちゃん、会いに来て今すぐ!っていうお願いを口にすることを何千回我慢したか・・。それがあかんかったん?わがまま言うたら嫌われるって、怖かった。いつもいつも修ちゃんの気に入るようにふるまってるつもりやった。尽くすことが修ちゃんの彼女でいられる条件やって。修ちゃんみたいなカッコよくてもてる男の子の彼女でいるためには、それしかないって思ってた。それが間違いやったっていうの?
「それでな、試しテンて。他に好きな人できたって。お前も探せって。そしたら花ちゃんが取り乱して、縋って泣いてくれるんちゃウかって期待しテンて。でもな、花ちゃん、修ちゃんに最後の電話でどういうたか覚えてる?」
まったく何も覚えていない・・ショックでどうやって帰ったのかすら覚えていなかったのだから・・
「あのな、花ちゃん泣きもせず、修ちゃん今までありがとう、っていうてんて。修ちゃんが新しいその人と幸せになってくれたらそれだけで私は幸せやっていうてんて。それでな、元気でね、ホンマにありがとう。って電話きってんて・・」
うそ・・そんな・・泣きわめいたと思ってた。取りすがったと思ってた。電話を先に切ったのは修ちゃんだって思ってた。今の今まで・・
「その電話終わった後で、修ちゃん泣いたって。振られたって・・。さっき言ったのはみんな嘘や、新しい子なんかいてヘン、って言いたかったのに花ちゃんそれを寄せ付けへん強さがあったんやて。それでも修ちゃん、諦めきれずに、次の日アパートの前に車停めて一晩中花ちゃん待っテンて。花ちゃん帰ってきたら、修ちゃんから「付き合ってください」、ってあらためて言うつもりやっテンて。でもね、ほら、三人で梨花ちゃんの寮にいたから、帰れへんかったやん、花ちゃん。その時、修ちゃん諦めたって。花ちゃんにはもう他に好きな人いてるのかも・・って。だから自分が別れを口にしても、他に気になる子ができた言うても平気やったんんやって、思ったんやて。その人と今頃一緒にいるんやと思ったって。だから諦めテンて。」
修ちゃん・・1年ぶりにその人の名を口にだし、泣いた。声をあげて泣いた。
わがままも言わず、ひたすら言われるままに、右を向けと言われればいつまでも向いているのが修ちゃんへの愛情表現だと思っていた。何度も、自分からその胸に飛び込んでいきたかった。でも、そんな厚かましいことをしては嫌われる・・といつもブレーキをかけていた私。修ちゃんが幸せなら、それが自分の幸せだと思っていた。でも、今それが間違っていたのだと、気づきなさい、それは独りよがりやったとと言われている。最後の時までカッコつけて、別れてしまった私。なにやってたんやろ・・。涙が止まらない。
「話聞いてるうちに修ちゃんがものすごく愛しくなってきて・・私から修ちゃん誘った。男の人と初めてそういうことになった。」
久実ちゃん・・久実ちゃん・・なんかどうしたらいいのか判らないよ、私。
「花ちゃん、ごめんなさい。聞きたくなかったかもしれへんね。」どう言えばいいの・・辛いよ、物凄く。でも、どう言えばいいのか判らないよ。
「ホンマや、久実ちゃん、それは聞かせたらあかんで友達やったら。花ちゃん辛すぎるやん。」梨花子の深く抑えた声が心に響く。
「梨花ちゃん。私な、おなかに修ちゃんの子供いるっていうたやろ。修ちゃんはもうあたしのものやと思いたい。この子の為にも。でもな、修ちゃんまだ花ちゃんのことが忘れられへんねん。私には判る。修ちゃんに花ちゃんはもう他の人と付き合って、結婚も決まってるって修ちゃんに言わな、花ちゃんは修ちゃんの事なんかきれいさっぱり忘れてるって言わな、私が嫉妬で狂いそうやねん。修ちゃんに引導渡して、もう戻られへんって諦めさせたかった。
そしてな、花ちゃんには、梨花ちゃんにも、花ちゃんがボタン掛け違いして、修ちゃんを振ったんやって言わへんかったら、花ちゃんひとり悲劇の主人公で、それでも公ちゃんみたいなええ人見つけて。みんなから祝福される結婚して。修ちゃんを愛した私は一生二人から泥棒猫みたいに思われると思った。修ちゃんを振ったのは花ちゃんで、花ちゃんの独りよがりが生んだボタンの掛け違いやん。私は、そんな可哀想な修ちゃんを抱きしめずにはいられなかった。そして、今でも修ちゃんは振られたことになってる。でないと修ちゃんもものすごく後悔すると思うから。戻りたくなるかも知れへんやろ、花ちゃんのとこに。でももう無理やん、公ちゃんいるし。可哀想や、修ちゃん。
おなかに子供ができたって判ったとき、やっと花ちゃんよりひとつ前に行けたと思った。私、ぽーっとしてるし、修ちゃんみたいな素敵な人につりあうとは思ってない。それでも、見栄も、外聞も何もかも忘れて修ちゃんに縋ったよ。好きやって、棄てんといてって。私には修ちゃんしかいないって。子供産みたいって。修ちゃん私に子供産み、結婚しようって言うてくれた。」
久実の声には久実の魂が浮かび上がるようだった。久実ちゃんは強い。涙ひとつこぼさずに、高らかに修ちゃんへの愛情を宣言している。母は強しや・・
「久実ちゃん、もう何も言わんとき。おめでとう。赤ちゃんの事。修ちゃんとの事。私のボタンの掛け違いが久実ちゃんと私、修ちゃんと公ちゃんの運命を動かすスイッチやっテンね。でも、その掛け違いが間違ってたとか、正しかったとかないと思う。久実ちゃん、私も公ちゃんと幸せになる。久実ちゃんも修ちゃんに愛されて元気な赤ちゃん産んで、幸せになって。」
「花ちゃん・・ごめんなさい。」久実の目から初めて涙がこぼれた。
「謝ることなんか何もない。久実ちゃん修ちゃんと付き合い始めたとき、実際に私はもう公ちゃんと付き合い始めてた。誰も悪くないし、何も悪くない。間違ってないよ。な、梨花ちゃん」
「ふぅー。ドラマチックすぎるけど、みんなが幸せになれたらそれでええもんな。終わりよければすべてよし、や。」
「梨花ちゃん、ちょっとおばちゃん臭いで、その言い方」
「ありがとう、梨花ちゃん。花ちゃん。これからも友達として付き合って貰える?」
「当たり前やん、ナァ花ちゃん」
女の友情は男が絡むと壊れるっていうけど、私たちは大丈夫・・のような気がする・・
「おばちゃん、ごちそうさんでした。いくら?」「900万円」・・・冗談までレトロだった。
もうすぐ大学生活も終わり。みんなそれぞれの空に飛び立っていく。楽しかった4年間。学究の徒として頑張ったとはまず三人とも言えないけれど、それでもキラキラした青春を三人で駆け抜けた。何よりの収穫はあなたたちに知り合えたことだよ、久実ちゃん、梨花ちゃん。
プラタナスの枯れ葉が舞う冬の道。いつものように三人肩を並べて、サクサク歩きながら何気に聞いた。本当に何気に・・・
「ところで梨花ちゃんはどうなんよ?卒業後の予定は?就職も決めてないし、実家帰る?」
「あ、ごめん。まだ言ってなかったっけ?私も結婚する。公太郎さん、花水木のマスターと。渋好みやっていうてたやろ、前から。だから私、花ちゃんの将来のお姑さん」
「えーーーっ!!!」久実と私の驚きの声が真冬の空に突き抜けていった。
私が大学生だったころ、携帯電話やメールはありませんでした。付き合っていた彼との連絡方法は先方の自宅の電話にかけるしかありませんでした。ちょっと古いテレビドラマでは男友達からかかってきた電話にお父さんやお母さんが、「今、娘はおりません」と嘘をつく場面がよくあります。そしてそれは実際にあった話で、全て親の監督下にありました。ですから、彼の家に電話をするときは「彼が電話をとってくれますように」と祈るような気持ちでいつも指が震えていたものです。時にはデートの最後に電話をする時間を打ち合わせたものでした。その時刻になると電話の前にじっと座り込んでいたものです。
連絡がつけられなくて破れた恋もたくさんあったと思います。連絡したくてもできなくて、その切なさに胸を焦がした方もたくさんいらっしゃったことと思います。十円玉が足りなくて、公衆電話の順番が来なくて終わった恋もあることと思います。
今の若い方には信じられない状況でしょうが、今でもその切なさは胸にきゅんと来ます。その切なさが愛おしく、まさに青春の思い出です。
この物語では誰も悪い人はいません。ちょっとしたボタンの掛け違いが人を違う道に誘ったという物語です。
もし、昔の恋を思い出して、胸がきゅんとしてもらえれば嬉しく思います。