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後編:水玉模様の雨傘を

 翌日、午後から雨が降った。

 正確には学校の授業が終わって、さて帰ろうかとカバンに教科書を詰めて下校の準備をしようとした矢先だった。

 学校の中央玄関から外の世界を覗き見る。

 無情なにわか雨がアスファルトを黒く染める。空は灰色。雨のむっとした匂いが陰鬱な雰囲気をかもし出している。中庭にある池の水面がフライパンの上で踊るポップコーンのごとく絶え間なくはじけている。地面を叩く絶え間ない雨音が意識を遠退かせる。私はその単調な雨音をぼーっとしながら聞いていた。

 下校する生徒の大半は傘を差している。不思議に思って記憶を遡ってみると、今朝の天気予報で、午後から雨が降ると言っていたのを思い出した。今朝は寝坊したお母さんに代わって私が家族の朝食とお弁当を作って大忙しだったから、天気予報の内容などすっかり忘れてしまっていた。

 腹をくくって走ろう。

 カバンを頭の上に掲げて走り出そうとしたそのとき、正面からやってきた女の子に私は呼び止められた。

「あの……」

 一目見て、気の弱そうな女の子だな、と思った。声を聞いて、やっぱり気の弱そうな女の子だな、とあらためて思った。病弱そうな色白の肌と、外に跳ねた長い髪が、内気な少女という印象を植え付けた。

 彼女は赤い傘を差している。空いた片方の手にはもう一本、水玉模様の傘を手にしている。私と同い年くらいで制服は着ていない。私服だ。在校生の姉か妹だろうか。家族のために傘を持ってきて、私に教室の場所を訊こうとしているに違いない。

「あの、お嬢様。か、傘を持って参りました」

 吃音混じりに彼女はそう言った。

 その『お嬢様』が私を指しているのに気づくまで数秒時間を要した。

「えっと、どなた?」

「い、勇丸いさまるです。お嬢様が傘を忘れたと奥様がおっしゃってましたので、こうして傘を持って参りました……あっ、余計なお世話でしたらすみません」

 おずおずと傘を差し出す『勇丸』と名乗った女の子。

 私の知る限り、勇丸は犬だ。コーギーだ。断じて人間ではないし、同年代の女の子に同名の知り合いだっていない。

「先ほど小学校の妹様にも傘をお渡して参りました。も、もしかして、わたくし傘を間違えましたか……?」

 私がなかなか傘を受け取らないので、不安がる彼女の瞳にみるみる涙が溜まる。うつむきがちになり、その瞳は癖のある前髪に隠れてしまう。

 話を聞く限り、どうやら彼女は我が家で飼っているペット『勇丸』本人らしい。少なくとも、彼女はそのつもりで振舞っている。

 現実的な考えをすれば、犬が人間になるなんてありえない。なのに私はどうしてか「そうか、勇丸が私のために傘を持ってきてくれたんだな」と妙に納得してしまった。

 勇丸がどうして女の子の姿をしているのか、という疑問は当然ある。けれども、そんな疑問よりも先に解決しなければならない問題を私は抱えていた。

「ありがとう。急に雨が降って困ってたの」

 自然と彼女の頭をなでてしまったのが、彼女がまさしく勇丸だという決定的な証拠だった。頭をなでられた勇丸はくすぐったそうに首を引っ込めた。

 水玉模様の傘を受け取ると、勇丸は嬉しそうににっこりと笑った。その仕草が「わんっ」と吠える愛犬の姿と重なった。

 降りしきる雨の中、私と勇丸は並んで歩道を歩く。

 二人で傘を差すと並んで歩けなかったので、二人で一つの傘に入っている。いわゆる相合傘だ。したたる雨水が肩に落ちるのが少々やっかいだけど、こうやって近づかないと彼女の小さい声が雨音にかき消されてしまう。

「あ、雨は苦手です。お散歩に行けないから」

 コーギーは足が短いから、雨の日に散歩をしようとすると身体の下半分が水溜りに浸かってしまう。初めて雨の日に散歩をして全身びしょぬれになった日以来、勇丸は雨の日だけは散歩の催促をしない。

「あの、お、お嬢様は、雨はお好きですか?」

「私も雨は苦手。じめじめするし濡れちゃうし。でも勇丸とこんなふうに『散歩』ができるなら悪くないかも」

 勇丸は顔を赤らめてうつむいてしまった。いじらしい反応だ。

 勇丸がふと立ち止まって反対側の歩道をじっと見つめ始める。

 彼女のまなざし先には昨日のたこ焼きやがあった。昨日と同じく、軒下で中年のおじさんがまんまるのたこ焼きを忙しそうに転がしている。鉄板の上で転がるそれから食欲をそそる香りが漂ってくる。

「食べよっか、たこ焼き」

「いいんですか!」

 あっ、でも……と、喜びかけた勇丸は躊躇いの色を見せる。

「わたくしダイエット中なので」

「一回くらい平気だよ」

「そっ、そうですね。い、一回くらいなら」

「その代わり、お母さんたちには内緒だよ」

 八個入りのたこ焼きを二人で分けあって食べた。

 勇丸はたこ焼きを食べるのが初めてで、できたてのそれをいきなり口の中に放り込んだものだから大変なことになってしまった。口を押さえながらもだえ苦しむせいで、傘の上に溜まった雨水がそこら中に跳ねてちょっとした騒動になった。ペットボトルのお茶を口に含ませてあげて、どうにか彼女は静まった。二個目からは少しずつかじりながらたこ焼きを食べた。

「はしたないところを見せて申し訳ありません」

 たこ焼きを食べ終えてからも勇丸はずっと落ち込んでいた。

「たこ焼き、おいしかった?」

「は、はい」

「また今度、いっしょに食べようね」

 頭をなでてあげると、うなだれて落ち込んでいた彼女は少しだけはにかんだ。

 なんというか、古きよき大和撫子を連想させる奥ゆかしい子だと思った。もしくは箱入り娘。ただ、八個あるたこ焼きのうち六個を平らげたのには唖然とした。なんだかんだで食い意地が張っているところに犬だった頃の面影が残っている。

「お嬢様、お口にソースが」

「ほえ?」

「ハンカチを出しますのでお待ちください」

 勇丸がハンドバッグに手を突っ込んでハンカチを引き上げたそのとき、バッグの口から丸い何かが転がり落ちた。

「あっ」

 と声を上げたときにはもはや手遅れで、その丸い何か――いつもボール遊びに使っているテニスボールだ――は坂道を転がって突き当たりのガードレールの下をくぐり、川に落ちた。川は雨のせいで増水していて勢いも急で、濁流に呑まれたテニスボールは私たちの視界からあっという間に消え去った。

「お嬢様からいただいたボールが……」

 雨に濡れるのも構わず勇丸はガードレールに手をついて身を乗り出す。

 コンクリートの堤防で舗装された川は流れが速く、テニスボールなどもはやどこにも見当たらない。木の枝やガラクタもろとも濁流の中だ。だというのに、勇丸はその濁流を名残惜しそうに覗き込んでいた。

「わたくしはどじでのろまで怖がりで、高架の下も通れなくて、番犬にもなれないダメダメな犬です。そのうえ、お嬢様からいただいた宝物まで失くしてしまうなんて。コーギーは勇ましくあれ、と母に教えられたのに」

 頬を伝って落ちるしずくは、きっと雨ではない。

 私が勇丸の頭上に傘をかざすと、彼女はか細い指で涙を拭った。

「私のあげたテニスボール、大事にしてくれてたんだね」

「わたくしの一番の宝物です」

 嗚咽交じりに勇丸は言う。

「寝るときも大事に抱いてるもんね」

 こくん、とうなずく。目じりに溜まった涙がぽろぽろこぼれ落ちる。

「勇丸にさ、ずっと訊きたかったことがあったんだ」

「な、なんでしょうか」

 ずずっと鼻をすする。

「私のこと、好き?」

「もっ、もちろんです! わたくし勇丸はお嬢様のことが一番大好きです!」

 即答してから、勇丸はまたすぐにうなだれた。ぐっしょりと濡れた前髪が額に張り付いて、尖った髪の先からぽたぽたと雨のしずくがしたたっていた。

 自分の想いがどれだけ大きくても強くても、相手はそうとは限らない。

 そのことを彼女は思い出したのだろう。

 けれども、彼女の悩みはただの杞憂だ。なぜなら私も――

「私も勇丸が大好きだよ。もちろん、誰よりも一番ね」

 最初、ぽかんと口を開けたまま呆けていた勇丸の表情にみるみる晴れ間が見えてくる。とうとう彼女は夏の日差しをいっぱいにたたえた笑顔になって、私の胸に勢いよく飛びついてきた。そのせいで手にしてた傘を落としてしまって、二人ともずぶぬれになってしまった。

「今度、新しいボール買いにいこうね」

「はいっ!」

 勇丸に謝らなくちゃいけないことが二つある。

 一つは――勇丸の気持ちを汲んであげられなかったこと。

 勇丸はいつも全身を使って私に愛情を示してくれた。私の愛情もしっかり受け取ってくれた。ところが私は明確な言葉でその気持ちを伝えてもらわないと不安になってしまって、こうやって人間の姿になってくれるまで勇丸の愛情を心から信じられなかった。

 今になってやっと確信を持てたのだ。勇丸は私のことが一番好きだということに。飼い犬の気持ちがわからないなんて、私もまだまだ飼い主として未熟だ。だからこうやって二人で手を繋いで、少しずつ前進していこう。

 そしてもう一つの『謝らなくちゃいけないこと』は――女の子であるにも関わらず『勇丸』だなんて男らしい名前をつけてしまったこと。

 やっぱりいい加減なお父さんのことなんて放っておいて、もっと可愛い名前を自分でつけてあげるべきだった……なんて、今更本人に告白したところでどうしようもないので、これは心の中にしまっておこう。


(了)

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