前編:勇丸は決して語らない
壁の振り子時計がぼーん、ぼーん……と鳴って午後の五時を知らせた。
その瞬間、座布団の上で眠っていた『勇丸』がはっと目を覚まして飛び起き、私の足元に勢いよく駆け寄ってきた。
そうか、もう散歩の時間だ。
勇丸がくわえてきたテニスボールをポケットに入れる。次に、下駄箱の取っ手にかけてある散歩用のリードを手にして勇丸の首輪に繋ぐ。私がリードを繋ぎ終えるまで、勇丸は行儀よくお座りして待っていた。
父が『勇丸』を我が家に連れてきてから明日で二年になる。高校生の私も、今では受験勉強に追われる日々を過ごしている。
勇丸はコーギーという中型犬だ。足が短いのが特徴で、ボンレスハムみたいな胴体と勇ましい顔とのアンバランスなシルエットがかわいらしい。
勇丸は知り合いの飼っていたコーギーが産んだ子どもで、生後間もない頃にお父さんが引き取ってきた。家族に相談もしないで酔った勢いでもらってきたので、その日の夜はお母さんも私も大弱りだった。唯一、妹だけが子犬の勇丸を前にして無邪気に喜んでいた。妹は日ごろ「犬を飼いたい」とお母さんにせがんでいたから。
現在、妹は居間でのんきにテレビを観ている。
「それじゃ私、勇丸の散歩にいってくるね」
「いってらっしゃーい」
カーペットに寝そべりながらテレビを観ている妹が、私に背中を向けたまま足をぱたぱた動かして返事をする。もうすぐ夕食だというのに、ポテトチップをまるまる一袋平らげようとしている。
初めこそ精力的に世話をしていた妹も、二年経とうとする今では散歩にすら連れていかない。食事もトイレも散歩も、勇丸のしつけはほぼすべて私とお母さんの役目だ。お父さんにいたっては、世話をする素振りすら見せたことがない。生後数週間の勇丸をフルーツかごに入れて我が家に連れ帰ってきて、それきり知らん振りだ。二人の性格はよく知っていたので、なんとなくこうなる予感はしていた。とはいえ、やはり納得がいかない。
もちろん、私は勇丸のことが大好きだ。
勇丸はちょっとおとなしいものの、従順で頭がよくて世話のしがいがある。たぶん勇丸も家族の中で私を一番慕ってくれている。生意気な妹と一緒にいるときよりも姉らしく振舞えている気すらする。
靴を履く間、足元の勇丸が私の顔をじっと見つめてくる。外の世界に飛び出す瞬間を今か今かと待ちわびている。靴を履き終えて玄関の扉を開けると、リードをぴんと張り詰める勢いで勇丸が飛び出した。
勇丸は短い足を素早く前後させて道路を歩く。私は自動車や自転車に気をつけながら勇丸のリードを握る。低い姿勢から映る世界はどんな眺めなのだろう。
いつもの散歩コースを歩いて、私と勇丸は近所の河川敷までやってきた。
私と勇丸で散歩をするとき、必ずこの河川敷に立ち寄る。
左手には底まで見える澄んだ川、右手には昼寝にもってこいの土手、前後には背の低い雑草の茂る平地がずっと向こうまで伸びている。犬と遊ぶには絶好の場所だ。
私と勇丸はいつもここでボール遊びをする。
「じゃあいくよ――それっ」
私の投げたテニスボールを追って、勇丸は河川敷を力いっぱい走る。地面を転がるボールを口にくわえると、すぐさま方向転換して私のところへ戻ってくる。私が「えらいえらい」と頭をなでると、勇丸は嬉しそうに「わんっ」と吠える。そして私はもう一度ボールを遠くまで放り投げる。勇丸も飛んでいくボールめがけて全力疾走。勇丸の気の済むまでそれを繰り返すのだ。
何度目かのとき、勇丸が途中で走るのをやめてぴたりと立ち止まった。すぐ近くにボールがあるにも関わらず取りにいこうとしない。
原因は、川を渡す高架の線路だ。
私が力を入れすぎたせいで、高架の下までボールが転がってしまっていた。
勇丸はこの高架が嫌いなのだ。高架の上を走る電車の巨体が怖いのか、はたまた高架の下で響く騒音が苦手なのか。いずれにしても、勇丸は高架の下まで転がったボールは何があっても取りにいかない。
「しょうがないなぁ、勇丸ったら」
私は勇丸の代わりに高架の下までボールを取りにいく。その間、勇丸は主人の様子をその場でじっと眺めるだけで、高架の影すら踏もうとしなかった。
「そんな怖がりじゃ名前負けしちゃうぞ」
勇丸という名前は、いい加減な性格のお父さんが語感だけでつけた名前だ。
勇丸は臆病な性格だ。
散歩中、他の犬とすれ違うと私の影に隠れてしまう。吠えられようものならぶるぶる震える始末。我が家に引き取られたばかりの頃は振り子時計がぼーん、ぼーんと鳴るたびにソファの後ろに逃げ込んでいた。名前負けも甚だしい。もっと可愛い名前をつけてあげるべきだったと時折後悔する。
散歩の帰り道、歩道を歩いていると不意に勇丸が立ち止まった。
勇丸の熱い視線の先にはたこ焼き屋があった。店の軒下で、気のよさそうな中年のおじさんがせっせと鉄板のたこ焼きをひっくり返している。たこ焼きの焼ける匂いが私の鼻腔まで届く。お腹の虫が鳴く。
「勇丸、おうちに帰ろ。ご飯は家で食べようね」
勇丸のリードを半ば強引に引きずりながら私たちは帰路に着いた。
散歩を済ませて家に帰った私はすぐさまシャワーを浴びた。
七月も半ばを過ぎた。勇丸の散歩に付き合うだけで汗だくになる。
汗を流してから家族揃って夕食を食べた。今日の献立は鳥の煮物だ。
「はい、勇丸。あーんして」
妹が背を屈めてテーブルの下に潜り、ニンジンを勇丸に食べさせるのを私は見逃さなかった。
「勇丸はさっきご飯食べたばかりなんだから、あげちゃダメだよ」
「ごめんなさーい」
勇丸のエサが盛られた皿はすっかり空になっている。
「お父さんもレンコンあげちゃダメ」
「後生だ、このレンコンはお前が食べてくれ」
「好き嫌いしないで自分で食べなよ……」
勇丸は慢性的な肥満に悩まされている。というのも、妹とお父さんが好き勝手に勇丸に食べ物を与えるからだ。動物は自制できないから、体調の管理は飼い主である私たち人間が責任を持たなくちゃいけない。かわいいからといってあまやかしてばかりいると、いつかこのボンレスハムみたいな胴体が本当にボンレスハムになってしまう。
夕食を食べた後は三時間ばかり数学の勉強をした。振り子時計が不気味な音で十一時を知らせると、私は鉛筆を動かす手を止めた。就寝の時間だ。
「おやすみ、勇丸」
抱きしめながらおやすみの挨拶をする。抱擁を終えた後も、勇丸は名残惜しそうにつぶらな瞳で私の背中を見つめている。
名残惜しいのは私も同じだ。けれども、勇丸には勇丸の寝床、私には私のベッドがある。
「たまには『おやすみ』って返事してよ」
勇丸は無言のまま瞳を私に向けるだけ。私は苦笑した。
ときどき私は不安になる。
実は勇丸は、何も考えないで生きているのではないか。
犬が『お手』や『お座り』といった芸を覚えるのは、エサという報酬をもらうための条件反射に過ぎなくて、賢いからではない――いつだか読んだ本にそう書いてあった。
もしそれが本当だとすると、実のところ私の日々の献身はまるで勇丸に伝わっていなくて、勇丸にはただ散歩をしてくれてご飯をくれるだけの存在としか認識されていないのではないか。
食べ物に釣られた勇丸が妹やお父さんに簡単になびいてしまうたび、私の中に嫉妬に似た感情が生まれてしまう。
私は、勇丸が自分を慕ってくれているのだと勘違いしているのかもしれない。
私を一番に慕ってくれているというのは、ただの自惚れに過ぎない。
結局、私一人が空回りしているだけなのだ……。
そう思うと、どうしようもなくむなしくなる。
「また明日、散歩に行こうね」
不安をかき消そうと、もう一度抱きしめて頭をなでる。
私の『散歩』という言葉で『反射』したのだろうか、勇丸が「わんっ」と吠えて返事をした。
腹の下についたぜい肉を存分に味わってから、抱きしめる腕を離した。
後ろ髪を引かれながらも私は自室に戻った。勇丸も自分の寝床であるフルーツかごの中に入り、宝物のテニスボールを枕元に、眠りについた。
犬は決して語らない。
だから、私の愛情が伝わっているという確たる証拠はない。どこにも。
ネガティブな気持ちが闇夜の中をさまよって、思考の袋小路に陥って抜け出せない。
夜の闇から生じる睡魔に従うまままどろんで、私は深い眠りに落ちた。