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フロースドゥシャーのパーミャチ【花の魂の記憶】

阿列布のかおりでお茶会を

作者: 乙丑

 見た目からして、四、五十歳と見られる、初老の男が店の中に入ってきたのは、その日の昼頃であった。

 男はダークスーツを羽織っており、ジャケットの胸ポケットのボタン留めには、金色の雛菊のバッチが着けられていた。

「――いつものやつはあるかい?」

 男が、レジカウンターの椅子に座っている少女に声をかけた。少女は耳に大きなヘッドホンをしており、話を聞いていない。

 男は、少女の肩を叩いた。それでやっと店に人が来ていることに気付き、少女は耳にしていたヘッドホンを外すと、――すぐにヘッドホンを、元の、自分の耳に被せた。

 男は、どうしたのだろうと思ったが、外から聞こえてくる工事の騒音に気付き、

「っと、あったあった……」

 カウンターの近くの棚に陳列された、小さい瓶を手に取った。

「これ、もらえるかな?」

 そう言うと、少女は、ふたたびヘッドホンを外す。その表情は、けたたましい轟音が、嫌で嫌で仕方のない、そんな悲痛に満ちた表情であった。

「えっと、二千円……です」

 少女が引き攣った笑みを浮かべながらそう云うと、男はポケットから財布を取り出し、中から千円札二枚を出した。

「領収書をもらえるかな? 宛名は『村井事務所』で」

 男がそう云うと、少女は領収書にそう書き記す。

「しかし、道の設備か――小角も大変だな。わたしの誘いを受ければよかったものを、大体あいつはいつもそうだ。ここぞという場面で失敗する」

「あの……」

 少女が声をかける。その手には紙袋を持っている。

「ああ、すまんね。それじゃぁ、また無くなったら買いに来るよ。ここのオリーブは、他の店より味がいい」

 男はそう云うと、少女から紙袋を受け取り、店を後にした。

 ――少女が、その男の声を聞いたのは、この日が最後であった。


    * * * *


「またか……」

 と、初老の男は呟いた。

 風呂あがりで、細長い彼のからだからしてみれば、少々ダボダボの大きなバスローブを羽織っている。

 男はテレビを付けて、色々とチャンネルを変えていく。日付が変わろうとしている夜十一時ごろ。

 この時間は、ほとんどのチャンネルが報道番組であり、そのほとんどが、政治家に対するバッシングによるものだった。

 不正取引、不祥事など……実際テレビで報道されないにしても、黒い部分などいっぱい出てくる。

 そんな彼等と()()の、小さな町の議会議員である村井宗一(むらいそういち)が溜息を()いていると、

「あなた、早くおやすみになりませんと、からだに毒ですよ?」

 部屋のドアが開き、妻である美奈子がそう促す。手には男のシャツや、寝巻きを持っていた。

「すまんな、そこに置いといてくれ」

 村井がそう云うと、美奈子は着替えをソファの上に置き、静かに、それこそ素振りひとつも乱さずに一礼すると、部屋を出ていった。

 ――村井はバスローブを脱ぎ、着替えを済ませる。

 村井は自分の思っていたこととは百八十度違うなと、溜息を吐こうとした。「いやいや、こうも頻繁にしていたら、いかんな」

 と、溜息を吐くのを、すんでのところでとめた。

 寝よう。こういう時は、明日に備えて寝たほうがいい。

 村井はそう考えると、テレビを消し、寝室に行こうとした。――その時だった。

 部屋に置いてある電話が、けたたましく鳴る。「こんな時間に――」

 村井は小首を傾げ、受話器を取った。

「もしもし……」

「――村井か……」

 電話越しから聞こえてきた男の声は、妙《,》()()()()()()()

「どうした? こんな時間に」

「すこし、話がある。今からN公園に来れないか?」

 村井は部屋に掛けられている時計を一瞥した。

「もう夜も遅い。明日じゃ駄目なのか?」

 そう尋ねると、電話の男は小さな声で、

「今日じゃないと駄目なんだ。すまない」

「――わかった。十分ほど待っていてくれ」

 村井の言葉に、電話の男は「わかった、かならず来てくれ」

 と云い、電話を切った。

 村井は受話器を電話機に戻すと、少しばかり顔を強張らせる。

 そして、下は寝巻きのままでジャケットを羽織ると、男の云う通り、N公園へと向かった。


 ――公園の中は、外灯があるにしろ、静かであった。人っ子一人いない。

「****っ! 来たぞっ! 話とはなんだ?」

 村井が辺りを見渡しながら叫ぶが、人の気配を感じない。

「……っ」

 小さな声が聞こえ、村井がそちらに振り返ると、なにやら、腹部に痛みが走った。

 ――村井は理解できなかった。いや、理解できるわけがない。

 突然――振り向いたら、腹部を包丁で貫かれて、いったい、何が起きたのか、それが――わからない。

 どうして、こんな目に遭わなければいけないのか、村井は、ゆっくりと目の前の男を見た。

 男は帽子を深々と被っている。顔は――暗くて見えない。

「げぇっ! ほぉっ! がはぁっ!」

 村井は咳き込み、ふらふらと、意識を朦朧とさせる。

 立っているのがやっとだった。

「はぁ……はぁ……」

 男は、肩で息をしている。そして、一歩、二歩と後退(あとずさ)りしていく。

「た、助け――て……くれ……」

 村井は男に懇願(こんがん)するが、男が顔を上げると、村井は呆然とした表情で倒れた。


    * * * *


 杉山という、無精髭(ぶしょうひげ)()やした、少々筋肉質の男のところに電話がきたのは、ちょうど、朝の六時になろうとしているところだった。

 杉山は、充電器に繋がれた携帯を、うつ伏せのまま手探りでさがす。三十秒ほどして、ようやく電話を取るや――

「るっせぇぞっ! 朝っぱらからぁっ! こっちは昨日の付き合いで、寝たのは午前様じゃぁいなぁっ、ボケッ!」

 と、どう考えても、電話の着信音よりも、お前のほうがうるさい、と云われんばかりの大声で、電話先の相手に怒鳴った。

「ああ、杉山くん――」

 電話の男は、少々苛立った口調であった。

「ああ、田所課長すか? なんすか、また奥さんに逃げられました?」

 杉山は相手が上司であるにも拘らず、口調を変えない。

「いや、そうじゃなくてだな――」

「あ、もしかして娘さん? そういえば、また別の男連れてましたよ。お嬢様学校に通ってるくせに、あっちのほうは、かなりの……」

「殺人だっ! 場所はN公園。君の家からそう遠くはないはずだから、迎えはやらんっ!」

 田所はそう云うと、電話を切った。

 杉山は携帯を耳元から少し離し、耳鳴りが収まるのを待った。頭がズキズキして痛い。

「昨日は飲みすぎたな」

 と、頭を掻きながら、洗面所へと向かった。


「あ、杉山さん、おつかれさまっす」

「ああ、おつかれさん」

 N公園にやってきた杉山は、声をかけてくる何人かの警官と挨拶を交わしながら、「おう、ホトケさんってのは、どこのどいつだ?」

 警官が集まっている場所に行き、声をかける。

 その中心にある死体を見ると、少しだけ溜息を吐いた。

 遺体は綺麗な状態で、仰向けに横たわっている。

「どうせ、通り魔の仕業だろ?」

 と、杉山は興味がないような言い方をしてから、欠伸をする。

「殺されたのは村井宗一という、この町の議会議員だ」

 田所が青筋を立てながら、杉山に言った。

「誰だ? それ」

「さっきも言っただろ? 最近決まった議員だ」

「知らんね? おれは政治家とか、そう言うのは嫌いなんだよ。それに、殺人をする人間なんぞ、頭がいかれたキチガイ以外の何者でもない。さっさと捕まえて、豚箱にでも放り込んどけばいいさ」

 杉山はそう云うと、ふたたび欠伸をし、さっさとN公園を後にした。――その手には携帯があり、どこかにかけているのを、田所は見た。

「な、なんなんですか? あの態度は」

 若い警官の何人かが、杉山に対して憤慨の表情を見せる。

「――被害者はナイフで一突きか……」

「そう見て間違いないでしょう。それが致命傷になった」

 それを聞くと、田所はすぐに村井の家に行くよう、彼らに命じた。


 ――その十五分後のことである。

「おせぇぞ、お前ら!」

 けたたましい怒声が、車から降りてきた警官数名に向けられていた。「杉山さん、どうしてここに?」

「被害者の家ってのはここだろ?」

 杉山が親指で示す。そこにはマンションがあり、どこにでも見られる一般的な三階建てであった。

「――たしかにここですが、知っていらしたんですか?」

「こっちは色々と付き合いがあるんでね。二、三人くらい捕まえて尋ねりゃ、すぐにわかるやな」

 杉山がそう説明する。

「まぁ、どうせ死んだってことがわかる以上、隠すことでもないだろ?」

「――情報は慎んだほうが」

「んなことより、さっさと話を聞こうじゃねぇか……村井って政治家が、いつ家から出て行ったのか、恨みを持ってるやつがいたかどうかをな」

 杉山はそう云うや、なんの躊躇いもなく、入り口に備えられている、各部屋の番号が書かれたプレートから、村井の文字を見つけ、呼び鈴を鳴らした。

「――どちらさまでしょうか?」

「ああ、こちらE署の杉山と申します。ちょっと村井宗一氏のことでお話がありまして」

 杉山が畏まった口調で云うや、「そうですか? そういえば、朝から見ませんね」

「実は今朝、村井宗一さんの遺体が、N公園で発見されたんです」

 杉山がそう云うと、「まぁ、そうですか? それで何のご用件で?」

 女性がのほほんとした口調で話す。緊張感の欠片もない。

「ですから、村井宗一さんが殺されたんです」

 杉山は苛立ちを抑えながら説明する。

「夫はまだ寝ております」

「――確認はされたのですか?」

「いえ……そういえば、まだ起きてきていませんね」

 のほほんとした美奈子の態度に、とうとう切れた杉山は、

「いいからっ! さっさと旦那の寝床に行って、いるかどうか確認してきやがれっ!」

 と、怒鳴り散らした。


 ――その数分後、慌てた表情で、美奈子がマンションの入り口にやってきた。

「お、夫は? 夫はどこに行ったんですか?」

「こちらは旦那さんが、いつ出て行ったのかを聞きたいんですがね?」

 杉山がそう云うと、「いえ、それはわかりません」

「一緒に寝ていたんじゃないんですか?」

「別室で寝ていますので」

「夫婦仲が悪い……と」

「いいえ、とんでもありませんわ。わたしは宗一さんのことを心から愛しておりますから……、ただ、あの人は少し寝相が悪いものですから、気が付いた時にはお布団の外に出ていることがあるほどで」

 杉山は話を聞きながら、「ああ、それでですね奥さん? 旦那さんがいつ出て行ったのか知らないわけですか?」

 そう尋ねると、美奈子は頷いた。

 美奈子は、昨晩宗一に寝巻きを渡してからずっと、別室にいたと説明する。

「ということは、出て行ったのを見ていないということか」

「夫は? 夫は誰に殺されたんでしょうか?」

 美奈子が震えた表情で尋ねる。それがわかれば苦労しない。

「旦那さんは、誰かに恨まれるようなことはありましたか?」

「いいえ、とくに……ただ――」

「――ただ……? 何か心当たりでも」

「政治家となると妬みなんてものがありますから」

「それによるもの……か」

 杉山は近くにいた警官に視線を送り、「ちょっとそこらへん調べて来い」

 と、命令した。


    * * * *


 翌日……。

小角おづの義徳(よしのり)……知らんな」

 喫茶店で杉山はコーヒーを飲みながら言った。

「先日、村井宗一と選挙で争っていた議員です。なんでも、昔は同じ政治家……江頭えとう(すすむ)という政治家のもとで、秘書として働いていたようです」

「犬猿の仲ってわけか?」

 杉山は、後輩の月極つききめから、調べてきてもらったことを尋ねていた。

「それじゃぁ、小角で間違いないな」

「妬みによるものだとしたら――ですが、一応そちらのほうも、これから尋ねにいきます」

 月極が立ち上がると、「ああ、いい。おれが行く」

「いえ、課長からの命令でして、あなたに捜査させると()()()()()()()……と」

 それを聞くや、杉山は飲みかけの()()コーヒーを月極にかけた。

 当然のことだが、月極は悲鳴をあげる。

「んな自分の嫁さんも管理できねぇやつのいうことなんざ、きかんでもいい。それで、小角の家ってのはどこだ?」

 杉山は(なか)ば脅迫(というより、完全に脅迫だが)染みた感じで、月極から場所を尋ねた。


 杉山と月極がいた喫茶店から、五百メートルほど離れた場所に、閑静な住宅街がある。

 住宅街となると、曲がりくねっていたりして、住所がわかっていたとしても、似たような家があったりで見付け難いものなのだが、小角の家はすぐに見付かった。

 というよりも、見付けてくださいと云わんばかりなのである。

 住宅街の中にあるのだが、その壮観は周りのコンクリートで作られた景色に、まったく馴染まない。

 ――それが小角が住んでいる日本家屋である。

 敷地の大きさはそれほどでもないが、近代的日本での住宅事情を考えると、コンクリートジャングルの中に、日本家屋が一軒、ポツンと建っていれば、やはり場違いのような感じであった。

 二、三件似たような家屋が近くにあったのならまだいいほうなのかもしれないが、まったく見当たらない。

 したがって、近くを行き交う人に尋ねなくても、ここが小角の家だと、日本家屋自身が云っているような所であった。

 杉山は少し溜息を吐き、呼び鈴を鳴らした。

「はい。どちらさまでしょうか?」

 出たのは、女性であった。

 杉山はインターホンについているカメラに向けて、警察手帳を(かざ)すと、「E署の杉山というものですが……、小角義徳というアホはおりますかね?」

 と尋ねると、「何の御用でしょうか?」

 と、杉山の悪態を聞き流した。

「実は一昨日(おととい)の晩、村井宗一という方が、N公園で殺されましてね」

「村井さんがですか?」

 女性は驚いた声で聞き返した。

「ええ。ちょっと小角さんに、その時どこにいたのかを尋ねたいので、中に入れてくれませんか?」

 女性は少し間を置いてから、「どうぞ」

 と云って、門を開けた。


 ――居間へと通された杉山と月極の目の前に、白髪の男性が座っている。

「わたしが小角だ。村井くんのことは、奥さんから聞いたよ。まったく、惜しい人を亡くした」

 小角は、ゆっくりとそう二人に話す。

「早速ですが、一昨日の晩……午後十一時ごろ、あんたはどこに?」

「その時間だったら、わたしはいつも部屋で休んでいるよ。神経を使う仕事をしている以上、眠くなるのが早くてね、早く寝ないと体に毒だ」

 小角は笑いながら云った。

「それを証明してくれる人は?」

「その時間だったら、由峪よしたにさんが起きていたはずだよ」

 小角は、ちょうどお茶を持って来ていた、三十代そこそこの、女中に視線を送った。

「でしたよね? 由峪さん」

「ええ。その時間、旦那さまは部屋で休んでおりました。この家はわたしと旦那さま以外は住んでいないようなものですから」

「近親者による証言は信用できねぇんだがな?」

「旦那さまが村井さんをよく思っていないことは知っておりますが、殺人をするとは思えません」

 由峪がそう云うと、月極は少し首を傾げた。

「その話、どこで?」

「村井さんの奥さん、美奈子さんから聞きました」

 なるほど……と、杉山は口にした。

 ――結局、小角が出て行った証拠は見つからず、また出て行っていないと云う証拠も見付からなかった。

 ――時間が時間なのである。

 犯行が行われた午後十一時ともなると、大抵は寝静まっている。その時間、公園に行ったという人間も見付からなかった。


 E署に戻った杉山は、自分の机にドカッと座った。

「おうおう、杉の()よぉいっ! 捜査は進んどるか」

 少し()()れた、身窄(みすぼ)らしい容姿をした白衣の男が、杉山に声をかけてきた。

「なんだ、不知火(しらぬい)のジジイか……なんの用だよ」

 杉山は、不貞腐(ふてくさ)れた態度で尋ねる。

「ちょっとな、お前さんにも話そうと思って、殺された村井のスーツジャケットの胸ポケットに、潰れた木の実があったんじゃいな」

「――木の実? なんでそんなのが?」

 杉山がそう尋ねると、「もうひとつ――」

 不知火はポケットから、クシャクシャになった紙を手に取り、それを渡した。

 その内容を見るや、杉山は顔を(しか)める。

「なんて書いてあるかわかるか?」

「いや、まったく」

 杉山はそう答えた。紙には『橄欖油』と書かれている。

「それが村井のジャケットの内ポケットに入ってた。今それについて調べておるよ」

「油の一種だろうな。まぁどうせ、事件とは関係ないんじゃねぇの?」

 杉山はそう云うと、いつまで()ってもこないお茶を()れに、給湯室(きゅうとうしつ)へと入っていった。


    * * * *


 村井宗一の遺体の解剖を終え、遺族の元へと返された翌日のこと。朝からしとしとと、雨が降っていた。

 そんな涙雨なみだあめの中、葬儀が行われることとなり、杉山はその様子を、月極と見に行くと、葬儀が行われる小さな会場の前に、『日下生花店』と、大きく文字がラッピングされた白い軽バンが、入り口に停っているのが見えた。

 その軽バンから、十五、六歳くらいの、青いオーバーオールを着た少女が弔花を持って降りてきた。

 入り口の前に立ち、軽く深呼吸をすると、「ご注文頂いた弔花が出来上がりましたので、お届けに参りました」

 と、近くにいた葬儀屋に声をかけた。

「ああ、はいはい。いつもご苦労さま、菊李(くくり)ちゃん」

 葬儀屋の手伝いが、少女から弔花を受け取り、頭を下げる。

「それでは、こちらが今回の領収書です。ご確認のうえ、依頼主さまの方に請求されるのと加算しておいてください」

 少女――菊李が、オーバーオールの胸ポケットから封筒を取り出し、葬儀屋に渡す。

 葬儀屋は中身を取り出し確認すると、「了解しました」

 と軽く会釈した。菊李もそれに答えるように頭を下げる。

「では、失礼します」

 菊李は軽バンに乗り込み、軽バンは走り去って行った。

 ――それを見ていた杉山は、葬儀屋に近付き、「すまんが、さっきのはどこの花屋かね?」

 と尋ねた。

「いつも贔屓にしている花屋ですよ。この弔花は店長が作られているんです」

 ほう……と、杉山はまったく興味のない目で弔花を見る。

「その花屋ってのは、どこにあるんだい?」

「ここからでしたら、そんなに遠くはないはずですが」

 葬儀屋から花屋の住所を教えてもらい、杉山は葬儀のことを月極にお願いして、その花屋へと車を走らせた。


 商店街が見えてくると、杉山は車を近くの駐車場に停めた。

「まったく、なんで小一時間停めるだけなのに、金を払わんといかんのだ」

 と、駐車場から出るや愚痴を零す。

 杉山が車を入れた駐車場は、有料駐車場で、どこからでも入れるが、停めるとロックがされるシステムである。

 近くに停められるところがなかったので仕方なく停めた。

「これ……経理で落ちんかなぁ――」

 と、杉山は考え、E署の会計課に伝えたのだが、落ちることはなく、結局自腹となった。

「――っと、ここか」

 杉山は葬儀屋に教えてもらった花屋を見付けると、店のドアを開けると、杉山にとっては、数秒で眠くなるような、静かなクラシック音楽が店内に流れている。

 店の中は花屋と云うこともあり、色取々(いろとりどり)の花が飾られている。花にまったく興味のない杉山からしてみれば、土手に咲いてるような花に、どうして金を払わんといかんのかと、シャツのボタンを外しながら思った。

 外の蒸し暑さといっしょで、店の中も蒸し暑い。

「すまんが、ちょっと話を聞きたいんだがな」

 杉山はレジカウンターの椅子に座っている少女――菊李に声をかけた。

 本を読んでいた菊李は、杉山に視線を向けただけで、それ以外の反応を見せない。

 村井宗一の葬儀会場の時、チラッと見ただけだったが、菊李は首に大きなヘッドホンをかけているのが、杉山の目に入った。

「ちょっと話を聞きに来たんだがな、村井宗一って男を知らんか?」

 そう尋ねるが、菊李はうんともすんとも言わない。

「おまえさん、さっき葬儀屋に花渡してただろ?」

 それに対しては、菊李は頷く。

 それ以外に訊く内容が思い浮かばない杉山は、どうしたものかと考えていると、彼の携帯が鳴った。

「ああ、もしもし……。なんだ、不知火のジジイか」

「ああ、杉の字や、この前見せたメモじゃがな、ありゃぁ、『橄欖油かんらんゆ』って書いてあったんじゃよ」

 電話先の不知火にそう伝えられ、杉山は首を傾げた。

「カンランユ? なんじゃ――それ」

 杉山がそう呟くと、カウンターに座っていた菊李がスッと立ち上がり、トコトコと店の奥へと消えた。

「なんじゃ? どっかにおるのか?」

「ああ、ちょっと花屋にいる」

「花屋? 冗談は、お前の顔と態度だけにしろ」

 不知火は笑いながら言った。「るっせえよ老い耄れ。ちょっと気になることがあったんでな。ほら、ホトケさんの胸ポケットに潰れた木の実があっただろ?」

「ああ、あれか……あれもなんかわかったよ」

 不知火がその先を言おうとした時、「あの……」

 カウンターに戻ってきた菊李が杉山に声をかけてきた。

「……っ、なんだ?」

「お探しの『()()()()』ですけど?」

 そう言いながら、菊李が床に置いたのは、大き目の鉢に植えられた苗木であった。

「オリーブ? なんでそんなのを……」

 杉山がそう尋ねようとしたが、携帯から声が漏れていた。「ああ、なんだよ?」

「さっきの話じゃがな、『橄欖油』ってのは、『オリーブオイル』のことなんじゃよ。どうやら、村井は手料理を妻や秘書、事務所の部下や知り合いに食べさせていたみたいじゃな」

 杉山はそれを聞くや、菊李を見た。自分は一度もオリーブオイルの事を言っていない。

 菊李は『橄欖かんらん』の事を、オリーブだと知っていたと云うことだ。

「あんた、村井宗一に、『橄欖オリーブ』って漢字を教えていたのか?」

 杉山がそう尋ねると、菊李はレジの横にあるメモ帳に、サラサラッとペンを走らせた。

 そのメモには、『橄欖』ともうひとつ、『阿列布』と書かれた文字がある。

「本来、オリーブは『阿列布こっち』を書きます。モクセイ科の植物で、『橄欖こっち』とは全然品種が違います」

 そう説明されるが、杉山はなんのことだかさっぱりだった。

「『橄欖』は鉱石のオリビンを和訳する時に間違ってつけられたもので、それが植物の方にもつけられたんです」

 さっきまで大人しそうだと思ったが、どうやらそうではないようだ。と杉山は思ったが――。

「それじゃぁ、ひとつ訊きたいんだが、その『橄欖油』のことを教えたのはお前さんかい?」

 と尋ねた。

「うちの店に、本来の『橄欖かんらん』は()()()()()ですから」

 菊李がそう云うと、杉山は首を傾げた。

「ああ、っても、さっき持ってきたのはその『橄欖オリーブ』なんだろ?」

 杉山の質問に、菊李はどうしてわからないかなと云わんばかりの視線を向ける。

「『橄欖』はカンラン科の常緑高木(じょうりょくこうぼく)で、この店では苗木を扱っていません」

「たしかに高木は……な、葉っぱなんて売ってないだろうし」

 店を見渡しながら、杉山は言った。

「花……咲きますけど。それに、阿列布と同じで、木の実から油を搾り取って、料理なんかに使いますよ」

 その言葉に、杉山は唖然とした表情を浮かべた。

「その実ってのは、家でも取れるのか?」

「阿列布は自家受粉出来ませんから、二つ以上ないと実をつけません」

 菊李がそう答える。「ジカジュフン?」

「花と云うのは、自分の花粉で(つぼみ)を咲かせます。そういう同じ遺伝子でも花を咲かせられるのを自家受粉。おなじ植物でも、(こと)なる遺伝子じゃないと実を出さないのが他家受粉っていいます」

 杉山は少し頭を抱えた。

「おーい、菊李や……」

 店の奥から老人の声が聞こえた。「なに? オジイ」

 菊李が店の奥へと入って行く。杉山が中を覘くと、その奥に居間や台所があり、どうやら家を改築した店のようだなと考える。

 杉山は、村井がマンションでオリーブを買っているとは思えず、また、どうしてポケットにそのオリーブの実が入っていたのかという理由が思い浮かばなかった。

「さっき、葬儀屋を通して、喪主の奥さんから連絡が来てな、村井さんが買ってたオリーブオイルをこれからもご贔屓にしてくれるそうじゃ」

 店の奥で老人がそう云うと、杉山は咄嗟に店の奥――家の中へと入った。

「なんじゃあんたは? 人ん()に勝手に入って、警察呼ぶぞ!」

 老人が怒鳴ると、杉山は胸ポケットから警察手帳を取り出し、「おれはその警察だ。あんた今、村井はこの店でオリーブオイルを買っていたって云ったな?」

「あ、ああ。うちはそういうのも売ってるからな。花だけじゃ商売上がったりじゃよ」

「それじゃぁ、やっぱりそこの嬢さんは、村井に漢字を教えていたってことじゃないか?」

 杉山は菊李を見ながら云った。

「何か勘違いしておるみたいじゃがなぁ刑事さんや、買いに来てたのは、村井議員の秘書をやってる野々下さんが代わりに買いにきてたんじゃよ」

 老人がそう云うと、杉山は凄んだ表情で、「本当なんだろうな? 嘘だったら……」

「ああ、わしは嘘は嫌いでな。奥さんの美奈子さんにでも尋ねるがええ」

 杉山は一瞬、ほんの一瞬だが、老人にたじろぐ。

 その目は、自分なんかよりも、()()()()()()()()()――そんな感じがしたのだ。

「わかった。取り敢えず、今日は帰る」

 杉山はそう云うと、店を後にした。

 菊李は、床に置いたままのオリーブの苗木を元の場所に戻そうと、抱え込もうとした時――。

「あの人……うるさい」

 首にかけていたヘッドホンを耳に当て、呟いた。


 ――その直後、外では騒音が鳴っていた。

 近くで行われている道路工事のけたたましい音が、店の中にも鳴り響いている。

 ――が、菊李の耳には、静寂のみが流れていた。


    * * * *


 花屋を後にした杉山は、村井の自宅へと赴いた。

 が、いくら呼び鈴を鳴らしても、美奈子は出てこない。

 そういえば葬儀の最中かもしれんなと、杉山は自分の腕時計を見た。針は三時を少し回っている。

 この時間なら、まだやってるな――。

 杉山はマンションから出ると、携帯で月極に電話をかける。

「ああ、もしもし、葬儀はいつくらいで終わるんかねぇ?」

「えっと、まだもうちょっとかかりそうです」

 電話先の月極は、一応事件の捜査に当たっているため(杉山は、完全に、自分勝手な行動で捜査しているが)、一応礼儀として、葬儀に参加していた。

「タイミングを見計らってでいいから、ちょっと二、三個、奥さんの美奈子さんに訊いてほしいことがあるんだよ」

 杉山は、花屋で聞いたことを、月極に代わりに訊くよう頼んだ。

 杉山はその間、小角の屋敷へと車を走らせる。

 とはいえ、場所は住宅地の中心あたりなので、曲がりくねっており、車が悠々と走れる道でもないため、杉山は近くの店に車を停め、少しばかり煙草を一服してから、小角の屋敷へと歩いて向かった。

 ――その途中、彼の携帯が鳴る。

「ああ、もしもし……、月極か――。どうした、なにかわかったか?」

「杉山さんの云う通りでした。村井宗一は野々下という秘書にお願いして、日下生花店からオリーブオイルを買ってます。料理が趣味だったみたいで、よくご馳走していたみたいっすね。それともうひとつ、そのオリーブオイルですが、結構高いみたいなんすわ」

「あんなちっちぇえ店で売ってるのにか?」

「自家栽培によるもので、まぁ絞り自体は業者にお願いしているようですけど。大体、自家製ってのは高いじゃないっすか」

 月極の言葉に少々納得しつつ、

「それで――他には?」

「村井はそのオリーブオイルを小角んとこの……由峪って女中がいたじゃないっすか? あれに渡していたそうなんですよ」

 あの女中か……。と、杉山は由峪のことを思い出す。

「それと、村井は結構有望されていたみたいで、そのこともあってか、小角は結構妬んでいたみたいです」

「やっぱ、妬みによる犯行か……」

 杉山が、歩きながら電話をしていると、ちょうど視界に小角の屋敷が見えた。

「……っと?」

 むこうからは死界になる場所で、杉山は足を止めた。

 ――あれは、たしか花屋んとこの……。

 小角の屋敷の前にいたのは、花屋の娘である菊李であった。

 あんなところで、なにをやってんだ?

 杉山はそっと様子をうかがうことにした。


 菊李はジッと、なにかを見つめている。

 その視線の先を見ると、薄い桃色の花を咲かせた、大きな木が()っていた。

 菊李は、オーバーオールから小さなデジカメを取り出し、その花を写真に(おさ)めている。

 門から人が出てくる気配を、菊李ではなく、杉山が感じた。

 菊李は写真を撮ることに夢中で、それに気付かなかった。

「あら、どうしたの?」

 出てきた女性――由峪が、菊李に声をかける。

乙女椿オトメツバキ、すごく可愛いです」

 菊李がそう答える。「あなた、お花、好きなの?」

「好きです。嫌なこと、人が傷つくようなことは絶対云わない。でも、もし枯らしたら、育ててた自分の責任だから」

 菊李はそう云うと、「小角さん、村井さんが殺された日、誰かに連絡しませんでしたか?」

 その質問に、由峪は首を小さく横に振った。

「いいえ、仕事中のことは……。それに、今は携帯があるから、どこででもかけられるでしょ?」

 その言葉を、菊李のうしろから近付いて来ていた杉山が()()()()()|聞いていた。

「つまり、殺害時刻のアリバイもないってことだ――。ちょっと、中に入らせてもらうよ」

「待ってください。旦那さまはまだ仕事から帰っていません」

 由峪が呼び止めると、「小角は今朝から出ていない。その車だって、小角が仕事の行き来するためのやつだろ? 今日は今朝少し雨が降っててな、ちょうど葬儀が始まるあたりまで降っていた。仕事に行ったんなら、その時に水溜りかなにかで、車が汚れているはずだろ?」

 杉山は、車庫に入れられている、赤色の軽自動車に目をやった。ボディーには、汚れがひとつもない。

「それが、出て行っていない証拠にはならないのでは?」

「まぁ、そんなこたぁどうでもいいんだよ。中に小角がいるかいないかだ」

 杉山はそう云うと、屋敷の方へと入っていった。

 由峪もその後を追う。

 一人その場に残された菊李は、店に来たことがあった村井のことを思い出していた。

 ――あの人、悪口なんて一回も言ったことない。

 菊李はデジカメを胸ポケットにしまい、踵を返すと、村井の事務所へと向かった。


 村井の事務所には、何人かの事務員が残っていた。

 全員悲しみに耽っている。

 菊李は、窓からそっと覗き込み、見知った相手を探していると、中にいた、眼鏡をかけた若い、二十歳そこそこの男性と目が合った。

 男性は菊李に対して、頭を下げると、「すみません、ちょっとお客さんが……」

 と云い、輪から離れ、菊李のもとへと駆けていった。

「こんばんわ」

「野々下さん、その……」

 菊李は、どう聞こうか悩んでいた。

「どうかしたのかい?」

 そう聞かれ、菊李は、キッと決意を固めたような表情で、野々下を見つめた。

「先日、村井宗一さんが殺される前――、その日、何をしていたのか知りませんか? ボク――わたし、どうしても、あのおじさんが殺されるような人じゃないって、思って」

 菊李がそう云うと、野々下は少しだけ、顔を俯かせた。

「実はね、その日僕たち事務所のみんなは、先生の手料理をご馳走になっていたんだ。先生は小角さんにも連絡していたんだけど、忙しいってことで断られていたんだよ。先生は仕方ないとは云っていたけど、その時の先生の顔は、ちょっと寂しそうだったね」

「――寂しそうだった?」

「先生と小角さんは同じ政治家のもとで、秘書として働いていたんだ。その時から、先生は期待されていたんだけど、もしかしたら――」

 野々下は少し考えに(ふけ)るや、「まさか……」

「なにかわかったんですか?」

「先生は一度も小角さんに対して、陰口を云ったことがないんだよ。菊李ちゃん、叱咤激励って言葉知ってる?」

 そう聞かれ、菊李は頷いた。『叱咤激励』とは、大声で励まして、奮い立たせることを云う。

 つまり、村井は小角を嫌ってなどおらず、一人の友人として、同じ政治の世界にいる小角のことを気にかけていたのだ。

「もし、それを小角さんが勘違いしていたら?」

「可能性はなくないね。あの人は自分よりも優秀だった先生を妬んでいたとしても不思議じゃない」

 菊李は、どうしてそんなことにも気付かないんだろうと思った。

 自分のことを励ましてくれている人の真意に、どうして気付けないんだろうと……。

 ふと、視界の先にオリーブの苗木がおいてあるのが見えた。

「ああ、あれはこの前先生が買ってきたんだよ。たしか苗をふたつだったかな?」

「苗をふたつ……?」

 菊李は、不思議そうに、そして、なにかに気付き、

「そのもうひとつって……いったいどこに?」

「えっ? たしか小角さんのところに送ったはずだよ」

 それを聞くや、菊李は顔を青褪める。

「野々下さん、車持ってない?」

 そう訊かれ、野々下は戸惑った。「ど、どうかしたのかい?」

「さっき、警察の人が小角さんの屋敷に来てた。殺人があった時間のアリバイもないからって」

「でも、だからって、それだけで小角さんが先生を殺したなんてことには」

「小角さん……おじさんの気持ちに気付いていない。たぶん、自分を下にしか見ていないとしか思っていない」

 菊李が焦った表情で、そう話していると、

「――由峪さん?」

 野々下の視界に、由峪の姿があった。

 由峪は軽く会釈する。

「お、小角さんは?」

「――連れて行かれました」

 その一言が、菊李の心に、重く()しかかる。

「……あの、ひとつ聞いていいですか?」

「ええ、いいですけど、なにか?」

「村井宗一さんから、小角さんにオリーブの苗木が送られていたと思うんです。それ……どうしました?」

 菊李がそう尋ねると、由峪は静かに目を閉じた。

「――旦那さまが燃やしたわ。酷く疲れた表情で、なにかに脅えていたみたいだった」

 由峪がそう言うと、菊李はその場に跪いた。


    * * * *


 小角が逮捕されたと云うのが、逮捕されたその日のうちに報道された。

 マスコミは、村井に対する、小角の妬みによる犯行ではないかと推測し、それをテレビで話している。

 夕食中、菊李がそれを見ていると、店の方からけたたましい声が聞こえ、出てみると、そこには杉山の姿があった。

「一応、嬢ちゃんには礼があるからな、まぁ捜査にご協力感謝する」

 杉山は軽く一礼する。「小角さんに会わせてください」

 菊李がそうお願いすると、杉山は首を横に振った。

「ここから先は警察の仕事だ。嬢ちゃんが気にすることじゃねぇよ」

「小角さんが、村井さんの本当の気持ちを知らないまま、どうしてオリーブの苗を送ったのか、それを知らないまま」

「おい、どうしたよ? 嬢ちゃん?」

 杉山が声をかける。そして……。

「ああ、もうわかったよ。それじゃぁ、明日だ。今日はもう遅い」

「約束ですよ?」

 菊李は杉山を蔑んだ目で睨む。「約束はするさ。っと、思ったんだが、どうしてそんな目で俺を見るんだ?」

「嫌いだからです。……警察が」

 菊李はそう云うと、店の奥へと入っていく。

 杉山は、店を出てから、その日寝るまで、自分に向けられた菊李の目が忘れられないでいた。


 ――翌日の朝九時頃、某所にある拘置所には、杉山と菊李の姿があった。

 薄いガラス張りの壁をはさんで、二人の目の前には小角の姿がある。

「刑事さん、わたしになんの用かな?」

 小角がそう尋ねると、「俺はちっとも用がないんだが、この嬢ちゃんがあんたに話したいことがあるそうだ」

 杉山は自分のうしろに立っている菊李に、視線を向けた。「……見ない顔だな?」

「ボクは、あなたの知り合いの、村井宗一さんがよく贔屓してくれている、オリーブオイルを作ってる花屋のものです」

 村井という言葉に反応し、小角は顔を俯かせる。

「君もあいつを支持するのか?」

「ボクはまだ未成年ですから、選挙権はないです」

「それじゃぁ、なんの話をしてくれるんだね?」

「村井さんは先日、あなたにオリーブの苗木を送りましたね?」

「ああ。送ってきたよ」

「昨日、由峪さんが村井さんの事務所に来て、話してくれました。あなたはその苗木を燃やしたって」

 菊李の問い掛けに、小角は顔を震わせた。

「ああ、燃やしたさっ! 燃やしてなにが悪い? あいつはっ! おれを! おれを見下してやがったんだ! 昔から先生に期待されていたっ! 周りの人間にも人望があった」

 小角は喚き散らした。彼のうしろに立っている監守がそれを止める。

「それが、それが全部あなたの勘違いなんですよ」

 菊李は震えた表情を浮かべる。「あのおじさん、一回もあなたに対して、一回も馬鹿にするようなことは云ってないっ! 全部、全部あなたの、その腐った被害妄想や加害妄想から出た結論じゃない!」

「知った口を叩くな! あいつはおれを……おれを馬鹿にしていた。あいつが議員になったことだって、あいつはおれに自慢していたんだ!」

 小角が怒鳴り散らすと、監守が杉山に声をかける。

「嬢ちゃん、潮時だ」

 杉山は菊李の肩に手を掛ける。

「オリーブの……オリーブの花言葉は『平和』。村井さんはあなたにそれを気付いてほしかったんじゃないんですか?」

「そ、そんなわけないだろ?」

「あなたは、村井さんの気持ちに気付かなかった。それどころか、どんどん悪いほうに気持ちがいって……」

「嬢ちゃん、そこまでだ――」

 杉山は菊李をうしろから抱える。

「嬢ちゃん、大人の世界にはなぁ、奇麗事なんて通用しねぇんだよ。あいつは村井宗一を殺した。それをはっきりと認めてる。お前さんだって――それがわかってるんだろ?」

「面会は終わりです」

 と、監守が云うと、杉山は菊李を抱えたまま拘置所を後にした。

「あいつは、あいつは俺を馬鹿にしていたんだ。あいつは……」

 小角は監守に、牢屋に入れられるまで、ぶつくさと小言を吐いていた。


「嬢ちゃん、ひとつ気になるんだがな、もし村井宗一が本当に小角を貶していたとしたらどうなんだ?」

「あのおじさん、そんなことしません」

「いや、たとえばの話だよ」

「オリーブの花言葉にはちゃんとした謂れがあります。ギリシャに、アテネって地名がありますよね?」

 そう訊かれ、杉山は小さく頷いた。

「そのアテネというのは、ギリシア神話に出てくる女神アテネが、その地の領土を勝ち得たことから由来されています。その領土を争った相手であるポセイドンは、人々に戦うための武器を与えました。だけど、アテネは人々に武器ではなく、オリーブの木を与え、争いのない平和な国にしようとしたんです」

「それが、オリーブの花言葉の由来ってことかい?」

 杉山がそう云うと、菊李は小さく頷く。

「でも、オリーブにはもうひとつ花言葉があって、多分ですけど、これが本当に伝えたかったことじゃないのかって」

「村井宗一が、小角に伝えたかったこと――」

「オリーブのもうひとつの花言葉は『知恵』。村井さんは、同じ政治家の秘書をやっていた時から、小角さんを助けたかったんだと思います。だけど、自分を貶しているとしか思っていなかった小角さんはそのことに気付かなかった」

 菊李の言葉に、杉山は……彼女に言い聞かせた。


「――もう手遅れだ。それが、もし本当だったとしてもだ……。小角は村井を殺した。やつがそのことに気付いたとしても、もう手遅れだ」



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