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意を決して正門をくぐると、学園内は案の定、薄暗かった。
とはいえ、正門をくぐる前に見た壁のような暗雲から想像していた、一寸先すらも見えないといった状況ではなかった。
空一面と敷地の周りを分厚い雲や霧なんかが覆っていることを除いた風景だけで考えるのであれば、さほどおかしな部分はないようにすら思えた。
ただ、明らかな異変があった。
敷地内のあちこちに、妙な物体が転がっている。
その正体に気づいたとき、わたしは驚きを隠せなかった。
信じられない光景に、言葉を失った。
おそらく、隣で立ちすくんでいるゆりかごさんも、わたしと同じ気持ちだろう。
敷地内のあちこちに転がっている物体。
物体扱いするのは、さすがに悪いかな……。
それらはすべて、藤星女学園の制服を身にまとっていた。
お嬢様学校と呼ばれるこの学園の生徒たち。
初等部から高等部までの、様々な年齢の女子生徒たちが、地べたに這いつくばって、ごろごろと転がっていたのだ!
スカートのプリーツは乱さないように。
静かで優雅な物腰を心がけ、決して慌てた様子を見せないように。
それがこの学園のモットーとなっている。
そりゃあ、若い女の子ばかりの集まりだから、たまには騒いだりはしゃいだりして羽目を外すこともある。
だけど基本的には、みんな、おしとやかに立ち振舞う。
ここではそれが当たり前だった。
それなのに……。
「これ……、いったい、どうなってるの……?」
わたしの声に、ゆりかごさんはもちろん、心の中のそよぎさんも答えてはくれない。
よく見てみると、女子生徒たちは地べたに這いつくばっているとはいえ、苦しんだり力尽きて倒れたりしているわけではなさそうだった。
虚ろな表情ではあるものの、どちらかといえば、恍惚といった雰囲気。
制服が汚れるのも、スカートがめくれて太ももがあらわになるのも気にせず、気持ちよさそうに、ごろごろと身をよじっている。
小百合さんの旦那さんである幸人さんなど一部の理事の人を除いて、藤星の敷地内に男性がいることはほとんどない。
それでも、たとえ女性に見られたとしても、さすがにこの状況では、はしたないと思われてしまうだろう。
これがひとりふたりであれば、お嬢様生活に飽き飽きした人が反乱を起こしているとか、堅苦しい生活に縛られてちょっとおかしくなっちゃったとか、そういった可能性もあるかもしれない。
……それはそれで問題だとは思うけど。
でも、さすがにこれだけたくさんの人が一斉に、というのは、いくらなんでもおかしい。
「あっ、もしかして、怪しげな薬品とかの煙が充満して、集団感染しちゃったとか!? わたしたち、すぐにここから出たほうがいいんじゃない!?」
わたしの焦りまくった声に、ゆりかごさんは落ち着いた対応をする。
「それはないと思いますわ。転がっているみなさんは、ほとんどがこの正門付近に集中しているようです。登校してきて正門から入ったあと、おそらく時間を空けずにこんな状態になってしまったと考えられます。もし怪しい薬品が気化してこうなったのでしたら、わたくしたちもとっくに、同じ状態になっているはずですわ」
こんな状態なのに、やけに冷静だな、ゆりかごさん。
わたしと違って、普段から冷静なのは確かだけど。
やっぱりわたしって、ゆりかごさんがいないとダメな女の子なのかな。
そんな考えが頭をよぎり、ちょっと沈んでしまう。
と、ゆりかごさんが不意に、握ったままだったわたしの右手を離した。
「……え?」
「わたくし、職員室のほうへ向かってみますわ! 見たところ、転がっているのは生徒ばかりですし、先生方の状況が気になります。もし意識を保っているようでしたら、大人ですから、わたくしたちふたりだけよりも頼りになるはずですわ!」
「うん……そうだね……」
あれ? でもそれなら、どうしてわたしの手を離したの?
その質問を言葉にするより早く、ゆりかごさんは駆け出していた。
「それでは、息吹さんは学園長さんのところへ行ってみてくださいませ!」
「えっ? あの、ちょっと、ゆりかごさん!? 今は一緒に行動したほうが……!」
わたしが呆然として右手を宙に泳がしながら叫ぶ声に答えることなく、ゆりかごさんの背中は薄暗い校舎の中へと消えていった。
ぽつん……と、
わたしは怪しげな厚い雲が渦巻く正門前に取り残された。
「ど……どうしよう……」
つぶやきに合わせるかのように、生温かな風が吹き過ぎる。
『学園長室へと向かう』
『ゆりかごさんを追いかける』
選択肢が、頭に浮かんだ。
学園長さんのところ、つまり、小百合さんのところへ行けって、ゆりかごさんは言っていた。
義理のではあるけど、小百合さんはわたしのお母さんだから、そちらへ向かう役目を任せられたのだろう。
だけど小百合さん、学園に来てるのかな。
いろいろと外での仕事もあるのか、日によってまちまちみたいだけど……。
このところ早めに家を出るようになって朝は顔を合わせないから、今日の予定がどうなっているのか、わたしにはわからなかった。
じゃあ、無駄足になるかもしれないよね?
それなら確実に誰か先生がいそうな職員室のほうに、ゆりかごさんと一緒に行くべきなのかな……?
わたしが頭を悩ませていると、大きな怒鳴り声が頭の中に響き渡った。
――なにやってるのよ! ゆりかごさん、手分けしたほうがいいって判断したんだと思うわよ? 彼女の行動を、無駄にする気!?
ひっ!
いきなりの大声に、わたしは首をすくめる。
そのせいで、選択肢は頭の中から消えてしまったみたいだけど。
ともあれ、確かにそよぎさんの言うとおりだ。
「そうね。小百合さんのところへ、急ぎましょう! いなかったら、そのときにまた考えればいいのよ!」
わたしは大きく声を上げ、学園長室を目指して走り出した。
☆☆☆☆☆
学園長室は校舎の中にあるわけじゃなく、藤の館と呼ばれる建物の中にある。
藤の館は、小百合さんの館と言っても過言ではない。
館の中にあるのは、学園長室とお客様用のティールームくらいで、他には小さな物置部屋が存在する程度だった。
レンガ造りで趣のあるたたずまい。
その館の大きな扉を、わたしは力いっぱい引き開ける。
カギはかかっていなかった。
館は二階建て。ティールームが一階にあり、学園長室は二階にある。
普通の生徒だと、学園長室に用事があることは、ほとんどないだろうけど。
わたしの場合、名字を偽ってはいるものの母と子の関係だからか、何度か呼びつけられたことがあった。
だから少しは慣れていのだる。
階段を駆け上がったわたしは、ノックするのも忘れて、学園長室の扉を開け放つ。
ここの扉も、わたしを拒絶することなく、すんなりと開いた。
すかさずわたしは大声を張り上げる。
「小百合さん! 学園内が、大変なことに……!」
そんなわたしの声は、無人の学園長室の中に空しく響くだけだった。