幸せにしますよ
丘を下る前に、繭はいつもの少年のような装いから、仮初の花嫁衣装に身を包んだ。
たくさんの人に惜しんでもらった。
何もわからない、知らない繭にたくさんの人が良くしてくれた。
だから、それで充分だ。
南概という土地は、広い。
どんな荒地かと思えば、繭の目の前に広がったのは広大な牧草地。のんびりと家畜が草を食み、農夫たちが脇の畑で作業をしている。
そんな田舎道を抜けると、石畳に舗装された街が開ける。
どちらかというと、西洋風の石造りの建物が立ち並び、街の奥には城塞らしい高い塀が見える。
繭は街に入る前に窓を閉めてカーテンを引いてしまったので、街の様子はうかがい知ることはできなかったが、馬の蹄の音と共に、時折活気のある人のざわめきが聞こえた。
羅心がよく土地を治める領主だと言っていたのは伊達ではないらしい。
しばらく馬車を進め、繭が外から朋来に声をかけられてカーテンを開けると、すでに城の車止めの辺りだった。
薄暗い城塞の車止めに馬と、馬車を止め、繭は朋来の手を借りて馬車を降りる。
いつもなら繭が一人で飛び降りるのに。そう思うと繭は今の状況が少し恥ずかしくなった。
けれど、そんなことを吹き飛ばすように、顔をあげて驚いた。
「お待ちいたしておりました。マユさま」
薄暗い出入り口に官服に良く似た着物の老人が立っている。その先には、ずらりと女も男も、肩の凝りそうな礼をとったまま待ち構えているのだ。繭は思わず引き返したくなって、朋来の外套の端を握った。
けれど、いつもであれば甘やかしてくれる朋来は笑顔はいつものままに、甘やかすように繭を老人の前へと連れていく。
繭は困惑のまま老人に挨拶すると、彼はまるで神様にでも会ったような面持ちで繭に頭を下げてしまった。
「この日をまことに嬉しく存じます。この爺、どれほど待ちわびたことか」
思いもよらない歓迎に複雑な心境のまま、繭は城の中へと招き入れられた。
城の中はどこも天井が高く、王宮とはまた違う。王宮は繭にも親しみやすい木の家屋が多かったが、ここはほとんどが石造りで武骨だ。しかし内装は柔らかな色合いに整えられていて、過ごしやすいようにも見えた。
ところどころにある箪笥や椅子が瀟洒で、思わず触ってみたくなるようなものばかりだったからかもしれない。
繭は老人に連れられ、礼をとってはいるが興味津津に繭を眺める人々の間を抜けてそれほど遠くない明るい部屋へと招かれた。一面がガラス張りのその部屋は、車止めの薄暗さが嘘のように明るく、窓の外には温かな光を浴びた庭が広がっている。部屋にはソファにサイドテーブルといった、西洋風のものばかり。そういえば、戸口は古めかしいドアだ。
「―――朋来と慶諾は?」
「あの者たちは部屋の前にて待機させてあります」
暗に、この部屋から出ないよう告げて、老人は部屋から辞していった。
何でも来い、ととうとうここまで来てしまった。
けれど、と繭は今更ながらに不安になった。
いくら羅心が誉めるような統治者でも、繭とっては二の次だ。
年は若いのか。少なくとも年上だろうが不細工だろうが、ハゲとデブは嫌だ。でも、デブは痩せさせればいいし、ハゲは見慣れれば可愛く見えないこともない。ただ、繭を望んだというのだから、優しい人であればいいと思う。
「―――マユさま、お館さまがお見えになりました」
さきほど部屋を出ていった老人の声だ。
ドアノブが回る。
ハゲか、デブか。
繭はマナーの先生直伝の礼を取って頭を下げた。
誰かが、部屋へと入る気配がしたかと思えば、それはすぐに繭の前へとやってきた。
思っていたよりも若いのかもしれない。
繭は目の前の足先をじっと見つめた。
「顔を、上げなさい」
若い。
しかも低くてとても心地良い声。
繭は、恐る恐る視線を上げた。
造りのいい腰帯に剣を帯びてはいない。
仕立てのいい着物からはお日さまの匂いがする。今まで外に居たのだろうか。
それに繭より背が高い。それが分かったのは首元まで見上げた時。
ようやく視線が顔に行きついて、繭は口を開けた。
「―――明即?」
薄い唇、白い顔。平凡だと思っていたのに、明るい光の元で見ると繭を見下ろす顔はひどく整っていることが分かった。官服ではない着物だからか長かったらしい髪を肩口で緩く結わえている。そして、酷薄な紫の瞳を細めたかと思うと、嬉しそうに笑う。
「どうして?」
繭は確かに明即だった男を見つめながら、混乱する頭の中に振り回されていた。
どうして、ここに明即が居るのか。
―――どうして、彼がひどくあの男と似ているのか。
繭の混乱を面白がるように明即は笑い、「ああ」と肯いた。
「そうですよ。私は、この国の王、崇鵬によく似ているでしょう?」
似ている。
まるで、
「私は、あれの兄です」
いよいよ繭は声が出なくて、口をぱくぱくさせた。
それが面白いのか、明即は笑みを深める。
「要は、二重間諜というやつです」
王に敵対する大臣の懐に潜り込み、実は王へと情報を流していたという。
「けれど、まさかあなたのような方を召喚するとは思いもしませんでしたが」
そう言って、明即は繭をソファへ座るように促した。
操り人形のようにソファへ座りこんでしまった繭の手を取って、明即は優しく微笑む。
「あなたには不幸以外の何物でもなかったでしょうが、そのお陰であなたと出会えたわけですけれどね」
私腹を肥やす大臣にも感謝しなくては、と明即はうそぶき、のんびりと目を閉じた。
「崇鵬とは腹違いの兄弟でしてね。あれは正妻、私は妾の子です。だから、早々に継承権を放棄し、私はこの辺境の領地を賜り、田舎領主として表向きは暮らしていました。弟が即位してからは、あれやこれやと中央では出来ない仕事を個人的に引き受けていたのですがね」
その一環が、書庫での官吏と大臣の間諜だと。繭が怨みがましいような気分で見上げると、何故か嬉しそうな顔で明即は笑う。
「あれは、馬鹿でしょう?」
明即があれ、と呼ぶのは今のところ一人しか繭には思いつかない。
どう答えたものかと繭が口ごもると、明即は改めて「馬鹿で結構なのですよ」と言った。
「実直で、真面目だけが取り柄の男ですからね。詰まらない男ですよ。―――このまま放っておけば、おそらく国を傾けることでしょう」
繭はぎょっとして明即を見た。彼はおや、と天気でも予想するような顔で続ける。
「あれはね、即位してから政敵への逆襲に関心を傾け過ぎていて、自分以外のほとんどは馬鹿だと思っているのですよ。だから、女神を召喚しようと言った大臣たちの目は節穴ではなかったというわけです」
ある意味で、国の危機だ。
誰かが言ってやらなければならない。
あなたの足元に、目を向けてはどうかと。
その役を、繭は知らない間に押し付けられていたらしい。
今更ながらに、背中が寒くなる。一歩間違えれば、繭は不興を買って殺されていた。
「でも召喚されたあなたは実にうまく自分の身を守った」
明即は繭の不安を覗き見るように、紫の瞳に繭を映す。
「けれど、あのままでは近いうちにあなたが厄介払いされることは目に見えていました」
だから、明即は今までの功績を引きかえに、繭を引き取った。
でも、と繭は思う。
繭も、明即と同じ未来を見ていた。遠くない日に、繭はどこか遠くの地へとやられるか、最悪死ぬことになるだろう。馬鹿な娘のふりをすると決めた時に、覚悟したことだ。
けれど、繭はまだ生きている。
これからは、明即の機嫌をうかがって生きなければならないのか。
そう思うと、気が重い。
「―――何か、思い違いをしていませんか」
長い指が繭の頬を撫でた。思わぬことに驚いて繭が顔を上げると、笑っていない明即が居た。
「あなたは、厄介払いされたのですよ。あれに」
低い声に、繭は少し息を呑む。まさか、花嫁衣装も持たされていないことを明即が知っているとは思えない。思えないが、明即に関しては繭の知らないことは多過ぎる。
「そして、あなたは私の妻になる」
そんな話もあったかもしれない。
「でも、それって口実でしょ?」
近い明即の顔に視線を彷徨わせながら、繭は自分のペースを掴もうと必死に口を動かした。
すると、明即はふっと笑ったかと思うと、突然繭の肩に額をつけて、
「あっはっはっはっはっは!」
「ちょっと!」
笑いだした明即を抗議のために繭が押しのけると、明即は煩わしいとでも言うように繭のベールを取り払ってしまう。
「小賢しい真似を」
明即はベールをソファに投げだして吐き捨てるように言うので、
「返してよ!」
取り返そうと繭が身を乗り出すと、明即は繭を抱き締めることで押しとどめた。
繭と明即とは仲が良かったと思っている。
けれど、こんな風に密着することなど無かった。
触れても肩が触れ合う程度。手さえ繋いだことがないというのに。
繭は思いがけない広くて硬い胸に驚いて、息を詰まらせた。
「あれは、本当に馬鹿だ。あなたを知らないなんて」
耳元でささやかれ、繭はびくりと肩を震わせる。そんな様子が気に入ったのか、明即は優しく、しかし頑として繭を自分の胸に抱きこんだ。
「本当はね、私なのですよ。あれの敵は」
睦言をささやくように、明即は繭の耳に思いもかけないことを注いで笑う。そんな彼が信じられなくて、繭は恥を忘れて明即を見つめる。
「少し前に、戦が起こったことをご存じですね。あれは大臣が敵国と結んで行ったのですがね、その橋渡しは私がやりました。こんな国、いっそ滅んでしまえばいいと思いましてね」
嫌気が差していたという。
妾であることを嘆いて死んだ母にも、彼女を疎んで最期には寄せ付けもしなかった父王にも、その父にそっくりな、他人の心に疎い弟にも。
「弟は私のこんな正体に薄々気付いているのでしょう。先の戦では酷い前線に送られましてね。生き延びて帰ったら予想以上に驚かれましたよ」
自領に帰れば今度は何をしでかすか分からない。だから、大臣を監視するという名目で書庫に留め置かれた。
「でも、あなたに出会った」
明即は、嘘か本当かわからないいつもの笑顔で繭を見つめる。
「あなた、自分がどれだけ可愛いか知らないでしょう?」
知るわけがない。
繭はいつでも、背が高いだけの平凡な十七歳だ。
首を横に振ると、明即はそんな繭の頬を自分の大きな手の平で包んでしまう。
「いいんですよ。知らなくて。私はあなたに救われた。私の大事な女神さま」
女神さまなんて。
そんなことも言われたことがない。
どうしたらいいのかも分からない繭に向かって明即はささやく。
「マユ」
思えば、名前なんて明即から呼ばれたことがない。いつだってお嬢様やお姫様。
混乱して明即の瞳を見上げてみれば、紫の瞳の奥が激しく燃えている。
「愛しています。どうか、私と共に生きてください」
彼は、繭がまだ十七歳だということを分かっているのだろうか。
年上の男からの情熱的過ぎる言葉に、繭は眩暈を覚えた。
けれど、次のセリフで繭の気分は急降下する。
「あなたが居なければ、また国を滅ぼしてしまいたくなりそうです」
こんな物騒な愛の告白なんて欲しくはなかった。
幾らなんでもあんまりだ。
明即は、繭を溶かすように甘く甘く微笑んだ。
「幸せにしますよ?」
繭は、何を言うべきか迷ったが、思わずカッと頭に上った言葉を叫んだ。
「この、ロリコン!」
悪態をついて、繭はやっと何かを手に入れたような気分になった。
だって、彼は繭を裏切らない。
たとえ裏切ったとしても、今ここに、きっと形のないものがあると、繭に信じさせてくれたのだから。
物語ではいつも天界に帰ってしまう女神さま。
けれど、彼の女神さまは彼の傍らに。
女神さま、おちた。