日曜日のポトフ
日常は、いつも同じ形をしているようでいて、少しずつ輪郭が変わっていく。
土曜の夜十一時、玄関の鍵を差し込む前に、彼女は指先を鼻に近づけた。
煙草の匂いがした。それから、別の香水。自分のものではない石鹸の匂いも、
袖口にかすかに残っている。
洗濯機に入れてしまえば済むことだった。
「お帰り」
夫は炬燵でテレビを見ていた。競馬中継の再放送だった。
「遅くなってごめんね。飲み会、田村さんの送別会だから断れなくて」
「いいよ。疲れただろ。風呂、沸いてるから」
「ありがとう」
彼女は鞄を椅子にかけ、冷蔵庫を開けた。
明日のポトフに使う人参と玉ねぎとセロリが、野菜室に並んでいる。
日曜の昼には、夫の両親が来る。
義母は薄味を好む。だからコンソメはいつもの半分。
塩は最後に少しだけ。じゃがいもは煮崩れないよう、
火を弱める時間も決めてある。
彼女は、そういうことを忘れたことがなかった。
浴室で服を脱ぐとき、鏡に映った背中を少しだけ見た。
特に何も感じなかった。
罪悪感というのは、思っていたよりずっと小さな感情だった。
財布の底に紛れた小銭のように、ときどき存在を思い出すだけでいい。
取り出して数える必要もない。
風呂から上がると、夫がココアを作ってくれていた。
「今日、課長に褒められたよ。俺の企画書」
「良かったじゃない」
彼女はカップを受け取った。
「今度は係長かもね」
夫は照れたように笑った。
この笑い方を、彼女は十二年間見てきた。
最初は愛おしかった。
今は、愛おしいという言葉の輪郭が少しぼやけている。
けれど、彼女は夫の肩に手を置いた。
「頑張ってるもんね」
夫は嬉しそうに頷いた。
嘘ではなかった。
夫が頑張っていることは、彼女も知っていた。
寝室の電気を消す前に、スマートフォンが短く震えた。
画面には、
『今日はありがとう。また』
とだけ表示されていた。
彼女は通知を消し、スマートフォンを伏せた。
明日、夫が買い物に出ている間に返せばいい。
「おやすみ」
「うん。おやすみ」
夫はすぐに寝息を立て始めた。
彼女は暗い天井を見ながら、明日のポトフのことを考えた。
人参は乱切り。
セロリの筋は取る。
義母は薄味。
それから、じゃがいもを入れる順番。
頭の中で手順を一度だけ確かめると、彼女も目を閉じた。
*
翌朝、彼女はいつもより少し早く起きた。
夫はまだ眠っていた。
台所に立ち、包丁を握る。
まな板の上で、人参を切る。
とん。
とん。
とん。
均等な大きさになるように切っていく。
玉ねぎの皮を剥き、セロリの筋を取る。
鍋に水を張り、火をつける。
そのとき、スマートフォンがまた震えた。
彼女は一度だけ画面を見た。
何も言わず、裏返した。
鍋の中で、湯が静かに揺れ始める。
*
昼前には、家の中にポトフの匂いが満ちていた。
義父が玄関で靴を脱ぎ、義母が台所を覗き込んだ。
「まあ、おいしそう」
「薄味にしてありますから」
「そうそう。私、濃い味が苦手だから」
「知ってます」
彼女は笑った。
食卓を囲むと、義母は一口スープを飲み、それから夫を見た。
「本当にいい奥さんをもらったね」
夫は少し照れながら、誇らしげに頷いた。
「うん」
彼女は何も言わず、スープを口にした。
少しだけ薄かった。
塩を取り、ほんのひとつまみ落とす。
「どう?」
夫が訊いた。
彼女はもう一度、スープを飲んだ。
「ちょうどいい」
そう言って、鍋の蓋を閉めた。
ちょうどいい塩梅というものを、彼女は誰よりもよく知っていた。
夫が幸せだと思える程度に。
義母が良い嫁だと思える程度に。
自分の暮らしを壊さずにいられる程度に。
そして、誰にも気づかれない程度に。
日曜日の昼は、何事もなく過ぎていった。
読んでくださり感謝です。




