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日曜日のポトフ

掲載日:2026/09/04

日常は、いつも同じ形をしているようでいて、少しずつ輪郭が変わっていく。


土曜の夜十一時、玄関の鍵を差し込む前に、彼女は指先を鼻に近づけた。


煙草の匂いがした。それから、別の香水。自分のものではない石鹸の匂いも、

袖口にかすかに残っている。


洗濯機に入れてしまえば済むことだった。


「お帰り」


夫は炬燵でテレビを見ていた。競馬中継の再放送だった。


「遅くなってごめんね。飲み会、田村さんの送別会だから断れなくて」


「いいよ。疲れただろ。風呂、沸いてるから」


「ありがとう」


彼女は鞄を椅子にかけ、冷蔵庫を開けた。


明日のポトフに使う人参と玉ねぎとセロリが、野菜室に並んでいる。


日曜の昼には、夫の両親が来る。


義母は薄味を好む。だからコンソメはいつもの半分。

塩は最後に少しだけ。じゃがいもは煮崩れないよう、

火を弱める時間も決めてある。


彼女は、そういうことを忘れたことがなかった。


浴室で服を脱ぐとき、鏡に映った背中を少しだけ見た。


特に何も感じなかった。


罪悪感というのは、思っていたよりずっと小さな感情だった。


財布の底に紛れた小銭のように、ときどき存在を思い出すだけでいい。

取り出して数える必要もない。


風呂から上がると、夫がココアを作ってくれていた。


「今日、課長に褒められたよ。俺の企画書」


「良かったじゃない」


彼女はカップを受け取った。


「今度は係長かもね」


夫は照れたように笑った。


この笑い方を、彼女は十二年間見てきた。


最初は愛おしかった。


今は、愛おしいという言葉の輪郭が少しぼやけている。


けれど、彼女は夫の肩に手を置いた。


「頑張ってるもんね」


夫は嬉しそうに頷いた。


嘘ではなかった。


夫が頑張っていることは、彼女も知っていた。


寝室の電気を消す前に、スマートフォンが短く震えた。


画面には、


『今日はありがとう。また』


とだけ表示されていた。


彼女は通知を消し、スマートフォンを伏せた。


明日、夫が買い物に出ている間に返せばいい。


「おやすみ」


「うん。おやすみ」


夫はすぐに寝息を立て始めた。


彼女は暗い天井を見ながら、明日のポトフのことを考えた。


人参は乱切り。


セロリの筋は取る。


義母は薄味。


それから、じゃがいもを入れる順番。


頭の中で手順を一度だけ確かめると、彼女も目を閉じた。


*


翌朝、彼女はいつもより少し早く起きた。


夫はまだ眠っていた。


台所に立ち、包丁を握る。


まな板の上で、人参を切る。


とん。


とん。


とん。


均等な大きさになるように切っていく。


玉ねぎの皮を剥き、セロリの筋を取る。


鍋に水を張り、火をつける。


そのとき、スマートフォンがまた震えた。


彼女は一度だけ画面を見た。


何も言わず、裏返した。


鍋の中で、湯が静かに揺れ始める。


*


昼前には、家の中にポトフの匂いが満ちていた。


義父が玄関で靴を脱ぎ、義母が台所を覗き込んだ。


「まあ、おいしそう」


「薄味にしてありますから」


「そうそう。私、濃い味が苦手だから」


「知ってます」


彼女は笑った。


食卓を囲むと、義母は一口スープを飲み、それから夫を見た。


「本当にいい奥さんをもらったね」


夫は少し照れながら、誇らしげに頷いた。


「うん」


彼女は何も言わず、スープを口にした。


少しだけ薄かった。


塩を取り、ほんのひとつまみ落とす。


「どう?」


夫が訊いた。


彼女はもう一度、スープを飲んだ。


「ちょうどいい」


そう言って、鍋の蓋を閉めた。


ちょうどいい塩梅というものを、彼女は誰よりもよく知っていた。


夫が幸せだと思える程度に。


義母が良い嫁だと思える程度に。


自分の暮らしを壊さずにいられる程度に。


そして、誰にも気づかれない程度に。


日曜日の昼は、何事もなく過ぎていった。


読んでくださり感謝です。

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