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idea note 13

作者: 戸倉谷一活
掲載日:2026/08/10

 ジンギス・カン

 ジンギス・ハン

 チンギス・カン

 チンギス・ハン

 何が正解なのでしょうか?

 七月末、「史的な夜話」の「おまけ五」にて少しだけモンゴル帝国に触れましたが、その時にふと源義経がチンギス・カンと同一人物では無いか、その様な説があったことを思い出しました。

 さすがに無理があるだろうと思いつつも気になりましてWikipediaで調べますと面白いことに「義経=ジンギスカン説」と言うページを見付けまして驚きと感心が入り乱れました。しかも「両者の年表」と言うのがあり、ジンギス・カンの年表が空白な時期、義経には動きがあって、その逆もあったりで微妙に頷きたくもなりました。

 例えば「転生したらスライムだった件」の「大賢者=シエル」のような超越した存在、神のような助言する存在が居て、義経とチンギス・カンの間を行ったり来たりしながら助言を与えていたとか、そう言う事を考えてみました。

 残念ながら義経とは相性が合わず、残念な結果に至ったとか、そう言う流れでしょうか。

 もう一つ、現実的に考えると生身の人間で軍師的な人が両者の間を行き来した、どちらにしても義経を失うことになり、モンゴルでチンギス・カンの軍師に専念するという物語も思い付きます。

 他に義経の魂がチンギス・カンの耳元で助言を続けると言うのも思い付きました。


 義経にも記録が皆無な時期があり、どこで何をしていたのか、それこそ大陸に渡っていたと言われても信じてしまうかもしれません。


 義経は文治五(一一八九)年閏四月三十日に衣川の館で討たれたと言われています。しかし、鎌倉に居る頼朝に第一報が届いたのは五月二十二日だそうです。

 これだけの時間があれば義経は遠くへ逃げることは出来るでしょうし、奥州藤原氏が義経を惜しんで逃した可能性はあります。

 試しにGoogle mapsで調べたのですが、義経が討たれたと言われる衣川館から鎌倉幕府の御所までは約四八一キロ、徒歩ですと百十一時間かかるそうです。

 当然、当時の人も急ぎの知らせだと馬を使ったでしょうし、半分ぐらいの時間で鎌倉へ伝えることは出来たでしょう。

 義経の死を伝えるのに二十二日も必要だった理由は一体何だったのでしょうか。

 結局、義経の首実検は六月十三日に行われ、和田義盛と梶原景時が立ち会ったそうです。しかし、夏のことですし、酒に漬けられた義経の首、腐敗が進んで本人の確認が出来たか否か、普通に考えて無理だったでしょうね。

 義経の首実検が遅くなった理由ですが、六月九日に鶴岡八幡宮で行事の予定が入っていたそうでそれよりも前に首実検は行えなかったそうです。

 仮に義経が衣川館から落ち延びたとしてどこへ行ったのでしょうか。

 伝説と同じく大陸まで行ったのか、そして著名な武将として生きたのでしょうか。それとも今の青森県辺りか、北海道まで渡って静かな余生を過ごしたのでしょうか。


 「史的な夜話」の二十六回目で取り上げた細川政元ですが、この人は当時としては変わり者だったそうで結婚もせず、独身を貫いたそうです。

 しかし、細川家の嫡流ですから後継者を用意する必要があります。そこで公家の九条家から子供を迎えることになります。これが後の澄之です。

 政元は澄之と仲が良くなかったとか、そういう話もありまして細川家の分家から澄元、高国を養子に迎えていました。そして政元が後継者を決めないまま暗殺され、まず澄之と澄元が争います。この時、高国は澄元を応援しますが、澄之がいなくなると今度は澄元と高国が争うことになります。

 最近まで細川政元に関心を持ったことも無かったので政元が養子三人を迎えて結局、誰に家を継がせるか、何も決めていなかったと知った時、私は上杉謙信を思い出していました。

 時間で言えば政元が先で謙信が後になりますし、謙信は政元の失敗を知らなかったのでしょうか?

 政元は永正四(一五〇七)年六月二十三日に亡くなっていますが、謙信は享禄三(一五三〇)年一月二十一日に生まれています。

 謙信は小田原北条氏から景虎、甥っ子の景勝、他に畠山家出身の義春、村上家出身の国清を養子に迎えています。そうは言っても義春は上条家を継ぎ、国清は山浦家を継いでいたので謙信の後継者候補から外れており、景虎と景勝が上杉家の家督を巡って争ってはいます。

 二十三年掛けて政元が謙信へ転生し、前世で妻帯しなかったこと、養子を三人迎えたことなどはどうにか覚えていて繰り返した、そういう話を思い付きました。

 政元が独身を通したのは修験道を極めようとし、天狗になろうとしたとも言われています。

 謙信は毘沙門天を深く信仰していたのは有名な話、旗にも「毘」の字を染め抜いていました。

 後継者を決めずに世を去ったという点では足利義持も変わりません。

 幸いにして残された家臣団が籤引きで後継者を選んだのでもめることはありませんでしたが、義持は後々もめるとか、考えなかったのでしょうか。それとも「征夷大将軍なんて、どうでもいいや」みたいな感情でも持っていたのでしょうか。

 義持にしてみれば義量という、大事な後継者が自分より先に逝き、意気消沈していたのかもしれません。

 例えば鎌倉幕府ですと頼朝、頼家、実朝の後は公家や皇室から将軍を迎えています。同じようになんとかする、なんとかしてくれると思っていたのかもしれませんが、この時に義持が何を考えていたのか、その点は気になります。


 義持の話はここで区切りますが、「義経=チンギス・カン説」と政元、謙信の妙な共通点はいつか、題材にしてみたいですが、今の時点では何も思い付いていません。

 もし思い付いた方がいたら替わりに書いて下さい。

 異世界転生や異世界転移、アニメで観たり、漫画で読む分には違和感とかないのですが、自分で書けるかって言われると「?」となります。

  どなたか、義経が転生もしくは転移してジンギス・ハンになる話を書いて下さい。

 お願い致します。

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