算段の傷
卑劣な罠からリアナを庇うギルベルトのお話。
王都の郊外にある広大な軍事演習場。
その日、リアナたち前線部隊は、実戦を想定した森林地帯での障害物走訓練を行っていた。
優秀で美しく、若き将官ギルベルトからの信頼も厚いリアナ。彼女を妬ましく思う視線が、部隊の中にいくつか混じっていることは、ギルベルトもとうに気付いていた。
(……浅はかなことだ)
視察席から冷ややかな翠の瞳で訓練を見下ろしていたギルベルトは、ふと微かな違和感を覚えた。
リアナが駆け抜けようとしているルートの先。古い大木に仕掛けられたダミーの標的の根元に、本来の訓練にはない、鋭利に光る『罠』のワイヤーが張られているのを見逃さなかった。
仕掛けたのは、先ほどからリアナを憎々しげに睨んでいた別部隊の女性騎士だろう。
リアナの足がワイヤーに引っかかれば、頭上から刃を備えた重い丸太が落下してくる。
「っ……!」
気づいた瞬間、ギルベルトの身体は思考より先に動いていた。
視察席から飛び降り、地を蹴る。
「えっ……? 閣下……!?」
頭上から降ってくる殺意に気付き、リアナが足を止めて見上げたその時。
強風と共に現れた黒い軍服の影が、彼女の体を力強く抱き寄せ、その場に伏せさせた。
直後、鈍い破壊音と、肉を裂くような生々しい音が響き渡る。
「……くっ」
「閣下!!」
土煙が晴れた後、リアナの目に飛び込んできたのは、彼女を庇うように覆い被さるギルベルトの姿だった。
彼が咄嗟に片腕で防いだ丸太の刃は、彼の軍服を無惨に引き裂き、肩から二の腕にかけて深い裂傷を負わせていた。鮮血が溢れ出し、純白のシャツを瞬く間に赤く染めていく。
「あ、ああ……!閣下……血がっ!……すぐに軍医を……!」
血の気を引かせ、パニックに陥りかけるリアナ。
しかし、彼女を抱きしめるギルベルトの腕は微塵も揺らがず、その声音は恐ろしいほどに静かで、甘かった。
「……落ち着け、リアナ。私は無事だ」
「で、ですが、そんなに血が……!」
「お前に傷がつかなかったのなら、安いものだ」
至近距離で囁かれた言葉に、リアナは息を呑む。
ギルベルトはゆっくりと身を起こすと、周囲の喧噪を遮断するように、リアナの耳元にそっと顔を寄せた。
「……それより。また、お前に治療を頼めるだろうか」
「え……?」
「あの時と同じように……お前のテントで、二人きりで。他の誰にも、触れられたくないんだ」
吐息がかかるほどの距離で落とされた、内緒話のような甘い声。
以前、拷問の傷を手当てした時の、熱を帯びた彼の姿と吐息がリアナの脳裏にフラッシュバックする。
一瞬にして、リアナの顔は耳の先まで林檎のように真っ赤に染まった。
「あ、あ、あの……っ、わ、分かりました……っ! すぐに、準備を……!」
狼狽えながらも必死に頷き、彼の体を支えようとする愛らしい部下。
(……ああ、本当に可愛い)
その初々しい反応に、ギルベルトは内心でひっそりと、極上の甘い笑みを浮かべた。自らの血と痛みを対価にしても余りある、最高の見返りだ。彼女はすっかり、彼が用意した甘い檻の中に囚われつつある。
しかし、リアナから顔を逸らした瞬間。
ギルベルトの翠の瞳から、一切の熱と感情が消え失せた。
絶対零度の視線が向かった先は、訓練場の隅で顔面を蒼白にして震えている、罠を仕掛けた女性騎士。
(俺の愛しい番犬に、泥を塗ろうとした罪……)
その代償がどれほど重く、そして残酷なものになるか。
腕の中で震える愛しい熱を抱き込みながら、氷の将官は誰にも気付かれぬよう、冷酷な断罪のシナリオを頭の中で完璧に組み上げていた。
………
リアナの天幕には、微かな血の匂いと、ピリッとした強い消毒薬の香りが漂っていた。
「……閣下、服を脱がせます。少し傷口に触れるかもしれません」
リアナの声は上ずり、伸ばした指先は微かに震えていた。
血に染まった上着とシャツを慎重に剥ぎ取ると、ギルベルトの滑らかな白い肌を斜めに引き裂く、痛々しい深い裂傷が露わになる。先ほど彼がリアナを庇って受けた、丸太の刃による傷だ。
「……ひどい。こんなに深く……っ」
「案ずるな。見た目ほど痛んでは……くっ」
強がるギルベルトの言葉を遮るように、リアナが傷口に消毒の薬液を染み込ませた布を当てた瞬間だった。
「っ……、う、ぐ……!」
ギルベルトの鍛え抜かれた体がビクンと大きく跳ね、喉の奥から獣のような低い呻き声が漏れ出た。
シーツを掴む彼の手の甲には青筋が浮かび上がり、引き締まった腹筋が苦悶の呼吸に合わせて激しく上下する。額からは冷や汗が吹き出し、普段の冷徹な彼からは想像もつかないほど、痛みに耐えかねて喘いでいた。
「か、閣下! 申し訳ありません、麻酔がまだ十分に効いていなくて……!」
「……っ、ふ、ぅ……構わ、ない……。続けて、くれ……っ」
荒い息を吐きながら、ギルベルトは熱を帯びた翠の瞳でリアナを見上げた。
苦痛に歪んだ端正な顔立ち。
汗に濡れた前髪の隙間から覗く、切なげで弱々しい視線。そして、傷の熱のせいで火照った、圧倒的な雄の色気。
(っ……だめ、直視できない……!)
リアナの顔は瞬く間に沸騰したように真っ赤に染まった。
手当てをしなければいけないのに、彼の吐息が聞こえるたびに心臓が壊れそうなほど早鐘を打ち、手元が狂いそうになる。
「……リアナ?」
縫合の準備のために震える手で針に糸を通そうとする彼女を見て、ギルベルトが掠れた声で小さく呼んだ。
「顔が、赤い……。すまない、血を見るのは慣れているだろうが……私のこんな無様な姿を見せて、気分を害しただろうか」
「そ、そんなことありません! 閣下が私を庇ってくださったのに……っ、ただ、その……」
『閣下が色っぽすぎて直視できないんです』などと言えるはずもない。
リアナはさらに顔を赤くして俯き、必死にごまかすように縫合の処置に取り掛かった。
「……痛みますよ。少し、我慢してください」
「ああ……っ、ん、んん……ッ!」
針が肉を貫くたび、ギルベルトの口から甘い苦悶の声が漏れる。
その度にリアナの肩はビクッと跳ね、耳の先まで朱に染めながら、泣きそうな顔で手当てを続けた。
――しかし。
痛みに身悶え、愛しい部下を気遣うような言葉を口にしながらも。ギルベルトの内側では、全く別の感情がどす黒く、そして甘く渦巻いていた。
(……ああ、良い顔だ)
伏せられたリアナの赤い頬と、自分に向けられる焦燥と熱の混じった視線。
それは上官に対する単なる忠誠心や、怪我人への同情などではない。明確に『男』として意識し、動揺している証拠だった。
(あの程度の罠、私一人なら避けることも容易かったが……あえて受けて正解だったな)
傷の痛みなど、彼にとってはとうに計算の内だ。
むしろ、この程度の痛みでお前がここまで翻弄され、真っ赤になって震えてくれるのなら、何度でも肉を裂いてみせよう。
「……っ、はぁ……リアナ、お前の手は……温かいな……」
「か、閣下っ、喋らないでください! 熱が上がってしまいます……!」
「……心配を、かけて……すまない……」
わざと掠れさせた声で囁き、彼女の動揺をさらに煽る。
真っ赤になってパニックを起こしかけている彼女の姿を特等席で堪能しながら、氷の将官は内心でひっそりと、極上の笑みを浮かべていた。
もはや、彼女が彼の腕の中から逃げ出すことなど不可能だ。
この甘く赤い檻の扉は、彼自身の流した血によって、とうの昔に固く閉ざされているのだから。
ありがとうございました!




