5.悪意の胡蝶蘭
5.悪意の胡蝶蘭
「第710条、不法行為による損害賠償。及び貸金業法21条、取り立て行為の規制。……阿久津さん、これ以上来るなら警察に行きますよ?」
都心のタワーマンション、25階。 デザイナーズ家具で統一されたリビングで、エリート商社マンの佐久間は、勝ち誇った顔でスマホの録音アプリを起動していた。
彼は「賢い」債務者だ。 ネットで仕入れた知識と、学生時代の法学部の友人の入れ知恵で、阿久津の取り立てを「違法行為」として封じ込めようとしている。
「暴力も、大声も、張り紙もダメだ。あんたができることは何もない。弁護士が入るまで、帰ってください」
佐久間はコーヒーを啜った。優雅だ。借りた三百万円で買った高級エスプレッソマシンの味だ。 対する阿久津は、玄関先で靴も脱がずに立っていた。怒るわけでもなく、困ったように眉を下げている。
「佐久間さん、法律ってのは素晴らしいね。弱者を守る盾だ。……でもさ、盾ってのは『正面からの攻撃』しか防げないって知ってる?」
「は? 負け惜しみですか?」
「いやいや、感心してるんだよ。じゃあ、今日は帰ります。法治国家万歳」
阿久津はあっさりと引き下がった。 佐久間は鼻で笑い、ドアを閉めた。「勝った」と思った。
異変が起きたのは、翌日の午後だった。
佐久間の会社に、大量の荷物が届いた。 **『祝・佐久間様 ご昇進(予定)祝い』と書かれた、豪華な胡蝶蘭のスタンド花だ。それが十基。オフィスの入り口を埋め尽くした。 差出人は「全国風俗産業組合」「歌舞伎町ホストクラブ連合会」「闇金融被害者の会」など、架空かつ胡散臭い団体名ばかり。
「な、なんだこれは!?」
上司や同僚がざわつく中、佐久間のスマホが鳴った。非通知だ。
『お花、届いた? 佐久間さん、法律詳しくてすごいからさ、きっと出世すると思って先にお祝い贈っといたよ』
阿久津の声だ。
「き、貴様! これは業務妨害だ! 名誉毀損だ!」
『ええ? 善意の贈り物だよ? 法律のどこに「花を贈ってはいけない」なんて書いてあるの?』
電話の向こうで、クスクスという笑い声が聞こえる。
『あ、そうそう。君のマンションの隣人さんにも挨拶しといたよ。君が「性病の研究家」だって紹介したら、みんな興味津々だったなあ。エレベーターで会ったらよろしく言っておいて』
「な……何を……!?」
『嘘は言ってないよ。君、よく風俗行ってるじゃん。研究熱心だよねえ』
その日の夜。 佐久間がマンションに帰ると、エントランスで住民たちがヒソヒソと彼を見て、蜘蛛の子を散らすように避けていった。 ポストには、性病クリニックのパンフレットや、アダルトグッズのカタログが山のようにねじ込まれている。
法律は「取り立て」を禁じているが、「善意の贈り物」や「近隣との友好」までは禁止していない。阿久津は法の網の目を潜るのではなく、法の外側にある「世間体」という急所を刺したのだ。
翌朝。 阿久津の事務所のドアを、髪を振り乱した佐久間が叩いた。
「か、返します! 全額返しますから! 花を回収してくれ! 近所に変なビラを配るのをやめてくれ!」
阿久津は、淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、ゆっくりとドアを開けた。
「おや、佐久間さん。弁護士はどうしました? ……まあいいか。授業料は高つくよ?」




