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灰色の夜明け──世界がナチスに奪われても、私は自由を求める  作者: イチジク浣腸


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3/3

灰色の世界

  一九四四年八月二十八日午前二時、緊急電話が鳴った。


 私は書斎で地図を見ていた。最近は、ほとんど眠れなかった。


 受話器を取った。


「首相」


 メンジーズの声だった。震えていた。


「ドイツが—実験を行いました」


 私の手が止まった。


「どこで?」


「ポーランド。旧ワルシャワ近郊。午前零時三十五分。スウェーデンの観測所が、異常な地震波を検出しました。そして—閃光の目撃情報が複数」


 私は椅子に座った。


 葉巻を手に取ったが、火をつける気力がなかった。


「威力は?」


「推定で二万トン相当です」


 沈黙。


「つまり」私は言った。「ヒトラーが、持っている」


「はい」


 私は受話器を置いた。


 窓の外を見た。ロンドンの夜。灯りが点々と光っていた。


 この灯りが、いつまで灯っているだろうか。


 -----


 九月十五日、ベルリンから声明が発表された。


 ゲッベルスのラジオ放送。いつもの甲高い声。


「大ゲルマン帝国は、新時代の兵器を完成させた。太陽の力を手にした。我が帝国に敵対する者には、神の裁きが下る…」


 私はBBCでその放送を聞いた。葉巻をくわえたまま。


「脅しではない」私は呟いた。「これは—宣戦布告だ」


 -----


 十月一日午前六時十五分、電話が鳴った。


 私はまだ眠っていなかった。書斎で、地図を見ていた。


 受話器を取った。


「首相」メンジーズの声だった。今度は、恐怖があった。


「何だ?」


「ドイツの爆撃機が—離陸しました。ノルウェー基地から。編隊です。十二機」


 私の心臓が止まった。


「方向は?」


「西です。英国に向かっています」


 私は立ち上がった。


「特殊な搭載物は?」


「確認できません。しかし—この編隊規模と、護衛機の数、そして飛行高度からして—」


 彼は言葉を呑んだ。


「それだと思われます」


 私は執務室へ走った。ベルを鳴らした。


「全閣僚を招集しろ! 軍も! 今すぐだ!」


 十分後、閣議室が人で埋まった。


「紳士諸君」私は言った。葉巻をくわえる時間もなかった。


「ドイツの爆撃機が、英国に向かっている。核兵器を搭載している可能性が極めて高い」


 室内が騒然となった。


「到達時間は?」


「二時間です」空軍参謀総長が答えた。


「迎撃は?」


「全力で試みます。しかし—すべてを撃ち落とせる保証はありません」


「標的は?」


「ロンドンです」情報部員が地図を指差した。「おそらく—ウェストミンスター。議会とバッキンガム宮殿の周辺」


 私は窓の外を見た。


 ロンドン。八百万の人々。そして—帝国の象徴。


 国王陛下。議会。権力の中枢。


 ヒトラーは、英国の心臓を狙っていた。


「国王陛下を」私は命じた。「今すぐウィンザーへ退避させろ」


「しかし時間が—」


「今すぐだ!」


 ブルック陸軍参謀総長が言った。


「首相、あなたも退避を」


「いや」私は首を横に振った。「私は—ここに残る」


「それは—」


「英国の首相は、ロンドンと運命を共にする」


 -----


 午前七時、迎撃戦が始まった。


 スピットファイアが発進した。対空砲火が準備された。


 私は執務室の窓から、空を見上げた。


 晴れていた。皮肉なほど、美しい秋の朝だった。


 午前七時四十五分、最初の接触。


「敵編隊確認。高度八千メートル」


 無線の声が、スピーカーから流れた。


 私は葉巻に火をつけた。手が震えていた。


 午前八時、戦闘開始。


「交戦中! 交戦中!」


 窓の外で、遠くに黒煙が見えた。


 午前八時十分、報告が入った。


「敵機三機撃墜。しかし—残り九機が突破しました」


 私は時計を見た。


 あと五分。いや、もっと少ないかもしれない。


 執事が静かにブランデーを持ってきた。忠実な男だった。


「卿」

彼は言った。

「共にいてもよろしいでしょうか」


 私は頷いた。


 二人で、窓の外を見た。


 ロンドン。テムズ川。ビッグベン。


 すべてが、もうすぐ—


 午前八時十四分。


 空に、何かが見えた。


 小さな点。しかし—落ちてくる。


 そして—


 -----


 閃光。


 世界が白く染まった。


 音はなかった。すべての音が、消えた。


 私は床に叩きつけられた。窓ガラスが砕け散った。


 そして—


 轟音。


 建物全体が揺れた。壁が崩れ落ちた。


 私は—意識を失った。


 -----


 目が覚めた時、世界は灰色だった。


 いや、すべてが灰に覆われていた。


 私は瓦礫の下にいた。体が動かなかった。


 しかし—生きていた。


「首相!」


 誰かが叫んでいた。


 瓦礫が動いた。光が差し込んだ。


「首相! 生きておられる!」


 兵士たちが、私を引っ張り出した。


 私は立ち上がった。体中が痛かった。しかし—動けた。


 そして—外を見た。


 -----


 ロンドンは—なかった。


 ウェストミンスター。議会。ビッグベン。


 すべてが—消えていた。


 代わりにあったのは、巨大な穴だった。クレーター。直径一キロはあるだろう。


 そしてその周辺—二キロ、三キロ—すべてが瓦礫だった。


 建物は倒壊し、道路は陥没し、橋は崩れ落ちていた。


 炎が、あちこちで燃えていた。


 黒い雨が、降り始めた。


「国王陛下は?」

私は尋ねた。声がかすれていた。


「ウィンザーに無事退避されました」


 安堵した。少なくとも—王は生きている。


「被害状況は?」


 参謀長が報告した。顔は煤で真っ黒だった。


「爆心地から半径一キロ—全滅です。二キロ圏内—ほぼ壊滅。三キロ圏内—重度の損傷」


「死者は?」


「推定—十万です。負傷者はその数倍」


 十万。


 一瞬で。


 一発の爆弾で。


「バッキンガム宮殿は?」


「消滅しました。議会も。ウェストミンスター寺院も」


 私は—何も言えなかった。


 ただ、灰色の空を見上げた。


 キノコ雲が、まだ空に残っていた。


 -----


 その夜、臨時政府はウィンザー城で開かれた。


 国王陛下ジョージ六世が、私たちを召集された。


 謁見室。しかし王は、玉座には座らなかった。


 私たちと同じ目線で、立っておられた。


「チャーチル首相」

国王は言われた。声は静かだったが、固かった。


「ロンドンが—失われました」


「はい、陛下」


「しかし英国は、失われていない」


 国王は私を見られた。


「首相。我々は—降伏しない」


「陛下」


「ヒトラーは、我が国の象徴を破壊した。しかし—英国の魂は、建物の中にはない。国民の中にある」


 国王は窓の外を見られた。


「そして我々は—まだ、ここにいる」


 私は膝をついた。


「陛下の御意志の通りに」


 -----


 十月二日午前六時、さらなる悪夢が始まった。


 電話が鳴った。


 今度は—極東情報部からだった。


「首相」ブラッケンの声は震えていた。「東京が—」


 私の手が止まった。


「攻撃されたのか?」


「はい。二時間前。ナチス・ドイツの戦略爆撃機群が、暗雲を突き抜け、中華民国大陸側の領空から帝都・東京へと侵入しました。」


「被害は?」


「詳細は不明です。しかし—皇居周辺が—」


 彼は言葉を呑んだ。


「消滅したと」


 私は受話器を握りしめた。


 ヒトラーは—二つの首都を攻撃した。


 ロンドンと東京。


 英国と日本。


 二つの島国の心臓を、同時に破壊した。


 -----


 十月三日、私は緊急に吉田茂駐英大使と会談した。


 ウィンザー城の一室。


 吉田は—顔色が悪かった。目には涙があった。


「チャーチル首相」

「」彼は言った。声が震えていた。


「東京が—皇居が—」


「知っている」私は言った。「ロンドンも同じだ」


 沈黙が流れた。


「天皇陛下は?」吉田が尋ねた。


「御無事だ」私は答えた。「事前に疎開しておられた」


 吉田は—崩れるように椅子に座った。


「では—日本は—」


「まだ生きている」私は言った。「英国と同じように」


 私は彼の前に座った。


「吉田大使。ヒトラーは、我々の象徴を破壊した。しかし—我々自身は、まだここにいる」


「しかし—」


「我々には、まだ戦う力がある」


 吉田は私を見た。


「どうやって? 我々には—核兵器がありません」


「アメリカにある」


 -----


 十月五日、私はワシントンに暗号電報を送った。


 ルーズベルト大統領宛て。最高機密。


「ロンドン、東京が核攻撃を受けた。ヒトラーは二つの首都を破壊した。次は—ワシントンか、ニューヨークか。


 大統領、我々には時間がない。アメリカの核開発を急いでほしい。そして—完成したら—


 奴らに報復してほしい。


 ヨーロッパのために。


 そして—自由世界のために」


 返事は、三日後に来た。


「ウィンストン、


 マンハッタン計画を最優先で進める。しかし—完成には、まだ数ヶ月かかる。


 それまで—耐えてくれ。」


 数ヶ月。


 その間に、何人が死ぬだろうか。


 -----


 十一月、ロンドンの復旧作業が始まった。


 しかし—放射能汚染が残っていた。


 作業員たちが、次々と倒れた。原因不明の病気。嘔吐、脱毛、出血。


「これは何だ?」

 私は医師団に尋ねた。


「分かりません、首相」医師は答えた。

「しかし—爆心地に近づいた人ほど、重症です」


「放射線か」


「おそらく。しかし—我々には、治療法がありません」


 死者は増え続けた。


 最初の十万に加えて、さらに数万が—じわじわと死んでいった。


 見えない毒。


 それが、核兵器のもう一つの恐怖だった。


 -----


 一九四五年一月、ドイツから通告が来た。


「ヒア・イスト・ベルリン。


 英国、ならびに日本政府に告ぐ。


 これは警告ではない。最後通牒だ。 慈悲の時間は終わった。


 次は――総力を挙げた“殲滅戦”が始まる。


 直ちに降伏せよ。 さもなくば――


 マンチェスター、バーミンガム、グラスゴー。 大阪、名古屋、

  そして福岡。


 そのすべてが、歴史から消え去り、灰燼かいじんと化すだろう」


 私はBBCで演説した。


「我々は—降伏しない。


 ヒトラーは、ロンドンを破壊した。しかし—英国を破壊することはできない。


 我々は戦い続ける。


 海岸で、野原で、街頭で、丘で。


 我々は—決して降伏しない」


 しかし—心の中では、私は恐れていた。


 もう一発。もう一発落ちれば—


 英国は、本当に終わるかもしれない。


 -----


 三月、極東から報告が入った。


 日本も—同じ決断をしたという。


 首相が、ラジオで演説した。


『国民諸君、我々は断じて降伏せぬ。


 帝都・東京は灰燼に帰した。だが――日本は未だ死なず。


 陛下は御無事であらせられ、政府の機能もまた健在である。

 

 我々は――最後の一兵、最後の一撃に至るまで、

 

 ──徹底して戦い抜く所存である。』」


 私は報告書を読んだ。葉巻をくわえたまま。


「愚かな」


 私は呟いた。


 そして—すぐに訂正した。


「いや。勇敢だ」


 彼らも、我々と同じだった。


 降伏するより、戦うことを選んだ。


 たとえ—勝算がなくても。


 -----


 四月十二日、ルーズベルトが死んだ。


 BBCの速報が流れた時、私は執務室にいた。


 葉巻をくわえたまま、黙祷した。


「安らかに」

  私は呟いた。


 そして—私は知っていた。


 新しい大統領—ハリー・S・トルーマンは—


 異なる男だということを。


 -----


 四月十三日、トルーマンから電話があった。


「チャーチル首相」トルーマンの声は、硬く、直接的だった。


「マンハッタン計画について、報告を受けた」


「はい」


「七月には完成する。そして—使用する」


 私は息を呑んだ。


「どこに?」


「ベルリンだ」


 沈黙。


「しかし」

 私は言った。

「それは—何百万もの—」


「ヒトラーが、ロンドンと東京でやったことと同じだ」トルーマンは冷たく言った。


「我々は、報復する。そして—ヒトラーに示す。核兵器を使えば、報復されると」


「それは—核戦争の始まりだ」


「いや」

 トルーマンは言った。

「終わりだ。ヒトラーは理解する。これ以上使えば、理想を抱えたまま死ぬと」


 私は何も言えなかった。


 彼の論理は—冷酷だが、正しかった。


 -----


 七月十六日、アラモゴードで実験が成功した。


 七月二十五日、最初の実用爆弾が完成した。


 八月六日午前八時十五分。


 B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、ベルリン上空に到達した。


 そして—


 -----


 BBCの速報が入った時、私はウィンザー城にいた。


「ベルリンが—攻撃されました」


 私は窓の外を見た。


 英国の空。灰色の空。


 しかし—遠く東の空に—


 きのこ雲が見えた気がした。


 錯覚だった。ベルリンは遠すぎる。


 しかし—私には見えた。


 -----


 八月七日、ドイツから声明はなかった。


 ゲッベルスの放送もなかった。


 ベルリンは—沈黙していた。


 八月九日、二発目がハンブルクに落ちた。


 八月十二日、ドイツ政府が—ようやく—声明を発表した。


 場所はミュンヘン。臨時首都。


 ヒトラーの声ではなかった。副総統ヘスの声だった。


「大ゲルマン帝国は—停戦を提案する」


 その声は—震えていた。


 -----


 八月十五日、ポツダムで会談が開かれた。


 アメリカ、英国、そしてドイツ。


 三つの核保有国。


 私、トルーマン大統領、そしてヘス副総統。


 ヒトラーは—姿を見せなかった。


 おそらく—ベルリンで死んだのだろうか?


 会議室で、私たちは向かい合った。


「紳士諸君」

 トルーマンが言った。


「我々は今日、新しい世界秩序を作る」


 彼は地図を広げた。


「大ゲルマン帝国の支配領域はウラル山脈以西と定める。ただし、フランスおよびポーランド、イタリアの主権維持は絶対条件とする。なお、帝国はこれ以上の領土拡張を行わないものとする。」


 ヘスは頷いた。


「英国と日本は、独立を維持する。そして—アメリカを中心とする資本主義・自由主義の世界を作る。」


 私は黙って聞いていた。


「そして—最も重要なこと」


 トルーマンは、私たち全員を見た。


「核兵器は—二度と使わない。使えば、報復される。相互確証破壊だ」


「つまり」

 ヘスが言った。

「誰も勝たない。」


「その通りだ」

 トルーマンは答えた。

「誰も戦わない」


 それが、新しい世界秩序だった。


 -----


 八月二十日、私はロンドンに—廃墟のロンドンに—戻った。


 ウェストミンスターの跡地に立った。


 巨大なクレーター。そして瓦礫。


 しかし—人々が働いていた。


 瓦礫を片付け、道を作り、建物を建て始めていた。


 一人の老婆が、私に気づいた。


「首相!」


 彼女は駆け寄ってきた。


「我々は—生き延びましたね」


 私は頷いた。


「ああ。生き延びた」


「これから—どうなるんでしょうか?」


 私は灰色の空を見上げた。


「分からない」私は正直に答えた。


「しかし—我々は生きている。それだけで十分だ」


 老婆は微笑んだ。


 そして—瓦礫の片付けに戻った。


 私は、その姿を見つめていた。


 -----


 その夜、私はラジオで国民に語りかけた。


「英国民の皆さん。


 我々は—勝利を得られなかった。


 ロンドンは破壊され、十万の同胞が死にました。


 しかし—我々は戦い抜きました。


 我々は—生き延びました。


 これから、我々は新しい世界で生きていきます。


 核兵器が存在する世界。完全な平和も、完全な戦争もない世界。


 灰色の世界です。


 しかし—この灰色の世界にも、希望はあります。


 廃墟の中で、人々は働いています。


 子供たちは笑っています。


 太陽は—また昇ります。


 そしていつか—いつか—


 真の夜明けが来ることを、私は信じています」


 そして、放送は終わった。


 私は執務室で、一人で座っていた。


 窓の外を見た。廃墟のロンドン。しかし—灯りが、点々と光っていた。


 人々は—生きている。


 私は葉巻に火をつけた。


 煙が天井に向かって昇った。


 長い夜は、まだ続いていた。


 しかし—夜明けは、必ず来る。


 私はそれを、信じていた。

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