灰色の世界
一九四四年八月二十八日午前二時、緊急電話が鳴った。
私は書斎で地図を見ていた。最近は、ほとんど眠れなかった。
受話器を取った。
「首相」
メンジーズの声だった。震えていた。
「ドイツが—実験を行いました」
私の手が止まった。
「どこで?」
「ポーランド。旧ワルシャワ近郊。午前零時三十五分。スウェーデンの観測所が、異常な地震波を検出しました。そして—閃光の目撃情報が複数」
私は椅子に座った。
葉巻を手に取ったが、火をつける気力がなかった。
「威力は?」
「推定で二万トン相当です」
沈黙。
「つまり」私は言った。「ヒトラーが、持っている」
「はい」
私は受話器を置いた。
窓の外を見た。ロンドンの夜。灯りが点々と光っていた。
この灯りが、いつまで灯っているだろうか。
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九月十五日、ベルリンから声明が発表された。
ゲッベルスのラジオ放送。いつもの甲高い声。
「大ゲルマン帝国は、新時代の兵器を完成させた。太陽の力を手にした。我が帝国に敵対する者には、神の裁きが下る…」
私はBBCでその放送を聞いた。葉巻をくわえたまま。
「脅しではない」私は呟いた。「これは—宣戦布告だ」
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十月一日午前六時十五分、電話が鳴った。
私はまだ眠っていなかった。書斎で、地図を見ていた。
受話器を取った。
「首相」メンジーズの声だった。今度は、恐怖があった。
「何だ?」
「ドイツの爆撃機が—離陸しました。ノルウェー基地から。編隊です。十二機」
私の心臓が止まった。
「方向は?」
「西です。英国に向かっています」
私は立ち上がった。
「特殊な搭載物は?」
「確認できません。しかし—この編隊規模と、護衛機の数、そして飛行高度からして—」
彼は言葉を呑んだ。
「それだと思われます」
私は執務室へ走った。ベルを鳴らした。
「全閣僚を招集しろ! 軍も! 今すぐだ!」
十分後、閣議室が人で埋まった。
「紳士諸君」私は言った。葉巻をくわえる時間もなかった。
「ドイツの爆撃機が、英国に向かっている。核兵器を搭載している可能性が極めて高い」
室内が騒然となった。
「到達時間は?」
「二時間です」空軍参謀総長が答えた。
「迎撃は?」
「全力で試みます。しかし—すべてを撃ち落とせる保証はありません」
「標的は?」
「ロンドンです」情報部員が地図を指差した。「おそらく—ウェストミンスター。議会とバッキンガム宮殿の周辺」
私は窓の外を見た。
ロンドン。八百万の人々。そして—帝国の象徴。
国王陛下。議会。権力の中枢。
ヒトラーは、英国の心臓を狙っていた。
「国王陛下を」私は命じた。「今すぐウィンザーへ退避させろ」
「しかし時間が—」
「今すぐだ!」
ブルック陸軍参謀総長が言った。
「首相、あなたも退避を」
「いや」私は首を横に振った。「私は—ここに残る」
「それは—」
「英国の首相は、ロンドンと運命を共にする」
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午前七時、迎撃戦が始まった。
スピットファイアが発進した。対空砲火が準備された。
私は執務室の窓から、空を見上げた。
晴れていた。皮肉なほど、美しい秋の朝だった。
午前七時四十五分、最初の接触。
「敵編隊確認。高度八千メートル」
無線の声が、スピーカーから流れた。
私は葉巻に火をつけた。手が震えていた。
午前八時、戦闘開始。
「交戦中! 交戦中!」
窓の外で、遠くに黒煙が見えた。
午前八時十分、報告が入った。
「敵機三機撃墜。しかし—残り九機が突破しました」
私は時計を見た。
あと五分。いや、もっと少ないかもしれない。
執事が静かにブランデーを持ってきた。忠実な男だった。
「卿」
彼は言った。
「共にいてもよろしいでしょうか」
私は頷いた。
二人で、窓の外を見た。
ロンドン。テムズ川。ビッグベン。
すべてが、もうすぐ—
午前八時十四分。
空に、何かが見えた。
小さな点。しかし—落ちてくる。
そして—
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閃光。
世界が白く染まった。
音はなかった。すべての音が、消えた。
私は床に叩きつけられた。窓ガラスが砕け散った。
そして—
轟音。
建物全体が揺れた。壁が崩れ落ちた。
私は—意識を失った。
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目が覚めた時、世界は灰色だった。
いや、すべてが灰に覆われていた。
私は瓦礫の下にいた。体が動かなかった。
しかし—生きていた。
「首相!」
誰かが叫んでいた。
瓦礫が動いた。光が差し込んだ。
「首相! 生きておられる!」
兵士たちが、私を引っ張り出した。
私は立ち上がった。体中が痛かった。しかし—動けた。
そして—外を見た。
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ロンドンは—なかった。
ウェストミンスター。議会。ビッグベン。
すべてが—消えていた。
代わりにあったのは、巨大な穴だった。クレーター。直径一キロはあるだろう。
そしてその周辺—二キロ、三キロ—すべてが瓦礫だった。
建物は倒壊し、道路は陥没し、橋は崩れ落ちていた。
炎が、あちこちで燃えていた。
黒い雨が、降り始めた。
「国王陛下は?」
私は尋ねた。声がかすれていた。
「ウィンザーに無事退避されました」
安堵した。少なくとも—王は生きている。
「被害状況は?」
参謀長が報告した。顔は煤で真っ黒だった。
「爆心地から半径一キロ—全滅です。二キロ圏内—ほぼ壊滅。三キロ圏内—重度の損傷」
「死者は?」
「推定—十万です。負傷者はその数倍」
十万。
一瞬で。
一発の爆弾で。
「バッキンガム宮殿は?」
「消滅しました。議会も。ウェストミンスター寺院も」
私は—何も言えなかった。
ただ、灰色の空を見上げた。
キノコ雲が、まだ空に残っていた。
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その夜、臨時政府はウィンザー城で開かれた。
国王陛下ジョージ六世が、私たちを召集された。
謁見室。しかし王は、玉座には座らなかった。
私たちと同じ目線で、立っておられた。
「チャーチル首相」
国王は言われた。声は静かだったが、固かった。
「ロンドンが—失われました」
「はい、陛下」
「しかし英国は、失われていない」
国王は私を見られた。
「首相。我々は—降伏しない」
「陛下」
「ヒトラーは、我が国の象徴を破壊した。しかし—英国の魂は、建物の中にはない。国民の中にある」
国王は窓の外を見られた。
「そして我々は—まだ、ここにいる」
私は膝をついた。
「陛下の御意志の通りに」
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十月二日午前六時、さらなる悪夢が始まった。
電話が鳴った。
今度は—極東情報部からだった。
「首相」ブラッケンの声は震えていた。「東京が—」
私の手が止まった。
「攻撃されたのか?」
「はい。二時間前。ナチス・ドイツの戦略爆撃機群が、暗雲を突き抜け、中華民国大陸側の領空から帝都・東京へと侵入しました。」
「被害は?」
「詳細は不明です。しかし—皇居周辺が—」
彼は言葉を呑んだ。
「消滅したと」
私は受話器を握りしめた。
ヒトラーは—二つの首都を攻撃した。
ロンドンと東京。
英国と日本。
二つの島国の心臓を、同時に破壊した。
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十月三日、私は緊急に吉田茂駐英大使と会談した。
ウィンザー城の一室。
吉田は—顔色が悪かった。目には涙があった。
「チャーチル首相」
「」彼は言った。声が震えていた。
「東京が—皇居が—」
「知っている」私は言った。「ロンドンも同じだ」
沈黙が流れた。
「天皇陛下は?」吉田が尋ねた。
「御無事だ」私は答えた。「事前に疎開しておられた」
吉田は—崩れるように椅子に座った。
「では—日本は—」
「まだ生きている」私は言った。「英国と同じように」
私は彼の前に座った。
「吉田大使。ヒトラーは、我々の象徴を破壊した。しかし—我々自身は、まだここにいる」
「しかし—」
「我々には、まだ戦う力がある」
吉田は私を見た。
「どうやって? 我々には—核兵器がありません」
「アメリカにある」
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十月五日、私はワシントンに暗号電報を送った。
ルーズベルト大統領宛て。最高機密。
「ロンドン、東京が核攻撃を受けた。ヒトラーは二つの首都を破壊した。次は—ワシントンか、ニューヨークか。
大統領、我々には時間がない。アメリカの核開発を急いでほしい。そして—完成したら—
奴らに報復してほしい。
ヨーロッパのために。
そして—自由世界のために」
返事は、三日後に来た。
「ウィンストン、
マンハッタン計画を最優先で進める。しかし—完成には、まだ数ヶ月かかる。
それまで—耐えてくれ。」
数ヶ月。
その間に、何人が死ぬだろうか。
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十一月、ロンドンの復旧作業が始まった。
しかし—放射能汚染が残っていた。
作業員たちが、次々と倒れた。原因不明の病気。嘔吐、脱毛、出血。
「これは何だ?」
私は医師団に尋ねた。
「分かりません、首相」医師は答えた。
「しかし—爆心地に近づいた人ほど、重症です」
「放射線か」
「おそらく。しかし—我々には、治療法がありません」
死者は増え続けた。
最初の十万に加えて、さらに数万が—じわじわと死んでいった。
見えない毒。
それが、核兵器のもう一つの恐怖だった。
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一九四五年一月、ドイツから通告が来た。
「ヒア・イスト・ベルリン。
英国、ならびに日本政府に告ぐ。
これは警告ではない。最後通牒だ。 慈悲の時間は終わった。
次は――総力を挙げた“殲滅戦”が始まる。
直ちに降伏せよ。 さもなくば――
マンチェスター、バーミンガム、グラスゴー。 大阪、名古屋、
そして福岡。
そのすべてが、歴史から消え去り、灰燼と化すだろう」
私はBBCで演説した。
「我々は—降伏しない。
ヒトラーは、ロンドンを破壊した。しかし—英国を破壊することはできない。
我々は戦い続ける。
海岸で、野原で、街頭で、丘で。
我々は—決して降伏しない」
しかし—心の中では、私は恐れていた。
もう一発。もう一発落ちれば—
英国は、本当に終わるかもしれない。
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三月、極東から報告が入った。
日本も—同じ決断をしたという。
首相が、ラジオで演説した。
『国民諸君、我々は断じて降伏せぬ。
帝都・東京は灰燼に帰した。だが――日本は未だ死なず。
陛下は御無事であらせられ、政府の機能もまた健在である。
我々は――最後の一兵、最後の一撃に至るまで、
──徹底して戦い抜く所存である。』」
私は報告書を読んだ。葉巻をくわえたまま。
「愚かな」
私は呟いた。
そして—すぐに訂正した。
「いや。勇敢だ」
彼らも、我々と同じだった。
降伏するより、戦うことを選んだ。
たとえ—勝算がなくても。
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四月十二日、ルーズベルトが死んだ。
BBCの速報が流れた時、私は執務室にいた。
葉巻をくわえたまま、黙祷した。
「安らかに」
私は呟いた。
そして—私は知っていた。
新しい大統領—ハリー・S・トルーマンは—
異なる男だということを。
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四月十三日、トルーマンから電話があった。
「チャーチル首相」トルーマンの声は、硬く、直接的だった。
「マンハッタン計画について、報告を受けた」
「はい」
「七月には完成する。そして—使用する」
私は息を呑んだ。
「どこに?」
「ベルリンだ」
沈黙。
「しかし」
私は言った。
「それは—何百万もの—」
「ヒトラーが、ロンドンと東京でやったことと同じだ」トルーマンは冷たく言った。
「我々は、報復する。そして—ヒトラーに示す。核兵器を使えば、報復されると」
「それは—核戦争の始まりだ」
「いや」
トルーマンは言った。
「終わりだ。ヒトラーは理解する。これ以上使えば、理想を抱えたまま死ぬと」
私は何も言えなかった。
彼の論理は—冷酷だが、正しかった。
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七月十六日、アラモゴードで実験が成功した。
七月二十五日、最初の実用爆弾が完成した。
八月六日午前八時十五分。
B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、ベルリン上空に到達した。
そして—
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BBCの速報が入った時、私はウィンザー城にいた。
「ベルリンが—攻撃されました」
私は窓の外を見た。
英国の空。灰色の空。
しかし—遠く東の空に—
きのこ雲が見えた気がした。
錯覚だった。ベルリンは遠すぎる。
しかし—私には見えた。
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八月七日、ドイツから声明はなかった。
ゲッベルスの放送もなかった。
ベルリンは—沈黙していた。
八月九日、二発目がハンブルクに落ちた。
八月十二日、ドイツ政府が—ようやく—声明を発表した。
場所はミュンヘン。臨時首都。
ヒトラーの声ではなかった。副総統ヘスの声だった。
「大ゲルマン帝国は—停戦を提案する」
その声は—震えていた。
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八月十五日、ポツダムで会談が開かれた。
アメリカ、英国、そしてドイツ。
三つの核保有国。
私、トルーマン大統領、そしてヘス副総統。
ヒトラーは—姿を見せなかった。
おそらく—ベルリンで死んだのだろうか?
会議室で、私たちは向かい合った。
「紳士諸君」
トルーマンが言った。
「我々は今日、新しい世界秩序を作る」
彼は地図を広げた。
「大ゲルマン帝国の支配領域はウラル山脈以西と定める。ただし、フランスおよびポーランド、イタリアの主権維持は絶対条件とする。なお、帝国はこれ以上の領土拡張を行わないものとする。」
ヘスは頷いた。
「英国と日本は、独立を維持する。そして—アメリカを中心とする資本主義・自由主義の世界を作る。」
私は黙って聞いていた。
「そして—最も重要なこと」
トルーマンは、私たち全員を見た。
「核兵器は—二度と使わない。使えば、報復される。相互確証破壊だ」
「つまり」
ヘスが言った。
「誰も勝たない。」
「その通りだ」
トルーマンは答えた。
「誰も戦わない」
それが、新しい世界秩序だった。
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八月二十日、私はロンドンに—廃墟のロンドンに—戻った。
ウェストミンスターの跡地に立った。
巨大なクレーター。そして瓦礫。
しかし—人々が働いていた。
瓦礫を片付け、道を作り、建物を建て始めていた。
一人の老婆が、私に気づいた。
「首相!」
彼女は駆け寄ってきた。
「我々は—生き延びましたね」
私は頷いた。
「ああ。生き延びた」
「これから—どうなるんでしょうか?」
私は灰色の空を見上げた。
「分からない」私は正直に答えた。
「しかし—我々は生きている。それだけで十分だ」
老婆は微笑んだ。
そして—瓦礫の片付けに戻った。
私は、その姿を見つめていた。
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その夜、私はラジオで国民に語りかけた。
「英国民の皆さん。
我々は—勝利を得られなかった。
ロンドンは破壊され、十万の同胞が死にました。
しかし—我々は戦い抜きました。
我々は—生き延びました。
これから、我々は新しい世界で生きていきます。
核兵器が存在する世界。完全な平和も、完全な戦争もない世界。
灰色の世界です。
しかし—この灰色の世界にも、希望はあります。
廃墟の中で、人々は働いています。
子供たちは笑っています。
太陽は—また昇ります。
そしていつか—いつか—
真の夜明けが来ることを、私は信じています」
そして、放送は終わった。
私は執務室で、一人で座っていた。
窓の外を見た。廃墟のロンドン。しかし—灯りが、点々と光っていた。
人々は—生きている。
私は葉巻に火をつけた。
煙が天井に向かって昇った。
長い夜は、まだ続いていた。
しかし—夜明けは、必ず来る。
私はそれを、信じていた。




