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灰色の夜明け──世界がナチスに奪われても、私は自由を求める  作者: イチジク浣腸


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ウィンストン・チャーチルの回顧録

 

 ネヴィル・チェンバレンの手が震えていた。


 一九三九年三月十五日、首相官邸の執務室。窓の外では冷たい雨が降っていた。彼の机の上には、ドイツ大使館からの非公式文書が広げられていた。羊皮紙の質感。赤いシーリングワックス。リッベントロップの署名。


 私は革張りの椅子に座り、キューバ産の葉巻に火をつけた。

 ───ロメオ・イ・フリエタ—

 私が二十一歳の時、キューバ独立戦争の取材で味を占めた、人生の友だった。煙が天井に向かって渦を巻く。執務室の空気は重かった。


「読んでくれ、ウィンストン」

 チェンバレンは言った。声が掠れていた。彼の象徴的な雨傘が、机の脇に立てかけられていた。

「声に出して」


 私は文書を手に取った。ドイツ語だったが、外務省の翻訳が添付されていた。


「『ドイツは、大英帝国との恒久的平和を希求する。我が国の東方政策は、ボリシェヴィズムの脅威排除を目的とする。この目的において、英独両国の利害は一致する…』」


 私は読むのを止めた。葉巻を口から離し、灰を落とした。


「続けてくれ」

 チェンバレンは言った。彼の顔は蒼白だった。


「『…ドイツの東方への膨張を、英国は容認せよ。ポーランド、バルト諸国、ウクライナ—これらはドイツの生存圏に属する。英国がこれを承認し、中立を保つならば、ドイツは西方での一切の軍事行動を放棄する。大英帝国の権益は、完全に尊重される…』」


 私は葉巻を灰皿に置いた。ブランデーのグラスを手に取った。


「ネヴィル」


 私は言った。


「これは悪魔との取引だ」


「そうかもしれない」

 彼は窓の外を見た。雨粒がガラスを叩いていた。

「しかし、もし我々がこれを拒否すれば?ヒトラーは西に向かう。オランダ、ベルギー、果てやフランスを攻めるかもしれん。そして次は我々だ。」


「...彼がどちらに向かっても、最終的には我々と戦うことになる。」


「...もし、仮にそうだとしても...時間が稼げる」

 チェンバレンは言った。

 彼はいつも雨傘を持ち歩く男だった—「アンブレラマン」と新聞は呼んだ。慎重で、平和を愛し、戦争を何よりも恐れる男。


「ヒトラーが東へ向かえば、数年は稼げる。その間に再軍備ができる」


 私は立ち上がった。手には葉巻。机の向こうに座るチェンバレンをじっと見据える。


「ネヴィル、聞いてくれ。ヒトラーを信じてはいけない。彼の言葉に価値などない。宥和など無意味だ。...何度も警告したはずだ。」


 チェンバレンは軽く眉をひそめ、手を机の上で組みなおした。落ち着いた声で言う。


「ウィンストン、君は感情的になっている。平和を維持することが、我々の最優先だ」


「感情的?これは現実だ!」

 私は前に踏み出した。声を抑えつつも、言葉には力がこもる。


「去年、君はヒトラーと会談した。『ズデーテン地方だけだ』と彼は約束した。そして君は『我々の時代の平和』だと喜んだ」


 チェンバレンの顔が強張る。唇はわずかに震え、指先は机の角を握り締めている。


「しかし半年も経たないうちに」私は続けた。


「ヒトラーはプラハに入り、チェコスロバキア全土を支配した。約束は紙切れにすぎなかった」


 沈黙が室内を支配する。葉巻の煙だけがゆっくりと漂い、二人の間に重く垂れ込める。

 チェンバレンは息をつき、ゆっくりと視線を逸らした。


「あれは…特殊な状況だった」


「特殊?」私は葉巻の灰を落とした。


「ネヴィル、ヒトラーにとって、すべての約束は特殊な状況だ。都合が悪くなれば、破る。それだけだ」


「しかし今回は違う」


 チェンバレンは主張した。

「これは正式な国家間の提案だ。ドイツ外務省を通じた」


「形式など関係ない」


 私は声を荒げた。

「ヒトラーの目的は、ヨーロッパ全土の支配だ。マイン・カンプフに書いてある、生存圏──レーベンスラウムだ。東方だけで満足するはずがない。それに、ヴェルサイユ体制を憎んでいる。たとえ我々やフランスが手をこまねき、和平を望んだとしても、彼は攻めてくるだろう!」


「ウィンストン」

 チェンバレンは肩を落とし、疲れた声で言った。

「君の懸念は承知している。しかし現実を見ねばならぬ。我が国の軍備は未だ不十分だ。空軍は整っておらず、陸軍も小規模だ。フランスに全面的な期待はできぬし、アメリカは孤立主義を堅持している。国民の忍耐も限界があるのだ。」



「だからこそ」

 私は言った。

「今、立ち向かわなければならない。ヒトラーが強くなる前に」


「それは自殺行為だ」


「降伏よりはましだ」


 沈黙が流れた。雨が窓を叩く音だけが聞こえた。


「ウィンストン」

彼は静かに言った。


「君は戦争を軽く見ている。一九一四年から一八年まで、私はこの国が何を失ったか見てきた。」


 彼は窓の外を見た。雨が降っていた。


「百万の若者が死んだ。百万だ。バーミンガムの街角で、私は未亡人たちを見た。孤児たちを見た。片腕を失った男たちが、物乞いをしているのを見た。」


 彼の手が、雨傘の柄を握りしめた。


「戦没者記念碑に刻まれた名前を、君は数えたことがあるか?一つの村から、二十人、三十人。一つの通りから、五人、十人。それが、戦争だ」


 彼の目には、涙が浮かんでいた。


「その悲劇を、もう一度繰り返すのか?」


「悲劇を避けるために」

私は答えた。

「さらに大きな悲劇を招くのか?」


「私は平和を選ぶ」

チェンバレンは立ち上がった。

「たとえ君が平和主義者と呼んでも。たとえ歴史が私を愚か者と呼んでも。私は不名誉を選ぶ。」


「...もう一度、若者たちを戦場に送りたくない。戦争屋のキミには分からぬだろう。」


「戦争屋?」

私は葉巻を灰皿に叩きつけた。

「私は現実主義者だ。ヒトラーは止まらない。東方政策など、嘘だ。彼は世界を欲している。」


「それは君の推測だ」


「推測ではない。彼の言葉だ。彼の行動だ。すべてが証明している」


 チェンバレンは首を横に振った。


「ウィンストン、この議論は終わりだ。私は首相として、英国の平和を守る。君の意見は記録に残す。しかし決定は、私が下す。」


 私は何も言わなかった。


 彼は聞く耳を持たなかった。


 私は執務室を出た。廊下を歩きながら、新しい葉巻に火をつけた。


「愚か者め」

私は呟いた。

「善意の愚か者め」


 -----


 四月二十三日、情報部のメンジーズ少将が私の自宅を訪れた。夜の十時過ぎだった。


「チャーチル卿」彼は封筒を差し出した。「極秘です」


 私は書斎に彼を招き入れた。ブランデーを二杯注いだ。書斎の壁には、私が描いた風景画が何枚か飾られていた。絵を描くことは、私にとって葉巻と同じくらい大切な時間だった。


 封筒の中身は、モスクワ駐在武官からの暗号電報だった。


『四月十九日、リッベントロップがモスクワ入り。クレムリンで秘密会談。目撃者複数。スターリンとの直接会談が濃厚』


 私はブランデーを飲み干した。グラスを机に置く音が、静寂の中で響いた。


「独ソが手を結ぶ」私は言った。

「ヒトラーの『対ソ戦争』の前哨戦。すべて茶番だったな。」


「おそらく」

メンジーズは頷いた。

「しかし証拠はありません。首相は…信じたがらないでしょう」


「ネヴィルは、信じたいものしか信じない」

私は新しい葉巻に火をつけた。

「彼はヒトラーが東へ向かうと信じている。スターリンと戦うと信じている……そこまでは良い。」


「はぁ……もし独ソが手を組んだら?」


「ポーランドはすぐさま消える」


私は地図を指差した。


「挟み撃ちだ。一月以内で終わる」


メンジーズは黙り込む。


「そして次は?」

私は続けた。

「ヒトラーはお得意の条約破棄でソ連へ向かう――資源と広大な領土を手に入れるつもりだ。」


「それで……」


「最後には、ヨーロッパ全土が、ヒトラーの手に落ちる」

私は立ち上がり、地図室へ向かった。メンジーズが後に続く。

壁一面に広がる大きなヨーロッパ地図。私はポーランドを指差した。


「分かったか、メンジーズ」

私は言った。

「ヒトラーの計画が」


「卿?」


「三段階だ」

私は地図に線を引いた。

「第一段階—スターリンと手を結び、ポーランドを分割する。イギリスとフランスを牽制しながら。第二段階—スターリンを裏切り、東方領土を獲得する。ナポレオンの二の舞を避けるため、冬が来る前に。第三段階—そして西へ向かう。我々を叩く」


 私は葉巻の灰を落とした。


「すべては時間稼ぎだった。スターリンとの協力も。東方政策も。彼の目的は、最初からヨーロッパ征服だった」


 メンジーズは黙っていた。


「そして我々は」

私は地図のイギリスを指差した。

「最後の障害だ」


 -----


 五月十二日午前四時、ドイツ軍とソビエト軍が同時にポーランドに侵入した。


 電話で起こされた。外務省からだった。


 私は驚かなかった。予想通りだった。しかし確認することと、現実になることは違う。


「始まったか」

私は受話器を握りしめた。


「はい、卿」

外務次官の声は震えていた。

「独ソの協調侵攻です。ポーランドは完全に包囲されています」


 私は下に降りた。執事がすでにブランデーを用意していた。忠実な男だった。


 書斎で地図を広げた。ポーランド。西からドイツ軍。東からソビエト軍。


 挟み撃ち。


「ネヴィルは何と言っている?」

私は電話で外務次官に尋ねた。


「首相は…言葉を失っておられます。『ヒトラーに裏切られた』と」


「裏切り?」

私は葉巻に火をつけた。

「違う。我々が、無知だった。最初から、すべてが茶番だった。」


ワルシャワは五日間持ちこたえた。ポーランド軍は勇敢に戦った。しかし二方向からの挟撃に耐えられなかった。


 騎兵隊が戦車に突撃した。槍と剣で、鋼鉄の怪物達に。


 ───勇気は、鋼鉄を貫けなかった。


 五月十八日、ポーランド政府がロンドンに亡命した。


 -----


 その日の夜、私はチェンバレンに呼ばれた。


 首相官邸の執務室で、彼は一人で座っていた。机の上には、何も置かれていなかった。雨傘さえなかった。窓の外では雨が降っていた。


「ウィンストン」

彼は言った。目に涙が浮かんでいた。

「私は間違っていた」


 私は何も答えなかった。葉巻をくわえ、火をつけた。彼を責めても、何も変わらない。


「ヒトラーはソ連へ向かうと言った。スターリンと戦うと。私はそれを信じた」

彼の声は震えていた。

「しかし彼は、スターリンと手を結んだ。そして今、ポーランドを分割している」


「...ええ」

私は静かに言った。


「我々は何もできない」

彼は続けた。

「宣戦布告しても、ポーランドを救えない。フランスは動く気配がない。我々だけでは、何もできない。」


 私は窓の外を見た。ロンドンの雨。灰色の空。


「...時間を稼ぐしかない」私は言った。煙を吐き出した。


「何のための時間だ?」


「戦争のための時間だ」

私は彼を見た。

「ヒトラーは止まらない。必ず西へ来る。約束など、紙切れだ」


 彼は笑った。乾いた、諦めたような笑いだった。そして窓の外を見た。ロンドンの夜。灯りが点々と光っていた。


「この灯りが、いつまで灯っているだろうか」彼は呟いた。


 私は答えなかった。ただ葉巻を吸い続けた。


 そして私は知っていた。


 ヒトラーの次の一手が、何であるかを。


 -----


 六月二十二日午前三時十五分、ベルリンのラジオ放送が特別番組を開始した。


 ゲッベルスの声だった。甲高く、ヒステリックな声。


「ドイツ国民に告ぐ。本日未明、ドイツ国防軍はボリシェヴィズムの脅威を排除するため、ソビエト連邦への正当防衛作戦を開始した…」


 私はBBCの速報でそれを知った。午前四時、電話が鳴った。外務省からだった。


 私はすぐに服を着た。執事が葉巻とブランデーを用意してくれた。書斎に籠もった。


「まさか」

私は受話器を握りしめた。

「流石に早すぎる...ポーランドを分割したばかりだ。一ヶ月も経っていない」


「卿」

外務次官の声は震えていた。

「あなたの言う通りでした。ヒトラーは…最初から、これが目的だったのです。ポーランド分割は、時間稼ぎだったのです。」


 私は受話器を置いた。窓の外を見た。夜明けが近づいていた。


 地図を広げた。ヨーロッパ。東部戦線。


 そして私は、長い一日を過ごす準備をした。葉巻の箱を開けた。いつもの習慣だった—困難な日には、十本は吸う。


 -----


 最初の二週間、誰もがソ連の反撃を待っていた。


 赤軍は世界最大の陸軍だった。三百万の兵士、二万輌の戦車、一万機の航空機。


 しかし反撃は来なかった。


 代わりに来たのは、崩壊だった。


 六月三十日、ミンスク陥落。ソ連軍三十万が包囲された。


 その日の午後、私は戦争省の窓から外を見た。ロンドンの空は青かった。子供たちが公園で遊んでいた。


 そして千マイル離れた場所で、三十万の兵士が包囲されていた。


 七月十五日、スモレンスク陥落。さらに四十万が捕虜になった。


 私は報告書を読んだ。葉巻をくわえたまま。


「捕虜たちは、指揮官がいないと言っています」

報告書には書かれていた。

「師団長が逃亡しました。誰も命令を出しません。誰も責任を取りません」


 私は報告書を机に置いた。窓の外を見た。


 夕暮れだった。ロンドンの灯りが点き始めていた。


 八月一日、キエフ包囲戦開始。


 私は戦争省から送られてくる報告書を、信じられない思いで読んだ。


 葉巻をくわえたまま、ページをめくった。灰が報告書の上に落ちた。


「ドイツ軍の進撃速度は、一日平均二十五キロメートル。ソ連軍の組織的抵抗は、ほぼ崩壊。捕虜数は推定百五十万を超える…」


「なぜだ?」

私は陸軍参謀長のアイアンサイド将軍に尋ねた。彼は戦争省の地下室で、巨大な地図の前に立っていた。


「大粛清です、卿」

彼は答えた。疲れた声だった。

「一九三七年から三八年にかけて、スターリンは有能な将校をすべて処刑しました。トハチェフスキー元帥、ブリュッヘル元帥、エゴロフ元帥—最高の軍事頭脳が失われました」


「指揮系統は?」


「崩壊しています。残った将校たちは、決断を恐れています。スターリンの粛清を恐れて、誰も責任を取ろうとしません」


 私は葉巻の灰を落とした。


「赤軍は、頭を失った怪物だ」私は言った。


「その通りです」

アイアンサイドは頷いた。

「そして今、その怪物は倒れつつあります」


 -----


 九月、モスクワ攻防戦が始まった。


 世界中が注目した。スターリンは「一歩も引かない」と宣言した。ラジオ放送で、彼の重い声が流れた。


 私は首相官邸の執務室で、その放送を聞いた。葉巻をくわえたまま。


 窓の外では、ロンドンの人々が普段通りの生活を送っていた。バスが走っていた。新聞売りが叫んでいた。


 そして千マイル離れた場所で、運命の戦いが始まっていた。


 十月三日、モスクワは陥落した。


 BBCの速報が入った時、私は下院で演説の準備をしていた。


 秘書が駆け込んできた。顔が蒼白だった。


「卿、モスクワが…」


「分かっている」私は葉巻を灰皿に置いた。「続けたまえ」


 彼女は震える声で報告した。


「ドイツ軍が赤の広場に入りました。スターリンはウラル山脈の向こうに逃れたとのことです」


 私は窓の外を見た。ロンドンの秋。灰色の空。子供たちが学校から帰ってきていた。


「赤い帝国が、一つ消えた」

私は呟いた。

「次は我々の番だ」


 -----


 十一月、レニングラードが降伏した。


 十二月十五日、ドイツはウラル山脈を境界線として停戦を宣言した。


「東方領土」の獲得を宣言した。新しい生存圏。新しい帝国。


 五ヶ月と二十三日。


 ヨーロッパ最大の帝国が、それだけの時間で崩壊した。


 冬将軍が到来する前に、戦争は終わっていた。ヒトラーは、ナポレオンの過ちを繰り返さなかった。


 -----


 クリスマスイブ、私は一人で戦争省の地下室にいた。


 ヨーロッパの巨大な地図が壁に広げられていた。


 私は赤鉛筆で、ドイツの支配領域を塗った。


 フランス国境からウラル山脈まで。北海からバルカン半島まで。


 一つの色で、すべてが覆われた。


「これが新しいヨーロッパか」私は呟いた。


 葉巻をくわえたまま、私は地図を見つめ続けた。煙が天井に向かって昇った。


 執事がブランデーを持ってきた。


「卿」

彼は静かに言った。

「お休みになられた方が」


「まだだ」

私は答えた。

「まだ、やるべきことがある」


 私はブランデーを飲み干した。そして新しい葉巻に火をつけた。


 長い夜が、始まろうとしていた。


 -----



 一九四〇年一月、ヒトラーは「休息」を宣言した。


「ドイツ軍は疲弊している。東方領土の統治に専念する」

諜報部の報告書にはそう書かれていた。


 チェンバレンは希望を持った。


「もしかしたら、ヒトラーは西には来ないかもしれない」

閣議で彼は言った。雨傘を手に持ったまま。

「約束通り、東方の統治に専念するかもしれない」


 私は葉巻をくわえたまま、反対した。


「首相、それは幻想です。ヒトラーの目的は、ヨーロッパ全体の支配です」


「根拠は?」


「マイン・カンプを読んでください」

私は答えた。煙を吐き出した。

「すべて書いてあります。彼は隠していません」


「しかし、ヒトラーはソ連を倒してくれたではないか。」


 

議会は、戦争準備を急がなかった。

「時間はまだある。」

それが合言葉だった。


 楽観主義。英国の病だった。


 -----


 五月十日午前五時、ドイツ軍がベルギー、オランダ、ルクセンブルクに侵入した。


「Fall Gelb」—黄色作戦。


 今度は、すべてが違っていた。


 電撃戦。装甲師団の集中運用。急降下爆撃機による航空支援。無線通信による指揮統制。


 ソ連戦で磨かれた戦術が、今度は西で使われた。


 ベルギーは十八日間で降伏した。オランダは五日で降伏した。


 フランス軍とイギリス遠征軍は、ダンケルクに追い詰められた。


 海と、ドイツ軍の間に。


 五月二十六日から六月四日まで、「ダイナモ作戦」が実施された。


 私は戦争省の地下室で、作戦の進行を見守った。葉巻を吸い続けた。一日に十本。灰皿が山盛りになった。


 三十三万八千の兵士が救出された。


 しかしすべての重装備が失われた。戦車、大砲、車両、物資。すべてが浜辺に放棄された。


「兵士は救えた」

海軍大臣が報告した。

「しかし武器は失いました」


「兵士がいれば」

私は言った。

「武器は作れる。しかし武器があっても、兵士がいなければ、我々には何もない」


 六月五日、ドイツ軍がパリに向けて進撃を再開した。


 フランス軍は崩壊していた。指揮系統が混乱していた。士気が崩壊していた。


 六月十四日、パリが無防備都市宣言を行った。


 BBCの速報が入った時、私は首相官邸にいた。


 チェンバレンが蒼白な顔で私を見た。


「ウィンストン」

彼は言った。

「パリが…」


「知っています」

私は葉巻を口から離した。

「次はロンドンです」


 六月二十二日、フランスが降伏文書に署名した。コンピエーニュの森。一九一八年の同じ場所で。同じ列車の中で。


 ヒトラーは、復讐を完成させた。


 -----


 六月二十四日、国王陛下ジョージ六世が私を召喚された。


 バッキンガム宮殿の謁見室。


「チャーチル卿」

国王は言った。声は穏やかだったが、決意が感じられた。

「チェンバレン首相が辞職を表明されました。健康上の理由と、政治的責任のためです。後任として、あなたを指名したいと思います」


 私は膝をついた。


「陛下」

私は言った。

「私には、血と労苦と涙と汗しか提供できるものがありません」


「それで十分です」

国王は答えた。彼の目には、静かな決意があった。

「イギリスには、今、それが必要なのです」


 -----


 その夜、首相官邸の執務室で、私は地図を広げた。


 ヨーロッパ大陸は、すべて赤く塗られていた。


 イギリスだけが、青いままだった。


 小さな島。二十二マイルの海峡の向こうに、巨大な帝国があった。


「さて」

私はブランデーのグラスを持ち上げた。一人で乾杯した。

「これから、本当の戦争が始まる」


 葉巻に火をつけた。煙が天井に向かって昇った。


 執務室の壁には、すでに私の荷物が運び込まれていた。葉巻の箱が何箱も。ブランデーのボトル。そして私が描いた絵画。


 ここが、これから私の戦場になる。


 -----


 七月、ヒトラーは「大ゲルマン帝国」の樹立を宣言した。


 首都ゲルマニア。領土は、ウラル山脈から大西洋まで。人口三億。


 新しい秩序。新しいヨーロッパ。


 そして次は、イギリスだった。


 BBCのラジオ放送で、ベルリンからの声明が流れた。


「イギリスは孤立している。降伏せよ!フランスはすでに手中にあり、アメリカはまだ動かぬ。抵抗は無駄だ。覚えておけ――我々はお前たちを直接支配するつもりはない。従わせるだけで十分だ。お前たちは、我が計画の前に屈するのだ!」


 私は放送を聞きながら、葉巻をくわえていた。


 そして私は、演説の原稿を書き始めた。秘書に何度もタイプさせた。言葉を推敲した。


 七月二十日、下院で演説した。


「… 我々は海岸で戦う、我々は水際で戦う、我々は野原と街頭で戦う、我々は丘で戦う。我々は決して降伏しない…」


 演説が終わった時、議場は静まり返っていた。


 そして—拍手が起きた。轟くような拍手。


 私は葉巻をくわえたまま、議場を後にした。


 戦争が、始まった。


 ────


 続く - 次章: 日本の視点、満州問題をお送りします。

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