朝、起きたらオカンが美魔女になっていたら?
――驚いたのなんの!
栄斗が朝、起きて階下に行くと、杏奈はすっかり別人になっていた。
39歳にしてすでに女を諦めたような母は、見違えるような美魔女に変身していたのだ。
この美魔女の顔、どこかで見憶えがあった。
栄斗は、ハタと気づいた。
杏奈が定期購読している女性誌の表紙を飾る顔――第6回美魔女コンテストで見事クイーンの座を射止めた真瀬垣 将子にソックリではないか。
将子さんのルックスは、わずか10歳の栄斗をもってして、色気ある華やかな美人だと思った。ただし顔の造作は左右対称で、あまりにも整いすぎて不自然に映ったが。
肌には染みはおろか毛穴さえ見当たらず、眩しいほど。
バストが程よく張り出し、腰はジガバチのようにくびれ、脚もスラリと伸び、さながら女神級のスタイルである。今にもランウェイをしゃなりしゃなりと歩きそうなほど誇らしげだ。
昨日までの杏奈は、美魔女クイーンと比べれば月とスッポンだった。
なのに、明くる日にはこうも、将子と瓜二つの人間が出来上るものか?
そういえば先日、栄斗は夕食の席で、将子を引き合いにして話題にしたことがあった。
◆◆◆◆◆
「母さん――なんでこの将子さんって、四捨五入したら60なのに、若くてきれいなの? 女の人って、なんで美にこだわるん?」
「なんやて?」
杏奈は、息子が手にした女性誌の表紙を見るなり、眼を細めた。
「この人、テレビにも出てるでしょ。毛穴ないの、凄すぎじゃね? 校長先生も同じ57だけど、すっかり枯れちゃってる。これはどう見たって、母さんより――」
「シャラップ。それ以上言ったら、ママ、承知しないから」と、杏奈は麻婆茄子をかっ込む手をとめ、麦茶で流し込んだあと続けた。「将子さんはね、ボトックス注射打ったり、しわ取り整形したり、イジってるに決まってるでしょが。それに、旦那さんは年収1,000万を超える公認会計士なの。あんたのパパは、町工場のしがない旋盤工。薄給にあえぐ我が家と違って、立派なお屋敷でペルシャ猫みたいに、お留守番してりゃいいの。毎日ヨガ教室に通ったり、エステ行ってマッサージ受けたり、自分磨きはなんでもあり。第一、肌のお手入れに1日5時間も費やすなんてありえない。ネイルアートしたまま、洗い物なんかできっこないのに。肌がきれいで、毛穴が見当たらない?――単に、フォトショップにすぎないって。栄斗って、ホントお子さまね」
栄斗の父、博人は何も言い返せない。
上目遣いで妻を見たあと、泡の立っていない発泡酒をチビリとやった。テレビの野球中継に現実逃避する。ひいきの中日も巨人にフルボッコなら、博人も杏奈には頭が上がらなかった。無心でラッキョウをポリポリ食べる。
「女の年を四捨五入すべきじゃないの。だったら、私は40代になっちゃうじゃない。まだ30代にしがみついているつもり」
杏奈は鼻息荒く、食器を片付けはじめた。
博人が独占していたラッキョウ漬けの小鉢をひったくり、容赦なくラップをかける。
片手に汚れた大皿、片手に小鉢を持って台所の冷蔵庫まで行くと、肘でドアを開け、奥に小鉢をしまった。
片足で、バン!と閉める。
白いふくらはぎはブヨブヨに弛み、色気もへったくれもない。恐らくハイヒールは似合わないし、どう頑張っても足タレの仕事はできまい。美魔女クイーン・将子の美脚とは雲泥の差である。
杏奈のドラム缶のような後ろ姿がシンクの方に行ったのを見計らって、
「ありゃ、女帝だよな」
と、博人は口に手をそえて、栄斗に小声で言った。
「じょてーって、どういう意味?」
栄斗は頬杖ついたまま聞く。
「女帝っていうのは、ウチみたいに権力を――」
「誰が女帝だって?」
ガラス戸の横から杏奈は顔だけ出して、父子を睨んだ。
「えっ……聞こえたかしら?」
「今、女帝って言ったろ。もっぺん、言ってみい!」
「じ」妻にヘッドロックをかけられた博人は、歯を食いしばった。「じ、じ、じ、じ……ジュテーム!」
「苦しいんじゃ!」
◆◆◆◆◆
こんな会話を交わしたばかりだったというのに、ある日突然、ドラム缶に手足を生やしたような杏奈が激変したわけだ。
――まさか、母さんが美魔女になっちゃうなんて。でも正直、うれしいかも!
栄斗が思うに、自身よりはるかに年上の真瀬垣 将子を引き合いにされたことが、よっぽど悔しかったのだろう。と同時に、内心まだ女を捨てていなかったらしい。
きっと父子を見返してやる!と誓い、こっそり将子監修の美魔女セミナーに通ったにちがいない。
どうりで寝室でチラシを見かけたと思った。
チラシにはこうあった――美容講座をはじめエイジングケアやら、美魔女メークのノウハウ、インナービューティー、美人の話し方レッスン、ウォーキング、美しい所作……。
――だけど、いきなり効果が出るもんか? いくらなんでも急すぎるぞ。
――じゃなかったら、魔法か。きっと将子さんは魔法使いなんだ!
「何言ってんの。私は元からこうじゃない」と、杏奈はやんわり否定するも、声は涼風さながらで、昨日までの棘がない。台所で朝食の支度をする姿も余裕綽々。「さ、目玉焼きが焼けたわよ。熱々のうちに召し上がれ」
「はへー。杏奈がこんなにも変身しちゃうと、なんか調子狂うな」
食卓についた博人は、妻の姿を眼で追い、生唾を飲み込んだ。
杏奈はすでにお出かけ用のスーツに着替えている。細身の体型に合うサイズを新調していた。タイトスカートから伸びたベージュ色のストッキングは眩しいほどきれいだ。
「母さん、薬局の仕事は9時半からじゃなかったっけ? こんなに早く出かけるの?」
栄斗はご飯を頬張りながら聞いた。
「今の仕事辞めるわ。もっとふさわしい職業を紹介されたの」
美魔女は白い歯を見せた。キラーンと輝くよう。
優雅な手つきでエプロンをはずすと、士官学校の卒業生が帽子を放るようにうしろに投げ捨てた。
「なんだそりゃ」
「私、将子さまに直接ご指導受けたの。すっかり彼女の考えに感銘受けて。美と若さへの探求心は見習うべきなのよ。何か、お手伝いできることがないかって聞いたら、セミナーの裏方のスタッフとして雇ってあげると言ってくださってね」
「すると」と、栄斗は言いかけ、思わず気管に食べ物が入り、むせた。「――あ、あの憧れの将子さんと一緒にお仕事するってわけ?」
「さぞかし給料も弾んでくれるんでしょうな」
博人は眼をむいて言った。
杏奈はとびっきりの笑顔を作ると、人差し指を立て、車のワイパーみたいに横に振った。指の爪にはゴテゴテのネイルアートが施されている。
「それだけが目的じゃない。将子さまは美魔女の教祖。私はそれに従う信者そのもの。やっぱり女に生まれたからには幸せを追わなくっちゃ!」
杏奈はそう言い残すと、我先に団地を飛び出していった。
◆◆◆◆◆
父子ははじめこそ、杏奈の変化を歓迎していた。
険のあった性格までが穏やかになった。姿形がこうも違うだけで一緒に暮らすのも新鮮味があり、楽しかった。
薬局の店員を辞め、将子の付き人の一人として採用された。
杏奈の美魔女ぶりはさらに磨きがかかった。往来を歩き、人とすれ違えば誰もがふり返った。後光が差しているかのようだった。
美魔女セミナーは盛況だった。
次々といい年こいた女性が大枚はたいて参加し、中高年女性はみんな、見違えるほど美しくなった。杏奈と同じく、明くる朝、起きたら美魔女に変身しているのだ。まさに魔法だった。
評判はSNSの口コミを通じて、またたく間に広がった。
この物価高騰で、人の財布の紐がかたいご時世、大きな金額がジャンジャン動いた。
そのうち中高年のみならず、他の世代にも波及。
10代20代までが参加するのは当たり前で、上は90すぎのヨボヨボのばあさまから、下は保育園児のおませさんまでが、受付にエントリーした。
むろん、誰しも多額の入会金を払えるわけではない。無料の簡易的な美容講座に応募したにすぎない。無料のそれを利用しても、ただちに美人になれるわけではなかった。
しかし多少なりとも効果は表れたらしい。表れたからこそ、借金をしてまで金を集め、女たちはさらなる高みをめざした。
杏奈は有頂天になった。
いつしか裏方での献身的なサポートが認められ、幹部に任命された。
同時にそれは家庭崩壊につながった。家事雑用は疎かになり、せっかくの給与を美容と若さのために突っ込んだ。
博人がいくら注意しても聞かない。
栄斗も杏奈に取りすがって訴えたが、耳すら貸してもらえなかった。
円満にいっていた関係はわずかの間だけ。
どちらかがということなく離婚話が切り出された。
栄斗の悲しみはいかばかりか。
一家が空中分解するのなら、いっそ元の杏奈に戻ってほしいと願った。なまじ美と若さを追い求めた母は、人としての本質を見失ったのではないか。
そんな家族の分裂をよそに……。
日を追うごとに、町内にとどまらず、美魔女化現象は全国へと広がっていった。
騒然となる日本中の男ども。
ニュース番組でもこの異常事態を伝えていた。有識者が雁首そろえ、もっともらしい意見を交わした。SNSではあることないこと考察が展開された。
杏奈と同様、はじめこそ変身した女たちは世の春を謳歌していたにすぎなかった。
が、時間が経つにつれ、人間の理性を失っていった。
美と若さへの飽くなき探求心は、あさましい。
同じ鋳型でコピーしたような整形顔と、モデル体型の身体で町を闊歩する美魔女たち。
見た目こそゾンビと異なるだけで、心を失ったまま群衆となってさまよい歩いていることは変わりなかった。
町は美魔女たちであふれていた。
飽くなき美と若さを求めて。
男は家に閉じこもり、息をひそめるしかなかった。
◆◆◆◆◆
栄斗は将子主催のセミナー会場に忍び込んでいた。
こうなったら、本家本元の正体を炙り出すしかない。
たかが1日で、中高年女性たちが変身するわけがないのだ。栄斗は10歳ながら、何かカラクリがあるのではないかと疑っていた。
カラクリどころか、常軌を逸した力が働いているに違いない。
広い会場では杏奈が壇上に立ち、大勢の参加者に訴えていた。
そのパフォーマンスは堂に入ったものだ。
「女性は男のために美容整形するのではない。自分のために施すのです!」
肝心の将子が見当たらない。きっと裏で母を操っているのだ。
栄斗は偶然にも、地下へ続く階段を見つけた。
忍び足で下りた。
地下のどんづまりに着いた。扉がある。
栄斗は中に潜入した。
フロアは薄暗く、いくつものロウソクの炎が灯っている。
得体の知れない異臭が鼻を刺激した。
どうやら秘密の厨房のようだ。
誰かが動き回り、火にかけられた鉄鍋をかき混ぜていた。中には緑色のおぞましいスープが満ち、グツグツと煮えたぎっていた。
かたわらのシンクには、怪しげな薬品の入ったガラス瓶や、カピカピに乾燥したトカゲやらムカデの干物などが所狭しと並んでいる。
秘薬を調合していた人物こそ誰であろう、将子その人だった。
ただしその顔は、女性誌を飾っていた美顔とは程遠く、土気色をし、顔じゅうヒビ割れていた。
将子の顔は仮面にすぎないらしい。
「おまえが母さんを操ってるんだな!」
栄斗は飛び出し、将子と対峙した。
「やれやれ、とんだ邪魔が入ったようだね」と、腰の曲がった将子は鍋から離れると舌打ちした。「だけど、もう手遅れさね。この秘薬を飲んだ女どもは私の虜さ」
「何のためにこんな酷いことを!」
「見たろ、小僧。女どもの飽くなき欲望を。それを逆手に取りゃ、世界はかんたんに私のものに落ちるってことさ。金もたんまり集まる」
「世界征服のために、おまえがみんなを騙したのか!」
「もうすぐ美魔女スープが完成する。これさえあれば女どもはイチコロさ」
将子は言うそばから、顔から仮面のヒビが剥がれ、素顔が露わとなった。
下から現れたのは、シワシワの干し柿そこのけの老婆の顔だった。
腰が曲がり、むき出しになった生脚は、まるでぬか床に漬けたたくあんのようだ。
「逃がすもんか、魔女め。元の母さんを取り戻す!」
栄斗は厨房を回り込み、背を向けた将子に近づいた。
将子は壁に立てかけた箒を手にし、天井に嵌められた鉄板を外した。真上に向かって穴が開いている。地上につながる通路らしい。
将子は箒にまたがった。
真上に、それこそハリアーが離陸するみたいに宙に浮かび、そのまま通路を浮上するつもりだろう。
「ハッ!」
将子の裂帛の気合。
ところが垂直離陸するどころか、ブリッ!と屁をこいただけだった。
了
なにぶん文字数が足りなくてな(#^^#)




