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第1話:「乳母の指が曲がっていた」

僕は泣かない。


この体が赤子のものでも、声帯が未発達でも、泣こうと思えば泣ける。

でも泣かない。泣く理由がない。

むしろ、泣くという行為の形の不格好さに、心底うんざりしていた。


乳母が僕を抱き上げる。

彼女の指は太く、短く、関節がふくれていた。

薬指の先だけ、わずかに内側に曲がっている。


それに気づいた瞬間、僕は目を逸らした。

いや、目を逸らしたくて逸らしたわけじゃない。

その“線の歪み”が、僕の視界にあるだけで耐え難かったのだ。


「おや、お顔を背けられましたねえ。いやですねえ、私の顔が怖いのかしら」


違う。

怖いのではなく、整っていないのだ。


彼女の声は濁っていた。音程に乱れがあり、抑揚のつけ方も不自然だった。

言葉というのは、もっと滑らかに並ぶべきだ。

前世でそういうことを、僕は何万回も考えていた気がする。


「坊ちゃま、よくお眠りになってくださいね」


僕は眠くなかった。

むしろ、目を開けていたいと思った。

この世界をもっと観察したかった。

どうしてこんなにも、整っていないのか──それを知るために。


彼女の指が僕の額に触れたとき、眉の形が視界に入った。

左右非対称。まばらな毛。目尻の角度が、対になるはずの反対側と合っていない。


そして、彼女は笑った。


その笑みは、歪んでいた。

笑うという行為に、もっと理想的な線の動きがあるはずなのに。


──僕は、怒っていた。


この世界はどうして、誰も整えることをしないのか。


目の形。

声の響き。

家具の配置。

布の折れ目。

壁にかけられた絵画の角度。


すべてが、乱れている。


そして、誰もそれを不快と感じていない。

彼女は、笑っていた。満足そうに。幸福そうに。


気が遠くなった。

眠気ではない。

拒絶感。


この世界が、このまま続くのだとしたら──僕はそれを、受け入れられない。


僕はもう一度、彼女の指に目をやった。

あの曲がった薬指が、視界の隅に引っかかって、ずっと離れない。


どうしてその指をまっすぐにしようとしない?

どうして気づかない?

どうして、笑っていられる?


その夜、僕は眠らなかった。

目を閉じているふりをしながら、ずっと天井を見ていた。

わずかに斜めになった木の目を数えて、どれほど歪んでいるかを考えていた。


歪んでいる。

すべてが。

そして──直されるべきだ。


僕が、この世界を、美しくしなければならない。

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