王子様のキスがあれば幸せになれるんでしょ?
私の名前は、ソフィア・ティアルジ。
ティアルジ公爵家の長女であり、このウェルンスト帝国のたった一人の公女だ。
自分で言うものなんだが、私は容姿端麗であり、公爵家の娘として権力すらも兼ね備えていた。
愛らしいピンク色の髪に、淡い水色の瞳。垂れた目元が可愛らしく、きゅっと上がった口角が愛らしい…。
どこからどうみても、私は完璧だ。
謙遜もせずに図々しい女だと思う人もいるかもしれない。だけど、私は自分が恵まれていることに気づかないほど馬鹿ではない。
理解した上でそんなことはないという方が白々しく腹立たしいではないか。
人から妬まれることだって少なくなかった。十七年間という短い人生で、何度僻みごとを言われたか、それは数えきることはできないほどだった。
『貴女の人生はさぞかしイージーモードだったでしょう?』
いつぞやの令嬢とのお茶会で言われたこの僻みの言葉が私は今でも忘れられない。
あぁ、その通りだな。と、思った。
私はかわいくて、権力者で、人生はとんとん拍子に進んでしまう。
まさに、私の人生はイージーモード!
・・・そう、思っていたわ、今までね。
「今、なんと言いました…?」
「何度も言わせないでくれ、ソフィア! 僕たちの間で結ばれた婚約を解消してほしいんだ」
ケロッとした顔でとんでもない事を言っているこの男の名前は、イシス・ステファン侯爵令息。彼は私の婚約者だ。
イシスとの婚約は今から七年前。私が十歳の頃、イシスが十二歳の頃に結ばれたものだ。
イシスと私の間に、特別な恋愛感情があったわけではない。ただ、今は亡き私の母とイシスの母親が旧友だったことから、イシスとは昔から顔を合わせる頻度が多かったのだ。
私に一目惚れをしたというイシスは何度も求婚してきた。初めは面倒に思っていたが、恋愛感情は生まれなくとも、彼とは友人として良き関係を築けるかも。そう思ったから、私は彼と婚約したのだ。
公女の私が、ただの侯爵令息とよ? それなのに、貴方は私を裏切ったと言うの...?
「イシス様、どうか落ち着いてください。……それは本気で言っているのですか?」
「公女様、私が悪いのです! どうかお許しくださいっ」
私の話を遮った、この涙を浮かべている女性はアンリエット・アンジール嬢。アンジール男爵家の一人娘だ。
そう言えば、近頃令嬢たちの間で流行りのロマンス小説で何度かこのシチュエーションを見た覚えがある。
婚約者が居た主人公が、ぽっと出の女に婚約者を奪われてしまうシーン。
…まさか、私がこっち側だったなんて。
どちらかと言えば、私はか弱く殿方に頼って涙を流すヒロイン役だとばかり思っていたわ。
「どうしてアンリエット嬢がこちらにいらしているのかと思いましたが…そういうことだったのですね」
男爵の娘と侯爵の息子が二人。
『レベルの低い者同士お似合いじゃない? どっちもクソね』
...そう言ってやりたいけど。無理ね、私のキャラじゃないし。
「黙れっ!! 俺はもうお前を愛していないんだっ!!」
何も話していないのに、イシスは私に向かって突然『黙れ』と言い放った。
その途端、机に置かれた紅茶の入ったティーカップを手に持ち。そしてそのまま、私が目を見開く間もなくイシスは紅茶を振りかけてきた。
淹れたばかりの熱い紅茶が私の身体にふりかかる。
「熱っ、い、一体、何を…」
何故こんなことになったのか、理解が追いつかない。
どうして完璧な私が、この小生意気な侯爵令息に紅茶をぶっかけられなきゃいけないの…?
「これで分かったかソフィア!」
「まぁ! かっこいいわイシス様!」
机に足を置き「どうだ!」と声を上げるイシス。それに対しよくやったとでも言いたげなアンリエット嬢。
…なに?なんなの?この人たち。
淹れてから時間は経っていたといっても、白い湯気をたてていた紅茶はとても熱く、私の体をヒリヒリと痛めるには十分な熱さだった。きっと、軽度のやけどになってしまっているのだろう。
思わず叫び声を上げそうになったが、今この家にはお父様が居ることを思い出し、必死にこらえた。
「…分かりました。」
自分の中にふつふつと込み上げた怒りを必死に抑え、冷静を装い私は話した。
面識のない殿方と政略結婚するくらいなら、私のことを命懸けで産んでくれたお母様の顔を立てて、友人のように良い関係を築けるイシスと結婚した方が良いと思っていた。
だけど、それは私の間違いだったようね。
イシス・ステファンとの婚約破棄、これは私の人生最大の汚点になる。
でも、だからといって泣いて捨てないでくれとすがるほど、この馬鹿な男に価値はない。
「取り敢えず今日のところはお二人ともお引き取りください、後日お互いの親を交えて今後の話し合いを…」
「プッ! ははは! なぁんだ、やっぱりソフィアは俺が好きなんだな~」
「……はい?」
私が話している中、突然吹き出したかと思えばお腹を押さえて大笑いしだしたイシス。続けて、満足げに微笑みながらたわけたことを話し始めた。
私が貴方を好き? 今の会話でどう考えればその受け取り方になるのか。なによ、ついに頭まで壊れちゃったの?
「ソフィアこれは全部ウソなんだ! いやぁアンリエット嬢が提案してきた時は驚いたが、やっぱりやってみて正解だったな!」
「……嘘?」
「だぁから! これは全部ウソさ! ソフィアを驚かせてやろうと思ってな!」
やってやったと言わんばかりに「へへっ」と鼻の下を指で擦るイシス。
この人、本気で言っているの? これまでの流れを『嘘でした!』なんて一言で本当に済むと思っているの?
婚約破棄を提案してきた時点で馬鹿だと思ったけど、まさかそれ以上の馬鹿げたことをしてくるなんて。
私の色白の肌は、やけどのせいで少し赤くなっている。風に当てられて痛む肌は、私の心を苦しめた。
「…それは、婚約破棄はしないと言うことですか?」
「当たり前だろ! 俺達は愛し合っているんだからな!」
愛し合っている? 俺達? 本当にこの男は何を言っているのか。
私は一度だって、イシス・ステファンを愛したことなどない。ただお母様の顔を立てて貴方と婚約を結んだだけ。貴方と私の関係は、それ以上でも以下でもない。
「……貴方はとても大きな勘違いをしているようですね。…いいえ、もう構いません。私は貴方のようなカス、いりませんから」
怒りが我慢できなかったとか、限界が来たとか。そういうものではない。ただ、これ以上この人たちの前で猫を被る必要性が無いと考えたからだ。
私の話を聞いた途端イシスは信じられないと言った顔をした。そして、震える声で「は?」とだけ呟いた。
「ソフィア、今なんと…」
「あらイシス様、心だけじゃなく身体までもカスなようですね。耳が遠いのですか? それとも理解出来ないほど脳が小さいのでしょうか」
普段から温厚で優しい、淑女として完璧だった婚約者の豹変ぶりにイシスは驚きを隠せないでいた。
「どうぞどうぞ、私の事なんてお気にならさず、カス同士お幸せに。」
「なんて下品な…! 訂正しろソフィア!!」
みるみるうちに顔を真っ赤にして私を怒鳴るイシス。私よりも三つ上で、もうすぐ成人を迎えるというのに。感情を露わにして怒りのままに叫ぶ。これではまるで獣じゃない。
「令息、私の名を気安く呼ばないでいただけますでしょうか?」
「はっ、わ、分かったぞ! ソフィア、君は拗ねているんだな?!」
しつこく私を引き留めようとするイシス。その横で今更慌てているアンリエット嬢。
拗ねているですって…?
私が、貴方たち二人の関係に嫉妬心を持ち暴走しているとでも思っているのか。
「…ほんっとうに馬鹿ですね。」
イシス・ステファン。少し抜けたところがある人だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿な人だったとは思わかなかった。
それを初めから知っていたら、私は貴方と婚約をすることは無かった。
「婚約は破棄いたします」
これ以上、この馬鹿な男に付き合わせられていたら、堪ったもんじゃない。
「婚約破棄だと? いくらなんでも酷いではないか!」
だらしなくソファーの背もたれに倒れ込んでいた彼は慌てたように立ち上がる。婚約破棄という言葉を聞いて、焦っているのだろう。 きっと彼は、私にその反応を望んでいたのでしょうね。慌てふためき、必死に泣きつくさまを。
申し訳ないけれど、私はアンタにそこまでの興味が無いのよ。
「私にまで酷い言葉をぶつけるなんてあんまりではありませんか公女様! …フィリップ様に、フィリップ様に言いつけますわよ!!」
アンリエット嬢も流石にヤバいと思ったのか、彼女の婚約者であるフィリップ伯爵の名前を出した。
伯爵って…イシスが馬鹿なら彼女も相当の馬鹿ね。どうして公爵令嬢の私がたかが伯爵の名前を気にするのよ。
「どうぞご勝手に。忘れているようですが私は公爵家の娘で、貴女はただの男爵家の娘。立場を考えてください」
二人の頭の悪さに疲れ、一つため息をついた後。「リリー」とメイドの名前を呼ぶ。すると、待ってましたと言わんばかりにすぐに扉からひょっこり顔を出したリリー。
「お呼びでしょうか、公女さ……公女様?! どうされたのですその格好は!」
紅茶に濡れ、髪もドレスも滅茶苦茶になってしまった私の姿を見て。リリーは驚きのあまり声を上げた。
「私は大丈夫よ。お二人との話はもう終わったの。さあ早く、すぐにこのお客様たちをお連れしてちょうだい」
メイドにこのアホを連れ出せと指示をすると、それを聞いた二人はまた騒ぎ始めた。
「待て! 俺を追い出すっていうのか?! 俺は君の婚約者だぞ!」
「これ以上お話することありません」
「ッ…!!なんだと!話ができるまでここから動かないからな?!」
変な声を出さないでちょうだい、汚い。貴方の汚らわしい唾が美しい私に飛んだらどうするのよ。
顔を真っ赤にして私に叫び散らかすイシス。
その姿を見て、私はやはり婚約破棄をするべきだと改めて理解した。
私に怒鳴り散らかす男との結婚なんて、絶対に嫌よ。
「どうしてくれるんだアンリエット嬢!!」
「なっ、私のせいにするおつもりですかイシス様!」
「当たり前だろ! 君から言い出したんじゃないか!」
「イシス様だって良い案だと言っていたではありませんか!」
人の婚約者に馬鹿げたことを吹き込むリアナ嬢に呆れる。そんな馬鹿げたことを実行する馬鹿なイシス様の頭の悪さに腹が立つ。
お願いだから馬鹿な真似はもう止めて、これ以上私を腹立たせないでちょうだい。
「忘れているようなので言わせて頂きますが、ただの侯爵令息と男爵令嬢が公女である私の命令に逆らえるとでもお思いですか?」
私がそう言うと、二人の顔は段々と暗くなっていった。
やっと思い出したのかしら、自分の立場を。
「………なーんて。少し言いすぎてしまいましたね。」
「ふふ」と笑い声を続け、笑みを浮かべる。すると、みるみるうちに二人は分かってくれたのか!とでも言いたげな様子で顔を明るくした。
「ソフィア!!」
「公女様…!!」
馬鹿、間抜け面、アンタたちの顔を見ると不快で仕方ない。いくら私を馬鹿にすれば気が済むのよ。
「貴方達にされた今日の屈辱的な行為は一生忘れません。そうね、私はめんどくさい性格なので二人に私情を挟んで色々なことをしてしまうかもしれませんね…」
二人の顔がだんだんと暗くなっていく。
「ですがどうかお許しくださいね、私の可愛さに免じて♡」
私は口を閉じるのも忘れて動揺しているアンリエット嬢と、アホ面の元婚約者様に笑顔を見せた。
アンタみたいな馬鹿で間抜けな婚約者はこっちからお断りよ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「ステファン侯爵とアンジール男爵には私から話を付けておく、お前は何も気にすることはない。」
私の父、ロイド・ティアルジ公爵は話した。
冷たい声…。
私が生まれたことによって命を落とすことになったお母様。私の家族は、この冷たい父と長期にわたって隣国の学校に留学している兄が一人。
この冷酷なお父様が、私に興味を示すわけもなく。
だから私には、家族の愛というものが上手く分からない。だけど、その冷たい声は娘にかけるものではないことは分かっていた。
「お手数おかけしてしまい申し訳ございません」
「気にするな。ティアルジ公爵家の娘に牙をむくことは、私に歯向かったことと何の変わりもない」
娘のためではなく、ティアルジ公爵家のためだってわけね。
私を娘として愛するつもりなど微塵もなく、私がこの男に娘として愛されるなど、期待してはいけないのだ。
「承知いたしました、お父様。」
私の「お父様」と言った言葉にピクリと眉を動かしたお父様。
そんなにも私が嫌いなのか、それとも自分の妻を殺した娘に父と呼ばれることが不快なのか。
...その両方ともか。
「だが、婚約破棄は帝国法で厳しく定められている。一度結んだ婚約を破棄するためには陛下の許可と、それなりの理由が必要になる。そう簡単にはいかないだろうが…」
その話が来ると分かっていた私は、お父様の言葉を遮り「その件は問題ありません」と話す。
「私がどうにかします。ですのでお父様はステファン家とアンジール家への対応をお願いいたします。」
端的に話をすると、お父様は「分かった」と返事をした。
親子の会話とは思えないほど業務的な会話を行った後、私は執務室から去ろうとした。
ドアに手をかけようとしたその時。
話している間も常にガリガリと音を立てて書き物をしていた手を止めたのか、音が止んだ。
「お前はまだ子供だ」
「……はい?」
突然話し始めたかと思えば。私はまだ子供…それは、どういう意味だろうか。
「…いや、なんでもない」
何故そんなことを言い出したのか気になるが、問うほどの気力も、度胸もない。
家族の、血の繋がった親族の前でだけはどうしても上手く振舞うことができない。適度な距離を取って業務的な会話をこなすだけ。
それが、私たちなりの家族愛だ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
今日は貴族の娘としての務めである、パーティーに参加していた。
私はあまり社交界の場が好きではない。その為、なるべく避けるようにしていたが今日はシャルロッテ公爵家の当主様の誕生日を祝うパーティー。同じく公爵家の人間である私が参加しないわけにもいかない。
友人の少ない私は隅で一人、ここまで来る道中に使用人から受け取ったシャンパンを片手に立っていた。
私のいる場所から、少し遠い場所にいる男。彼の周りには大勢の人が集まっていた。
今夜の主役、ノア・シャルロッテ公爵。
彼はアスタリア帝国、皇帝陛下の甥であり、聡明で政治に長けている人。陛下には一人息子である皇太子殿下が居るが、陛下は実の息子よりもノアの方を気に入っていた。
それはけして、甥だからという理由だけではない。帝国のために動く、従順で優秀な男を陛下が嫌うわけがない。それに皇太子殿下は少し…というか、かなり抜けている、どうしようもない人だからだ。
「公爵様は今日も素敵ですわ…」
「ノア・シャルロッテ様! なんて素敵なお方なんでしょうか!」
頬を赤く染め、目をハートにして令嬢たちはノアを見つめた。
流石、花公爵と呼ばれるだけあって、地位や名誉だけでなく彼の美しい容姿に惹かれる令嬢たちも少なくはない。
彼が会場に入ってすぐ、令嬢たちが彼を囲んだ。
それもそのはず、その甘やかな美貌を一目見れば誰しもが目を惹かれるだろう。
美しい黄金の髪に、サファイアをそのまま埋め込んだかのような青い瞳。どんな令嬢でもすぐに虜にしてしまう、絵本の中の王子様の理想像そのもの。
ふふ、王子様ね。
…なんだ、元気そうじゃない。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「ごきげんよう、ノア・シャルロッテ公爵様。本日は公爵様のお誕生日をお祝いすることが出来て本当に幸せですわ」
ドレスのスカートをふわりと持ち、片足を後ろへ下げ、軽く頭を下げる。
すると、ノアはにこりと微笑み、正式な方法で挨拶を返した。
「これはこれは、ティアルジ家の公女様に来ていただけるとは」
「もちろんです、私はこの日を心待ちにしておりました」
「本当ですか? 実は、公女様は社交界が苦手な方ですので来て頂けるか不安だったんです。」
「まさか、私が来ないはずがないではありませんか」
彼と談笑をしていると、何か視線を感じた。視線をずらすと、そこに合ったのはイシスとアンリエット嬢の姿。
普段見かけない二人が一緒に居るところを見ると。お馬鹿な二人のことですから、先日の件でどうにか私のことを丸め込もうとでも作戦会議をしていたのかもしれないわね。
「大丈夫ですか? 公女様」
イシスとアンリエット嬢に意識が向かっていた私は、ノアとの会話中だということをすっかりと忘れてしまっていた。
彼に声をかけられ、やっと気が付く。
「……あぁ、ごめんなさい、少しぼーっとしてしまいました」
「それはいけない。主治医を呼びましょうか?」
「いいえ、本当に大丈夫です公爵。人込みに酔ってしまっただけですので」
かっこよくて、優しくて、権力者で、おまけにお金持ち。皇帝陛下の甥であり、陛下からの寵愛を受けている人物...。
その時、私の中で先日のお父様との会話が頭に浮かんでいた。
『婚約破棄をするには陛下の許可がいる』
ティアルジ公爵家にこれ以上力を付けさせたくないと考えている皇帝陛下が、ティアルジ家の娘である私と侯爵令息の男の婚約破棄を認めるはずがない。
「それならよろしいのですが…どうかお体にはお気をつけください」
「ご心配頂いてありがとうございます、公爵様」
皇帝陛下からの寵愛を受けた甥。
帝国に二つしか存在しない公爵家の当主。身分だって、申し分ない。
・・・これしか、無いみたいね。
「あの、公爵様...」
私はこの時、必死に込み上げてくる笑みを我慢していた。
「また近いうちにお会いできませんか? お話したいことがありますの」
だって、仕方ないでしょ?
最高のカードを見つけてしまったのだから。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「……それは大変苦労をされましたね。しかし公女様、その話を僕にされる理由が分かりません」
まぁ、それもそうよね。
貴族の令嬢が殿方の家に伺うというのは、婚約者同士の間柄。または、婚約を申し出ることが多い。だが私は世間体ではイシスと婚約済み。既に婚約者がいる私が独身の彼に話したいことがあると申し出た時は、きっと彼はかなり困惑しただろう。
まぁいざ、話を聞いてみればただの婚約者に馬鹿にされた惨めな女の話…だけどね。
「単刀直入に申し上げます、公爵様。」
おほんと一つ咳払いをして、私は口を開く。
私は考えたのだ。本当に、よく考えた。もっと他に良い案があるのではないかと。
しかし、立場が上に行けば行くほど人というのは賢く強欲なもので、何の得もなしに手伝ってくれる人など居ない。……ならば、結婚してしまえばいい。公女の私を妻に迎えることは、相手にとっても利益でしかないだろう。
その条件で、ノアはとても都合が良かった。
昔、と言っても今から数年ほど前のこと。シャルロッテ公爵家と私の家、ティアルジ公爵家は仲が良い方だった。公爵家同士上手く釣り合いを取っていたと思う。しかし、近頃は鉱山の取り合いか何かで、少し揉めていると家庭教師から聞かされていた。
それも私と彼が結婚すれば上手くいく。全てにおいて利点が効くのだ。もうこれは、天がこの男と結婚しろと言っているに違いない。そう思った。
私は渋ることなく、至って平然と話す。
「私と結婚しませんか?」
私の言葉に、信じられないと言った目で私を見たノアは「は、はは…」と小さく笑い声をあげた。
彼の乾いた笑いは、普段の嘘くさい作り笑顔に比べたら、よっぽど人間味がある。
「………驚きました。まさかティアルジ家の姫君が冗談を言う人だとは思ってもいませんでした」
「公爵様、これは冗談ではありません」
「…しかし、公女様は既に婚約者がおられるではありませんか」
即答といった形でノアは私の言葉に返事をした。私がノアに話したのはあくまでイシスとアンリエット嬢に嘘の宣言をされた。というところまで。
ノアはきっと、私がイシスと婚約関係を破談にするとは夢にも思っていないのだろう。それほどこの国では、一度結んだ縁を解消することが難しいとされているのだ。
「私はイシス侯爵令息と婚約関係を続けるつもりは一切ありません」
私の予想は当たっていたようだ。
ノアは私の話を聞くと、驚きの表情を浮かべたまま、すぐに黙り込み沈黙した。
「それは一体どういう……いや、しかし婚約関係の破談は帝国法で決められているはずだ。余程の理由。それも、皇帝陛下の許可が無ければできない。君がただの男爵の娘であったりすれば簡単な話だが、君の公女という立場では簡単にいかないであろう」
「理由ならあります。その…人様にお話しするような話ではありませんが、私は彼に熱湯を浴びせられました。それだけあれば離縁の理由として使えるはずです」
侯爵令息に公爵令嬢の私がそんな目に遭わされたと人に話すのはとても恥ずかしく、少し目線を逸らして彼に言った。
すると、彼は突然椅子から立ち上がった。
「…なんだと? 怪我は、怪我はしていないのか!」
ノアは数回瞬きを繰り返した後。私の目を真っ直ぐ見ながら話し始めた。
その青い瞳には動揺が見えたが、それでも、いつもと変わらぬ優雅さが漂っている。
「落ち着いてください公爵。ご心配いただきありがとうございます、私は大丈夫です。少しやけどを負いましたが一日で治る程度の軽傷でした」
かなり動揺しているように見えたノアを窘めるようにして話すと、彼は暫く黙った後深い溜息を吐いた。
「……イシス・ステファン。とんだ、クソ野郎ですね」
彼はそう小さく呟いた。普段から温厚で優しいと有名な彼から、そんな言葉が出るだなんて思っても居なかった。
思わず賛同の声を漏らしそうになったがグッと抑えた。
「あなたにとっても、私との結婚は悪い話では無いと思います。皇帝陛下が口うるさく仰られているようですね、そろそろ妻を迎えろと。私はウェルンスト帝国唯一の公女です。現時点で、私よりも身分が高く、あなたに釣り合う令嬢はいません。」
私の言葉にノアは顔色一つ変えることなく、口元に手を添え本当に小さな声で「ふむ」とだけ答えた。
「確かに悪くない話だが…それならば帝国の光である皇太子殿下に申し込めばよかろう。彼は君に惚れ込んでいるという話では無いか。」
ウェルンスト帝国で、公女である私よりも身分の高いとされる殿方はこの帝国に四名。
帝国の星である皇帝陛下、その息子である皇太子殿下。私の父親、ロイド・ティアルジ公爵。そしてこの目の前にいる彼、ノア・シャルロッテ公爵様だ。
皇帝陛下には皇后陛下がおられるし、お父様はお父様だし。そうなれば私の選択肢にはノア以外に残ったのは皇太子殿下だが…。
「それは嫌です、絶対」
私は即答で返した。
彼は不思議そうに「何故だ」と問いかけてくる。
「だって彼、私のタイプじゃないんですもの」
皇太子殿下とは、立場上何度も会話を交わしたことがある。はっきり言って、苦手だ。
性格は勿論のこと。なにより顔がタイプじゃない。私は面食いなの。とっても可愛い私には、それなりに美貌を持ち合わせた殿方でなければ相手が可哀想だわ。
「ふっ…」
笑いを堪えるノアは、今までに見たことのない顔をしていた。
「それじゃあ僕はティアルジ家の姫君に選ばれたというわけですか」
何故か嬉しそうにそう話すノア。
まぁ、そりゃあそうよ。この帝国であなた以上に魅力的な人は居ないと断言できるわ。
その人を小ばかにしたような笑い方には腹が立つけれど。それでもあなたは完璧な人。聡明で何事にも優れており、完璧という言葉がこれほど似合う人間は他にいない。
「えぇ、そうですよ」
公爵家の令息として生まれて、美しい美貌に恵まれたあなたが自分の価値を理解していないはずがない。同じ立場で生まれた私は、それを理解している。だからこそ私の言葉に不思議がる彼を不思議に思った。
だが、どうしてそんな風に話すのか。と聞きだすほど私と彼の親密性は高くない。平然を装い、そうだ。と答えることで精一杯だった。
「それならば仕方ありませんね」
ノアは少し満足げにそう言った。
そして、彼はまた軽く笑う。するとソファーから立ち上がり、反対側に座っていた私の目の前まで来た。目線を合わすようにして片膝をつき、右手を左胸へと添えて話し始める。
「あなたの結婚の申し出、喜んでお受けいたします。」
静かに目を伏せて、冷静沈着にそう語る彼の姿はまるで童話に出てくる王子様のようにかっこいい。
彼が王子様なのであれば、今お姫様は私なのではないか? そう考えると、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
両親の都合で彼とは昔何度か遊んだことが会ったが、今となってはあまり良く思い出せない。以降は社交界で何度か顔を合わせる程度の人。
…そんな人と、結婚をしてしまうなんてね。
「交渉成立ですね」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「ごきげんよう、イシス侯爵令息。本日はお越しいただきありがとうございます。」
既に謁見室へ通されたイシスに建前上のお礼の言葉を並べ、椅子に座る。
予め、謁見室には普段使われているソファーと机は片づけて貰い、大きい長方形型の机と椅子を用意させた。
これで感情的になったイシスが私にお茶をかけるような真似は二度と起こらないだろう。念のため、部屋の前には衛兵も用意させてある。
こんなことを考えないといけないなんて、ほんと、ありえないわね。
「ソフィアお前! ノア公爵と密会を行っていたそうじゃないか!」
丁寧に挨拶をした私に、全く返事を行わず下品に大声を上げ私に怒鳴った。
「突然どうされたのですか? 確かに彼とは会っておりましたわ。ですが、別に密会というわけではありません。」
冷静に返事をすると、彼はまるで納得がいかないといった様子で「嘘だ!!」と叫ぶ。
横暴で品性下劣な人。彼とは、ノアとはまるで違うわね。きっと今回の事件が無くとも、いつかは彼と離縁することになっていたでしょう。
「……相変わらずですね貴方は。ですが今、彼の名前が出たことはこちらとしても都合が良いです。令息、簡潔に申し上げさせていただきますが……。私は貴方と婚約を破棄し、ノア・シャルロッテ公爵様と結婚をすることにしました。今日は、その件についてお話をするためにお越しいただきました。」
冷静沈着に私が話をすると、彼の顔はみるみるうちに真っ赤になった。
「ふ、ふざけたことを…まだそんなことを言っているのか!! 分かったぞお前、シャルロッテ公爵と愛人関係だったんだな?!」
この人は仮にも貴族の人間。
それなのに、誰彼構わず人を罵倒して…本当に信じられないわ。今の発言は私だけでなくノアのことも批判しているのよ。
「そんなはずがないでしょう? 彼との結婚を決めたのは、つい先日のことです。」
イシスがしたあの日の出来事は、許せないし、今後許すこともない。
私は今までにないほどの屈辱を受けたのだから。この、忌々しい男によって。
「婚約破棄にはそれ相応の理由が必要になる」
「それなら大丈夫です、貴方から熱湯を浴びせられた話をします」
「なっ…! 俺は、認めないからな」
「別に貴方が認めなくとも、公爵の娘の私と、侯爵の息子の話。世間はどちらを信じると思いますか? それに、証言人として私のメイドを用意してあります」
イシスの言葉に全部的を射た返事を返す。最終的に、返す言葉が無くなったのだろう。彼は黙り込んだ。
「……そんなこと、偉大なる皇帝陛下が許可するはずがない!!」
俯いていたイシスは、やっと口を開いたかと思えばそのようなことを言い出した。考え着いた先が、皇帝陛下の名前を出すことだったとは。彼は、本当に何も分かっていないみたいね。
「シャルロッテ公爵は皇帝陛下の甥です。それに、皇帝陛下も我がティアルジ家とシャルロッテ家の縁を結ぶことに対し、とてもお喜びになられておりました。既に許可の方もいただいております。」
ノアは皇帝の甥であり、皇帝は自分の出来の悪い息子よりも聡明なノアを気に入っている。だから、この帝国で彼以上に皇帝の寵愛を受けている人はいないのよ。
皇帝陛下はお気に入りの甥からのお願いは、二つ返事で許可を出したわ。
「つまり、後の手続きは貴方だけよ」
「…俺は認めないからな!!」
「認めるとか、認めないとか。今更そういう話ではないのよ」
「だって、だって、俺らは愛し合って…」
目線は机に落ち、震える唇でそう語るイシスの姿は本当に惨めだった。
私はもう、貴方に情はないし。
そもそも恋心だなんて一度も覚えたことは無かった。
「イシス子、貴方は間違っていますわ」
愛だの、恋だの。馬鹿馬鹿しい。
彼は何度も愛し合っていた。というが、それは私がイシスを愛していないということだけでなく。そもそも、彼だって私を愛したことはないのだ。
「貴方はいつだって自分のことばかりじゃない。一度だって、私の気持ちを考えてくれたことはあった? 婚約破棄を申し出たり、私に熱湯をかけたり……。貴方が本当に私を想い、愛しているのなら、きっとそんなことをするはずがないわ」
彼が愛しているのは、私自身じゃない。
彼は、公女という私の身分を愛しているのよ。
私のことをいつも友人たちに自慢していたものね。自分の婚約者が公爵家の娘であり、帝国に一人の公女という事実にとても気分が良かったのでしょう。
「クソっ…なんでだよ…くそっ…」
机に突っ伏し、「うぅ、うぅ」と苦しげな声を何度も漏らすイシス。
私は椅子から立ち上がり、遠く離れたイシスの元まで歩く。しかしかなり意識が乱れているのか、彼はそれに気づいていなかった。
座る彼を見下ろした私は、紅茶の入ったティーカップを手に取ると。それをそのまま彼にかけた。
じょぼじょぼ…と音を立てて彼の髪へと滴り落ちる紅茶。彼は何が何だか分からないとでも言いたげな顔で、目をぱちり、ぱちり、と瞬きをした。
「熱湯でないことを感謝してくださいね」
一度私は彼に熱湯を浴びせられたのだ。同じことをしても文句は言えまい。
そもそも、公女である私がただの子爵令息に熱湯をかけようが、誰もそれをとがめない。
でも、私はそれをしなかった。わざわざメイドに早い時間から彼にお茶を出させ、元々温度を人肌程度にしていた。
私の良心が働いたのか。それとも、幼いころから傍に居たこのお馬鹿な男に情がまだ残っていたのか。それは分からないし、考えるのも面倒だ。
諦めたようにぐったりと椅子に座り込んだイシスは、抵抗もすることなく背中を小さく縮こまって震えていた。
小さくうめき声をあげているところをみると、もしかしたら泣いていたのかもしれない。
でもごめんなさい、紅茶に濡れているから分からないわ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
事はとんとん拍子に進み。
私は今日、生まれてからずっと暮らしてきたティアルジ公爵邸を離れ、シャルロッテ公爵家に嫁いできた。
今私が居る部屋は、新たに私の自室だと用意されたシャルロッテ公爵邸の一室。
ここまで来るのに、大勢の人が私に協力してくれた。
そしてなにより、彼が……ノアが居なければ、私はここまで来れなかったと思う。
皇帝陛下は、我がティアルジ公爵家よりも、自身の甥にあたるノアが当主であるシャルロッテ公爵家寄りの人間だった。
皇帝陛下は、私と侯爵令息であるイシスが婚約関係であることを、誰よりも喜んでいたかもしれない。これ以上ティアルジ公爵家に力をつけさせたくないと考えたからだろう。
しかしそれは、私とノアの。
ティアルジ公爵家の娘と、可愛がっている甥の結婚となれば話は別だ。皇帝陛下は、自身の息子よりも甥のノアを気に入っている。
そんな可愛い甥のノアには、誰よりも最適な婚約者を選んでやりたかったのだろう。侯爵家や伯爵家の令嬢たちと見合いをノアに進めていたと噂で聞いた。
しかし、名前が挙がった令嬢たちは皆、私よりも身分が低い。公女である私が結婚相手として名乗りを上げれば、誰も私には敵わない。
だからこそ、皇帝陛下から婚約破棄の許可をいただけたのは他の誰でもない、ノアのおかげだ。
そして私の元婚約者である、イシス・ステファン。
彼は現在、侯爵の知人が所有する隣国の子会社で働いているそうだ。流石に貴族の身分である彼に体仕事をさせるわけにはいかないようだが、代わりに精神的にかなり辛い仕事を任されているそうだ。
侯爵は私に土下座をして必死に謝罪をしてきた。そして、イシスをその会社で働かせ、十年間ウェルンスト帝国には帰ってこさせないことを私に約束した。
そこまで酷い罰をあたえなくとも…とは思ったが、きっとそれは侯爵なりの息子への優しさなのだろう。
イシスが私に熱湯をかけたという話は、おしゃべり好きで顔が広いメイドのエリーによってあっという間に帝国中に広がった。
その状態では、イシスがウェルンスト帝国で生きていくことは難しいだろう。
十年後、この国に帰ってきたところで長男でもないイシスはステファン家の後を継げるわけではない。
だがそれも、公女である私を妻に迎えたとなればそれも違ったはずだ。彼が夢だと語っていた『イシス・ステファン侯爵』となる夢も叶ったかもしれない。
少し抜けていて、私よりも歳が上なはずなのに子供らしい彼の夢の手伝いになってあげることを、悪くないと考えた時だってあった。
…本当に馬鹿な人。今となっては憎き相手でも、彼は私の友人だった。勿論、今更そんなことを考えても全て無駄なのだが。
そして全ての元凶であるアンリエット嬢だが。彼女もまた、散々な目に遭っているそうだ。
彼女の婚約者であるフィリップ伯爵は、ノアの友人でもあった。善人なフィリップ伯爵は今回の件を聞いてとても激怒し、幻滅し、婚約は破棄となったそうだ。
アンジール男爵も、婚約者に捨てられ公女に喧嘩を売った娘をいつまでも家に置いておくわけにもいかず、修道院行きにさせると周囲に宣言している。と、噂で聞いた。
じきにアンジール男爵も私に頭を下げに来るだろう。男爵に謝罪されても困るのだが、受け入れなければ受け入れなかったで、また噂好きの貴族たちの餌となってしまうものね。
全て上手くいった。丸く収まったと言うべきか。
我ながらよく頑張ったと思う。本当に、私はよく頑張った…。
「本当にあなたには感謝してもしきれないわ。ノア、あなたのおかげであの忌々しい侯爵令息と婚約破棄できたと言っても過言ではないもの」
大勢の貴族たちから贈られて来た、結婚祝いのプレゼントを開封しながら、目の前のソファーに座った彼に声をかける。
勿論、彼というのは私の夫となったノアのことだ。
「私たち、結構良いパートナーになれそうじゃない? これからも、友人のように仲良くしていきましょうね」
私の言葉に彼は軽く相槌をとった。
かなりあやふやな返事に、私はてっきり彼が話を聞き逃したのかと思い、もう一度話をしようと口を開いた。
すると、声を出す前に彼の方から話を始めた。
「悪いが、それはできない約束かな」
彼からの予想もしていなかった返答に「どうして?」と聞こうと思ったが、すぐにその意味が分かった。
「……ごめんなさい、私ったらちっとも気が付かなかったわ。あなたに想い人がいたのね?」
私はハッとした。何故なら私は一つの違和感を見落としていたからだ。
どうして今年十九にもなる彼に結婚相手、ましてや婚約者すら居なかったのか。権力と容姿に恵まれた彼に言い寄らない令嬢はいない。現に彼が令嬢たちに囲まれているところを私は何度も目にしたことが会った。
私の『仲よくしよう』という言葉に対して『それはできない』という返答。それだけあれば、何を意味しているのかが分かった。
彼には、想い人がいたんだ…!
「ははっ、何の勘違いをしているのか知らないが。そうだね、僕はずっと一人の女性を想っているよ」
私の長々とした推理は、彼によって正解だと返事が来た。しかし、彼の言い方には違和感があった。
「……ずっと?」
ずっとって、まさか私と結婚する前から? いいや、それなら私と結婚するはずがないし、私が持ち出した結婚も断るに決まっている。それに彼だってこの結婚には賛成してくれたはずだ。
「君は僕の幸せを願ってくれるかい?」
彼の言葉に私は相槌を打つ。
当たり前だ。今回の件は彼が居なければ全て上手くいかなかったのだから。仮にも彼の妻として、私は出来ることなら何だってしよう。
「もちろんですわ」
即答だった。考える間もなく、返事が出た。
ノア。ありがとう、本当に。
あなたが私の馬鹿げた提案を受けてくれたから私は今、笑っていられる。
本当はずっと不安だった。イシスと婚約破棄をしたことがティアルジ家の汚点だってお父様から非難されたら、私はきっと耐えられなかった。
本当に感謝している。だから私は、あなたの味方。あなたが私に手伝ってくれたように、私にできることなら何だってするわ。
「どうしましょうか、既に婚姻届けは帝国に出しておりますし…」
力になると言っても、既に私たちは書類上では夫婦となっている。その上、もうすぐ式も控えている状態だ。この状態で今更離縁というわけにもいかない。
彼の想い人の女性をシャルロッテ公爵邸に愛人という形で迎え、私は彼らと顔を合わすことが無いようにシャルロッテ公爵家の別宅で過ごす。これが最適か。
愛人に夫を奪われた公爵夫人と呼ばれるかもしれないが、私は陰口にはなれている。彼の人生を頂いた身としてそれだけでは返しきれないほどの恩が彼にある。そのくらい当然だ。
「君は本当に面白いね」
必死に考える私を見て、ノアはくすくすと笑いだした。一体、何がそこまでツボにハマっているのか…。
綺麗な右手を口元に添えて笑う癖は昔から変わらない。
その綺麗な手が私は結構好きだった。色白で羨ましいなんて思ったこともあったな、と少し昔のことを思い出した。
「そう言えば昔、君が好んで読み更けていた本。その本が好きだった君は良く言っていた言葉があったな」
「えっ、?」
突然話題を変えるものだから、驚いたあまりに変な声が出た。
「会うたび話すものだから、頭の片隅にずっと残っていたんだ」
まさか、彼の方から昔話をし出すだなんて思ってもみなかった。
昔は、お互い爵位ではなく名前で呼び合うほど仲が良かった。でも、いつしか会わなくなる期間が長くなり、お互いに紳士淑女となった今はそんなこともなくなっていた。
「…ノアがそんな昔の話をするだなんて」
彼が懐かしい話をするものだから、私まであの頃の気持ちに戻されたような気がした。
「そんな昔のことを今も覚えているなんて驚いたわ。えっと、そうね。確か…」
本の話をされ、私は頭の片隅に置かれた記憶を思い出した。
本が好きなお父様に憧れて、私は沢山の本を読み漁った。その中でも一番好きだったのがロマンス物語。年頃の少女が憧れるよくある恋愛モノ。当然のようにハッピーエンドであり、主人公のお姫様のために作られたとっても幸せなお話。
私はずっと、理想に思っていた。憧れていたのだ。
私と彼の結婚は、理想的とは到底言うことが出来ないものだったが…。
昔、『遊んでいなさい』とお互いの父に二人きりにされた時。興味がなさそうなノアに無理やり話をしたことを思い出した。
彼がそのことを覚えていたことには驚いたが、持ち出された話題を広げようと必死に記憶の奥底から引っ張り出して、話を続けようとした。
…しかし、私の声は彼によって阻まれた。
私と彼しかいない、静かな空間に『ちゅ、』と甘いリップ音が鳴る。
「な、なにをして…」
ノアは突然、私の元に寄り。
そのまま私の唇にキスをしたのだ。
一体どうして突然彼がそのような真似をしたのかが分からなかった。
紳士な彼が許可も得ずに女性に口づけをする人では無いはずだ。いや、妻となった私にキスの許可を求める方が不自然か。
「王子様のキスがあれば、お姫様は幸せになれる…だったか?」
慌てる私の様子を楽しむように、真っ直ぐな目で私を見る彼。私と彼の距離は、たった数センチ。
少し顔を近づければキスしてしまうような距離…いいや、既にしてしまったのだが。
「その理論なら、僕のお姫様からのキスがあれば、僕は幸せになれるのか?」
人に問いかけているとは思えないほど、自信満々の顔で言い切ったノア。
「嫌、これは少し間違っているな。だって、僕は既に幸せに満ちているからね。」
驚きのあまり、手に持っていたプレゼントの小箱が滑り落ちた。
贈ってくださった方ごめんなさいと、中身が割れ物でないことを願うばかりだ。しかし私は、その贈り物の安否を気にするほどの余裕は無かった。
「僕の長年の想い人は君さ」
彼がの行動と発言が、理解できなかった。
何を言っているの? だって、私たちの結婚は愛の無い結婚だ。
「き、聞いてない…!」
彼が私に好意を向けている仕草なんて、今の今まで感じたことが無かった。それなのにどうして、こんな突然。私に想いを伝えてきたのか…。
「そりゃあ言っていないからね。君があの男と婚約を結んだときはどれほど後悔したことか、君には分からないだろう。どう婚約破棄させるか考えていたが……まさか、君の方からやってきてくれるだなんて思っても居なかったよ。」
平然とそう話す彼は、至って真面目な顔をしていた。冗談であって欲しいと考えたが、表情を見れば真剣に言っていることはすぐに分かる。
「本当に僕は幸せ者だよ。やっと、君が僕の元に来てくれたのだから」
彼の唇についた私の口紅が目に入り、余計に顔に熱が上る。
「僕のお姫様は、君だけだよ」
彼はそう呟くと、もう一度私の唇にキスをした。
「う、嘘つき…」
子供が大人に向かって泣きじゃくるような言葉がいくつもこみ上げてきた。
だが、その行動は彼にとっては逆効果で、彼はただ私を見て楽しそうに微笑んでいた。
「嘘? まさか。僕は一度だって君を愛していないと言ったか?」
「だって、そんな、あなたが私のことを好きだなんて…」
「それが嘘になるなら、君だって嘘つきじゃないか」
私の心をまるで見据えているように話すノア。
感情的になり、声が震える私とは違い。彼は静かに話した。
「君は僕のことを愛しているのに、ずっとそれを隠している。君も僕と同罪だよ」
ノアは私に向かって、躊躇することなく、堂々と話した。
「……へぇ、それはまた自信ありげに話すのね? あなたに、私の心が分かるとでもいうの?」
表情を悟られないように、必死に口角を上げて私は返した。
私は今、何を考えているのか。分からなかった。自分の体なのに、分からないのだ。
この気持ちは何? 彼に適当なことを言われて怒っているのか。それならこれは、怒り?
いいえ違うわ。
別にこんなことを言われたって、普段なら笑ってかわしてしまうじゃない。
それなら、悲しみ? ううん、もっとありえない。
…ならば、この感情は焦り?
「分かるよ、僕は君の夫だからね」
いや、焦りってなによ。一体、何に対しての?
あぁこれは…
「僕は優秀なんだ。愛する相手の好意を向けている相手くらい、分かるよ。」
…彼に、恋心を見透かされてしまったことに対してだ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「お父様、紹介します。こちらはノア・シャルロッテ公爵様です。」
改まって紹介します、と言ってみても、お父様は私よりもずっとノアに会う機会が多いだろうから、その言い方には少し違和感を感じた。
だけどそれ以外に言葉が思いつかなかったのだから仕方ない。
この謁見室は、以前イシスとアンリエット嬢を迎えた小さな部屋ではなく、皇帝陛下をも迎えたことのあるティアルジ家で一番大きな謁見室だ。
対面に置かれた横長のソファーに、私とノア。正面にお父様。といった形で座る。
「ロイド・ティアルジ公爵様、この度はお時間をいただきありがとうございます。本日は……」
ノアの堅苦しい長々とした挨拶を、お父様は黙って聞いていた。
一切表情も崩さず、言葉にも出さないお父様の様子。それに平然とペラペラと話をするノア。
え、まさかこの二人。普段からこの調子で話をしていたの? ……えぇ、ノア、可哀想。
表には平然に見せていても、彼は内心きっと困っているだろうと思い、そろそろ助け舟を出そうと声を出そうとしたその時。
ずっと口を噤んでいたお父様が、口を開いた。
「ノア・シャルロッテ公爵。娘をどうか、よろしくお願いいたします。」
お父様はそう言うと、ノアに向かって深く頭を下げた。
お父様が誰かに頭を下げる姿を見るのは初めてだった。皇帝陛下にすら、ここまで敬意を払い深々と頭を下げていることは無かったはずだ。
その姿を見るだけで、私は今にも涙がでそうになった。
お父様はお母様のことを心から愛していた。そんな大切なお母様を殺した私を、お父様はきっと恨んでいると思っていたわ。
…でも、それは違ったようね。
その姿を見たら、全部わかったわ。
だって私は、お父様に似て聡明ですから。
「幸せにします」
暫く頭を下げたままのお父様に向かい、ノアも同じように深々と頭を下げた。
二人の姿を暫く見つめていると、私の視線に気づいたお父様と目が合った。すると突然お父様は焦ったような顔をして、私に話しかけた。
「…お前は、一度も私に涙を見せたことが無かったが。そうか、そんなところまで彼女に似ていたのか。」
お父様は笑顔で、私の頬を、そっと撫でる。
そのことでやっと気が付いたが、私はいつの間にか泣いていたみたいだ。零れ落ちた涙を、お父様が優しく拭ってくれた。お父様が私に触れたのはきっと、数える程度しかないだろう。
まるでガラス細工のように、生まれたての赤子を扱うかのように、慣れない様子で優しく私に触れた。
「幸せになりなさい、ソフィア」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「新郎ノア・シャルロッテ、あなたは新婦ソフィア・ティアルジを妻とし。病める時も健やかなる時も、悲しみの時も喜びの時も貧しい時も富める時もこれを愛し、これを助けこれを慰めこれを敬いその命のある限り心を尽くすことを。……誓いますか?」
ウェルンスト帝国一番の教会で、経典を唱える大司教様の声だけが響き渡っている。
「「誓います」」
新郎新婦、二人の声が揃う。
「ソフィア、君と結婚が出来て僕はとても幸せだよ」
「それは私のセリフです。あなたと結婚出来て私は本当に幸せものです」
ノアはにこりと笑い、妻となる私へ手を差し出した。
私は、「えへへ」とあざとく笑みを浮かべて、彼の手を取る。
殿方の好みは、幼き頃から叩き込まれて来た。愛らしく、従順で、利口な娘。
手を取り合う夫婦となった二人を、席に座っていた顔見知りの貴族たち、身内や親族たちは微笑ましく見つめていた。
もちろん、一列目の特等席には先ほど私と腕を組んでバージンロードを歩いたお父様が、目にうっすらと涙を浮かべてこちらを見ているお父様の姿もあった。
ノア・シャルロッテ公爵と、ソフィア・ティアルジ公女が結ばれた。
これはウェルンスト帝国にとって、大きな節目となる出来事だろう。
「それでは、誓いのキスを」
大司教の言葉を聞くと、ノアは私に向かって手を伸ばす。
そのまま私の頬か肩に当てられるのかと思えば、彼の手は私の腰へと向かう。
「ソフィア」
「え? わっ…!」
ノアは、私の腰へ手を当てると、軽く掴み一気に上へ持ち上げた。
すると、ウェディングドレスがふんわりと舞う。私の長く伸びた桃色の髪は、ドレスの揺れと同じように、ゆるりと揺れた。
ノアは、私を自分よりもずっと頭の高い位置まで抱き上げた。
「君を命尽きる時まで愛すと誓うよ」
「…私も、あなたを愛しています」
私はノアの言葉に答え、幸せそうに満面の笑みを見せた。
そして、結婚式の最大の行事と言っても過言ではない誓いのキスをするために、私は彼の首に腕を巻きつけて、顔を近づけた。
ノアとの距離は、目と鼻の先。
そのまま私たちは、誓いのキスをした。
式の送迎で置かれたろうそくの灯が、風によって揺れた。それと同時に、私の長い髪とウェディングベールが風の強さで揺れることによって、新郎新婦の顔を覆い隠した。
席に座る家族や顔見知りの貴族たちには私たちの顔が見えない。席からも、大司教から見ても、私たちの表情などは見えないだろう。
私の長い髪と、純白のベールによって覆い隠された中では、悪戯が成功した子供のような笑みをしたの新郎新婦の姿があった。
「幸せにするよ」
ノアは私に届くだけの音量で話した。
幸せ……幸せね。
幸せって、一体どんなことを言うのでしょうね。
お金持ちなことが幸せ? 美しい外見を持つことが幸せ? 私はどちらも手にしていたけれど。もっと、もっと、私は幸せだと言い切れることがあるわ。
「…私はもう幸せですよ」
彼の首に回した腕により力をこめ、そのまま彼の体に抱き着く。
「だって、王子様のキスがあれば女の子は幸せになれるのだから」
昔、ずっと好きだったロマンス小説に出てきた一節を私はずっと覚えていた。
『いい? 女の子はね、自分だけの王子様にキスされた時。誰よりも幸せになれるの!』
少し気の強い主人公の女の子が、そう宣言した小説の山場。名シーンだ。
私は、幼いながらに『なんてかっこいいのだろう』と憧れたのだ。
そして私は、その主人公と同じく、自分だけの王子様を見つけた。
もちろん、悲劇や葛藤だってたくさんあったわ。
でも、それは全て物語の世界だと考えたら、とっても素敵じゃない?
人に愛されること。それこそが、真の幸せなんだわ。
お父様からの愛も、夫からの愛も、どれも私の宝物であり幸せの一つ。
「愛しています、ノア。」
これは私と彼が主役の、ロマンス物語。
私が幸せになるための。私のための、物語。
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