89 離れたくない
ああ、そういうことだったのか……
あの時、彼女が言っていた『私にはない、小さい頃がある人』っていうのは。
『私をおいていく人は、婚約者じゃないって思った!』
あの時僕は、おいていかれるのは僕のほうだって思ったけど。
『このまま永遠の時を生きていく』
ずっと一緒にいたら、おいていってしまうのは……僕のほうなのか。
セルネシウスの言葉の衝撃で吹っ飛ばされてしまったように空っぽなリュアティスの胸に、エリスレルアとの思い出が去来する。
いきなり僕の部屋に現れた、異世界の服を着たままの彼女。
伯爵邸のベランダでたくさんの花に包まれて手を振っていた彼女。
リルちゃんと二人、泥だらけになりながらこっちへ笑顔を向けていた彼女。
突然風呂場に現れたり、泣きながら抱きついてきたり、触れた瞬間に消えてしまったり、毒に話しかけて掛けられていた呪いを解いてしまったり。
うつむいて微動だにしないリュアティス。
セルネシウスもレミアシウスも、笑うでも、叫ぶでも、逃げるでも、とにかく何でもいいから彼が動き出すのを黙ってじっと待っていた。
さっきセルネシウスが告げたことを聞いた者は、ほとんどの場合、信じずに笑い飛ばすか、恐怖に震えて逃げ出そうとするかで、その反応によって次の対応を決めているからだ。
告げられた者の心の平穏を守るために、一緒に笑って冗談にしてしまうとか、きみの気持ちをただ試したかっただけの作り話だったと謝って許してもらうとか。
そんなことなど知るはずもないリュアティスは、セルネシウスの話をそのまま受け止めて、思い出の中で明るく笑っているエリスレルアを、自分がおいていくことで悲しませるのはイヤだと思った。
今ならまだ、彼女は誰のものでもない。
向こうへ帰れば、こっちの世界のことなど、忘れてしまうだろう。
しばらくは寂しがって泣くかもしれないけれど、僕たちと過ごしたことはそのうち思い出に変わり、永遠の時の中で、いつか忘れ去られてしまうだろう。
……そのほうが……彼女のため……
『そんな些細なことで一緒にいることをあきらめてしまうの?』
それが最善だと自分に言い聞かせようとしているリュアティスの記憶の底から、リンシェルアの幻聴が聞こえてきた。
ですが、母上。
僕はいずれ、彼女をおいていくしかないのです。
『リュアティス、あなた……
その同じ言葉を、魔法陣の中で暮らすしかなかった頃の私にも、言えて?』
!!
無力感が漂っているだけだったリュアティスの胸の中に感情が戻ってくる。
言えるわけないじゃないですか!
毒のせいで、死と隣り合わせだった母上に、そんなこと!
心の中でそう叫んだ時、リュアティスは気づいた。
母上は、兄上を救うために、呪われた毒を自分に移した。
それは、兄上に生きていてほしかったからだ。
―――僕たちをおいていってしまうことになったとしても。
リンシェルアに感謝しながら顔を上げたリュアティスの瞳は、とても穏やかな光をたたえていた。
『エリスレルア…さんは、自分の姿が変わらないことも自分が不死であることも、ご存じですよね?
それなのに、この話を聞かれたくないのは、なぜですか?』
『それは―――』
予想外の質問に、セルネシウスは少なからず驚いた。
状況にもよるけれど、似たような状況で自分たちの話を打ち明けた時、こんな質問をしてきた者は今までにいなかったのだ。
(なぜだ、と聞いているけど、たぶん確信しているのだろう)
『きみが思っているとおりだよ。
きみの返答で、エリスレルアを傷つけたくないからだ』
やっぱりそうか、とリュアティスは思った。
この人たちの最優先は、彼女の心の平穏だ。
楽しいとかうれしいとかでテンションが上がるのは構わないけど、精神状態がマイナス方向に振れるのは極力避けたいんだ。
『僕もそうです』
そう言ってリュアティスはレミアシウスを見つめた。
その視線は、彼を通してセルネシウスまで届いた。
『エリスレルアさんがあなた方にとって大切な方だということは承知しています。
彼女が帰りたいと言うなら止めません。
その結果、もう彼女に会えなくなるとしても。
ですが、そうでないのなら、僕は、僕の呼びかけに応えてこちらの世界に来てくれた彼女と離れたくはありません』
『リュアティス君……』
この『声』が、二人のうちのどっちの『声』なのか、リュアティスにはわからなかった。
『彼女が………僕を選んでくれた場合の話ではあるのですけれど』
ほかの人を選んだら……離れたくなくても離れるしかない。
少し時間を置いて、彼をからかう時にレミアシウスが発するのと同じような調子の『声』がやわらかい光と共にリュアティスの胸に届いた。
『もしエリスレルアが別の誰かを選んだら、今の話をもう一度することにするよ』
ですよね。
リュアティスはうなだれて深いため息をついたが、ふと視線を向けると、レミアシウスはニコニコ笑っていた。
『何がおかしいんですか?』
『あれー? わからないの?
にいさん、その時には改めて同じ話をするって言ってるんだよ?』
『僕じゃない、誰かにでしょ…………って……』
そうか!
エリスレルアを連れ帰るのは、見送ってくれたってこと!?
『あの……』
『一つだけ……
って、ホントはたくさんあるんだけど、とりあえず一つだけ忠告がある』
え?
『きみたちのいる次元がどこなのか、なぜわかったのかに関わることなんだけど、十数日前、エリスレルアが叫んだでしょ?』
『十数日前?』
レミアシウスがわかりやすく言い換えた。
『きみの生死が危うかった時のことだよ』
ああ、僕は気を失っていた時の……
『あの『声』、こっちまで届いたんだ。
何を言っているのかはわからなかったけど、助けを呼んだのはわかった』
そんなにすごい『声』だったってこと?
『あの『声』、僕には彼女自身が助けを必要としているんじゃないってわかったけど、たぶん、ほかの者には助けを呼んだことしかわからないだろうなってくらい、かすかな『声』だったんだ。
もし、あの時僕の傍に誰かいたら大騒ぎになっているところだった』
え!
『あれは、とても危険な『声』だ。
僕の制止を振り切ってでもそっちへ行こうとする者が出かねない。
それは、両方の世界にとって、とても危険な行為なんだよ。
だから、決してあの『声』を彼女にあげさせないように』
『……わかりました』
ちょっとだけ、どんな『声』だったのか聞いてみたくなったのは内緒である。
『じゃ、レミアシウス、あとは頼んだよ。
テレパシーが使えるようになったんだから、今度は勝手に婚約したりするんじゃないぞー!』
『わかったよ……ホント、僕の苦労も知らないで~
花嫁の父の役は、にいさんがするもんでしょ……』
『何か言ったか?』
『いいえ。決して。何も』
クスッ
それにしても。
リス型妖精と遊んでいるエリスレルアに視線を送る。
生まれた時から今の姿で、永遠に変わらないなんて。
「どうりで12歳に見えなかったわけだ」
「リュアティス?」
思わず声が出てしまい、頭にリス型妖精を乗せたエリスレルアがリュアティスのところまで駆けてきた。
「リュアティス、何か言った?」
「えっ! いえ、何も!」
「えー? 何か言ったでしょ?」
なんとかごまかそうと、思いついたことを口にするリュアティス。
「えっと……エリスレルアって、今、何歳?」
「ん? 115歳だよ~」
「…………え?」
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