黒虎
次の授業は今度こそ、体育館で行うようだった。シャワーから戻ると、既に先生が立っていたので、駆け足で列に加わる。
「あ、これで全員だね。ちょっと早いけど、自己紹介だけ先に済ませちゃうね」
手持ち無沙汰気味に生徒たちを眺めていた彼女は、立ち上がり名乗った。
「私の名前は尾長雛、戦闘術担当です。よろしくね」
ん?尾長って、確か魔獣学の教師じゃなかったか?同じ疑問を多くの生徒が思ったようで、その雰囲気が先生に伝わった。
「あ、そっか。私って今魔獣学の担当でもあるんだっけ?まあけどあっちは本来、私の領域じゃないからねぇ。その内、新任の先生でも来るんじゃない?」
そんな適当な、と思わないでもないが、学校側の都合もあるのだろう。事実、彼女はこちらの方が大分向いていそうに見える。
「私、運動苦手なんで、見学したいんですけどー」
一人の女の子、確か九窓院さんだったか、司の元同僚だ、が手を挙げ、率直に言った。それを聞いた、尾長先生は困ったような笑顔を浮かべる。
「まあ月並みだけどさ、体鍛えとけば代謝増えるからダイエットにもなるし、何より―」
「ここに君を笑う者はいない。懸命に努力する者を、笑う生き物はこの学舎には存在させない。何故なら、努力する者を笑う者は、私が潰してあげるから」
ぞわり、怖気が奔る。ただ、先生は優しく言っただけなのに、言いようもない重圧を感じた。
というかこの先生、人間じゃない、ね。なんて、もっと早く気づいておくべきことに、今更気づく。
「ま、私は心配してないけどね。だって、ここにいる皆、ある程度傷を抱えてる方が多いでしょ?」
率直なその言葉に、生徒側の空気が変わる。図星だったから、触れられたくないことに触れられたから、認めたくないことを指摘されたから、色々予想はつくけれど、知り合ったばかりの彼彼女の内面を見透かそうとするのも悪趣味だ。
僕は、別に何も感じなかった。生憎なことに。
「あ、デリカシーなかった?ごめんねぇ、人の気持ちって分からないもので」
笑うところかな?なんて。
「さて、軽く手本を見せて欲しい所だけれど、見た感じ優秀そうな子が多くて目移りしちゃうね」
見定めするように、全体を見渡す先生。
「その中でも、飛び抜けて優秀と言える子が三人。技術なら黒虎くんと心逆くん。肉体なら反則気味だけどサメくん」
二つの分野で、僕を除けばそれぞれ納得の顔が挙げられる。特に鮫は、一目見ただけで分かる怪物だ。単純な力比べなら、僕らでは相手にならないだろう。
「肉体なら竜胆ちゃんがそれ以上だけど、技術がからきし。近衛くんは肉体も技術も合格点だけど、どちらも三人と比べると劣る。他の皆は、近衛くん目指して頑張ってね」
彼女の言葉に、思わず苦笑する。司を目指せ、って、余りにもハードルが高すぎる。
それよりも気になるのは、十二単竜胆さん。あの鮫を超えるって、一体何者だ?
「それじゃ黒虎くんと心逆くんに、お手本をお願いします」
……今、なんて言ったあの教師。
「はい」
僕じゃない、首肯する声。女性にしては低く、男性にしては高い、音。
声の方向を向く、僕。忘れられるはずもない、その声。その後ろ姿。
僕よりも遥かに小さい、少女のような背丈で。綺麗で、短い、黒髪。捲くった袖の中から飛び出た、鍛え抜かれた、筋肉。
「……黒」
遅れて前に出た僕は、呆けた様に彼女の名前を呼ぶ。
「久しぶりだね、夢」
つまらなそうに、吐き捨てた彼女は、それ以上何を言うでもなく、構えた。
「聞きたいことは、沢山あるから何も聞かない。せめて―」
僕を真っ直ぐ見据えたまま、彼女は続ける。次の瞬間、彼女が何をするのか、僕にだけは分かった。だから、咄嗟に構える。
「拳で応えて見せてよ」
放たれる突き、僕の瞬きのタイミングに合わせたそれは、避けるには難、受けるには苦の不自由な二択を迫る。だから僕は―
「!」
対策をした。黒が放った突きは、ただ空を切る。何故なら、彼女が打ったその先に、僕はいなかったから。
幻の型、朧駆け。僕の幻覚をその場に残す技。気づかれる前に、背後に回って―
「そこか」
が、そのような小細工は、直様対応される。相手の出方を知っているのは、僕だけじゃない。
背後の僕に向けて回し蹴り、何とか、夢現で回避する。が、それが悪手だったことに、直ぐに気づいた。
「塗の型―」
来る、そう思ったときには既に遅く、自分のブランクを痛感した。
「混じり震脚」
空を切った蹴りをそのまま地面に叩きつけた。轟、と鳴る音。
「ッ!」
夢現は黒色に塗りつぶされ、僕の体は、ずれを矯正されてしまう。
これが、黒の独自の型、【塗】の真髄。異能に立ち向かうための【破】、異能を躱すための【流】、異能から逃れる【幻】、そして異能を飲み込む【塗】。如何なる異能も、彼女は、持ち前の【黒】で染め上げてしまう。
大凡、ありとあらゆる攻撃を回避できる夢現だが、こればかりは避けられない。彼女の色で塗りつぶされ、噛み合わなくしたはずの全身は現実へと、引き戻される。
「【破】ッ!」
直様、追撃の掌底。僕のそれよりも一際大きい破裂音が鳴った。無論、威力も僕のそれとは比べるまでもなく。
「ご、ほっ」
大量の血反吐をぶち撒けた僕。防御は間に合わず、内部に威力全て注ぎ込まれたその破壊力は、むしろこの程度の血の量で済んだことが奇跡に感じるほどの高さ。思わず、気を失ってしまいたくなるほどの痛みに、泣きたくなる。
何とか、倒れないように、意識を保つように努める。戦闘続行は、まだ可能だ。呼吸を平常に保って、冷静さを失わないように、大丈夫、僕はまだ大丈夫だ。
しかし、数合でこの様とは。黒が、それだけ師匠の域に近づいているということなんだろう。彼女の実力は、以前の比じゃない。
「なんで本気出さないの?」
そんな中放たれた、呆れたような、苛立つような、黒の声。
「生憎、本気だよ」
そんな、黒の見当違いの指摘に、思わず苦笑する。
仮に、ブランクがなかったとしても、黒に勝てるほどの実力は僕にはない。少なくとも、今は。
「……嘘ばっか」
黒は、僕の言葉を信じようとしない。それはきっと、僕のかつての幻影を見ているから。黒と、司と、共に競い合った日々を夢想しているから。決して、帰ることのない、日々を。
「もっと、本気出してよ。ちゃんと、こっち見てよ」
物悲しげな表情を浮かべ、黒は項垂れる。
「言っても分からない、よね。だから」
でも、それは本当に一瞬のことで。
瞬間、首元が冷える錯覚に襲われた。それはまごうこと無く、黒が発した殺気。
「僕の本気を、ぶつける」
そして理解する。次、彼女が何をするのかを。
腰を低く落とし、正拳突きの構え。基本に忠実で、尚且その完成度の高さが伺える、綺麗な構え。綺麗すぎるその構えは、ある種の芸術、美術品のような美しさがあった。
「綺麗……」
ギャラリーの中から、感嘆の声が聞こえた。余りの美しさに溜息を吐くような、もしくは心の底から見惚れているような、純粋な声。
「……なんだ、ありゃあ」
ギャラリーの中から、驚愕の声が聞こえた。現実を認めたくないような、もしくは心の底から打ち震えているような、複雑な声。
僕は、後者の声に共感を覚えた。その構えは、闘いに精通していればいるほど、恐ろしさが分かる。
一切、身動きすること無く、構えたままの黒を前に、僕もまた一切の身動きができない。何故?立ってみれば分かる。今の黒が放つ、重圧がどれほど重いのか。
呼吸は穏やかで、落ち着き払った物腰と同時に、相反する、獲物を狙う猛禽類の様な冷血な視線。それはまるで、正拳を当てる、ということが予め決まっているかのような。絶対的な捕食者たる雰囲気で、彼女は獲物の隙きを見逃すことはない。
それを可能としているのは、塗の型。黒は周囲の一切合切を、自分自身の色で塗り潰したかのような意識を持つことで、獲物のぶれを瞬間的に察知することが出来る。それに、彼女自身の拳術を組み合わせれば、即ち必中の必殺技となる。
そんな、塗の型の極地とも言える彼女の構えを、僕は【静謐の世界】と呼んでいる。
はっきり言って、静謐の世界を取った黒に対抗する手段は、今の僕にはない。鉄壊で腕の強度を高めようと強度が足りない、飛び漣や朧駆けでは目眩ましにすらならない、夢現で回避しようと彼女の色に塗りつぶされ、打ち貫かれる。
汗が垂れる。一瞬でも気を抜けば敗北、対抗手段は無に等しい。重圧によって、擦り減る精神。徐々に、限界へと近づいていく。
「はい、そこまで」
目元に汗が迫った頃、救いの声が差し伸べられた。先生が静止を促すため、手を叩いて、大きな音を鳴らした。
黒の静謐が、徐々に収まっていくのを感じ、息を大きく吐く。目元に落ちた汗を拭うと、先生が僕らの下に近づいてきた。
「……言いたいことがあるなら、人目に付く場所じゃないところでやりなさい。午後のオリエンテーションとか、良いと思うよ。運が良ければ、だけどね」
僕ら二人にしか聞こえないほど、小さな声で彼女は言って、僕たちに背を向けた。
何だよ、人の心が分からないなんて、嘘じゃないか。
「はい、それじゃあ二人一組になって、打ち合ってみましょう!」
生徒が組み始めたのを見て、黒は溜息を吐いた。
「仕方ないね、これ以上見世物になるのも厭だし」
観念したように言った黒は生徒たちの中に戻る前に、僕の胸に拳を押し付けた。
「待ってるよ」
そう言って、去っていく黒。
どこで、間違えたかな。なんて、僕は遅すぎる後悔を、何度目かわからない後悔を、また覚えた。




