5 悲しみは、涙と一緒に流しましょう
「どうぞ」
湯気の立つティーカップを両手で受け取り、ひと口啜る。ほんのりとした甘みと、芳醇な香りのする紅茶の味が口の中に広がった。
「おいしい……」
「そうでしょう? この紅茶は、王族御用達の高級茶葉を使用しているんです」
そう自慢げに言いながら、紅茶を淹れてくれたクリスさんは私の隣に腰を下ろした。
「そんな高価なもの、私が飲んでしまってよかったんでしょうか……」
「もちろん。エルダのために用意したのですから」
気にしないでください、と優しげにほほ笑まれ、申し訳なさを感じながらも再びカップに口を付ける。本当に美味しい紅茶なのだが、どこか苦く感じるのは、先ほどのエリックとのやり取りのせいだろうか。
あれから従業員用の休憩室へとやってきた。室内にはいくつかのテーブルと机が並んでおり、壁際に設置されているソファへ私を誘導したクリスさんは、そのまま紅茶を用意してくれたのだ。
しかし、あんな状況の後で何を話したらいいか分からなくて、部屋の中が沈黙に包まれる。気まずさに紅茶をひたすら啜っていたら、すぐに飲み干してしまった。
そういえば、まだお礼も謝罪もしていない。自分のことで精一杯すぎてすっかり忘れていた。しかし開きかけた口は、隣に座る人の言葉によって遮られる。
「迂闊でした。まさかあのふたりが、今日に限って店に来るとは」
その言い方は、まるでふたりが以前からこの宝飾店を利用していたように聞こえる。どういうことかと首を傾げると、クリスさんは眉を寄せて躊躇うそぶりを見せながらも話してくれた。
「……実は1年ほど前から、バローナ商会で展開している服飾や宝飾関係の店舗に、あのふたりがよく訪れているのです」
「一年も前から?」
「はい……隠していて、すみませんでした」
1年前というと、ちょうど私がバローナ商会で働き始めた時期と重なる。
学園を卒業して領地に帰ってからも、エリックは月に一度は会いに来てくれていた。今思えば仕方なくだったのかもしれないが、それでも月に一度は会えていたのだ。
だが、王都で働くようになってからは、会う回数は数カ月に一度の頻度になっていた。エリックは王都のタウンハウスに住んでいるため、距離はずっと近くなったのに会う回数は減ってしまったのだ。
それは私が仕事で忙しくなったこともあり、気を遣ってくれているのかもと良い方向に考えていたのだが……実際はカリーナとの仲が深まり、私は避けられていただけなのだろう。
「副会長が謝る必要はありません。悪いのは全部私なんです。お店にも迷惑をかけてしまって、本当にすみませんでした」
顧客の情報を安易に漏らさないようにするのは、商売をする上での基本だ。隠していたとは言うが、それは当たり前のこと。特に婚約者のいる令息が別の相手を連れて歩いているなど、簡単に口外できることではない。
「私……頑張りすぎちゃったみたいです」
エリックのためと思って、彼の足りない部分を補うようにいつも手を貸していた。少し頼りないところも好きだったから、やたらと世話を焼いてしまったのも事実だ。
だけど全ては私の自己満足で、エリックにとっては迷惑でしかなかったのかもしれない。女性の手を借りるというのは、きっと彼の自尊心に傷をつけていたのだろう。
「自分で嫌われるようなことをしていたのに、気づいていなかったなんて……いまの状況は、私の自業自得です」
「だからと言って、浮気をしていい理由にはなりませんよ?」
それは理解できる。私のことが嫌いなら、もっと早い段階で婚約を解消してくれればよかった。彼と好き合っていると思っていたこの1年の間、私の知らないところでカリーナに愛を囁いていたというのが、一番悲しい。
だって……あんなふうに触れてもらったこと、私は一度もない。
カリーナの頬に触れたエリックの指は壊れ物を扱うように優しくて、彼の想いの大きさを思い知らされた。忘れたいはずなのに、あの一瞬が頭にこびりついて何度となく再生される。
「っ……」
いっそのことあの場で泣け叫び、怒りをぶつけていたらすっきりできただろうか。……でも、無理に決まっている。エリックを責める資格なんて、私に泣く資格なんて……ないのだから。
膝の上に置いたままの、空になったカップをぎゅっと握りしめる。熱を持ち始めた目頭に気づかないふりをしようとしたのに、隣から伸びてきた腕が私の肩を静かに包み込み、優しい声が耳元で囁いた。
「泣いてください」
その言葉は甘く頭の中に響き渡り、抑えていた感情を引き出していく。
「泣いていいんです」
そっと頭を撫でられ、塞き止めていたものが一気に溢れ出る。一度こぼれた涙は止まることを知らず、次々と頬を伝っていった。
「うっ……」
堪えきれなくなった嗚咽が漏れると、肩に添えられていたクリスさんの腕に力が込められ、そのまま彼の胸に顔を沈める形で抱き寄せられる。
膝の上から転げ落ちたティーカップが、床に吸い込まれていくのが視界の端で見えた。
◆◇◆
どれくらいそうしていただろう。
涙はいつの間にか止まり、声は心なしか枯れている。あんなに声を出して泣いたのは初めてかもしれない。泣きすぎたからか頭も少しぼんやりとしている。
一定間隔で背中をぽんぽんと撫でられ、心地よさに眠りに落ちそうになっていた。うつらうつらとし始めた私を、控えめに発せられた声が現実に引き戻す。
「落ち着きました?」
「ん……」
「ふふ、眠くなってしまいましたか?」
「え……あっ、ごめんなさい!」
状況を思い出し、勢いよく顔を上げてクリスさんから離れる。くすくすと笑う彼の胸元には、大きな染みができていた。
「ああぁあすみませんっ、こんなに汚してしまって……弁償させてください」
「いいんですよ、これくらい。洗えば落ちますし、服はいくらでもありますから」
「でも……」
見るからに仕立ての良い服だ。間違いなく、それなりに値の張るものだろう。お金に余裕はないが、給料から天引きしてもらえれば弁償できないことはない。
そう思ったのだが、クリスさんは首を横に振る。
「僕が好きでしたことですから、エルダが気に病む必要はありません。それより目が腫れてしまいましたね。冷やしたほうがよさそうだ」
泣いたばかりの顔を覗き込まれ、恥ずかしさに顔が熱を持つ。そもそも上司の胸で子供のように大泣きするなんて、もしかしなくても、とんでもない痴態をさらしてしまったんじゃ……
急におどおどし出した私の様子に苦笑を漏らしながら、クリスさんは立ち上がる。持っていたハンカチを水で濡らすと私に手渡し、そのまま再び隣に座りなおした。
「あなたの泣き顔を見るのは、2度目ですね」
「2度目……?」
以前にこの人の前で泣いたことなどあっただろうか。思い出そうとしてみるが、じっと私を見つめる視線に気づき、それ以上考えられなくなる。泣いたばかりで絶対に酷い顔をしているし、あんまり見ないでほしいのに……
結局耐え切れなくなり、受け取ったハンカチを目に当てて視線を遮った。冷たかったハンカチは、すぐに熱に侵食されていく。
「まいったなぁ……」
ハンカチの向こう側で、ぽつりと呟くような声が聞こえた。
「……やっぱり、放っておけないな」
今のは独り言だろうか。気になって、そっとハンカチをずらす。そうして目に映ったものに、ごくりと唾を飲み込んだ。
夜の海を思わせる深い青の瞳が細められ、まっすぐに私を捉える。今まで見たことがないほどの優し気な微笑を浮かべて、クリスさんはしばらく視線を離してくれなかった。