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3  いっそ忘れてしまおう



「思い出した……あの後グラスに注いだお酒を一気に飲んで、それからの記憶がないわ……」


 痛みに唸る頭を押さえながら、なんとか仮眠室から宿舎にある自室へと戻ってきた。

 扉を閉めてほっと息をつくが、相変わらず気分も体調も最悪だ。それでもなんとか昨夜のことを思い出す。


 クリスさんとふたりでお酒を飲もうと乾杯したところまでは覚えている。だが、その後の記憶がきれいさっぱり抜け落ちているのだ。


 頭痛に軋む頭で一生懸命考えてみるも、思い出されるのは今朝目が覚めたら隣にいた人の姿だけ。

 同じベッドで、しかも服がはだけた状態で副会長と寝ていたなんて……そんな状況から考えられることは、残念ながらひとつしかない。


 至った結論にさらに頭痛が増していき、片手で額を押さえる。すると、何故かずきりと鈍い痛みを感じた。


「なにかしら……これ」


 なんだかおでこの中心が膨らんでいる気がして、ふらふらと鏡の前に立ち顔を覗き込む。赤いワインと同じ色をした己の前髪を掻き上げると、僅かに腫れていた。


「……たんこぶ?」


 軽く指で押してみる。……やっぱり、痛い。

 全く身に覚えはないが、どこかに額を打ちつけたのだろうか。前髪で隠れる部分なので大して問題はないが。


「それにしても、ひどい寝癖だわ……」


 鏡に映る自分の顔は酷いものだった。まぶたは腫れぼったいし、顔色は青白くて病人のように見える。さらに髪の毛には好き放題に寝癖が付いていた。


 私の髪は生まれながらの癖毛で、肩にぎりぎりつかないくらいの長さのため、気を抜くとすぐにくるくるとした癖が出てくる。

 以前は長く伸ばしていたので巻き髪として活用できたのだが、今はばっさり切ってしまった。生活費の足しにするために、髪を売ったのが理由だ。


 短いほうが自分で世話をするには楽なのだが、いかんせん癖がでる。雨の日なんか鳥の巣を頭に乗せたように見えて、自分で笑ってしまったくらいだ。金髪じゃなく、ボルドー色の髪でよかったと心から思う。


「……顔、洗ってこよう」


 ぽつりとひとり呟き、おぼつかない足取りで洗面台へと向かった。



   ◆◇◆



 結局どうにも頭痛と吐き気が治らず、今日の出勤は午後からにしてもらった。

 私が婚約を解消された事情をジネットさんが知っていたため、今回だけは許してあげるわと言ってくれたのだ。


 どうやら失恋の影響でヤケ酒でもしたと思われたらしい。間違いではないのだが、記憶がないので曖昧に笑っておいた。お酒を飲んだのは事実だし。


 正午を過ぎるとだいぶ体調もよくなったので、軽食をとってから事務所に向かった。頭痛はまだ少し残っていたが、雑用程度なら問題ない。

 ジネットさんから簡単な書類の整理を頼まれたので、いまは黙々とこなしている最中だ。


「エルダ、無理しなくていいからね? つらかったら帰ってもいいのよ?」

「大丈夫です、ジネットさん。お気遣いありがとうございます。この書類終わりましたけど、どうしますか?」

「それは向こうの棚にしまっておいて」


 指定された棚へ行こうと立ち上がる。それと同時に部屋の扉が開く音が聞こえた。

 何気なくそちらへ目を向けると銀色の髪が視界に入り、私の身体は吸い寄せられるように再び椅子の上に着地する。


 身長の低さを活かしてなんとか見つからないようにと小さく縮こまってみるも、カツカツという靴音はまっすぐこちらに向かってきた。その音は私の前でぴたりと止み、頭上から声が落ちてくる。


「エルダ、来ていたのですね」

「は、はひ」


 噛んだ。動揺が外に現れてしまったらしい。だって……どんな顔をして会えばいいというの?

 クリスさんは執務室にいることが多いので、こちらから会いに行かなければ、しばらくは顔を合わせなくて済むかと思っていたのに。


 恐る恐る座ったまま顔を見上げると、心配そうに私を見つめる紺色の瞳とぶつかった。一方的に気まずさを感じていたのだが、彼はいつもと変わらない様子で言う。


「今朝、学園に行く前にこちらに寄ったのですが、あなたが出勤していないと聞いてずっと気になっていたんです。身体の具合は大丈夫ですか?」


 ――身体の具合とは?


 思わず言葉にしそうになり、慌てて飲み込む。

 きっと変な意味ではない。体調を聞かれているだけだ。――そうは思うが、どうしても頭の隅で別の意味を考えてしまう。


「だ、だいじょうぶ、です」


 たどたどしく答えると、クリスさんは安堵の息を吐き出して言葉を続ける。


「よかった。目が覚めたらエルダがいなかったので心配しましたよ? その……昨日はいろいろと凄かったので」

「すごい!?」


 バンッと机を両手で叩きながら、勢いよく立ち上がる。突然の大きな音に、クリスさんの肩がびくっと跳ねた。


「え、ええ。もし痛むようなら早めに医者に診てもらいましょう。診療代は僕が持ちますので」


 痛むと言えば、頭痛はまだ多少残っている。あと、おでこも痛い。それ以外に痛みを感じる場所はないが、どちらも医者に診てもらうほどではない。

 それなのに、何故かやたらと心配されている。昨夜、やっぱり私はこの人と……?


 朝と同じ結論に辿りついてしまう。むしろ余計に現実味が増してきた。

 返事をしなければと、カラカラに乾いてしまった口でなんとか声を出す。


「こっこの通り、もう元気になったので大丈夫、です。ご心配をおかけして、すみませんでした」


 目を合わせていられなくて、避けるように頭を下げる。


 私と違ってクリスさんは記憶があるようだが、怖すぎて何があったか直接聞くことなんてできない。もし本当にこの人と関係を持ってしまったのなら、一夜の過ちとして忘れるしかないだろう。いっそ忘れたいし、忘れてほしい。


 ゆっくりと顔を上げたところで、私はやっと、目の前の紺色以外の視線に気づく。ジネットさんを含め数人の商会員が、興味津々といった顔でこちらを見ていたのだ。


 ごくり、と唾を飲み込む。間違いなく今の会話は聞かれていたし、内容的に変な憶測を呼びかねない。しかもばっちりとジネットさんと目が合ってしまい、口を開こうとしているのが見えた。


「エルダ、あなたたちもしかして――」

「副会長! お話は以上ですか!?」


 ジネットさんの言葉を遮るように、大きな声で尋ねた。クリスさんは、またしても驚いたように身体を揺らしてから答える。


「いえ、もうひとつ大切な話があるのですが……」

「まだあるんですか!?」

「はい。ゆっくり話したいので、このまま僕の執務室に来てもらっても?」


 正直いま二人きりになるのは避けたかったが、このままここにいるのも気まずい。


「分かりました。移動しましょう」


 仕方ない、と頷きクリスさんの後に続いて部屋を出る。執務室はすぐ近くのため、特に会話をすることもなく辿りついた。


 部屋に入るとソファへと促されたので、大人しく腰を落ち着ける。クリスさんも昨日と同じように向かい側の座席に座った。

 もしかして昨日のことについて何か言われるのかと身構えていると、前にある机の上に一枚の紙が置かれる。


「これは?」

「あなたの契約書です」

「え……」


 まさか、昨日のやらかしでクビに……? そう一瞬不安がよぎるも、次の言葉は全く予想していないものだった。


「エルダ、僕の秘書になってくれませんか?」

「ひ、しょ……?」

「はい。学園を卒業したら、僕は本格的に副会長として商会の仕事に携わります。ですので、エルダにはその補佐をしてもらいたいのです」


 クリスさんの表情は真面目そのもので、冗談を言っているわけではなさそうだった。


「どうして、私なんですか?」

「あなたの仕事ぶりはずっと見てきました。読み書きや計算などの基礎はしっかりできていますし、何より真面目だ。ジネットさんからも高い評価をもらっています」


 予想外の誉め言葉に思わず顔が赤くなるのが分かった。こんなふうに褒められたのはいつぶりだろう。


「父からはすでに許可を得ています。もちろん強制ではないので、お断りしていただいても構いません」


 私を高く買ってくれているのは素直に嬉しい。だが昨日のことが頭にちらついて、もしかして口止めのためなのではと、そんな考えが浮かんでしまったのも事実だ。

 どうしようかと膝の上でこぶしを握りながら悩んでいると、トドメの一撃が飛んでくる。


「役職に就けば給金はいまの倍以上になるので、ゆっくり考えてみてください。返事は一か月以内にもらえれば――」

「やります! やらせてください!」


 身を乗り出して、食い気味に答えた。給金がいまの倍以上だなんて断る理由がない。たくさん働いて、少しでも借金返済にあてなければ。

 クリスさんは私の勢いに引いていたようだが、少ししてやわらかいほほ笑みを浮かべる。


「ありがとうございます。ではこちらの書類を確認して、サインを」


 机に置かれた書類を手に取り、ひと通り目を通す。そのまますぐにサインをして手渡した。


「これからよろしくお願いしますね、エルダ」

「はい、よろしくお願いします」


 なんだか不思議な気分だ。

 そういえば昨日のことについて、一応謝っておいたほうがいいだろうか。なにかをやらかしたのは事実のようだし……


「あの、今さらですけど……昨日はすみませんでした」

「いえ。少し驚きましたが、エルダの可愛い一面を知れたので気にしていませんよ」


 思い出したのか、クリスさんは口元に手を当ててくすくすと笑いだす。逆に私の頭の中には混乱が広がっていった。


「でも、お酒は控えてくださいね。もしどうしても飲みたいのであれば、また僕が付き合います」

「……はい」


 頷いてはみたが、もうお酒はこりごりだ。しばらくどころか一生控えよう、そう心に誓って、私は深く反省したのだった。




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