2 一度目の恋を捨てたふたり
コンコン、と木の扉を軽くノックする。
「エルダです」
名乗るとすぐに「どうぞ」と室内から返事があり、そのまま扉を引いて中へと入った。小さく一礼して顔を上げると、眩しい銀色が目に映る。
「エルダが僕の部屋にくるのは珍しいですね、何かありましたか?」
夜の海を閉じ込めたような、紺色の視線が向けられる。
机上の書類から目を離し、顔を上げたことで銀色の髪がさらりと揺れた。その様子が妙に艶めかしくて、相変わらずこの人は本当に男性なのか? と、思わずにはいられない。
「ジネットさんから伝言です。無理はせず早く帰るように、と」
「それをわざわざ? 僕のことは放っておくように言ったのに……」
困ったように眉を寄せたこの方は、私の上司であり、いずれバローナ商会を継ぐことになっているクリス・ハーラントさんだ。現在は副会長として、実の父親である会長の補佐をしている。
「ジネットさんだけではなくて、みんな心配していますよ? まだ学生なのだから、学業を優先してくださいって」
クリスさんは18歳で、まだ現役の学園生だ。と言っても卒業式は2か月後に迫っている。学園に通いながら商会の業務を切り盛りしているため、なかなか多忙な生活を送られているのだ。
「卒業も近いので、授業はすでに午前中しかありません。それほど無理はしていませんよ」
苦笑を浮かべて否定してはいるが、その顔には疲労の色が見える。目の下には薄っすらとクマのようなものが浮かんでいるし、普段は崩すことのない涼やかな笑顔もどこか曇り気味だ。
「その顔で言われても、説得力が皆無です」
「……エルダも言うようになりましたね」
柔らかく弧を描いた眉が寄せられ、眉間に皺が刻まれる。憂いた表情で溜め息を吐く様は、絵画の中の美丈夫のようだ。
クリスさんは立場的には上司だが、私よりふたつ年下のため、つい砕けた物言いをしてしまう。もちろん働き始めた頃はそんなことはなかったのだが、彼の優しい人柄が自然と周りの距離を縮めるのだ。
「心配をかけているのは自覚しています。でも今回のことはさすがに放っておいてください。……そもそも、どうしてみんな知っているんだ……」
「それは愚問かと。会長に話されましたよね?」
「……やはり父からですか」
視線が伏せられ、紺色の瞳が隠れる。今にも机に突っ伏しそうなほどに項垂れてしまったクリスさんは、珍しく不機嫌さを滲ませて言った。
「あなたも知っている通り、僕は先日意中の女性から交際をお断りされました。それを引きずっていないと言えば嘘になります」
そう。この人もまた、今の私と同じように、ひとつの恋を失くしたのだ。
とある貴族のご令嬢に想いを寄せており、好意を打ち明けてみたものの、見事に玉砕してしまったらしい。
何故か本人だけではなく、お父上である会長までがっくりと肩を落とされていたので、ジネットさんが事情を問い詰めた結果、商会内部に広まってしまった。
「ですが、彼女は伯爵家のご令嬢です。僕のような平民が交際を申し込んだところで、お断りされるのは初めから分かっていました。……ただ、気持ちを伝えたかったのです。何年も片想いをしてきたので」
伏せられた銀色の睫毛が瞳に影をつくる。
部屋の入り口付近に立つ私は、奥の執務机の前に座るクリスさんと少し距離があるのだが、この位置からでも分かるほどの儚げな表情に、一瞬どきりと心臓が跳ねた。
「僕が無理して商会の仕事に打ち込んでいるのは、恋に敗れた結果、自暴自棄になっている、とみんなは思っているのでしょう?」
「ええ」
ここ最近の副会長は午前中は学園に通い、午後からは商談に出向き、事務所に戻ってきては夜遅くまで執務室にこもる、そんな生活を続けている。忙しさで気を紛らわせている、とみんなが思ってしまうのも当然だ。
「お恥ずかしながら、正解です。ただ、単純に業務が立て込んでいるというのも事実ですが」
「それなら、もっと周りを頼ってください。まだまだできることは少ないですが、私もお手伝いしますので」
失恋の傷は癒してあげられないけれど、商会の仕事に関してなら少なからず手助けできる。そう思っての発言だったのだが、クリスさんは片手で前髪をかき上げながら私をまっすぐに見つめて、予想外の言葉を紡いだ。
「……ふむ。でしたらエルダ、あなたが僕を慰めてくれますか?」
「え?」
思わず、ぽかんと口を開けてしまう。それは、その……そういう意味で?
「ええと……」
頭の中に混乱が広がっていき、答えられずに視線をぐるぐると彷徨わせる。すると、前方からくすくすと控えめな笑い声が聞こえてきた。
声の主を見やると、指先で目尻を拭うようなしぐさをしながら、笑いを堪えようとしているクリスさんが目に映る。
「失礼、今のは冗談です。まさか信じるとは思わなくて……せっかく心配してくださったのに、からかうようなことを言ってすみません」
どうやら、冗談だったようだ。開けっぱなしだった口から安堵の息が漏れる。
しかし、泣くほど私の反応が面白かったのか。ついさっき婚約も解消されたし、今なら相手をしても問題ない? なんて一瞬真面目に考えてしまったではないか。失恋で自棄になっているのは私も同じらしい。
そこまで考えてあることを思いつく。無言で部屋の中をまっすぐ突っ切り、クリスさんがいる執務机の前までやってきた。
「いいえ。お望み通り、お付き合いして差し上げます」
「……え?」
先ほどの私と同じような顔をして聞き返したクリスさんを気に留めず、鞄の中から大きなボトルを取り出した。そのまま叩きつけるように、バンッと音を立てて机の上に置く。
「ちょうどいいものを持っていました。仕事は切り上げて、今日は一緒に飲みましょう」
「どうしてこんなお酒を……」
「ジネットさんからいただきました。私ひとりでは飲みきれないので、副会長もぜひ」
にこりと笑って、備え付けられている棚から勝手にグラスを持ち出す。そのままの足でソファへと移動し、グラスをテーブルの上に並べた。
「そうだ。昨日異国のお菓子をいただいたので、これをつまみにしましょう」
鞄の中に入れっぱなしにして忘れていた、りんごを甘く煮詰めて乾燥させたお菓子を取り出す。これは異国へ商談に出向いていた商会員から、お土産としていただいものだ。初めて見たが、現地では有名なお菓子らしい。
「副会長、早く来てください」
茫然とした表情で椅子に座ったままだったクリスさんは、なにやら気まずそうに頭を掻きながら、ゆっくりソファへと歩いてきた。向かい側の席に腰を下ろし、溜め息を吐いている。
そんな様子をちらりと盗み見ながらコルクを開けようとするが、なかなか上手くいかない。他人が開けているところを見たことはあるのだが、自分でやるのは初めてだった。
「貸してください。僕がやります」
素直にボトルを手渡すと、彼は慣れた手つきでコルクを外し、ふたつ並んだグラスへ赤い液体を注いでいく。ベリー系の果実が使われたフルーツ酒のようで、甘い香りがその場に漂った。
宝石のように透き通ったきれいなお酒を眺めていると、向かい側から疑問が投げかけられる。
「エルダはお酒が好きなのですか?」
「いえ、初めて飲みます」
「ではどうして僕と飲もうと?」
どうしてと聞かれたら理由はふたつある。ひとつは先ほど言った通り、ひとりでは到底飲みきれないからだ。もうひとつは――
「実はついさっき、私も失恋しました」
「失恋……?」
「はい。婚約、解消されちゃいました」
クリスさんは片手でグラスを持ち上げたまま、ピタリと動きを止める。驚いたような表情でこちらを見た。
貴族同士の婚約と言えば愛のない政略結婚のほうが一般的だが、私とエリックはそうではない。私が婚約者を大好きなことはすでに商会内部に知れ渡っていたため、よほど驚いたのだろう。
「なので、今日は付き合ってください」
このまま部屋でひとり泣くくらいなら、ジネットさんの言う通りぱーっと飲み明かしてもいいかもしれない。もちろんクリスさんの体調のこともあるし、朝まで飲む気はない。適当に話して、遅くならないうちに宿舎に戻る予定だ。
「ふられた者同士、傷の舐め合いといこうじゃないですか」
グラスを手に取り目の前に掲げる。クリスさんは仕方ないと言った顔をしながらも、同じようにグラスを突きだした。
「乾杯」
キンッというガラスのこすれ合う音が響き、全ての始まりとなった夜が、幕を開ける。




