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1  記憶のない朝



 鳥の声が聞こえる。

 聞き慣れた朝の音に、ぼんやりとする思考のまま重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。


 視界の端でカーテンの隙間から差す白い光を見つけ、眩しさに眉を寄せる。もう一度目を閉じると、全身を襲う倦怠感と頭痛が急に存在を主張しだした。

 なんだか胃の辺りがムカムカとするし、気持ち悪さに呻くような声が漏れる。


「吐きそう……」


 よく分からないが吐き気と頭痛が酷い。全身が鉛のように重たいし、身体を沈めるベッドから起き上がれそうもない。

 いったい己の身に何があったのかと記憶を探りながら隣へと視線を向け、私の思考は停止した。


 手触りの良さそうなサラサラとした銀色の髪の毛が、ベッドの上に広がっている。視線を上へと動かすと、どこか中性的で整った顔立ちの人が、仰向けの状態で目を閉じていた。

 胸の辺りまで長さのある銀糸の髪が、ひと房顔にかかり影を作る。男性とは思えないほどの艶めかしさに、心臓を跳ねさせながらヒュッと息を吸い込んだ。


「え……なんで私、副会長とベッドに……?」


 混乱する頭で考えながら、身体を起こす。しかし頭痛が酷くなるばかりで、どうしてこの状況になっているのか思い出せない。たしか昨夜は、いま隣で寝ている上司の様子を見に執務室を訪れて、それから――


「うそ……」


 絶望を含んだ掠れた声が口からこぼれ落ちた。記憶を掘り起こしている途中で気が付いてしまったのだ。自身がシュミーズ一枚しか纏っていないことに。


「待ってまってマッテ、ええと……」


 状況を整理しよう。


 目が覚めたら、なぜか上司と同じベッドで寝ていた。しかも私の格好は肌着一枚。よく見るとベッドの端の方に、きれいに折り畳まれた自分が脱ぎ捨てたであろう服が置かれている。


 今度はぐるりと首を反転させて、いまだに規則正しく胸を上下させて寝息を立てている人を見る。こちらは衣服は纏っているが、首回りが大きくはだけて胸元があらわになっていた。線は細いが程よく筋肉の付いた男性的な胸板が、妙に生々しく目に映る。


「……まさか私、副会長と――」


 続く言葉は恐ろしすぎて、音にすることなんてできなかった。身体に違和感はないけれど、とにかく頭痛と吐き気が酷い。こんな状態は初めてだ。

 さらに昨夜の記憶が全くない。この部屋は恐らく自分がお世話になっている商会の本部にある仮眠室なのだが、なぜここにいるのかさえ思い出せなかった。

 この状況では過ちを犯していても不思議ではない。


 どんどん恐怖心が募っていき、とにかく服を着なければと慌てて手を伸ばす。震える指先を叱咤してなんとか着込むと、そのまま音を立てずに部屋から抜け出した。


「どうしよう……」


 まだ早朝なのか人影はなく、己の声だけが静かに響く。廊下の冷えた空気のおかげか、私の頭は徐々に冷静さを取り戻し、あるひとつの記憶を掘り起こした。

 スッと恐怖心が薄れていくのを感じる。


「そっか……いいんだ。私、婚約解消されたんだった」


 恐怖心に代わり、悲しみが胸の内側を包み込む。まるで苦いものが口の中に広がっていくような感覚を覚えながら、昨日の出来事を思い出した。



   ◆◇◆



「エルダ……頼む、婚約を解消してほしい」

「……え?」


 唐突に言われた言葉が理解できず、ぽかんと口を開けたまま目の前に座る人物を見つめる。僅かに頭を下げながらも気まずそうに視線を逸らす様子は、彼の言葉が冗談ではないことを物語っていた。


「エリック、それって……」

「もう君の家にこれ以上援助はできない。今まで貸した金は慰謝料として受け取ってもらって構わないから、君との婚約は解消させてほしいんだ。父さんも了承してる」


 あぁ、いつかこうなるとは思っていた。分かっている、悪いのは彼じゃない。

 幼い頃から兄妹のように育ってきた大好きな婚約者は、ついに家ごと私を見捨てることにしたようだ。


「じきに父さんから正式に、マグリード子爵に連絡がいくはずだよ」

「お父様に……」


 私の実家であるマグリード子爵家は、2年前に父が事業に失敗してから没落の一途を辿っている。領地の税収悪化に危機感を覚えた父が、友人とともに醸造酒の製造事業を立ち上げたのだが、軌道に乗ることはなく多額の借金だけが手元に残った。


 その後、事業を持ちかけた友人とやらは夜逃げ同然に一家で姿を消し、借金は全てマグリード家にのしかかることになる。

 今では貴族とは名ばかりの生活で、毎日食べていくのがやっとなくらいだ。


 そんな状況なもので、私は1年ほど前から働きに出ている。マグリード家がまだ裕福だったころは家庭教師がついていたこともあり、読み書きができるため、知り合いが仕事を紹介してくれたのだ。

 今は子爵家の令嬢でありながら、この王都でも豪商と言われるバローナ商会で雑用のお手伝いをしている。


 両親と、年の離れた弟は領地で暮らしているため、私は商会の従業員のために設けられている宿舎で一人暮らしだ。


 最近は雑用に加え、経理関係の仕事も教えてもらえるようになった。大変な部分もあるがとてもやりがいがあり、この仕事は結構気に入っている。

 少なくとも領地でのんべんだらりと過ごしていたころよりも楽しく、下位とはいえ貴族令嬢として生きるよりは私に向いていると思う。


 しかし充実した日常とは裏腹にマグリード家の家計はひっ迫していく一方で、そんな状況はさらに不幸の連鎖を積み重ねていく。


「エルダ……僕も君と別れるのは心苦しいんだ。でも、もうこれ以上マグリード家には関われない……」

「っ……」


 目頭に力を込めて、こぼれ落ちそうになる涙を必死で堪えた。


 だって……好きなのだ。

 この状況に至っては、関係を続けるのは無理だと分かっている。……でも、今すぐ嫌だと泣き叫びたいくらいには、彼のことが好きだった。


 エリックはベンター伯爵家の一人息子で、幼少のころ王都で暮らしていた時期に親同士の繋がりで知り合った。

 会っていくうちに自然と仲が良くなり、そんなふたりを見た父が婚約の話を持ってきたのは10歳のときだ。すでに恋心を自覚していた私は、嬉しさでその場で何度も飛び跳ねて、母に怒られたことを覚えている。


 ひとつ年上の彼は穂麦色の髪に優しい顔立ち、そして性格は朗らかでまるで陽だまりのような人だった。少し優柔不断で頼りないところはあるが、そこは私が支えていけばいいと思っていた。


 彼に見合うようにたくさん勉強もしたし、淑女としてのマナーも身につけた。


 私の元気なところが好きと言ってくれたので、運動をして体力もつけた。私はかなり小柄なのでついでに身長も伸びてくれるかもと期待したが、結局今でも小さいままだ。

 でもエリックも身長は高い方ではないので、彼の隣に並ぶなら小さくて良かった、なんて思ったこともある。


 ……もう、その未来は消えてしまったけれど。


「……分かったわ、エリック。わざわざ伝えに来てくれてありがとう。もうすぐ日も落ちるから、そろそろ帰った方がいいわ」


 これ以上彼とふたりでいたら、泣いて縋ってしまうかもしれない。そう思い震える声で言葉を紡ぎ、無理やり笑顔を作って立ち上がる。私が扉の方へと歩き出すと、彼も複雑な表情を浮かべて付いてきた。


 いま私たちがいるのは、バローナ商会が本部として使用している建物の中だ。私はここで働いており、また併設されている宿舎に住んでいるため、エリックは終業を見計らって会いに来てくれたようだった。


 彼が来ていることを受付から聞いたときは、それこそ子供の頃のようにぴょんぴょんと飛び跳ねてしまいそうなくらい浮かれていた。でも今は、その時の自分を殴って地面に沈めたいほど惨めな気分だ。


「エルダ……本当に、ごめん」


 廊下へと一歩出たところで、後ろから謝罪の声が届く。私は振り返ることなく答えた。


「謝らないで、エリック。悪いのはマグリード家であって、あなたではないわ」


 全ては私の実家が招いたことだ。ベンター伯爵家にはいくらか生活の援助もしてもらっていたし、むしろ感謝しなければならないくらいだろう。


「エリック、今までありがとう。私はもう隣にはいられないけれど、これからもあなたの幸せを願っているわ」


 そのまま一度も目を合わせることなく、彼を見送った。

 朝から降り続いている雨の中へと消えていく好きな人の後ろ姿を見つめていると、彼とすごした10年間の思い出が頭の中を駆け巡っていく。泣いたり笑ったり、いろいろな感情を彼と共有した。初めて手を繋いだ日のことだって、昨日のことのように覚えている。


 悲しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうなのに、どうしてかもう涙は出てこない。大粒の雫を落とす曇天の空は、まるで私の代わりに泣いてくれているようだった。



「エルダ? あなたまだ帰ってなかったの?」


 建物の入口に突っ立って、ぼーっと灰色の空を眺めていると、すぐ近くから声を掛けられた。


「……ジネットさん」

「どうしたの? 婚約者が来ているって聞いたから、とっくに帰ったのかと思っていたのだけど」


 首を傾げながらこちらを見てきたこの人は、ジネット・ハンザ。私の上司にあたる人で、バローナ商会の会計業務を任されている金庫番だ。

 女性だが仕事のできる人で、とても尊敬している。仕事に関しては厳しい一面もあるが、面倒見がよく私は姉のように慕っていた。


「私、ふられちゃいました」


 ぽつりと言葉がこぼれ落ちる。この人になら、話してもいいかと思ったのだ。

 ジネットさんは少しだけ目を見開いてから私の前までやってくると、ぽんぽんと優しく頭を撫でた。


「まあ、人生いろいろあるわよ。エルダ、あなたまだ20歳でしょ? きっとこれからたくさん出会いがあるわ。私なんて今年でもう32歳だけど、まだ結婚あきらめてないんだから」


 貴族令嬢であれば、20歳で結婚していない者は行き遅れの部類に入る。私は18歳になったらエリックと婚姻を結ぶ予定だったのだが、借金の関係で保留の状態となっていた。


 ジネットさんは身分的には平民なので、結婚適齢期について貴族のような考えはないようだ。この人は私の家の事情を知っているため、今の言葉は励ますために言ったのだろう。


「そう……ですよね」


 頷いてはみたが、内心では恋愛は当分いいかなと思った。ついさっき失恋したばかりだし、まだまだ心の整理がついていない。そもそも借金まみれの状態では、まともに恋愛なんてできるわけがない。

 しばらくは真面目に働いて、少しずつでも借金を返していこうと密かに思った。


「ええ、何かあったら私を頼ってくれていいから。恋の相談ものるわよ? あ、そうそう、今日なじみの取引先からいいものもらったの。エルダにあげるわ」

「いいもの、ですか?」

「そ。これよ、こ、れ」


 そう言ってジネットさんが鞄から取り出したのは、赤い液体の入ったお酒のボトル。お酒には詳しくないので銘柄を見てもよく分からなかったが、なんとなくそこそこ高級なものに見えた。


「失恋したときはお酒に限るわ。ぐびっと飲んで、ぱーっと忘れちゃいなさい」

「あ、ありがとうございます」


 差し出されたボトルを両手で受け取る。今までお酒を飲んだことはなかったが、今日くらいはいいかもと思ってしまった。


「それと悪いのだけど、帰る前に副会長の様子見てきてくれる? 昨日も遅くまで残ってたみたいだから心配で。私が行こうと思ってたのたけど、会長に呼ばれちゃったのよね」

「分かりました。早めに帰るように伝えておきます」

「ええ、お願いね」


 そのままジネットさんは廊下の先へと消えていく。

 私は一度エリックと話していた応接室へと戻り、鞄の中にボトルを押し込むと、目的の場所を目指して歩き出した。



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