表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史とDNA

人類の拡散

作者: とびうお君

 諸説あるものを私なりにまともだと思えるものを抜粋して整理したい。まず出アフリカについてだが、重要な点で、現代人の遺伝子に影響を残した。そういった意味の出アフリカは1回しかない。アフリカの角と呼ばれる地域から拡散した6、7万年前ぐらいのイベントぐらい。だが世界中にそれより早いホモサピエンスの遺骸が見つかっている。


 それはあったことは事実だが、現代人の遺伝子に残っていたとしてもほとんど影響がない。大海の一滴と言うものだ。旧人との比較で、実は旧人よりわけが分からないとなる。その理由はDNAが後の時代に残ってないからになる。旧人は4万年前ぐらいまではいたが、その時期早い段階の出アフリカ集団のDNAなど全く見つかってない。


 ただ言えるのは未知のわけわからないホモサピエンスの集団のDNAが大量に現代人に見つかることはない。特にY染色体やmtDNAは綺麗に1回の出アフリカのイベントで終えるような系統だったものになっている。早期の出アフリカはあったが、現代人集団のDNAにとってはあまり大きな影響を持つものではない。


 続いての部分で、ここが偏ったデータからの類推になる。直系だけに残るY染色体やmtDNAからは、人類は多分出アフリカが2度あったように見えるような事態になっている。これが多分早期の出アフリカ説の根拠になっている。現代人の大きな影響を与えた出アフリカは1回だが、出アフリカ後の拡散はまるで出アフリカが2度あったような現象が起きている。


 Y染色体の偏った情報からだが、まずオーストラリアまで繋がる海岸ルートをたどった集団が居て、これらとは別の集団がインドから東南アジアのインド北部の平原と海岸で別れるようになる。これがアジアの北方ルートの勘違いを起こすもとになっていると見ている。ヒマラヤ北部を回ったのじゃなくて、ヒマラヤ南麓の平野に残った集団が北方ルートをたどったように見えてるのじゃないか?と見ている。


 ただこの集団が明確にインドだったのか?東南アジア北部だったのか?を決定することはできない。それだけ古いDNAが採取できてないからになる。現代人のDNAからはインドであろうと推測できる。ただまず新集団の拡散の前に中近東や欧州に向かったインドの旧集団があったと見ている。


 現代残ってないが、古い欧州の人骨からはアジア的な集団の特徴がみられるDNAがちらほらみられる。今現代も残っているC1A2のグループだと思われる。


 じゃ何故中近東に大きな集団が残らなかったのか?で、おそらくその付近は旧人の支配が強かったためだと思われる。その後新集団としてクロマニオン人と言われる集団が西部に拡散したと見ている。おそらくロシアにも先に古いインド集団が拡散したと見ている。この集団がアジア人に影響を与えた北方ルートなのじゃないか?と私は見ている。


 分かりやすく言うと新集団はY染色体Fの誕生後に世界中に拡散したグループだと言える。F誕生前の旧集団はCDのグループで、そのうちEはアフリカに戻っていったため、CDを中心とした古いグループが世界中に広まって、このグループは現代においては大半がその影響を残してない。残ってるのが、インド南部から東南アジア、オーストリアへの海岸ルートと、日本とチベットのDのグループになる。


 後Dは北部ではほとんど見つかってないためDは海岸ルートだけで、チベットはそのついでになる。基本Cが全世界に広まったと見て良い。F集団の中でアジアではKの誕生後にその下位系統であるNOが拡散する形になる。他の系統はほぼ西部に向かったと見て良い。


 今まで中近東で分岐したとなってる拡散図が多かったと思うが、多分あれは違うと私は見ている。インドから東南アジアにまたがる平原がそのコアな部分だと見ている。その原因は先ほども話したように西部の旧人の影響が大きい。初期のレヴェントの出アフリカ組が現代にほとんど遺伝子を残してないのは、多分この影響で拡散できなかったからだと思われる。


 どうしても絶滅した集団なのでホモサピエンスが強いって見てしまうが、初期は旧人に対する後発組の遅れてきた集団にすぎなかった。どうやって逆転したか?はいまだに謎なのでそこは触れない。


 後大事な点で、これらの考えが決定的な証拠が無いのは、インドの平原は河の土砂で古い時代の遺跡の発見があまり多くないらしい。石器でさえそうなのだが、人骨となるとほぼ無かったと思う。なおかつDNAが残る環境ではないとの事で、現代の集団からの類推と、新石器時代のDNAからのデータからの類推になる。


 他の北方ルートの住人は、おそらく東南アジアで生まれたY染色体Pの集団になる。アメリカ先住民の西方集団のルーツと欧州人のルーツになる。何かしらの集団の隔離があったと思われるが、新しい集団の拡散は西方においてはアジア的DNAの痕跡が皆無となる。これは謎なのだが、どこかでアジア的集団と隔離された特別な場所がインド東南アジアで生まれていたと思われる。


 特に海岸部と平原部では明確に分かれると思う。だが平原部にアジア的集団が居なかったのか?ならそれはまた違うと思われる。西方に向かった初期の集団はアジア的DNAをふんだんに含んでいたためとなる。


 そこから、アジアの代表的なY染色体であるNOは元は西方集団に近かったのではないか?と私は予想している。アジア集団であったPが西方集団になったじゃなくて、逆にNOが西方集団からアジア集団と混血したと見ている。


 インドや東南アジアが西方集団の起源だと私は見ている。新集団によって過去あったアジアと分岐してない西方集団の遺伝子は上書きされて消えてしまったと見ている。


 Y染色体で話してるが、核DNAも絡めた情報で話している。分かりやすくするためY染色体で書いてるに過ぎないので、そのあたり了承を。新集団は、インドから東南アジアの平原からやってきたとなるが、それだけじゃ説明がつかない部分があり。それがアムール当たりのアメリカ先住民につながるアジア集団になる。


 これらの代表的Y染色体であるC2を中心に話すと、C2は旧集団のアジア海岸部から生まれたと見ている。だが遺伝的に現代距離があるのは、これらの集団は早期に分岐して中国南部で発達した集団だと見ている。C2は中国南部が沈んで北上した集団だと見ている。これらの集団が残してきた集団と混血したのが、インド東南アジア平原から東部へ向かったNOだと見ている。


 そのためNOとC2の集団は遺伝距離が近くなったのだと見ている。


 最後の北方ルートとして、歴史時代のちょっと前にQの中央アジア集団が中国に入ってO2グループと混血して中国の基礎となる中原集団を作ったとの研究がある。周の王族貴族からQが大量に見つかるため、これはおそらく正しい見方だと私は見ている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ