追憶の始まり
疲れた。
疲れてしまった。
そう思うことは悪いことだろうか。
30年の人生で、30年ぽっちの人生で、
もういいやと思ってしまうのは悪いことなのだろうか。
あの町に帰りたい。生まれ育ったあの町に。
そこで静かに何者でもなくなってしまいたい。
頭の中が素直にそう考えている。
思えば失くしてきたものにずっとしがみついてきた。
自分の境遇を、何もうまくいかないことを、失くしたもののせいにして、
自分が何もしなかったことは全部棚に上げて、自分を支え続けてきたんだ。そんな一本のか細い糸で。
でも朝にその糸はプッツリと切れてしまったんだ。
どうせいつかは終わる人生だ、今日がその日だって構いやしないだろう。
疲れてしまったんだ。
だから帰ることにした。あの町に。
故郷と呼ぶべきあの町に。
最後くらいは好きな場所で、好きなようにと、
出勤前のスーツ姿のまま6畳一間を飛び出し、
自分の意思がどれほど強いのか曖昧なまま車に乗り込み、気の向くままに車を走らせていく。
大通りをぐんと外れて人気のない山道を、何度も何度もカーブして、
曲がるたびに遠い昔を燻っている。
登るにつれ徐々に低くなる眼下の景色が、淡い記憶の中と少しずつ重なっていくのを感じた。
そんな懐かしい自然の中を走り抜けると、視界がひらけて無機質なコンクリートの壁が見え始める。
懐かしくない故郷に成り果てた町。今は遥かダムの底。
もうこの目で見ることすら叶わない、そんな故郷に帰ってきたのだ。
町がダムの底に消えてからここに来るのは初めてだけど、あまり帰ってきたという感じにはなれなかった。
「見覚えのない景色だな・・・。」
路肩に停めた車内から寂しく呟く。
車を降りて湖底を見下ろすと、ダムの淵の山の形がなんとなく昔見上げ空の輪郭を思い起こさせた。
軽く深呼吸をすると。もうここでいいや、そう思った。
せめて、生まれた町で、水さえなければ今も住んでいたであろうこの町に。
戻ることのできないこの町に。
帰るんだ。
ゆっくりと塀に上がり、何かのドラマで見たワンシーンのように靴を脱いでその場に整えた。
そして自分の気が変わらなぬように、そのままの流れで、目を閉じ、
重力が体を捉える角度まで、そっと体を、傾けた時。
「ダメだよりょうちゃん。」
忘れかけていた君の声がした。