間抜けなパン (※ローザ ≪中世≫ 3 改題)
森はすっかり暮れている。夜気を伝うのは、狩りに巣立っていた猛禽類が、仔らの待つ栖への復路に気忙しさを伴う羽音だ。とろりとした闇は奪うでもなく攻めるでもなく、浅い眠りの時間を迎えた植物や動物たちの営みをただ自然と包み込んでいる。
森の中の洞窟では、互いの名を知ったばかりの女二人が爆ぜる焚き火を囲んでいた。
「無理はなさらないでくださいね。とにかく温かいものをお腹に入れましょう。今日は春きのこが採れたのでスープを作ったんです。刻んだきのこしか入っていないけれど、久しぶりの胃腸には優しいはずです。さあ、どうぞ」
穏やかに湯気を立てるきのこのスープは、森の滋養を丸ごと含んで濃い味がするにちがいないと思われた。
「あの、ありがとうね。本当に…」
再び盛り返そうとする涙で喉が塞がれる前に、ローザは伝えるべき言葉を発した。
声に紡ぐことのできなかったたくさんの謝意は、切なさを呼び起こして代わりに胸の中に零れた。ありがとう、命をつないでくれて。ありがとう、ここで出会わせてくれて。あなたがこの場所に迎え入れてくれたことで私がどんなに安心したかは、然るべき時機に千の言葉を尽くしてもきっと伝えきれないだろう。
「あ!」
一つめの嗚咽が炸裂しそうになった刹那、ローザは突如声を上げた。
「わたしパンを持ってる。母が焼いた田舎パンなの。鞄に入れて持ってきたのよ。分けて食べよう」
「本当ですか。パンなんて久しぶり」
嬉しげに応じた黒衣の修道女が、乾いた落ち葉を敷き詰めた寝床から、疲弊の激しいローザに代わってボロボロの革袋を運ぶ。その手もまた、闊達に機能する自由さを損なわれて久しかった。
「とっさに忍ばせてね、逃げてくる途中不安になるとお守りみたいに鞄ごと抱き締めてたの。最後に与えられた母の縁だと思って」
ローザは受け取った袋の口に手を差し入れ、逃亡を共にした乾燥パンを取り出そうとした。
「質素だけど味はいいのよ」
次の瞬間、二人は揃って目を丸くした。ローザの手のひらには、緑色の和毛がびっしりと生え整ったふわふわの苔玉が載っていた。愛おしいパンは、見事に徹底的に黴ていたのだ。ローザが大事に携えてきた形ある日常の面影は、非常に順調に、そして着実に化身していた。騙されたような、呆気にとられたような、ぽかんとしたひとときを共有してから互いに目顔で頷く。
「…黴の親玉のよう」
感極まって思わずといった調子で修道女が呟くと、どちらもなんとなく気が抜けてふつふつと笑いが込み上げた。命懸けの逃避行、追手の足音が聞こえまいかと振り返る度しおらしく神妙に抱いていたものが、堂々と際物の存在感を放つ黴の親玉であったところを想像して。
「はぁ」
含み笑いの合間にローザの漏らした低い呻き声は、喪失の当惑よりもむしろ明るい諦めのような色を多く含ませていた。
「ここまでいっちゃったらしょうがないわね」
語尾は少しく跳ね上がり、独りごちる呟きにも悲壮感は漂わなかった。期待を予想外に裏切られた動揺に、目を見合わせた修道女も可笑しそうに声を立てる。
「表面を剥いで食べましょう、ローザ」
しかし、ナイフを入れたトゥーラの美しい唇からは、ひしゃげた短い悲鳴が転がり出る羽目になった。土中に張り巡る植物の根系のように、濃緑の菌糸が生地の柔らかさをこれ幸いと縦横無尽に這い回っていたのだろう。
ある意味で捨て鉢の、転じて気丈夫な笑い声が、愉快げな和音に重なり洞窟の奥にまで木霊していた。間抜けなパンを挟んで二人の孤独な女が向かい合い、互いに背負う悲しみの中に生きる決意を認め合い、同志として固く結び合った瞬間だった。それはまた、この地に根付くことになるある村の長い歴史の端緒ともなることを、この時の二人は果たして知っていただろうか。
プロローグ完。