洞窟の修道女 (※ローザ ≪中世≫ 2 改題)
火を焚く音がする。森林の気を含んだ青臭い煙が鼻の奥をツンと刺激する。だから、薪に使われた樹種はマツ類だ。疎らな灰となった焚き付けを咥えて煽りながら爆ぜ、火先を散らせてはまた燃え上がる。
わたしを焼くための灼熱の炎だろうか。それとも、夢の中にいるうちに火刑は遂行された後なのだろうか。
すでに事が済まされたのならいい。わたし自身の咎は、根も葉もない噂話で作り上げられた魔女の罪業ではない。老母を置き去りにした罪を、召された場所で厳正に裁かれるだけだ。もはや薬を届けられなくなった病人たちにも詫びることすらできないが、天界で微力を尽くせるならそうしよう。もし一度生まれ変われるものなら、この身が求められる限り役目を果たす。
だが、再び目は開いた。薬草と森の色に染まる、透き通ったローザの目は。
炎の暖色がまぶたの裏に映り、どうにか持ち上げてみると剥き出しの岩の天井を捉えた。穹窿をなす天井から壁にかけての岩肌が、温かな色に照り映えて幻想的な、あるいは原始的な光景を醸し出している。
洞窟のようだ、とローザは思った。目が沁みるのは、薪が含む松脂のために煙が多いせいだ。強勢の焚き火は足先の方で燃えている。起き上がって状況を確認しなければと気持ちばかりで焦るが、手も脚も重い鉛と化してほんの少し動かすのにも難儀した。
割れるように痛む頭を振り、呻きながら半身を起こそうとする。
「大丈夫ですか」
その時、突然声が降った。
ハッとして周囲をうかがう。洞窟の入口と思われる方から、緩い風を伴って近付いてくる人がいた。暗色の修道服に身を包んだ妙齢の女性だ。しなやかな歩みに合わせて炎が揺れている。
まだ不明瞭な意識を向けて、首だけ上げたローザは様子を探る。
ゆったりとしたくるぶし丈の漆黒のローブ、頭部から首元までをすっかり覆う白い頭巾の上から、重ねて被った黒色のベールが肩まで大きく垂れている。胸には小さな十字の首掛けが光っていた。十全に隠された髪の色はわからないが、慈悲に溢れる目は、中心に浮くはずの瞳を見分けられないほど全体に黒が濃い。珍しい色だ。ローブにも晒された白い顔にも新旧の切り傷が付き、頭部をぴたりと覆う純白だったはずの頭巾は、薄汚れて所々に血が滲んでいるようだった。
しかし、その隠しようのない美しさは外面の疲弊感に少しも損われることがない。すっと通った鼻梁と美しい形をした紅い唇。輝く笑顔を見せる彼女にローザは不思議な安心感を覚えた。
彼女は抱えていた数本の小振りの枝を焚き火の傍に下ろし、「よかった」と呟きながらローザが横たえられていた枯葉の寝床に浅く膝を突く。濡れた黒曜石のような目に、焚き火が映り込んで揺らめいている。
「やっと目が覚めましたね。丸二日間も眠り続けていました」
ローザの背を助け起こしながら、美しい洞窟の修道女は安心したように吐息を漏らすのだった。
最初からローザにはわかっていた。この女性は大丈夫だと。警戒を解いてもいい相手なのだということが。彼女もまたローザと同じく逃げ延びてきた境遇なのだという共鳴を感じた。ここは天国ではなかったが、疎開した果ての小さな聖域のようだ。
ああ、よかった、と口の中でもう一度呟いてから胸の前で十字を切り、人懐こい笑みを浮かべた黒衣の修道女は、ローザの額に手の甲を当てる。彼女の細い指が、十本とも固く曲がったままほとんど動かないことに、この時ローザは気付いた。
「熱も下がりましたね。森で見つけた時には瘧のように震えていました。まず水を飲んでください。少し温めておきましたから」
そう言って彼女は、遠めに火に掛けられていた小鍋から琺瑯のカップに湯を注ぎローザに手渡す。自由が利かないためにたどたどしいが、もはやそれにも慣れたという具合の手つきだった。
並々と注がれた白湯が一筋零れ落ちると、急に猛烈な渇きに襲われた。必死で逃げ惑う途上には、十分に喉を潤す余裕すらなかった。受け取ったわずかに熱めの湯を一気に飲み干す。燻煙を上げて中央に燃え盛る焚き火が温めた命の水は、人肌の温度となって渇きに渇いた身体に染み渡る。生きた心地を思い出させる。
「もう一杯いかが?」という厚意の声に甘えてカップを戻す。また湯を注ぎ入れた彼女は、今度は手のひらの大きさの壺からとろりとした液体をひと匙掬って溶かした。
一口含んで蜂蜜だと気付く。アカシア蜜のすっきりとした穏やかな風味。鞭打った身体にとっては、これ以上望むべくもない至福の一杯だった。混じり気のない優しい甘みに身も心もほどけていく気がした。
すると、同時に母の顔が浮かび、駆けてきた道程と二度と戻ることのできない自分のものだった人生を遠く思った。わたしは本当に遠くに来た。命からがら故郷を飛び出て逃げ通した。樹から樹へとまさに導かれてここへ辿り着いたのだ。あの夜更けに逃げ出さなければ、翌朝逮捕され拷問を受けて処刑されるはずだった。
ローザは震えだした。
三年子ができずに離縁され、出戻った実母の元で家業の薬屋を継いだ。薬草からローザがつくる多様な薬は、驚くほどよく効くと評判を呼び近隣に知れ渡った。人々の要請に応じて、さらに高い効能を発揮するよう手心を加えた。ローザの薬は魔法のように早く病気や怪我を癒した。
だが、やがて、あの女は禁じられた秘法を操り即効性のある呪われた薬を売っているのだと事実無根の噂が立った。
ローザの生まれ育った国にも、魔女狩りの嵐が吹き始めようとしていた。些細なことでも近在で目立てば、魔女の疑いをかけられて摘発される。精神病や不妊、人付き合いの悪いただの女たちが、近隣者からの密告によって無作為に連れ去られた。
薬草屋のローザに関する流言めいた出鱈目の非難は高まる一方だった。次こそ自分の番かと怯え、それでも気を張り、自らを鼓舞して縮こまるように過ごした日々。それでも薬草を煎じる手は止めなかった。効力の高い薬を待つ、幼齢やお年寄りの病人は大勢いた。
口数の少ない穏やかな母が、ローザの気力の源だった。教会の使いが訪れ、翌日未明に連行されると知らされた時、頭から氷水を浴びせられたように身体が跳ねた。薬を届けた隣街で目の当たりにした、生きたまま火で炙り殺される女たちの戦慄の光景が脳裏をよぎる。白熱した火達磨から上がる人の声とは思えない叫び。濛々と空に立ち昇る黒煙。風に靡く肉の焼けた匂い---。
寝ている老母の手を握り、ローザは逡巡していた。甘んじて縄を受けるのか。それとも、自らの命を救うために逃げ出そうか。考えるだにどちらも楽な選択ではなかった。
刻限が近付いていた。寝息を立てていた母がいつの間にか目を開けていることに気付いたのは、真夜中をかなり過ぎた頃だった。白く濁った目から無言で涙を流しながら、母親の迫りくる力をもって一つ頷きかけることで、最愛の母は悩むローザを押した。ただならぬ迫力だった。長く握り締めた手はもう感覚を失いかけていたが、母の手の湿った熱だけはひたと感じずにはいられなかった。
替服一枚と乾燥したパン、基本の薬草とわずかな手製の薬を手当たり次第に革袋に突っ込み、ローザは裏戸を飛び出した。
洞窟に反響する嗚咽を上げ続けるローザを、修道女は柔らかく抱き締めた。「大丈夫、大丈夫」といつまでも呪文のように繰り返して。落ち着いた声が耳に届き、ささくれたローザの心を撫でる。母以外の人の温もりに触れるのはいつぶりだろう。
不意に何とも言えず快い気を感じた。それは、どうやら背中を摩る強張った手から流れ込んでくるようだった。洟を啜った時、煙がちな夕暮れの岩窟で、ローザは確かに瑞々しい若葉の香りを嗅いだ気がした。