ローザ ≪中世≫ 1
ミステリとして。手元では完結しています。冒頭部から伏線は張ってあります。
深い森のさらに深く、絶壁の山肌に抱かれ、清浄なる永久の大河が潤す秘密の村。人知れず躍動する魔女たちのゆるぎない幽居がそこにある。
ローザは、駆けに駆けた。
夜陰に紛れて裏路地を走り抜け、故郷の町を背にして街道の外れをひた走り、身を隠すように森に入った。月はない。心臓が痛いくらいに激しく胸を打つ。乱れた髪が顔に貼り付き、もう呼吸もできないほど息が上がっている。無理矢理に動かし続けた脚は固まって二本の棒になり、膝から小刻みに震えて止まらない。汗に濡れた身体は、火照っているにもかかわらず芯から寒気を覚えている。
一歩でも先に進まなければならない。遠ざからなければならない。
肩越しに振り向くと、不意に警笛が鳴り響き、鋭い怒号が夜気を割く。樹間に差し込む追捕の灯りが今にも背中を舐めそうだった。捕まれば、生身の体に火を付けられることになる。骨肉が灰になるまで焼き尽くされるのだ。
身をすくませる本能の恐怖に支配され、無自覚に流れる冷たい涙を拭いながら、ローザは暗すぎる森の奥へ分け入っていった。
夜行性の獣の鳴き声が遠くから近くから聞こえてくる。一陣の風が樹々を乱暴に撫で渡ると、攻撃的な葉擦れの音が闇を揺らした。手近の樺の樹に指先を当てて、鼻先も見えぬ深い闇の中でローザは方向を探る。場所はわかる。そちらへ行けばいい。行くしかないのだ。
脚がもつれてもんどり打てば両腕で這った。闇の森をずるずると分け進みながら、底知れぬ怖さとは別に、後悔と一抹の安堵が交互に引いては押し寄せる。
老いて盲いた母をあの町に一人置いてきてしまった。わたしの逃亡が知れたら、唯一の肉親である母はどんなに責められることだろう。見逃した廉で同罪にされ捕縛されるようなことだけはあってはならない。しかし、運よく責を免れたとしても、目の不自由な母は支える者もなくこの先の生活を営めるだろうか。
残してきた母への思いがさまざまにローザの心を刺す。その一方で、最後に握った手の温かさが、今も頼りないローザを励まし続けていた。思いがけない力で握り返した母との、言葉一つない今生の別れを思い出す。それから、一切の懸念を差し置いて母親の守るべき決意を湛え、生きなさいと背中を押した見えぬ目を。
身を預けて縋るように枯れ枝を杖に突き、悲鳴を上げる両脚を引きずって、昼も夜もなくもう戻ることもできないほど歩いた頃、ローザはそこに辿り着いたことを知った。
森の精気が一段と濃い。澄み切った清浄な空気が傷付いた肌に触れる。聖域だ。血と涙と泥にまみれ逃げ通して疲れ切ったローザは、そう思った途端意識を失いかけた。
倒れざまに、目の端で慈しみの手を伸べる黒衣の聖女を見た。幻覚だろうと思う間もなく、地面にぶつかる衝撃すら感じないまま、ローザの目の前は真っ白になった。
(ほぼ)毎日続きを投稿したいと思います。