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杜子春異伝  作者: John B.Rabitan
8/8

第八章~エピローグ

 そんな私の状態とは別に、戦争も次第に本格化してきたとの知らせが、この村にも入ってきます。

 父が県令の屋敷で主に情報を仕入れて来るのですが、今や王様の軍勢と反乱軍であるグイドの軍勢は、あちこちで小競り合いを繰り返しているとのことです。

 今はまだそれほど寒くはないのですが、これから秋も深まり、冬を迎えるまで戦争が続いているようでは、戦場にいるルキーノの体も心配です。クリスマス(ナターレ)までには戻って来てくれるのでしょうか……???

 そんなふうに彼のことを心配していましたが、私自身の体にも変調がありました。

 すでに十月になっていましたので、ルキーノが戦場へと駆り出されてから一週間はたっていました。

 ごく少量ですが、お手洗いで血が出ました。

 最初は月のものかとも思ったのですが、先月のその日から考えても月のものまでまだ一週間くらいはあるはずです。それに、月のものにしては量も少ないのです。

 でも、すぐに止まったので私は気にしていませんでした。メイドにも言いませんでした。このようなデリケートなことは、たとえ同性でもあまり話したくはありません。

 ところが今度は逆に、月のものが来るべき日が来ても一向にそれは来ないのです。やはりあれが早すぎた月のもの?……誰にも聞けません。

 ルキーノがいなくなったという突然の衝撃と、そして思い出したくもないあの忌まわしい事件などで私の心はずたずたになっていて、その心の傷が体調にも影響を与えているようです。

 秋が深まっていくにつれ、ももとも病気がちだった私ですが、また寝込む日が多くなりました。食欲もありません。食欲どころか、常時吐き気を感じているような始末です。気持ちもずっといらいらし続けて、暗く塞ぎがちです。

 そんな私を気遣ってか、父も母もとやかく言わずにそっとしておいてくれています。

 でも、あまりに私の状況が酷いので、ある時ついに母は私のベッドのそばまで来て、執事もメイドも退出させました。

 母はベッドの上で横になっている私の顔を立ったままのぞきこむようにして、優しく微笑みました。

 「ティツィアーナ」

 そっと私の名を呼びます。

 「あなたの体はどんな状況なのか、お母さんに話してごらんなさい。お母さんには、思い当たる節があるのよ」

 母はペンにインキをつけた状態にして、紙とともに私に渡してくれます。私は上半身を起こして、ベッドに座る形になりました。

 自分の症状については、幼いころからずっとついてくれているお医者さんにも一応は伝えてありました。でもお医者さんは、やはり私が負った心の傷によるものでしょうと、私が自分で考えていたことと同じことを言うので、その通りだろうと疑いもしませんでした。

 でも、母の見方は違ったようです。同じ女性として、いやむしろ女性の先輩として別のことに思いが至ったのでしょう。

 私が状況を書いた紙を見た母は、心配するどころか安心したような顔つきでさらに微笑みました。

 「おめでとう」

 なんとそんなことを私に言います。

 ――え?

 私は一瞬、あっけにとられました。私のこんな状態がなんでめでたいのか……

 「お母さんの経験から言ってもっ間違いないわ。私もいよいよ、おばあちゃんになるのね」

 ――えっ! まさか……私は思わず目を見開きました。考えてもいなかったことです。

 私は状況を呑み込むまで、時間がかかりました。

 ――私のお腹の中に赤ちゃん……???

 結婚してもう何年も子供が授からないという夫婦もいるのに、たった三日の夫婦生活で赤ちゃん……?

 すべては『神』のなさせる(わざ)です。

 全智全能の『神』におできにならないことはない……そう考えても、やはり不思議です。

 私の目からは大粒の涙がこぼれ始めました。

 ――本当ですか? 本当ですか?

 私は何度も心の中で『神』に問いかけました。今の私のこの状況を哀れんだ『主』が、最大の贈り物を下さったに違いありません。

 そして、まだ依然と何ら変わりのない私のお腹をさすってみました。この中に赤ちゃんが……? 私とルキーノの赤ちゃんが……? でもまだなんだか実感がわきません。

 「ああ、きっとそうですねえ」

 あとでお医者さんにそれを言うと、そんなのんきにお医者さんは言います。男であるお医者さんには、ピンとこないのでしょう。こうなるとお医者さんの範疇ではなく、お産婆さんの仕事となります。お産婆さんといっても、実際に生まれるのは来年の初夏の頃だというのでだいぶ気が早い話ですが……。

 それでも、もう私は一人ではありません。

 お腹の中の子と二人で、ルキーノの帰りを待つことができます。自分のお腹に向かって、その中の子供に心の中の声で話しかけていると、不思議と気持ちが落ち着きます。

 本当ならばこのことをすぐにでもルキーノに知らせてあげたいのですけれど、戦場にいる彼に手紙を書くなんてできないでしょう。こんなこととは全く知らずに、彼は戦っているはずです。

 

 お腹の中の子が育つのと同時並行で、世の中の状況、特に今度の反乱軍鎮圧のための戦争の状況も刻一刻と変化していることは、父を通して知らされました。

 秋ごろに本拠地であるスポレート公国を出た反乱軍はすでに帝国時代の辺境要塞であったボノニアを経て、今やプラケンティアをも占領したとのことです。プラケンティアといえば、もう王都のパピアまでは目と鼻の先、私は位置関係はよく分からなかったのですが、父の話ですと私たちの村は王都パピアとプラケンティアのちょうど中間あたりにあるとのことです。

 そうなると、いよいよの時は、私たちの村は巻き込まれずにすむでしょうか……? 不安です。

 でも私は一人ではない……お腹の中の子供と一緒にルキーノの帰りを待つことができます。そう考えると、心強いのです。

 そうして秋は深まり、冬の到来を感じ、待降節(アッヴェント)を迎えました。去年のクリスマス(ナターレ)はまだルキーノと出会う前でした。

 この一年で私の取り巻く環境はがらりと変わってしまいました。今まで何回も一年一年を積み重ねて生活してきたのですけれど、こんなにめまぐるしく状況が変わった一年は初めてです。

 一年前は見知らぬ人だった人のお嫁さんになって、お腹の中にはその人の子供がいて……でもその人は今は戦いの中……私はただ帰りを待つだけです。

 去年までは両親と三人で過ごしたクリスマス(ナターレ)……今年は一人増えるはずだったけれど、でも確かに一人増えています…私の体の中で…。

 このころになると体調も落ち着いていて、少しお腹が大きくなったのが分かるようになりました。吐き気もしなくなりました。でも、まだそれほど目立ってはいません。

 だんだんお腹が大きくなっていくのが分かるようになったのは、年も明けてからでした。

 

 そんな真冬のある日、真冬といっても間もなく四旬節(クワレージマ)に入りますから春の足音ももすぐそこに来ているということになりますが、そんな時に父は慌てふためいて真っ青な顔でお屋敷に戻ってきました。そして母と執事長と三人で、一つの部屋でこそこそと話しているようでした。

 私はなんだか、悪い予感しかしません。

 その日の食卓では、父も母も口数少なく、黙々と食事をしていました。

 私は何があったのか尋ねたかったのですけれど、食事中はペンも紙もありません。

 ようやく食事が終わってから私は母を捉まえ、身振りで何があったのか尋ねました。母は黙って首を横に振りました。それから、優しく諭すように言ったのです。

 「あなたは、何も心配しなくていいのよ」

 何か隠しています。

 私はその夜に、ベッドメイキングに来たメイドのリーザに、紙を見せました。

 ――何かあったの? お父様もお母様も様子がへん。

 それを見たリーザは、しばらく何か悩んでいるようでした。そして、意を決したように私を見ました。

 「まあ、特に口止めされているわけではありませんから申しますと、今日、何人もの村の人が見てるんです。この村のすぐそばを通っている街道をものすごい数の軍隊が東へ向かうのを」

 ――王様の軍隊?

 「そうみたいです。東へ向かうということは、反乱軍に占拠されているプラケンティアを目指しているのでは……」

 私は思わず、それまで会話の文章を書いていた紙をぎゅっと握りしめました。

 王様の軍隊が東へ行ったということは、いよいよ反乱軍との最終決戦が行われるのでは……その東へ向かったという軍勢の中にルキーノもいる可能性も非常に高いのです。

 私は静かに、手を組んで祈りを捧げました。

 

 薄暗い兵営では、砂ぼこりのせいで弱々しく外からさす光も薄茶色に見えます。

 簡単な甲冑しか与えられていない兵たちは支給された槍を担いで、整列させられています。

 私は自分がどういう立ち位置でその姿を見ているのかよく分かりません。

 でも、私の目が探しているのは、当然ルキーノです。でも兵隊さんたちの数はあまりに多すぎて、彼を見つけられません。何千人もの兵隊さんたちがどんどん入って来ては整然と整列していきます。

 その時けたたましくラッパが響き、兵隊さんたちは掛け声を挙げて戦場へと走って行きました。

 やがて、野原に一本の大きな川があって、その川の向こうに敵の兵隊さんたちが陣を張っています。

 この川があの王都パピアの前を流れていたさらに大きな川と合流するのはこのちょっと北に行った所。そこにある城壁の中が、敵が占領しているプラケンティアの町です……なんて、なんで私、そんなことを知っているのでしょう……???

 そのトレビア川を挟んで、敵と味方は睨み合っています。

 そのうち、王様の軍隊の将軍のような人が馬の上から叫びます。

 「神聖なる王の軍勢よ! 我に続け!」

 「「「「「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」」」」」

 兵たちは皆、しぶきを挙げて川を渡ります。

 敵の放つ矢がまるで雨のように降り注ぎます。それを楯で防ぎ、味方の放つ矢に守られながらも兵と兵は川の中でぶつかり、槍で突いたり剣で斬ったりの戦いが始まって、人々の叫びと金属同士がぶつかる音がよく晴れた空にこだまします。

 なにしろ何千という数の軍勢同士がここでぶつかっているのです。たちまち川の水も真っ赤に染まり始めます。水しぶきをあげて川に倒れるものも多く、それを踏み越えての戦いは続きます。

 私はそんな中で、とにかくルキーノを探します。不思議と私にぶつかる人は誰もいません。

 また目の前で人が斬られて、血しぶきを挙げて川に倒れました。でも、倒しした人もすぐに別の人にお(なか)を槍で突かれてもだえ苦しんでいます。また血しぶきが飛んで、川の水が染まります。

 私の姿は、敵でも味方でも、兵隊さんたちの眼中にはないようです。誰も私に斬りかかってはきません。

 そのうち、やっとルキーノを見つけました。

 でもそれは、私の知っている彼ではありませんでした。

 髪を振り乱し、悪魔のような顔つきで槍を振り回しています。その風車(ふうしゃ)のように振り回す槍でたくさんの敵の兵隊さんたちが突かれ、首を刈られていきます。

 こんな、こんな恐ろしい人が私の夫……???

 その時、初めてルキーノは私を見ました。

 「ティツィアーナ! なんで君がここにいるんだ? どうやって来た?」

 彼は叫びますが、私は答えようがありません。その間も彼に何人もの敵が襲いかかりますが、彼は私と話しながらもどんどんその敵を倒していきます。

 でも私は、これも不思議ですが、なぜかここにいたら危ないとは思わないのです。

 その時、ルキーノは後ろから剣で突かれました。すぐに突いた人を槍で倒しましたけれど、ルキーノの背中からは血が噴水のように噴き出して、音もなく、なぜか不思議に音もなく、彼は川の水の中に倒れました。

 私は不思議と冷静に、両手に口をあてただけでそれを見ていました。もちろん、私はそこで叫び声を上げることはできません。

 次の瞬間、私はベッドで跳ね起きました。

 冬だというのに、顔じゅうに汗をかいています。

 息も乱れ、胸も早い鼓動で高鳴っています。

 ――なんでこんな夢を見たのかしら……???

 そのあと私は、その晩は朝まで一睡もできませんでした。

 なんと嫌な夢だったことでしょう。

 今でも鮮明に覚えています。こんなに色まではっきりとついている夢は久しぶりです。以前はあのゾンビに襲われる夢にうなされてベッドから何度も転落したこともありましたけれど、今ではそんなことももう忘れていました。

 私は、お腹をさすりました。

 お腹の中にはあの人の子供がいます。

 ――あなたのお父さんは、きっと帰ってくる。

 そう心の中で呼びかけてみます。お腹の中の子供が答えるはずはありません。

 ――万が一あの人に何かあっても、あの人は私のお腹の中に忘れ形見を遺していってくれた……一瞬そんなことを考えたあと、忘れ形見なんて不吉な言葉だと気付いた私は、慌ててその言葉を自分の頭の中から消し去りました。

 その時です。

 ほんの微かですけれど、お腹の奥のはらわたが動いたような気がしたのです。最初は気のせいかなとも思っていましたけれど、一日のうちほんの数回、同じような感覚があります。なんだかお腹の中で小さなお魚が泳いでいるような気もします。

 もしかして、お腹の中で赤ちゃんが動いている……?

 そう思った私はもう嬉しくて、お腹の中の子供が愛おしくて、涙があふれてきました。

 その日のうちに、母にそのことを告げました。

 「あらあら、来月くらいかしらね。もっと激しく動くようになって、お腹の内側から蹴ったりもするのよ」

 笑いながら言う母のそんな言葉を聞いて、私はすごく不思議な気がしました。自分の体なのに、その中に別の命がいるというのが不思議なのです。

 そんなことを考えて首をかしげる私を見て、母はまた笑っていました。

 母娘のひと時の団欒はあっという間に終わりました。

 なんだか外が、村全体が騒がしいのです。

 「奥様! 一大事でございます」

 外から入ってきた執事長は肩で息をしながらも、姿勢を正して立っていました。

 「この村から兵隊として戦争に行った若者が、何人か帰ってきております」

 私はそれを聞くと慌てて立ち上がり、外に飛び出していこうとしました。

 「待ちなさい、ティツィアーナ! あなたは走っちゃだめなのよ!」

 そうでした。でも、涙目で母の方を振り返り、今にも飛んでいきたい気持ちを身振りで伝えました。

 「一緒に行きましょう」

 母も立ち上がりました。

 教会前の広場まで行くと、そこには村人が何人か固まっているだけでした。兵士の姿は見当たりません。彼らは私の母を見ると、ぱっと直立不動になりました。

 「戻ってきた若者がいると聞きましたが」

 「はい。ダニロとかエルベルトとか四人くらいです」

 ブドウ畑の農夫である村人は、かなり緊張しているようです。

 「その人たちは?」

 「はい。もうそれぞれの家に帰りました」

 母と私は名前が出た中でここからいちばん近いエルベルトの家に向かうことにしました。

 入り口を入ると、中では家族たちが大騒ぎしています。

 私の母の姿に、その騒ぎにさらに拍車がかかってしまったようです。

 「あれまあ、奥様!」

 エルベルトの母親はビックリ仰天という感じです。構わずに母は農民の家屋の中に入って行きました。

 「お宅のエルベルトが戻ってきたとか。話を聞かせてください」

 「はい、ずっと駆けっぱなしで来たってことで、とりあえず横にならせています。どうぞ、こちらへ」

 薄暗い部屋に私たちは通されました。(わら)が敷き詰められたベッドの上に、まだ甲冑をつけたままのエルベルトは横たわっていました。私の母の姿に慌てて起きようとしましたけれど、母はそれを手で制しました。

 「そのままでいいのです。戦争は終わったのですか?」

 「はい。王様の軍隊が大負けで、みんな兵たちは一目散に逃げ出して、将軍たちの制止も聞かずに散り散りばらばらに自分たちの村目がけて駆けだしました」

 ――王様の軍隊が負けるなんて……予想外の展開に、私は両手で口を押さえました。母も少なからず驚いているようです。

 「あの、同じこの村から行った他の人たちは?」

 「さあ、かなりたくさんの兵隊が死にましたから、その中にこの村の人がどれくらいいたか……。また、敵の捕虜になった人もたくさんいます」

 私と母は顔を見合わせました。

 もうちょっと待てば、ルキーノもこのエルベルト同様に走って逃げ帰ってくるのでしょうか……あるいは捕虜に……あるいは……その先は考えたくありません。

 とりあえずは母はエルベルトを(いたわ)ると、その家を辞しました。

 すると、村人たちが一斉に村はずれの方へ走っていきます。そちらには遠くを見渡せる小高い丘があります。村人たちはその丘の上へと走っていくのです。

 私と母もゆっくり歩いて、その丘の上に登ってみました。丘の上は村人たちでひしめき合っていました。

 彼らが眺めている方角を見て、驚きました。

 遥か北に横たわる山はもう雪で真っ白です。その手前はちょっとした平原が広がっていますが、その真ん中にプラケンティアから王都パピアに向かう街道が横たわっています。私たち家族が都へ行った時に通った街道ですから、その辺は少し知っています。

 驚いたのはその街道を、おびただしい数の人の群れが駆け足で流れているのです。右から左へ、すなわち東から西へ……プラケンティアからパピアに向かっているのです。それは軍隊の行進などという整然としたものではなく、どう見ても敗残兵たちが一目散に逃げているという姿です。遠すぎて一人ひとりの様子は分かりませんが、あの姿はまぎれもなく逃げ帰っているのです。

 「奥様! プラケンティアでは王様の軍は大負けだったみたいですぜ」

 隣にいた村人の一人が、私の母に話しかけました。この村の住民で母のことを知らない人はいるわけありませんから、みんな口ぐちに話しかけてきます。

 「こりゃ、えらいことですな」

 「あの人たちはどこに?」

 母が尋ねると、遠くを見ながらも別の村人が答えます。

 「都に逃げ帰るんでしょう。でも、途中に自分たちの村がある人は、そのまま自分の村に逃げ帰るんでしょうな」

 「この村にもさっき、何人か帰ってきたみたいですぜ」

 すでにそのことは知っている母も、黙ってうなずきました。

 とりあえずお屋敷に帰った私は、緊張と期待と不安の中で、一日を過ごしました。

 いつルキーノが帰ってきてもいいように、心の準備をしていたのです。どんな小さな物音にも、ルキーノが玄関の扉を開けた音ではないかと聞き耳をたてました。

 でも無情に時は流れ、冬ですのでかなり早い時間に外は暗くなり始めました。

 まぎれもなく、ドアが開く音がしました。

 私は走らないまでも可能な限り早足で階段を下りました。

 ドアを開けて入ってきたのは父でした。父が戻ってきたのです。

 私は大きく息をつきました。

 その日の夕食も、ほとんど喉を通りませんでした。

 結局、ルキーノは戻ってはきませんでした。

 その日もなかなか眠れないまま朝を迎え、その昼過ぎにまた村の方が騒がしく感じました。母と顔を見合わせて出てみると、また村人たちは丘の上へと急いでいます。

 誰かが帰ってきたということではなさそうです。

 昨日と同じように人びとは遠くを見ているので見てみると、今度は昨日とはうって変わった整然とした軍隊の行進の姿がそこにはありました。

 昨日あれだけばらばらになって逃げ帰っていた王様の軍隊が、今日になってあんな整然と行進するはずはありません。そうなるとあれは反乱軍、グイド公の軍隊に決まっています。

 はたして彼らの掲げている旗――遠いのでよく見えませんが、左半分は白地に赤の十字、右半分は赤地に白で馬に乗った騎士?が描かれているようです――は、まぎれもなくスポレート公国の旗だと村人たちは言っています。

 私は背筋が寒くなりました。

 反乱軍があんな大軍でいよいよ都に迫っている。

 ルキーノはいったい今、どこにいるのでしょうか……それとも……私は慌てて首を激しく横に振りました。

 

 それからさらに半月ほどたちました。

 私のお腹はどんどん大きくなり、母が言っていたようにお腹の中の子はこれまで以上に動くようになりました。

 そんなある日、父は村人代表とともに自分の兄、すなわちこの辺りの小領主たる私の伯父の居城へと呼びだされていきました。そして戻ると父は、すぐにブドウ畑の農夫の代表をお屋敷にと集めました。

 私は何を話しているのか知りたかったのですが、遠慮して自分の部屋にいました。

 でも、農夫たちの悲痛な叫びが聞こえてきます。すすり泣きの声さえ聞こえます。

 私は音を立てないようにして、階段を下りました。農夫たちのいる部屋のドアに耳をつけたのは六割は不安と心配から、あとの四割は好奇心からでした。

 「これまでずっと旦那さまにお世話になってきたんだ。旦那様はどうなってしまわれるのか」

 涙ながらに、年老いた農夫の方が訴えています。

 「たしかに、ブドウ畑の所有者が旦那様ではなくお嬢様の嫁ぎ先のお家となっても、何ら変わりなく旦那様と接してこられたけど……」

 なんだかみんなで、父の身を案じているようです。父の身に何かあったのでしょうか? 母は知っているのでしょうか? なぜ家族である私たちよりも、農夫たちに先に何かを告げたのでしょうか?

 とにかく、夕食の席で何か話があるのかもしれないと、私はとりあえず部屋に戻りました。

 果たして、悲痛な顔で夕食をとりながら、父は厳かに私たちに告げました。

 まずは、最終決戦のつもりで王都に進軍したグイド公ですけれど、王都に着いた時点ですでに王様は逃亡。堂々と無血入城したグイド公はそのまま王都の大聖堂にて戴冠式を執り行い、自らがこの国の国王となったことを宣言したとのことです。

 「でも、前の国王陛下は王の位を持ったまま逃亡された。つまり、まだ退位はされていない。神聖なるレニョディタリアの国王の地位は、教皇(パパ)様からの破門によってでしか失うことはあり得ないからね。いつか巻き返しがあるかもしれない」

 そう言う父でしたが、どうも歯切れがよくありません。

 「兄も前の国王ベレンガーリオ一世陛下より所領を安堵されて領主となっていたのだから、そのベレンガーリオ陛下がおられない以上、もはや領主ではない」

 ――そうなると……。父の話は私の悪い予想通りでした。

 「県令も都から派遣されてきていたのだから、派遣していた国王がおられない以上もう県令ではないので都に戻ったよ。私の県令補佐官という仕事も消滅だ」

 父は苦笑しました。母は黙って大粒の涙をぽろぽろと流して聞いていました。私も、目の前が真っ暗になった思いです。これから世の中、何がどうなっていくのか……。

 「執事もメイドも、明日暇を出す」

 とにかく、世の中が大きく変わっていこうとしています。

 翌日、涙、涙で別れを惜しみつつ執事とメイドたちが出ていくと、お屋敷の中は急にがらんとしました。

 でも、感傷に浸ってばかりもいられません。母が大忙しです。何しろこれまでメイドの仕事だった炊事、洗濯、掃除に至るまですべて母が一人でしなければならなくなったのです。

 私も今はこんな体ですが、できる範囲で母の手伝いをしました。メイドの仕事ってこんなにも重労働だったのかと、私は思い知らされた感じです。

 その日の午後、一台の馬車が門より入ってきました。ルキーノのお父さんです。

 今度は私も部外者ではありません。ルキーノのお父さんは私の義父なのですから、私の父との話し合いに私も同席しました。

 「我が孫は順調ですかな?」

 頭こそ頭髪はありませんがそれだけに明るく、こんな時でも笑顔を絶やさない人でした。

 「早く、孫に会わせてください」

 私のかなり目立ってきたお腹を見て、義父はそう言います。

 「時にレジェさん」

 義父は、父に目を戻しました。

 「世の中は動くのです。私も前の王様の御用商人でしたから、もはやお役御免です。でもめげない。私の独自の開発した取引先がありますから、生活はこれまでと変わりません」

 メイドがいないので、私がお茶を入れました。もう初めてお会いした頃のように緊張して手が震えるなどということもありません。

 「だから、あえて申し上げます」

 義父は身を乗り出しました。

 「私があなたから買い取ったブドウ畑の利権は、すべて無償でお返ししましょう。あくまであの領主から守るための措置だったのですから。その領主がもう領主ではない以上、私が所有している必要はない。本来の所有者に戻すべきだ……そう考えたのです」

 「ええっ?」

 父はただただ驚いていました。義父はにっこりと笑いました。

 「お宅のお嬢さんは今やルッソ家の嫁、つまり私の娘です。娘の実家が困っている時に、手を差し伸べないわけにはいきませんからね」

 今度は義父は大声で笑いました。父も恐縮して、立ちあがって何度も頭を下げていました。

 

 今までは一公国の長、つまり諸侯にすぎなかったグイド公はもはや反乱軍の頭目ではなく、レニョディタリアの国王グイド二世となりました。

 でも、身の周りでは義父のお蔭で我が家も農夫たちも、今までと変わらない生活をすることができています。これまでと違うのは毎日父が家にいることと、家事を母と私でやらなければならなくなったことくらいです。

 幸い蓄えはあるようで、次のブドウの収穫期まで持ちこたえられそうです。農夫たちからの上納はルッソ家との折半ではなく従来通り全額が我が家のものとなることになりましたし、もはや伯父も領主ではないので領主への貢納も必要なくなりました。

 伯父の方はどうやって生活しているのかしらとふと思ったりもしましたけれど、伯父からも叔母からもぷっつりと何の音沙汰もありません。

 今年は復活祭(パスカ)も早く、三月二十三日の日曜日でした。その前の聖週間セッティマーナ・サンタ、すなわち聖木曜日のミサや聖金曜日の典礼、そして復活徹夜祭にも伯父、叔母一家とも姿を見せませんでした。

 今年は復活祭(パスカ)が早いとはいっても、それが終わると例年通りにかなり春めいてきていました。

 そしてさらに四月に入ると、裸木であったブドウ畑のブドウの木の枝に一斉に芽が吹きだし始めます。

 農夫たちもいよいよ農作業が始まり、忙しくなるようです。

 そのブドウの芽がだんだんと育って葉を出しはじめるのと同じ速さで、私のお腹も大きくなっていきます。

 私の中で、赤ちゃんは確実に育っています。

 でも、そんなふうにブドウもお腹の中の赤ちゃんも育っても、ルキーノが帰ってくる気配は一向にありません。

 ただ、時間だけが無情に過ぎていきます。

 そして五月……。

 あれからこの村の兵士で、逃げ帰ってきた人はほとんどいませんでした。この村から戦争に行った四、五十人のうち、帰ってきたのはたった四人。もう、戦争が終わってから三カ月はたとうとしています。

 戦争は冬の真っただ中でしたけど今はもう初夏、私が初めてルキーノと出会ったのと同じ季節です。

 敗残兵の大部分は捕虜になったという話でしたけれど、その先に「あるいは…」というのがついていました。私はこれまでその「あるいは」の部分は意識的に私の頭の中から追い出し、考えないようにしていました。考えること自体が不吉だと思ったからです。「あるいは」を自分なりに否定し去っていたのです。

 でも、戦争から三カ月たっても夫は帰ってこない……これは現実です。その中には、二つの可能性があります。捕虜となっているか、あるいは……もう一つは最後の最後まで思いたくはない。

 さらにもう一つ、記憶喪失になってどこかへ行ってしまった……なんてどっかで聞いたことがあるような話ですけれど、そんな可能性もあります。その方が、最後の最後まで思いたくない理由よりはましではないでしょうか。

 こうして私は、臨月を迎えました。

 そして、それは暑い盛りの七月……生まれるのはまだだと思って油断していたところに、その日は突然訪れました。

 父は、村はずれの小川のほとりの小屋に住む産婆さんを呼びに行きました。

 私に付き添っているのは母だけでした。

 と、思っていたのですが、母の隣に男性がいます。心配そうにベッドの上の私を覗き込んでいます。私は波を打って一定間隔で襲ってくる激痛に意識がもうろうとして、その人が誰であるかまで分かりませんでした。

 でも、変です。

 女性が産気づいたら、もうその部屋にはたとえ夫であろうと父親であろうと、男は誰ひとり入ることはできないはずなのです。だから、母の隣に男性がいるはずはない……でも、心配そうなその顔は……ルキーノ! そう思った瞬間、次の激痛の波が襲ってきました。そしてそれが過ぎ去ると、もうその姿はありませんでした。

 ――本当にルキーノ? 

 私は母に、ルキーノがいたあたりを指差しました。母は不思議そうにその指差された場所を見ますが、首をかしげるばかりです。

 「誰もいませんよ。さっきからずっとこの部屋の中は、私だけですよ」

 では、幻影? あんなにもはっきりとした幻影があるのでしょうか?

 その時、ドアがけたたましく開きました。

 三角の尖った帽子に、合わせの長い独特の服を着た老婆が入ってきました。お産婆さんの到着で、いよいよお産が始まります。

 

 それから数時間後、お屋敷に元気な産声が鳴り響きました。

 男の子でした。

 お産で命を落とす女性も多いのですが、私は何とか無事でした。

 生まれてきた我が子は思ったより小さくて、人間というよりも真っ赤な猿のような顔をしています。ほんの一握りすればつぶれてしまいうそうな、そんな泡のような(はかな)い存在です。でも激しく泣くその声が、自分の存在を精いっぱい主張しています。

 私は胸がいっぱいでした。

 なんだか変な気持ちです。我が子と初対面なのですが、でもその我が子はずっと私の体の中で私と一緒に生きてきたのです。私から切り離されて、これまで私の一部だったのとは違い、私とは別の存在になってはじめて我が子となったのです。

 顔は……私にそっくりでした。男の子だと母親似が多いとは聞いていましたが、母親に似てしまうと父親の面影は全くない場合もあります。むしろ私と、私の父を混ぜたような顔をしていました。

 いずれにせよ、今はこんなに小さな存在がものすごく(いと)しくて、愛しくて……結婚の時に、ルキーノを愛せるのだろうかと危惧したことを思い出します。でも、間違いなく、今胸に抱かれているこの子は、私は全身全霊を振るって愛しています。

 私が何かの存在をこんなにも深く愛したというのは、初めてではないでしょうか。

 私は、初めて愛を知ったのです。

 そして、子供の名前を私と私の両親との三人で考えました。私にとって本当にこの子は神様からの贈り物――そこで、いくつかの案の中から最終的に決まったのは「ジュゼッペ」でした。

 

 それから、ジュゼッペとともに暮らす毎日……私のお腹の中にいた時は名もない存在でしたけれど、今はジュゼッペという名を持ち、私とは別の存在になってますます私との絆は深まった気がします。

 赤ちゃんには昼も夜もありません。基本的にずっと寝ていますが、一定時間ごとに起きては泣き、おっぱいを飲んでまた寝るという繰り返しです。その一定時間ごとというのが、昼も夜も関係ないのです。

 でも、私には何の苦痛もなく、むしろこの子と接していられるのが喜びでもありました。

 その愛する子の命をつなぐためには、私は夜も寝ている場合でないと思っていました。

 さすがにもともと病弱な私なので、母が私の部屋でともに寝てくれました。ルキーノとの結婚に当たって二人用にベッドを大きくしていましたので、母がともに寝ても十分の大きさでした。

 そして、教会でのジュゼッペの洗礼も終えたある日、お屋敷に馬車が着きました。

 降りてきたのはルキーノの両親、つまり私の義父(おしゅうと)さんと義母(おしゅうとめ)さんです。

 私の母に案内されて私の部屋に来た二人ですが、義母は私へのあいさつもそこそこにすぐさまジュゼッペを抱き上げて頬ずりをしていました。

 「おばあちゃんですよ。おお、よしよし」

 ジュゼッペは突然のことに泣くかと思いましたが、なんとか泣きもせずにきょとんとしています。

 「いやあ、ご苦労様です」

 義父がニコニコと私に軽く頭を下げました。

 「よくぞ立派な子を生んでくれた。大事なルッソ家の跡取り息子だからね」

 こうして初孫との初対面を終えた二人は、応接間で私の両親とお茶をすすっていました。私も呼ばれて同席しました。なんでも、大事な話があるとのことです。

 「実は」

 まずは義父から話を始めました。

 「これからどうするのかという話なんだがね」

 まずは私にそう言ってから、義父は私の両親を見ました。

 「ルキーノとティツィアーナさんがこの村に住むというのはあくまでも戦争を避けるためで、戦争が落ち着くまで一時的にということだったはずです」

 私の両親の顔が少しこわばりました。

 「王様は新国王に交代したけれど、もう戦争はすっかり終わりました。王都も以前のような安定と活気を取り戻しています。ルキーノはこんな感じでまだ帰ってこない状態ですけれど、私たちも孫とともに暮らしてルキーノの帰りを待ちたい。ティツィアーナさんも早く王都やルッソ家に慣れた方がいい」

 義母も優しそうにうなずき、言葉を受け継ぎました。

 「それに、我が家では今でも多くのメイドや使用人がおります。あの子に守り役もつけてあげることもできます。たいへん失礼とは存じますので申し上げにくいのですけれど、このお家では孫の世話には手薄ではないでしょうか」

 申し上げにくいと言われてもそれが現実なので、そう言われても仕方がありません。

 私の父も母も目を伏せて、少し何かを考えているようでした。

 そして、父が意を決したように口を開きました。

 「おっしゃることはごもっともで、異論をはさむ余地もありません。娘はすでにルッソ家に嫁に出した身。ルッソ家で暮らすのが筋ですし、生まれた子供もルッソ家の子です。ただ……」

 父は少し言葉を切って、息をつきました。

 「娘は病弱ですし、慣れない土地に一人でやるのは親として心配なのです。せめてルキーノ君とともにでなければ、娘の心もまいってしまうでしょう。ですから、せめてそのお話は、ルキーノ君が帰って来てからということにしていただけませんか?」

 「でも、戦争が終わってからもう半年……ルキーノは……」

 義母が鋭いところを突いてきました。

 かつて私はルキーノの身の上についてあれこれ考えた時、捕虜や記憶喪失、その他の事情などいろいろな状況を想定しましたけれど、最後の最後まで考えたくない可能性、頭の中に少しでも浮かんだら慌てて故意に拭い去ったその可能性も、最近ではあえて現実のものとして想定することを受け入れなければいけないのではないかと思っていたところでした。

 お義母(かあ)さんはもうとっくにそれを受け入れているのかもしれません。

 でも私はやはり、帰ってくると信じたかったのです。いえ、帰ってこなければならないのです。だって彼は、今自分に子供がいることすら知らないはずなのです。

 私はペンをとりました。

 ――ルキーノが帰ってくるとしたら、王都ではなくこの村のこの家だと思います。だから私はこの家で彼を待ちたい。

 それを義父に見せました。

 義父も少しため息をつきました。

 「私とて、息子が戦死したなどとは思いたくありません。帰ってくると信じたい。でも、ここで待つといってもいつまで待つのですか? それではきりがないでしょう」

 誰もが目を伏せています。そこで、義父が顔を挙げました。

 「でも、ティツィアーナさんの気持ちも分かります。ですから、こうしましょう。期限を切りましょう。戦争から一年たっても帰ってこないということになれば、最悪の事態も考えなければなりません。つまり、戦争から一年目の来年の二月になったら、ルキーノがたとえ帰って来ていなくてもあなたはジュゼッペとともに王都に来ていただく、それでどうですか? それまでにルキーノが帰ってきたら、二月を待たずに王都に来ていただいてかまいませんけれど」

 それはもう仕方ないことだと私は思いました。そもそも私がずっとこの家にいること自体が私のわがままなのですから。

 「いいでしょう」

 父も私と同意見のようで、代表してそう返事をしてくれました。

 「でも、ねえ」

 義母が口を挟みます。

 「ティツィアーナさんはまだお若いし、一生を未亡人(後家さん)として過ごすのもかわいそうですし。そうなったときはジュゼッペだけをこちらに。あなたは自由な身として新しい人生を……」

 私ははっと目を挙げました。

 それは、私とジュゼッペが引き離されるということ? それだけは嫌、それだけはどんなことがあっても嫌と、私は首を横に振りました。でも、それとは別に義父はすぐに義母の言葉を手でさえぎりました。

 「ルキーノがもう帰ってこないということを前提に話をするのはやめなさい」

 義母は口をつぐみました。

 こうしてまた、この家での生活は続くことになりました。

 その日の夜、あまりにも激しく泣くジュゼッペを抱いてあやしているうちに、私に抱かれたままジュゼッペはすやすやと寝息をたてました。そこで私は、そのまま窓際に椅子を持っていきました。窓を開け、眠っているジュゼッペを抱いたまま椅子に座って夜空を眺めていました。

 幸い月があったので、月明かりに照らされたジュゼッペの小さな寝顔を時折のぞき込みます。

 幸せでした。

 私は本当の意味での愛を感じていました。

 私のこれまでの人生でこれほどまでに幸せを感じたことがあったでしょうか。

 ルキーノと出会い、結婚ということになった時もなぜか実感がわかなかった。結婚式の後にこの部屋のこのベッドの上で彼の胸に身を(うず)めた時も、どこか冷めた部分がありました。

 でも今はそんな冷めた部分もなく、幸せを感じています。

 この子がいれば何もいらない……だいたいは本当です。でも、一つだけ足りないものがある……やはり短すぎる夫婦生活だけでいなくなってしまった夫には帰って来てもらいたい。私とジュゼッペと、そしてもう一人、ここにルキーノもいれば何も言うことはない……。

 私はまた、夜空を見上げました。

 彼もこの同じ夜空の下のどこかにいて、同じ月の光を浴びているのでしょうか……そう信じたい。いえ、そうでなければいけないのです。

 

 季節は本格的な夏になり、ブドウ畑のブドウも青々とした葉を茂らせています。屋敷の窓からですと白ブドウは身が葉と似たような色なのでよく分かりませんが、もし黒ブドウなら実もふさふさと実っていることがよくわかったはずです。

 ジュゼッペは機嫌のいい時は仰向けに寝たまま手足を激しく動かして、まるでダンスをしているかのようなしぐさをするようになりました。生まれた時よりもよく太っています。

 そしていよいよそのブドウの収穫の時を迎え、年に一度のお祭りともいえるような収穫祭を迎えました。去年の収穫祭には、ルキーノがともにいました。

 今年もまた例年通り空はよく晴れています。あれから戦争があって王様も替わったなどという世の中の変化も嘘のように、去年と同じ村人たちの掛け声や歌、大騒ぎの声が響き、ブドウの果汁の匂いが村中に充満しました。

 抱っこされているジュゼッペも、その目がきょろきょろと動き、明らかに祭りの様子を見ていると分かるようになっています。

 私もその収穫祭の光景を、しっかりと目に焼き付けました。私には見納めかもしれないのです。

 来年の今頃は義父との約束で、私は王都にいるはずです。ルキーノが帰って来ようが来なかろうが、私は王都のルキーノの家で生活しているはずなのです。

 そのルキーノとの結婚式は、収穫祭のすぐ後でした。そして悲しい突然の別れ……あれからもう一年たつのかという思いと、まだ一年しかたっていないのかという思いが私の中で交差していました。

 あれは村の周りの小高い丘の木々も色づく秋でした。

 そして今年も、同じように秋が巡って来ています。

 同じ秋とはいっても、ルキーノはいません。でも、あの時はいなかったジュゼッペがいます。

 そのジュゼッペに、私にとっても私の両親にとってもうれしい変化がありました。

 生まれてから三カ月目にして、なんとジュゼッペが声をあげて笑ったのです。時間としてはほんの短い間ですけれど、それに一日一回あるかないかですけれど、大人たちがなんとか笑わそうと思っていろいろとあやすと笑ってくれます。その時は私たちはみんな大喜びで、一緒になって手を叩いたりして大人の方がはしゃいで笑ったりしていました。

 我が家に笑い声が上がるのも、久しぶりのことのように感じました。

 我が家は愛で満ちていると実感できました。父も母も、すっかりおじいちゃん、おばあちゃんぶりが板に付いてきています。

 ただ、そこに影を落とす事実……ルキーノはまだ帰ってきません。

 そして季節は冬……待降節(アッヴェント)からクリスマス(ナターレ)へ。

 去年はまだお腹の中にいたジュゼッペを抱いて、両親とともに私は教会の夜の御ミサに(あずか)りました。今ではもうすっかり首も座って、横抱きにしなくてもよくなっています。

 ベッドの上でも盛んに寝がえりを打って転がるので、落ちやしないかと気が気ではありません。なにしろベッドから落ちて大けがというのは私の専売特許のようなものですから、変なところで母親譲りだと困るのです。

 今ははいはいもしない頃ですからまだいいのですが、母の話だと来年の春ごろには這いだすとのこと。そうなると私の黒歴史でもある暖炉の中へという事故も心配しなければなりません。でも、ちょうどその頃は春になっていて暖炉も使わなくなるので、その点はよかったと思いました。

 顔つきは成長するにつれてどんどん私に似てきます。やはり男の子の典型的な母親似で、ルキーノの面影はほとんどありません。教会へ行っても近所の農夫の奥さんからも、「お母さんそっくり」とよく感嘆の声をあげられます。

 お義母(かあ)さんは私に自由な人生をと言ってくれましたし、それは私のことを思ってのことだというのも分かりますが、この子と離れ離れになるなんてことだけは今の私には絶対に考えられません。

 

 こうして、年も明けて、私はこの村を離れて王都のルキーノの実家のルッソ家へ移り住まなければならない刻限も、もう来月にと迫っていました。

 そんな満月の夜のことです。

 私は庭に出て、入り口の門の方を向いて立っていました。

 かなり冷え込んでいる夜だったのですが、風もないので不思議と寒さは感じません。

 その門のところに、人影がありました。

 こちらを向いて立っています。

 月の光を背にシルエットとなっているその人影は、見慣れた輪郭でした。

 まるで影だけがそこに存在しているようです。

 その人影は、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきました。足が悪いようで、短い杖をついて(びっこ)を引いています。

 足音も聞こえません。気がつけば、すべての世界の音が消えてしまっているようです。

 ――ルキーノ!……

 私は心の中で呟きました。

 私のすぐそばまで来るとその人影から、やっと声が聞こえました。

 「ティツィアーナ」

 まぎれもなく、ルキーノの声でした。

 近くに来て初めて彼がボロボロの軍服を着ていることを知りました。そして彼は両腕を上げて、私を包み込むように抱擁してくれました。

 そのまましばらく私たちは、万感の思いを込めて抱擁を続けました。静寂の中で、時間さえ流れているのかどうか分かりません。

 そして少し体を離して、私は彼の顔を見ようとしました。

 月の光を背にしているのでよく見えませんが、伸びた髪は乱れてあの端正な顔立ちではなくなっているようです。

 もう一度彼は、私を抱きしめました。

 ――冷たい体……

 あまりにも冷たい体に驚いているうちにその人影はすっと消え、私はその場に一人で泣き崩れて、手に持った彼の戦死の知らせをぎゅっと握りしめる……なんていうお約束の展開などではありませんでした。

 彼の体には、まぎれもなく生きている人間のぬくもりが感じられました。幻などではありません。今、彼が私を抱きしめているというのは現実です。

 背後で足音がします。お屋敷の玄関から父と母が駆けだしてきました。

 「おお、やっぱり、ルキーノ君ではないか」

 彼は抱きしめていた私を放して、私の両親の方を見ました。そして父と手を取り合っています。

 「遅まきながら、戻ってまいりました」

 弱々しく、彼はつぶやきました。

 「ティツィアーナが慌てて階段を下りていく足音がしたので、何があったのかと思って出てきてみたら……」

 たしかに私はぼんやりと外を見ていたら、門のところに人影があって……そしてそれがまぎれもなくルキーノだと分かったので、とにかく急いで出てきたのです。

 「まあまあ、さあ早くお部屋の中へ。寒いでしょう」

 母に促されて、ルキーノは私たちと一緒に玄関に入りました。

 まずは応接間に通して、父がろうそくに灯りをともしました。

 ろうそくの光の中で見る彼は、やつれていました。あの端正な、ウニベルシタスのエリート学生というかつての雰囲気は全くなくなっていました。どこか野性的な、研ぎ澄まされた感性を持つ野人へと変貌していました。

 「お腹減ったでしょう? スープの残りがあったわ。今日は金曜の小斎(アスティネンツァ)だから、お肉は入っていないけど」

 母は台所に向かいました。まきをくべて火をつければ、コーンのスープはすぐに温まります。それと、いくつかのパンを持って戻ってくるまでの間、父が彼からいろいろな情報を聞いていました。

 私は黙ってそれを聞いていました。この一年と数か月もの間、待ちに待ったその日、その瞬間が今日訪れたのです。

 でも、それにしてはどこか冷めていました。やはり実感がわかないのです。まだ、夢を見ているのではないかという気さえします。

 

 実は、彼が今日戻ってくるであろうことは、私たちには予想はついていました。

 昨日、戦争に行っていた若者が三人ほどこの村に戻ってきたのです。村中大騒ぎで、どうして今頃になってやっと戻ってこられたのかについては、彼らが語る話が村中にものすごい速さで伝わりました。ルキーノだけではなく、この村から戦争に駆り出されてまだ戻ってきていない家族がいる家にはすべてそのことは知らされました。もちろん、このお屋敷にも知らせに来てくれた人がいます。

 やはり、この日戻ってきた人たちは敵の捕虜になっていたそうです。敵といってもその反乱軍の首領だった人が今では国王です。前の王様の軍隊の兵隊さんたちはみんな新しい王様に逆らったものとして捕虜になり、ずっと北の方の山の中へ連れて行かれて、そこで砦を築く仕事をさせられていたということです。

 そしてクリスマス(ナターレ)に当たって捕虜は釈放されましたが、年も明けた今頃になってようやく村にたどり着いたということでした。

 でも、ルキーノはその日のうちには戻ってきませんでした。

 捕虜になったのはあくまで生き残った兵士たちで、多くは戦死したとも伝えられています。

 でも、翌日、つまり今日の昼間、また新たに二人の若者が戻って来て、そのうちの一人の話を聞いてわざわざお屋敷に知らせに来てくれた人がいました。

 彼らは釈放された時点で、ルキーノと一緒だったというのです。でもルキーノは足を負傷しており、彼らと同じ速さでは歩けず、到着は夜になってからだろうという情報でした。

 これで、ルキーノが戦死していないということは確定されました。あとは帰りを待つだけです。

 こうして自分の部屋からずっと門を見つめてルキーノが帰ってくるのを待っていた私は、夜も更けてからついに彼の姿をとらえたのでした。

 そして今、彼は私の目の前にいます。

 母がパンと温めたスープを持って戻ってきました。

 彼はむさぼるようにそれを口に運んでいました。その間、話しかけることもできないような勢いでした。

 彼がようやく食べ終えた後、二階の私の部屋からけたたましい泣き声が聞こえました。寝かしつけていたはずのジュゼッペが目を覚ましてしまったようです。

 私は慌てて二階に駆けあがりました。そしてしばらくあやして泣き終わったところで、そのままジュゼッペを抱いて応接室まで暗い階段を降りました。

 ジュゼッペを抱いて戻ってきた私を見て、ルキーノは不思議そうな顔をしています。私はまず私の上の中のジュゼッペを何度も指差し、それからルキーノを指差しました。

 「ルキーノ君、君の子供だよ」

 代わりに父が説明してくれました。

 「君が戦争に行ってすぐ後に身ごもっていることが分かってね」

 「たった数日一緒に過ごしただけで身ごもるなんて、まさに神様からのプレゼントだわ」

 母も、私が常日頃思っていたことを代弁してくれました。

 すぐに立ち上がったルキーノは、それでもきょとんとしています。彼にとっては自分の子供が生まれているなんて、全くの想定外の出来事だったのでしょう。感動とかよりもとにかく驚きの方が勝っていることはひしひしと伝わってきます。

 「私の……子供? 本当に?」

 「うそを言ってどうするのだね」

 父は笑っていました。

 「抱いてあげて」

 母がそう言うので、私は泣きやんでまた眠り始めたジュゼッペを、そっとルキーノに渡しました。慣れない危なっかしい手つきでルキーノはジュゼッペを抱きます。

 「私に子供がいたなんて……」

 「驚いただろう」

 「はい」

 やはり喜びよりもまだ驚きの方が、彼の中の多くを占領しているようです。そのジュゼッペの顔を、ルキーノはじっとのぞきこんでいます。

 「たしかに、ティツィアーナにはそっくりだ。でも、私には?」

 「残念ながら男の子だけあって母親似だな。女の子だったら父親似の場合も多いんだけどね」

 私の父はそう説明していましたけれど、やはりまだジュゼッペは首をかしげていました。よほど衝撃だったのでしょう。

 「そうですか」

 彼がそれだけ呟いた時、ジュゼッペはまた火がついたように泣きはじめました。もうそろそろ人見知りが始まるころです。ルキーノの慣れない手つきでの抱っこでは当然の結果のような気がして、私は微笑みながらジュゼッペを受け取りました。すると、ジュゼッペはすぐ泣きやみました。

 「私ではだめなのか」

 ルキーノのその言葉を冗談ととらえた父も母も大笑いしていましたけれど、ルキーノだけは真顔でした。

 「さ、とにかく今日は疲れたでしょうから休んで、明日詳しい話をしましょう」

 母がそう言うので、私はルキーノを促して、二階の部屋に上がりました。今日、もう彼が戻ってくるらしいことは分かっていただけに、私のベッドで一緒に寝ていた母はすでに父といっしょの部屋へと移っています。

 二階に上がると、母の言葉通りによほどルキーノは疲れていたらしく、死んだように眠りました。

 私もその隣でベッドに入りましたけれど、ルキーノの兵営の臭いそのままの体に妙な気分となり、いつまでも眠れませんでした。

 

 翌朝、ルキーノはなかなか起きないので私は先に起き、しばらくして起きてきたルキーノに、まずは体を洗うように身振りで示しました。

 ジュゼッペはもうお座りができるようになってはいましたが、長時間一人でお座りというのはまだ無理なようです。

 お湯浴びして出てきたルキーノは昨日に比べたら少し小ざっぱりとはしましたが、やはり以前とは何か違います。どうも違和感を覚えるのです。

 以前はもっとにこやかな人だと思っていました。それが朝起きてから、お湯浴びから帰って来てからも、ほとんど笑わないのです。にこりともしません。

 冷たい態度というのとも違います。

 常に野性的感性を尖らせて何かを警戒している、それでいて何かに脅えているという様子さえ見受けられます。髪が伸びたせいでしょうか。

 それでも少しはなつかしそうに、窓の外を眺めています。

 以前は私といる時は常に私に何か話しかけてくれているという感じでしたけれど、今は二人の間には沈黙しか流れていません。

 私はペンを走らせました。

 ――お帰りなさい。ご苦労様でした。

 私は立ちあがって、窓際のルキーノのところまで歩き、やはり立っているルキーノにその紙を示しました。

 「苦労をかけたな」

 彼は、それだけを言いました。

 またジュゼッペがベッドの上で転がり始めたので、私は飛んで行って落ちないようにジュゼッペを押さえました。

 「詳しいことは、またあとで話すよ」

 そこで私はふと思い出しました。お義父(とう)さんとの約束です。

 ――あなたのお父さんとのお約束で、あなたが戻って来たらすぐに、王都のあなたの家に住むことになっています。

 それをさっと見て、ルキーノは目を伏せました。

 「そうだな。それがいい。でも、私がいない間にいろいろなことが動いていたのだな」

 ルキーノは苦笑しているようです。

 どうにも違和感はぬぐえません。本当にルキーノなのかと疑問に思ったりします。なんだか別人のような気がして仕方ありません。

 それから後も、ほとんど沈黙の中で時を過ごしました。

 さらには、気がついたことがあります。

 ルキーノはジュゼッペに、全くといっていいほど関心を示さないのです。

 同じ部屋にいる我が子に話しかけるでもなく、あやすでもなく、抱っこしようでもなく、見もしないという感じなのです。

 そのうち、母が食事だと呼びに来ました。

 もう太陽も中天近くまで上がって、一日二回の食事のうちの午前の食事の時間です。

 昨日は夜遅くにルキーノは到着したので、簡単なスープとパンのみ彼には食べてもらいました。そこで、今は母が一人で作るには大変だったでしょうけれど、かなりのごちそうが並んでいます。

 「まずはルキーノ君の無事帰還を祝い、これまでのご苦労を(ねぎら)って」

 父がワインのグラスを高く上げて、皆で乾杯しました。

 この日は私も少しだけ、ワインをいただきました。もっとも、もともと虚弱体質の私ですからたくさんは飲めません。ちょっとなめる程度です。

 そして食事をしながら、父がルキーノに話題を振りました。

 「時に捕虜になっていたとのことだったけれど」

 「はい、辺境のアルピの山の中に砦を築きに行かされていました」

 「それは大変だったね」

 さすがに父に対しては邪険に応えることもできずにいるようですけれど、それでも口数は多くありませんでした。

 「はい。そこでは、人間扱いはされていませんでした。なんだかこんなごちそうを頂いて、やっと人間に戻れたという感じです」

 そうは言いながらも、彼はやはり笑いもしません。いわゆる文字通りの筆舌に尽くし難い苦労を、彼はしてきたようです。

 「砦を築くだけならいい。時々イズラーミコ系の異民族の襲来もありました。その時の戦いといえば……いや、この話は食事中はやめましょう」

 よほど残酷な話なのでしょう。そのあと彼はほとんど無言で食事をしていました。

 食事のあとのティータイムで、彼はようやく重い口を開きました。

 「先ほども申しましたように、捕虜生活ではもはや人間扱いされていませんでした」

 彼がメインに話しかけているのは私の父にですが、私も母も同じ席で彼の話に耳を傾けます。

 「宿舎は狭い部屋に何十人もが詰め込まれ、蒸し暑い中を体を接して藁の上で寝る始末です。囚人の牢獄の方が、まだ待遇はいいと言えるでしょう。食事も、あれは食事というよりも完全にえさでした」

 ルキーノは誰とも目を合わせず、うつむいたまま話し続けました。

 「来る日も来る日も、炎天下での重労働です。休みの日などというのもありません。それで次々に病気や過労で死んで行く人も続出で、そういった人たちを埋葬するのも我われの仕事でした。大きな穴を掘って、次々に死体を投げ込んでは、土をかぶせて埋めるだけです。十字架も何も立てたりはしない。それで終わりです。神父様の祈りもない。そもそも神父様なんていませんから」

 私たちは、誰も質問を挿むことすらできませんでした。

 「死体の処理に当たったもののうちの大半は、次に穴に放り込まれる番になります。死体はすでに腐敗が始まっていて、ものすごい悪臭がしますし、その穢れが埋葬する者にも伝染するのでしょう」

 私も母も顔をしかめ、ずっと目をそらしていました。

 「そんな時にイズラーミコの異民族が襲来するのです。そうなると我われは武器と鎧が渡され、作業員から一転して兵士にさせられるのですけど、普段の重労働でふらふらの体で戦っても勝ち目はありません。それはもう戦いというよりも殺戮でした。次々に仲間が首を()ねられ、胴を斬られ、血を噴き出して倒れていきます。もう砦全体が血の海です。他の砦では、捕虜の作業員全員が殺されたというところもあったとのことです。そのあとはもう死体の処理どころではありません。野ざらしです。こんな襲撃が月に一度はあるのです。最初の捕虜から、数はどんどん減っていきました。今回ナターレの特赦で解放されなかったら、我われも全員死んでいたでしょう」

 私はそこで手を合わせ、ルキーノが無事に助かって戻ってきたことへの感謝の祈りを無言で捧げました。

 午後、ルキーノと私はジュゼッペとともに私の部屋で過ごしました。いえ、私たちの部屋です。王都には知らせの手紙を送りましたから、ルキーノの両親はすぐにこちらに向かってくるでしょう。そうなるとこの部屋ともお別れです。

 ルキーノに、外を散歩しないか誘いましたけれど、彼は首を横に振りました。

 「どうもまだ、この状態に慣れない。あまり外には行きたくない」

 彼が断った理由は、それだけでした。

 そしてたしかにこの部屋にいても落ち着かないらしく、彼は部屋の中をうろうろと歩きまわり続けていました。その様子は、相変わらず殺気だっています。

 私は何とか彼をベッドの脇の椅子に腰かけさせて、自分も近くの椅子に座ってまた彼の話を聞きました。ジュゼッペは眠っています。

 「さっき、お義父(とう)さんたちには重労働の話をしたけれど、あれはもはや労働ではなかった」

 彼の目は遠くを見ているようです。

 「罪を犯した囚人の服役の方がまだ楽だろう。我われは捕虜というよりも完全に奴隷だった。鞭で打たれ続け、怒鳴られ、殴る蹴るの暴行を受けながらの炎天下での重労働だよ。来る日も来る日もそんな毎日で、ひと夏が過ぎた。たくさんの人が死んだ。私が今こうして生きているのが不思議なくらいだ」

 私はどう答えたらいいか分からず、黙って聞いていました。

 「常に死と隣合わせだったんだよ。尋常な精神では到底、耐えられるものじゃあない。だから……」

 彼は一度私を凝視して、それから目を伏せました。

 「だから、私は自分が人間であることを捨てた。なまじっか人間であるという意識があるから、つらくて苦しくて心が張り裂けそうになって、壊れてしまう。だから、人間であることをやめた」

 人間をやめたら、何になるというのでしょう?……(けもの)に? あるいは悪魔(サタン)に?……私は聞くに聞けずにいました。

 「私だけでなく、あそこにいた人たちは皆そうだったと思う。人間でいたらやっていかれない世界。そして異民族が襲ってきた時も、私たちは兵士として戦ったのではない。さっき、お義父(とう)さんには仲間が首を()ねられ、胴を斬られ、血を噴き出して倒れたことばかり話したけれど、虐殺に近かったなどと言ったけれど、本当は人間としての意識なしに我われは戦った。首を()ねられ、胴を斬られ、血を噴き出して倒れたのは仲間だけではない。敵もだ。()ったのは私たちだ。私も、私もこの手で」

 ルキーノは自分の両手の掌を自分の方へ向けて開き、それを大きく見ひらいた血が滴るような眼で睨みつけました。

 「この手で何人の敵を殺してきたか分からない。この手は血で穢れている。首も()ねた。胴も斬った。そして倒した。何人も何人も何人も殺した! 自分を人間とは思っていなかっただけでなく、相手のことももう人間とは思っていなかった。だからほかの砦はいざ知らず、私たちの砦は襲われるたびに敵を半分は殲滅し半分は追い返した」

 ルキーノは、がっくりと肩を落としました。私は目が熱くなり、さらに熱いものがこみ上げてきました。なんと言葉をかけてあげたらいいのだろう……分からない。それでも一応、私は紙を用意してペンを持ちました。ところがルキーノは私の手からそのペンを荒々しく取り上げ、紙をくしゃくしゃに握りました。

 「こんな紙切れじゃないんだよ、私がほしいのは! ティツィアーナ! 君の口から、直接私に労いの言葉をかけてくれ。あるいは口汚く罵ってもいい。とにかく、君の声がほしい!」

 そんなこと言われても無理なことは、ルキーナも分かっているはずです。私の目からは、さらに熱い涙がとめどなく流れ落ちました。

 「ごめん……無理だよな。分かっているのに……」

 ルキーノは自分の顔を覆って力を落としています。私は背後に回って、そっとその肩を包み込むように抱きしめました。

 彼の話だと、とても人間扱いされていなかったような過酷な日々の中にいたようです。それがいきなり解き放たれて、戸惑っているのでしょう。

 ここは鞭の音も響かない、重労働もない、異民族も攻めてこない、彼がいた場所から考えると天国だと思いますが、地獄の亡者をいきなり天国に連れていったらそれは戸惑うでしょう。

 彼は人間性を失った、いや、自ら封じ込めたと自分では言っていましたけど、その失った人間性を取り戻すにはやはり時間がかかるのでしょうか。

 私は新しい紙を用意して、ペンを走らせました。

 ――明日は日曜日です。教会に行きましょう。そして祈りましょう。イエズス様は総ての罪びとを招いています。主に祈りましょう。

 ルキーノは、力なくうなずきました。

 

 翌朝、空はよく晴れていました。

 私は両親とともにジュゼッペを抱き、さらにルキーノも一緒に外へ出ました。

 太陽の光は降り注いでいても、まだ風は冷たいころです。

 教会は歩いてもすぐの場所です。ルキーノのご両親が迎えに来たら、今週にでも私たちは王都に移り住むかもしれません。そうなると、この教会で御ミサに(あずか)るのはこれで最後かもしれないのです。ご両親は早ければ今日、遅くても明日にはこの村に来られるでしょう。

 驚いたことに、今回捕虜から解放されてこの村に戻った五人が全員、御ミサには参列していました。自分の意志で来たというよりも、皆家族に連れられてという感じです。

 生気を失い、死んだ魚のような眼をして、殺気立っている様子はルキーノと大同小異です。ルキーノの話通り、やはりみんな人間性を失っているのでしょうか。

 そのお互いは顔を合わせると軽く目であいさつしたくらいで、そのあとは近づいていくどころか顔を見ようともしません。ましてや話をしようなどというそぶりは全くありませんでした。一年の間苦労を共にしてきた間柄としては、互いに冷淡すぎるような気がします。でも、昨日のルキーノの話から考えると、仕方がないことかもしれません。

 御聖堂(おみどう)ではルキーノと私の父が並び、母は女性だけの列にいます。私はジュゼッペを抱いて、俗に「泣き部屋」という少し隔離された乳幼児連れ専用の小部屋にいました。

 周りはみんな小さな子供ばかりで、毎週顔を合わせているうちに親しくなった人もいます。

 教会に来れば元領主の姪も農夫の妻も関係ありません。皆、主の御前では平等なのです。

 今日の御ミサは「主の洗礼の祝日バッテージモ・デル・シニョーレ」のミサです。

 その中の言葉の典礼における『旧約聖書』の朗読は、今日は「イザヤ書」でした。「神」に見捨てられていると嘆く民にも、預言者は力強いメッセージを伝えます。

 「耳を傾け、我に来たりて聞け。汝等の魂は活くべし。我また汝等と永遠の契約をなして、ダビデに約せし変わらざる惠みを与えん」

 今、精神的にどん底にいるルキーノの耳にそのみ言葉はどう聞こえていたのか、私はちょっぴり気になっていました。

 「悪しきものはその(みち)を捨て、(よこしま)なる人はその思念をすてて主に返れ。さらば憐憫を施し給わん。我等の神に返れ。豊かに(ゆる)しを与え給わん」

 御ミサが終わって一家が合流した時、ルキーノは何だかそわそわしていました。

 「申し訳ないが、神父様と話をしてきます」

 私にはすぐ分かりました。神父様と話をするといっても、今のルキーノは帰還のあいさつや世間話などをしに行こうなどと考えるような状況ではないことは分かっています。

 そうなると、罪を告白してのゆるしの秘跡=告解(ペニテンザ)を受けに行くに違いありません。

 ところが、ルキーノはすぐに戻ってきました。

 「今日はこれから結婚式があるのでだめだそうです」

 父は首をかしげていました。

 「この村で今日結婚式を挙げる予定の人などいないはずだが……と、いうことはよその村か」

 おそらくその村の神父様に急な用事かあるいは事情ができて結婚式を挙げることができなくなったので、延期を望まない新郎か新婦かが無理を言ってこの教会で挙式ということになったのでしょう。

 「ま、少し見て行こうか。君たちが結婚式を挙げたのもここだし、あのころを思い出してルキーノ君の気持ちも少し晴れるかもしれない」

 父がそう言うので、私たちは外に出て結婚式が始まるのを待ちました。

 私たちの時と同じように、まずは御聖堂(おみどう)の入り口前の広場で式は執り行われます。教会前の広場は一応親族など関係者ですが、私たちの時もその周辺に一般の村人も多数押し寄せて共に祝福してくれたものです。

 今回のカップルはよその村の人というだけに、下手したら関係者だけになってしまいかねないし、それでは寂しいだろうという父の配慮もあったようです。

 たしかに、広場の周辺で式が始まるのを待っている村人は数えるほどしかいませんでした。誰がここでこれから式を挙げるのかも知らないような人たちばかりで、みんな暇つぶしか話のタネにくらいの気持ちで来ているようです。

 父はその中の一人に、ここでの挙式のいきさつとかを聞いていました。

 「いやあ、あの村の神父様、今日の御ミサの後に挙式だっていうのに、御ミサが終わったら即行で王都に来るようにと司教座の方から昨日の夜になって連絡があったとかで、それで急遽この村の教会でってことになったんでさ」

 その(かた)が言うことによると、父の推測が当たっていたことになります。

 やがてだんだんと親族の方たちも到着し、広場を埋め尽くして、最後に新郎、新婦の登場です。

 すでに教会の入り口前には仮の祭壇が設けられ、神父様が待機しています。

 しばらくして、馬車が着きました。馬車は二台。先頭が新郎の馬車、二台目が新婦の馬車でしょう。

 私たちの時は同じ家から一つの馬車でともにこの教会に来たのですから、だいぶ型破りだったようです。

 果たして最初に着いた馬車から降りてきたのは、赤系統の衣装をつけた新郎でした。続いてその両親が降りてきます。

 その時、ジュゼッペが少しぐずったので、私は軽くゆすってあやしながら、近くの木の周りを少し歩きまわっていました。

 「ティツィアーナ、見て。お嫁さん、きれい」

 母が呼ぶので私は両親やルキーノのそばに戻り、次の馬車から今ちょうど降りてきたばかりの新婦さんを見ました。

 私の時と同じような赤いドレスに、見事な宝石の冠をかぶっています。それが太陽の光を反射させてキラキラと光り、とてもきれいです。

 ご両親とともに正面から教会の入り口に近づくお嫁さん。教会の入り口では新郎が花嫁を迎えるべく立っていま……え? え? え? え? え? え!

 私は全身が硬直し、あわやジュゼッペを落としそうにさえなりました。顔から血の気がサーっと引いて行くのが、自分でも分かるくらいでした。

 さっき馬車から降りてきたばかりの時は遠目だったのでよく分からなかったのですが、この新郎って……そんな……まさか……。

 こんなことが世の中にあるのでしょうか! 私はおぞましいものを見たかのように、慌てて眼をそらしました。めまいがして、吐き気さえ感じます。

 あの男……思い出したくもない……いえ、私の記憶の中ではとうに抹消していたはずのあの出来事……その当事者が教会の前にいる……。

 他人の空似と思いたい。でも、あの顔とクマのような大きな体格を見て、消し去ったはずの過去が生々しく甦ってしまったのです。

 私は母の袖を引き、自分のお屋敷のほうを顎でしゃくりました。

 ――帰りましょう!

 私は必死でそう訴えたつもりでした。でも、いつもならすぐに私が言いたいことを察してくれるはずの母なのに、今日ばかりは首をかしげています。

 「具合でも悪いのか?」

 父もうそう聞いてきますので、私は大きくうなずきました。

 次の瞬間、他人の空似であってほしいという私の期待は打ち砕かれました。

 私たちが広場を取り囲むスペースでもわりと教会の入り口に近い方にいたので、新郎の立ち位置からは至近距離でした。そこで私が帰るの帰らないのと身振りで意思を伝えようとして、両親がそれに対してあれこれ言うので、何かもめていると思ったのでしょう。新郎がちらりとこちらを見ました。

 私は目をそらしたまま帰りたかったのですが、本当にどうしてなのか、その時ちらりと新郎の姿を、ほんの一瞬だけですが再び見てしまったのです。

 新郎の顔はまさしくメドゥーザの目、私の全身をまた石に変えてしまいました。でも、そのメドゥーザの目はそのまま反射したかのように、新郎をも石にしてしまっていました。

 私の顔を一目見た男は、目を見ひらき、あっという間に真っ青な顔になり、はっきりと手が震えているのさえ分かりました。さらには私の腕の中のジュゼッペをも見て、ますます口を開けて今度は全身が小刻みに震えはじめたのです。

 こうなるともう、他人の空似ではありません。

 とにかく私は母の腕を引っ張って、屋敷の方へと歩き出しました。

 私はそのまま、ベッドに横になりました。

 もう、ルキーノの心をなんとかしてあげようなどという余裕はなく、逆にルキーノの方が驚いて私に付き添って看病してくれました。

 「大丈夫かい。しばらく休むがいい」

 ほんの少し、かつての優しかった頃の彼が戻ってきたような気がしました。でも、本当にそんなことを気にしているような状態ではなかったのです。

 私は布団をかぶって、とにかく震えていました。

 

 その日の夕食も、私は食べる気はしませんでした。

 私は悪魔を見てしまった……

 震えが止まりません。

 もう、外はすっかり暗くなっていました。

 両親とルキーノは、下の食堂で夕食をとっていることでしょう。三人がどのような話をしているのか想像もできませんし、そんな気力もありませんでした。

 父も母もあの新郎のことは知らないはずですから、私にとってまずい話にはなっていないと思います。

 その時、窓の外で音がしました。

 私が恐る恐る布団から顔を出して見ると、月明かりを背にはっきりと黒い影が窓の外にありました。

 ここは二階です。どうやって二階の窓の外に来たのかと思いましたが、すぐそばに木があってちょうど窓の近くまで太い枝が伸びているので、身の軽いものならそれを伝わって窓の外に飛び移ってくることは可能でしょう。

 私は恐怖に全身が硬直しましたけれど、叫び声を上げることが来ません。

 部屋の中は暗くてよく見えず、窓からさす月の明かりだけが頼りです。

 「お久しぶりですね。領主様の姪御さん。いや、もうあの爺さんは領主ではないのだから、あんたもただの金持ちの娘だな」

 その声に、ますます私の体は凍りつきました。

 そして窓からその人影は部屋に入り込み、私のベッドのすぐそばに立っています。

 それは……今日、教会で結婚式を挙げていた新郎です。ということはつまり……あの男です。もう存在自体が疎ましい悪魔……私の記憶からは抹消していたはずの悪魔……それが同じ部屋の目の前にいるのです。

 私は思い切り悲鳴を上げようとしましたけれど、喉は息を吐き出すだけで、何の音声も出すことはできませんでした。

 男は今ごろ、婚礼の宴のはずです。そこをどうにしかして抜け出してきたのでしょうか。たしかにお酒臭い息を吐いています。

 私はベッドから飛び降りて、壁伝いに後ずさりしました。でも、そんな広い部屋ではありません。すぐに追いつかれて迫ってこられました。

 「もう二度とかかわらなくていいと思っていたんだよ。でも、俺、見ちまった。あんた、子供を抱いていたよな。あれはあんたの子か?」

 私はこわごわと、ゆっくりうなずきました。

 「そっか。父親は誰なんだ?」

 私ははっとしました。

 この男は、私が結婚していることを知らないようです。無理もありません。婿とりでもないのに結婚しても自分の両親の屋敷にそのまま住んでいる女なんて、普通はいないでしょうから。だから、まだこの家の娘としか思っていないようです。

 「嫁入り前の娘に子供?」

 男は鼻で笑いました。

 「あんた、俺とやった意外にもすぐに男と寝るんかい? 上品な顔して」

 私は首を何度も横に振りました。自分は結婚していると言いたかったのですけど、紙に物が書けるような状況ではありません。

 「そうか、すると、まさか、あの子供は、俺の子供?」

 私はさらに激しく首を横に振りました。

 「いや、そうだろう? 俺たち子供ができるようなことをやったんだから、俺の子供だろ? 困るんだよ。やっと嫁さんをもらえたその日に、子供を抱いて俺の前に現れるなんて、困るんだよ!」

 ジョゼッペがこの男の子供だなんて、今まで考えたこともありません。あってはならないことです。ジュゼッペはルキーノと私の子供なのです。

 でもこの男が言うことも可能性はゼロではないので余計に体が寒くなり、震えが止まらない……いえ! そんなことはない! 可能性はゼロです!

 私は心の中でそう叫んでいました。

 「とにかくあの子供は、始末させてもらう。子供はどこだ?」

 どこだと言われても、私がベッドで少し休むと行った時からジュゼッペは母が連れて行ってしまっていました。今はそれが不幸中の幸いだったようです。

 男は手に、農作業用の鎌を持っていました。まさかその鎌でジュゼッペを殺しに来たのでしょうか……身の毛がよだつとはこのことです。でもここにジュゼッペがいない以上、その鎌の餌食になるのは……私?!

 その時、ドアが激しく開けられ、ろうそくを立てた燭台を持ったルキーノが飛び込んできました。

 燭台を床に置くと、私をかばうように私の前に立ちました。

 「話はドアの外ですべて聞かせてもらった」

 「お、おまえは何だ?」

 「ティツィアーナの夫だ!」

 「夫?」

 男が一瞬ひるんだすきに素早くルキーノは男に蹴りを入れ、男が振りかざす鎌をうまく避けて、背中に回ってその肩を打ち、すぐに右腕をねじあげてその手に持った鎌を床に落とさせました。

 そして片手で男の首根っこを押さえて床へとねじ伏せ、もう一方の手で素早く鎌を拾います。見事な身のこなしでした。

 でも、見事と思ったのはそこまでです。そのあとはもう、信じられない成り行きとなりました。

 ろうそくの光に照らされる中で、ルキーノによって振り下ろされた男の鎌で男の首が飛び、すごい勢いで血が噴き出したのです。ルキーノが飛び込んで来てからその出来事までほんの一、二分といってもいいでしょう。

 ルキーノの動きは実に素早く、無駄がなく、あっという間の戦闘でした。

 そんな瞬間的な、それでいて信じられないような出来事に私はもう恐怖も衝撃も感じないくらいに頭の中が真っ白になっていました。

 鈍い音がして、男の首のない胴体は床に倒れました。

 その時、騒ぎを聞いて父が上がってきました。

 そして血の海となっている床に転がっている死体を見て、目を見開いて立ちすくみ、しばらく茫然としていましたが、ゆっくりとルキーノを見ました。

 「こ、これは、いったい……」

 「クマを一頭、退治しておきました」

 悪びれもせず、ルキーノは言い放ち、そして私を見ました。

 「そんなことより、ティツィアーナには聞きたいことがある」

 私は耳を疑いました。あの悪魔のような憎むべき男であれ、目の前で人が死んでいるのです。しかも、ただ死んでいるのではなく、殺したのはルキーノ。それなのに、それが「そんなこと」なのでしょうか?

 私は人が目の前で死ぬのを見たのは、ルキーノ達が戦争に連れて行かれる時に逃亡した村人を、軍人さんが斬り殺したのに続いて二度目です。

 あのときは衝撃を受けていたルキーノも、今は人を殺した張本人です。

 たしかにルキーノは戦場でたくさんの人を殺したと告白してくれました。でも、まさか、まさか私の目の前でルキーノが人を殺すなんて……。殺されたのがあんな憎んでも憎みきれない悪魔だったとはいえ、人の命には変わりありません。それを……。

 ルキーノが自分で言っていた通り、彼は人間であることを封じてしまったようです。今日、教会で少しは人間性を取り戻したのかと思ったのですが、また逆戻り……?

 私は衝撃のあまり倒れそうになりましたけれど、そのルキーノが怒りに満ちた目で私を見据えてくるのです。私は衝撃に加え、恐怖で全身が震えだしました。

 「場所を変えよう」

 ルキーナに促され、私たちは階段を下りて応接室に向かいました。

 何も知らない母もジュゼッペを抱いて応接室に入ろうとしましたけど、入り口で父が止めました。

 「私は入っちゃいけないんですの? でも、ジュゼッペがぐずっちゃって。私は食事の後片付けをしなくてはならないし」

 「わかった。ジュゼッペをこっちに」

 父は、返り血を浴びて血みどろになっているルキーノの姿を、母には見せたくなかったのでしょう。

 何も知らないまま母は、あと片付けのために食堂に向かいました。

 私は父からジュゼッペを受け取りました。ソファーに座るや否や、ルキーノは私をじっと見ました。

 「さっきのあの男が言っていたことだけどね。どういうことなのか説明してもらおうか」

 「その前に」

 父がルキーノに向かって、言葉を挟みます。

 「二階で起きたことの方を先に説明してくれ」

 「あの男は、窓から侵入してティツィアーナを襲おうとしていました。殺されかけていたのですよ、妻は……あなたの娘は」

 「物盗りか……」

 「いや、私は二人のやり取りを、部屋の外で聞いてしまいました」

 そしてルキーノは、また私の方を見ました。

 「あの男が言っていたことは本当なのか? 『俺たち、子供ができるようなことをやった』って言っていたよな、あの男。おまえは、あの男と寝たのか!」

 私は激しく首を横に振りました。そしてペンにインクをつけていました。

 私がジュゼッペを抱いたまま書いている間も、ルキーノは私を問い詰め続けています。

 「私が死と隣り合わせで、まさしく奴隷として働かされていた時に、おまえは他の男と……」

 そこで私はようやく書いた紙を見せました。

 ――違う。森の中を一人で歩いていた時に、襲われた。

 「襲われた? 森の中で?」

 「え?」

 父も声を挙げました。

 「もしかして、まさか、あの時の……?」

 私はうなずきました。すると父は、ルキーノの方へ体を向けました。

 「君が戦争に行ってからすぐのことだった。娘は一人で森の中をさまよっていた時に、この村のものではない男に襲われたと、着るものもボロボロに、全身傷だらけで帰ってきた」

 それから私の方を向きます。

 「あの時の男が今日お前を襲うために、二階の窓から入ってきたというのか。それをルキーノ君が助けてくれたということだな。それにしても、なんで今頃……」

 ――あの男は、今日教会で結婚式を挙げていた花婿さんです。顔を見て、びっくりしました。向こうも、私がいることがすぐに分かったみたい。

 「どうしてそんなことがあったのなら、話してくれなかったのです」

 目を血走らせて、ルキーノは父に詰め寄ります。彼もまだ興奮状態にあるようです。

 「いや、実はティツィアーナには、あのことはもう忘れろと言っておいたんだ。私自身も忘れていた。限りなく不幸な事故として、もうなかったことにしようとそう思っていたんだ。決して隠そうとしたわけじゃないけれど、なかったことにしていることをわざわざ話さなくてもと思ってね。それよりも」

 父はため息をつきました。

 「いくらティツィアーナを守るためとはいっても、大変なことをしてくれたね。少し面倒なことになるよ」

 そして父は一瞬だけ天井を見上げて、その上の部屋に意識を向けたようです。そしてすぐに目を戻しました。

 「今日結婚した花婿なら、今頃は婚礼の宴の最中だろう。それを抜け出してここに来ていたというのなら、今頃は花婿がいなくなったって大騒ぎになってるんじゃないかな」

 「そんなことはどうでもいい。それより、ティツィアーナ!」

 またかなり興奮し始めて、ルキーノは私を見据えました。

 「状況は分かった。でも、これだけははっきりさせたい。その抱いている子供は、本当は誰の子供なんだ? あの男は、自分の子供だと言っていた」

 私はまたペンを走らせました。

 ――間違いなく、あなたの子供! あの男は、私が結婚していることを知らなかった。

 「なぜそう言い切れる!」

 「まあ、ルキーノ君、落ち着いて」

 そう言う父の声も、だいぶ上擦(うわず)っていました。

 「私に全然似ていないではないか」

 「この子は母親似なんだ。ほら、ティツィアーナにそっくりじゃないか」

 「そりゃティツィアーナが生んだんだからティツィアーナに似ていて当たり前だけど、問題は父親は誰かということ」

 ――あなたです!

 私は慌てて走り書きで、ルキーノに示しました。

 「それはあくまで希望的観測だろう。客観的な根拠は?」

 そう言われたら、確かに何もありません。

 「それなら、おまえの口からはっきりと言ってくれ。この子が私の子だということを」

 またルキーノは無理なことを言います。

 何も知らないジュゼッペは私の腕の中で、あたりをきょろきょろ見ながら手を動かしています。こんなにかわいい、愛しい人が、あんな悪魔のような男の子供である訳がありません。これまで私がどれだけの愛を注ぎ、私が生まれて初めて感じた愛情を注ぎ、この子をここまで育ててきたのか……。

 私はそのことを訴えようとペンを走らせました。でも、書き始めてすぐにルキーノは荒々しくその紙を奪い、自分の手の中で握りしめました。

 「言っただろう。私がほしいのはこんな紙切れに書かれた文字ではない! おまえの口から、おまえの声でこの子が私の子であることを宣言してほしい。そうでなければ信じられない」

 「おい、無茶言うなよ。この子は口がきけないことは、君もよく知っているだろう。それを承知の上で、結婚を認めてくれと君の方から懇願したんじゃないか」

 父がいろいろなだめてくれますが、ルキーノは聞く耳を持ちません。どんどん私の方へ迫ってきます。そう言われても、私はなすすべもありません。

 「頼む! 一言だけでいいから、何か言ってくれ!」

 今度はルキーノは懇願してきます。なんか遠い遠い昔に、同じようなことがあったような気がします。

 私が生まれるよりもずっとずっと前に……。あのときは私が男で、ルキーノは女だった……???

 なんでそんな訳の分からないことが頭の中によぎったのか、(いぶか)しく思っている間もなく、今度はルキーノは苦笑を始めました。

 「遠い東の国の、やはり妻が口をきいてくれない男の話を聞いたことがある。妻はめちゃくちゃ美人で、男は醜かったからばかにして無視していたんだと。ところがその男が見事に鳥を矢で射た時に、感動して口をきいてくれるようになったなんてことだそうだけど、私は鳥を矢で射ることしかできないような男ではない! それなのにおまえは、私をばかにして口をきいてくれないのだろう!」

 私はまた激しく首を横に振りました。

 「まだ、何も言ってくれないのか! そこまで私をばかにしているのか!」

 私はとにかく黙って、首を横に振り続けることしかできませんでした。

 「ルキーノ君!」

 父がたしなめてもルキーノは聞かず、すっと立ち上がりました。そして私の腕からジュゼッペを受け取ろうとします。

 帰ってきて以来、彼が自らジュゼッペを抱こうとしたのは初めてです。

 彼がジュゼッペをしっかりと抱きしめて、それが紛れもないわが子であることを実感してくれたらと思ってジュゼッペを渡しました。

 ところが、ルキーノの手に移った瞬間から、ジュゼッペは火がついたように泣きだしたのです。

 私は嫌な予感がして、ジュゼッペを私の方へ戻してもらおうとしました。

 でも彼は泣きじゃくるジュゼッペの顔をじっと見ています。

 そして急に叫びだしました。

 「やはりこいつは、私の子ではない! それに、妻にこんなにもばかにされているんだから、二人の間に子供なんかいらない!」

 そして、なんとジュゼッペの両足を持って逆さまにし、振り上げて頭からジュゼッペを床にたたきつけたのです。

 激しい音とともに、ジュゼッペの泣き声は消えました。

 その代わりにジュゼッペの頭は砕け、床はすぐに血の海になっていきました。

 私はこれ以上もなく精神が崩壊していくのを感じました。

 そして大きな口を開け、今まで一度も感じたことのないような喉のかすれを覚え、思い切り胸を振動させ、強く息を吐くとともにこれまで封印していたものが一斉に解き放たれたかのように、私の耳にも生まれて初めて聞く自分の声が響きました。

 「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」

 すると私の腰のあたりで、いつもの奇妙な光る箱が空中に浮かびあがってきました。

 また、カードが増えています。

 今度のカードには「LOVE」と書かれていました。

 ――ローヴェ?

 またもや、読めるけれど意味が分かりません。でも今度は今までと違います。

 「ブッブー」

 そんな音がして、そのカードの上には赤い×印がつき、そしてカードはこなごなに砕けてとび散りました。

 ふと気がつくと、ルキーノも父も、完全に動きを止めています。

 総ての時間が止まってしまったようです。

 そして私の目の前の空間に、大きく赤い太い文字が浮かび上がりました。

 

 

 「GAME OVER」



エピローグ

 

 気がつくと僕は、勢いよく空中に放り出されていた。

 あの険しい山の上にあった老人の寓居の庭の、巨大な(かめ)から僕は飛び出してきたのだ。

 そして勢いよく地面にたたきつけられた。

 「いてえ!」

 なぜか自由に声を発することができるのが不思議だった。

 目の前には、例の老人が立っている。

 なんだか懐かしい感じがした。

 僕はゆっくりと、自分の中で記憶を反芻(はんすう)させた。

 頭が混乱する。

 ついさっきまで、僕は女だった気がする。お金持ちの令嬢? でもなんかめっちゃ恐ろしいことがあって……、ほかにも実にいろんなことがあったような気がするし、何年もたったような気もするけれど総てが一瞬の夢だったような気もする。

 これまで忘れていたことまでもが一斉に記憶の中に甦ってきたというような感覚だ。

 冒険者としてモンスターと闘い、地獄でゾンビとの戦闘に明け暮れ、なぜか女になって自分の子供を夫に殺された……

 記憶は全部、はっきりとしている。

 「杜子春(トゥオ・ツィーチュン)よ」

 こう呼ばれるのも、これまたなんだか懐かしい。そしてその声の主も……何もかもが皆懐かしい。

 「『これから君が見るものも体験するものも、それが魔王とかモンスターとか武装集団とかであっても、全部仮想現実バーチャル・リアリティーだ。真実(リアル)ではない。だからまずは心を落ち着かせ、一言も声を発しないこと。これだけは絶対に守ってくれ』……私はそう言っておいたはずだ。それなのに最後の最後で君は……」

 「はあ、ごめんなさい」

 一応、謝っておこう。でもこの爺さん、何を怒っているのだろう。

 「いいかね。君は異世界で一枚一枚カードを集めていったはずだ。それは人間が持つ七つの感情でもあるのだよ。喜び(JOY)怒り(ANGER)哀しみ(SORROW)恐怖(FEAR)憎悪(HATRED)欲望(LUST)……この六つは君はクリアし、カードをゲットできた。でも、最後の(LOVE)を試された時に君は声を発してしまった。ここで声を出さずに済んだら、ゲームクリアだったんだ。それなのに……ゲームオーバー」

 老人は苦笑していた。その老人の言葉、一応翻訳されているのだろうけれど、時々分からない単語が入る。

 「さあ、間もなくこの世界は崩壊する」

 気がつけば、背後にある老人の寓居の小屋が突然火を噴いて燃えだした。

 僕が唖然としていると、老人は言った。

 「君は都に戻って、慎ましく生きなさい」

 炎はついに小屋全体を包み込んだ。でも、不思議と熱は感じなかった。やがて炎は、僕の体をも包みこんできた。

 これは炎というよりも光だな。

 僕がそう感じていると、次の瞬間、僕は大興の都の(いち)の入り口の門のところにたたずんでいた。

 


エピローグ(2)

 

 水甕みずがめのような転送装置から顔を出したドクター・トウ、自称秋葉原博士(ドクター・アキバ)は、誰もいないショールームを見渡した。

 「あれまあ、やつら、帰っちまったのか……」

 まあ、結局はクリアできなかったのだから最後まで見ないでいてくれたのはよかったけれど……・。

 彼としては渾身の作のゲームの初披露、主だったゲーム業界の人たちやマスコミを招いてプレゼンテーションのはずだったのに、そのゲームから帰還したら誰もいないのでは話にならない。

 「いったいどこまでを見ていってくれたのかねえ」

 装置のへりをまたいでステージの上に立ったドクター・トウは、ゆっくりと舞台の上を片付け始めた。

 「アバターに感情と、プレイヤーとは別個の人格を持たせるという画期的なゲームなのにな……」

 ぶつぶつと呟きながら、ドクター・トウは何気にスクリーンを見上げた。

 そこには、自分がつい今まで行っていた(スイ)の時代の大興の都のそばの、華山の雲台峰の頂上の様子が映し出されていた。プレイヤーでもありゲームマスターでもあった彼が自分を科学者という設定にして、その雲台峰の上にその研究所を移していた。もちろん仮想(ヴァーチャル)の研究所だから、今はもう跡形もない。

 ところが見ていると、一人の若者がふらふらとなってそこまで登ってきたのが見えた。

 「あのばかめ。わざわざ都に戻してやったのに、なんでまた苦労してあんな険しい山の頂上まで登ってきたんだ?」

 若者=プレイヤーとは別個の人格を持つアバター……杜子春(トゥオ・ツィーチュン)―現代の発音ではDu(トゥー) Zichun(ツーチュン)―は、かつてあった小屋が跡形もなくなくなっているので、落胆してあたりを見回している。

 その様子をスクリーン越しに見ながら、ドクター・トウは空中に出現させたモニターのいちばん右上のオレンジ色のボタンをタップした。

 すぐに文字が浮かび上がった。

「LOG OUT」

 

                                      (おわり)

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