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杜子春異伝  作者: John B.Rabitan
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第四章

 結局、ダンジョンでのモンスター駆除は中途半端に終わった。我われが倒したのはクンラートが操るモンスターばかりで、実際にあのダンジョンに住みついている大物を倒すまではいかなかったからだ。

 それはまた、他日を期すことになった。

 そうしてしばらくは、平穏な日々が続いた。

 本当に、ここに来てからどれくらいたたったのだろうか? 季節は変わらないし、ひとつだけ時間が流れたと感じられるのは、僕の髪の毛が伸びたくらいだろう。

 ここに来てから結うのはやめて短く切っていた髪も、まただいぶ伸びてきている。

 「そろそろまた、髪を切りましょうか」

 愛くるしく笑うミランダ。

 そのミランダの手作り料理で夕食の団欒(だんらん)の席でだ。

 温かいスープの匂いが立ち込める部屋で、ミランダとその兄のヨスと、そして僕……家族水入らずの団欒……って、本当は僕は家族じゃなかったはずだけど、今では家族じゃないなんて考える方が不自然だ。

 不自然といえば、本来はその三人だったはずの食卓に、今ではなぜかもう一人居候がいる。

 ダンジョンでの冒険以来、なぜかこの家に住み着いてしまった謎のダークエルフの少女フロリーナ…なぜか…。

 ――なんでお前が当たり前のような顔をしてここにいるんだよ……。

 本当にそう思ってしまう。

 そのフロリーナは僕の髪を切ろうと言ったミランダの言葉を聞き、ミランダをキッと睨む。

 「兄さんになれなれしくしないでけろ。兄さんの髪もおらのもんだ」

 ――僕の髪は僕のものだ…おまえのものじゃあない。

 本当にそう叫びたかったけれど、今は苦笑するしかない。なぜなら敵意むき出しで睨まれたミランダが、意にも介せずにこにこ笑っているのだ。本当にどうしてこいつはこんなにもミランダを敵視するんだ? 置いてもらっている分際で。

 あの日、つまりダンジョンから帰ったあの日、フロリーナは僕の腕にすがって離れなかった。

 「おらもここに置いてけろ。おら、行く所もないんだ」

 どうやらそれは本当らしかった。最初はダンジョンから一番近い村の娘といっていたが、そっちの方が嘘だったようだ。

 話によると、遠い国からたった一人でこの町にやってきたらしく、この町に着いたその日に僕のグリフォン駆逐を目撃したとのことだった。昇級式で僕を初めて見たというのも嘘だった。

 あんなひと気のない草原のまん中でどこに隠れて見ていたんだか……。でも本人がそう言うし、話している詳細すなわち彼女が見たと言っている様子が事実に反していない。

 その後、ギルドへ行って冒険者申請をしようとしたらしいが、門前払いだったそうだ。

 一つはこの町に来たばかりのよそ者で、僕の場合のヨスのようなしかるべき紹介者がいなかったことと、年齢が基準に達していないこと……てか、実際は達しているのだけど見た目がどう見ても幼女で、いくら彼女が本当の年齢を主張しても信じてもらえなかったらしい。さらにもう一つ、彼女がダークエルフだったこと。実はダークエルフが冒険者認定されるのはかなり難しいらしい。

 「まあ、お気の毒な。よろしかったらいつまでもうちにいてちょうだい」

 実はそう言って彼女をこの家にいさせたのはミランダの方だった。

 僕も異論はなかった。そもそも僕とて居候としてこの家に置いてもらっている身なのだから異論など(はさ)める余地はない。

 そのフロリーナもダンジョンでは単なる荷物持ちにとどまらずそれなりの働きをしたし、むしろ彼女の防御魔法に命を助けられたといっても過言ではない。

 いずれにしても、ミランダのひと言で、ヨスも彼女の同居をすんなり認めた。それなのにフロリーナはまるで恩を(あだ)で返すようにミランダを敵視する。

 ある日の食卓では、その日フロリーナは特に機嫌が悪かったようで、料理の肉にフォークを突き刺してミランダに食ってかかった。ちなみに僕はこの世界に来てからフォークなるものを初めて見た。この世界の人たちは箸は使わないようだ。だが、フォークというのはナイフという小型の包丁で肉などを切る時に押さえるために使うもので、スープなどをスプーンで飲む以外は食事は基本的に手づかみだ。

 「おまえは兄さんになんでそんなに親切にするんだ? 兄さんの面倒を見てるんだ?」

 それがこの日、フロリーナがミランダに食ってかかった内容だ。

 「さあ、なんででしょう? 私もよく分からないんです。なんだかそうしなければいけないような気がして、自然といろいろとお世話させてもらってるんですけどね」

 ニコッと笑って、ちょっと首をかしげる。その表情が僕にはもうたまらない。こういうのを「萌える」っていうのだろうか……でも、それが逆にフロリーナにとっては逆上のタネになったようだ。

 「おまえ、兄さんが好きなんか?」

 ハッとした表情を見せるミランダ。その顔はみるみる赤くなる。でも、どぎまぎしたのはミランダばかりではない。なぜだか分からないけれど、僕までもがどうしたらいいのか分からなくなり、胸が高鳴っていた。

 僕だって若い男なのだ。意識しないはずがない。だけど、今まで自分の中に自分で抑えこんでいた気持ちを、この幼女…もとい、少女はわざわざ掘り出してしまったような気がする。

 こんな時僕は口がきけなくて、いや、きいてはいけないことになていて本当によかったと思う。

 その日はそのあと、フロリーナはただ無言で逆上のタネを作ったその相手の手料理を口に運んでいた。そして、食事が終わるとさっさと寝てしまった。

 食事の片づけも終わって、暖炉の前でのくつろぎのひと時だ。

 「あの()の態度には、驚いただろう?」

 ヨスの方からそんなことを言ってきた。

 ――ん?

 僕はむしろ、彼らの方がフロリーナの態度に驚いていると思っていた。

 「実は同じエルフでも、我われのような普通のエルフとダークエルフとの間には、遥かに昔からの歴史的な確執があるんだよ。それが意識していなくても、本能的に出るんだろうね」

 まあ、確かにそれもあるんだろう。この世界の特殊事情ってやつだ。でも、本当にそれだけかなと思う。

 「ところで君は、ミランダのことを本当はどう思っているのかね?」

 ――え? 

 一瞬でどぎまぎしてしまう。何なんだろう、この気持ちは?……

 「お兄様、そ、そ、そんなこと、そんなこと、失礼ですよ」

 隣でたしなめたミランダの顔も、やはりまた真っ赤になっていた。

 僕は黙っていた……当たり前だけど……。でも、口がきけたとしても僕は黙っていただろう。

 ――僕はこの()が好きなのか?

 何か重大なことに初めて気づいたというような、そんな感覚でもあった。

 「そうか、なるほどな」

 僕は何も言っていないのに、ヨスは一人で納得していた。

 

 事件はその数日後に起こった。

 いつものようにろうそくの明かりを消し、僕はベッドの上の布団に入った。

 ここ数日、剣戟の稽古も休んでいたので体がなまっており、疲れ果てている時ならすっと眠りに入るはずの僕もしばらくあれこれ考え、ようやくうとうとするまでに時間がかかった。

 ふと気づけば、何か布団の中が暖かい。

 まさかこの年で粗相でもしたのか……でも、そうではないことを知るよりも、今どうなっているのか分かる方が早かった。

 布団の中に僕以外の何か別の存在がいて、僕の胸に顔をうずめている。

 甘い香りがする。

 そしてやがてその塊はだんだん上に上がってきた。

 僕は思い切り僕の体の上の重さをはねのけようとしたが、すぐにはうまくかなかった。だが、僕の力の方が(まさ)っていた。

 「きゃっ」

 かわいらしい女の声で叫びがあがり、布団とともにその体はベッドの下に落下した。僕は跳ね起きた。

 窓からは月明かりが室内を照らしている。

 月があってよかったと思った。いや、この世界では月がない日などない。夜になると毎日が必ず満月だった。

 その窓からっす月の光に、はっきりと侵入者の銀色の髪が照らし出された。

 ――フロリーナ!

 僕は叫び声をあげたくなるのを必死で抑えた。

 フロリーナは涙目で、じっと僕を見ている。

 「なんで、なんで跳ねのけるんすか? おらじゃだめんなんすか?」

 僕は黙っているしかないのでそうしていると、フロリーナは立ちあがって、その上半身につけていたわずかな布切れをとった。

 僕は思わず目をそむけた。でも、やはり見てしまった。

 幼女ではないと本人が主張はしていたけれど、どうしても見た目がすべてとなってしまう。僕の意識の中で彼女はやはり幼女だった……つい一瞬前までは……でも、今は……目をそむけてもしっかりと見てしまった……。あのカルラほどではないにしろ、かなり豊満な胸。

 ――こいつ、着痩せするタイプだったのか……。

 「兄さん、お願いだ。おらの気持ちも分かってけろ」

 そうは言われても、はいそうですかってわけにもいかない。

 僕だって男だ。この状況に体の一部は反応してしまっている。このまま拒絶するのはもったいない……なんてそんなこと考えたわけではないけど……いや、少しは考えたかな? でも、やっぱいけない。隣の部屋ではミランダも寝ているし……。

 「おら、兄さんが好きなんだ。初めて見たときから、あのグリフォンをやっつけた時からもうおらの心は兄さんのものだ。いや、心だけでなくて……」

 だめだ、だめだ、だめだ、絶対にだめだ……でも……いや、やっぱだめだ!

 ――ごめん。

 僕は心の中で呟いたが、もちろんフロリーナに聞こえるすべもない。

 思い切りフロリーナは上半身裸のまま、ベッドの上に座ったままの僕に飛びつき、しがみついてくる。

 僕は全身の力を込めて再び、だけど今度はそれがフロリーナだと分かった上でベッドの下に跳ね飛ばした。

 音を立てて、フロリーナはベッドから落ちて尻もちを突く。

 そして、涙をためたまま僕をにらむ。

 「兄さん、もしかしてDTなんすか?」

 ――でぃ、でぃーてぃー?

 なんかわけのわからない言葉をフロリーナは口走った。と、いうよりも、僕のヘッドセットでは翻訳不可能な言葉なのだろう。

 そうこうしているうちに、ドンと音がしてドアが開いた。

 「なんか激しい物音がしましたけど」

 松明(たいまつ)を手にヨスが飛び込んでくる。そして松明の火で照らされた室内を見渡した。そして胸もあらわに床に座り込んでいるフロリーナと目があった。フロリーナは慌てて、同じく床に落ちたままだった僕の布団で自分の体を覆った。

 僕も真っ青になって、両手のひらをヨスに向けて激しく振った。

 ――ち、違うんです! 誤解です!

 僕は必死で心の中で叫んでいた。

 するとヨスは僕を見って大きくうなずくと、フロリーナをにらんだ。

 「君はまず服を着て、それから僕のところに来なさい。話がある」

 厳格な口調で言い渡すヨスに、フロリーナは怯えながらもその言葉に従った。こうして、フロリーナはヨスにつまみ出された。

 

 フロリーナはその後、かなりヨスに説教をくらってしぼられたらしい。そして翌日、シャルロッテが来て結局はフロリーナを連れて行った。ヨスがそう頼んだのだろう。

 「あら、どうしたのです? うちにいてくれてもいいのに」

 何も事情を知らないミランダだけが、いぶかしげにその事態に首をかしげていた。

 そしてその晩、ミランダも寝てから、ヨスが僕の部屋を訪ねてきた。僕はまだベッドに入ってはいなかった。

 「すまないね。ちょっと話でもしたくてね」

 話をしたいっていっても、僕がヨスの話を一方的に聞くだけだろう。会話は成立しないはずだ。

 でもヨスはお構いなしに、椅子に座る僕の方を向いて、ベッドに腰をかけた。

 ヨスは何か言いにくそうにしていた。僕はなんだろうと、その異様な空気をなんとか読もうとした。胸騒ぎがする。

 しばらくしてから、ようやくヨスは口を開いた。

 「君は、妹をどう思うかね?」

 何か前に食卓でも同じようなことをヨスは僕に聞こうとしていたけれど、あの時はミランダ本人もいて、そのミランダに質問を遮られていた。

 今日はミランダはいない……。

 でも、どう思う?……って……??? 

 藪から棒の問いかけにきょとんとなるだろ? 普通なら……。でも僕は、きょとんどころか思わずドキッとしていた。

 「君もミランダが嫌いではないのだな。どうかね。妹を嫁にもらってはくれないか」

 もう「ドキッ」どころではない。

 ――え? え? え? 

 僕は聞き返したい気分だった。

 「だから、ミランダを嫁に……」

 ――そう、嫁に? 嫁?

 「まあ、急にこんなことを言われても戸惑うだろうけれど、アレはアレでかなり君のことが気に入っている様子だ。君の方はどうなんだ?」

 ――それは素敵な女性だと思いますよ。一緒にいても楽しいし、明るいし、気は()くし、可愛いし、笑顔が素敵だし、確かに僕のこと、大事にしてくれてますよね……って、いくら尋ねられたって、そしてそう思ってたって、僕には答えるすべがないじゃないか。それが分かっていて、どうしてこのお兄さん、僕に直接聞くんだ?

 「そうか。やはりそう思っていてくれたのか。じゃあ、話は早いな」

 え? ちょっと待って! 僕は心の中で思ったことをひと言も声に出して言ってはいないんだけど。

 ヨスは少し笑っていた。

 「いや、ごめん。驚いたね。これが僕の異能力なんだよ」

 ――え? 異能力?

 「相手の考えていることを読むという能力なんだ」

 ヨスはまたにこりと笑った。笑っている場合ではないだろう。じゃあ、これまで僕が心の中で考えていたことは、全部ヨスに筒抜けだったってこと?

 またヨスは、今度は声をあげて笑った。

 「心配しなくていい。何でもかんでも他人の考えていることが僕の心の中に飛び込んでくるというわけではない。まずは僕が相手の心を読み取ろうと意識を向け、相手も自分の心を分かってもらおうと心に思い浮かべて、その二つ意識が重なった時に、初めてその相手の思考は肉声のようにして僕の心の中に飛び込んでくる」

 理屈は分かっても、感覚的には何かいまいちぱっとしない。

 またヨスは笑った。

 「まあ、分からないだろう。でも、何でもかんでも他人の考えていることが分かってしまったら、知らない方がいいことまで知ってしまったりしてもう気が狂いそうになって生活できなくなるよ。だからうまい具合に自分が知りたいと思ったことだけ飛び込んでくるんだ」

 ――そんな、かなり都合のいい能力ですね。

 僕は嬉しくなった。何しろこの世界に来てから、初めて僕はまともな会話ができる相手と巡り会ったのだ。

 ――だったら、もっと早く言ってくださいよ。

 「悪い、悪い。隠すつもりはなかったんだけど、言いだす機会がなくてね」

 都合のいい能力というのは、ヨスにとってというよりも僕自身にとってかもしれない。言葉を発することができない僕には、なんと好都合なヨスの能力だろうか。

 でも、疑問もわく。ヨスの言葉は僕にはヘッドセットの自動翻訳で僕の耳に達している。だが、僕が頭の中で思考する言語は、僕が元いた世界の言語だ。それでヨスに分かるのだろうか?

 「それはね」

 すぐにヨスが返答をくれる。

 「僕は相手の言語を読み取っているわけではない。相手の発する『念』を読み取っているのだから、極端な話、言語が違う異邦人でも相手の想念は読み取れる」

 すると僕のヘッドセットの翻訳よりも、かなり有利だ。

 「でも、問題もあってね。相手の思ったことは分かるけど、言語が違う相手だと僕自身が相手の言語が話せないとだめだからねえ。そこで意思疎通ができなくなる」

 また声をあげてヨスは笑った。

 ――他に同じような能力の人は、多いんですか?

 「いや、私の知る限りでは、レリンスタルドでは私くらいだろう。アウストラシアの王都メッツまで行けば、何人かはいるかもしれない」

 そして、ヨスは急に真顔になった。

 「それよりも、だ」

 じっと僕の顔を見据える。

 「先ほどの話だがね……」

 ミランダの話か……。いきなり嫁というのも急すぎる。いやではないけれど、物事には順序というものが……。だいいち、ミランダ本人は……???

 「順序が大事だから、まず君に聞いたのだけれどね。君の気持ちを確かめないで、私が勝手にミランダにこの話を勧めたらまずいだろう?」

 ――たしかに……でも……。

 僕は躊躇してしまう。

 ある日突然この異世界に召喚されたというか、飛ばされた僕だから、いつまた元の世界に飛ばされるか分からない。

 もし、このままこの世界に骨をうずめることになるのなら、それはそれで構わない。あんな元いた世界なんてクズだ! あんな世界に帰りたいとは思わない。

 だから、あんな世界にもう二度と戻らなくて済むというのがはっきり分かっているのなら、ぜひともこっちからお願いしてミランダを嫁にしたい。

 だけど、もしあの世界に帰るなんて日が来たら、ミランダも連れていけるのか……その可能性は低いだろう。そうなると、最悪、ミランダとは生き別れで二度と会えないなんて事態も……。

 ため息をついたのは、ヨスの方だった。

 「そうか、なるほど。君だったら最適と思ったのになあ」

 ――お兄さんの、妹さんを思う気持ちは分かりますけれどね。

 「え?」

 一瞬ドキッとしたような表情を、ヨスは見せた。たらーっと現実には見えない汗がほおを伝わっておいている状況だろう。

 「なんで知っている? わ、私の気持ちを……」

 今度はこっちがきょとんとした。状況がよく分からない。僕にはヘッドセットから相手の言葉は翻訳されてくるが、相手の心の中が読めるわけではない。

 ――お兄さんが妹さんを思う……自然な気持ちなのでは?

 「そう思うかい? 本当にそう思うかい? 異常な性愛ではなくて、自然な気持ちと断言してくれるんだね!」

 なんか話がかみ合わないぞ。なんか論点があさっての方に向かっているぞ……。

 ヨスにとっての「妹を思う」ということが、いわゆる普通の意味とは違うのか……???

 「こんなこと、ミランダにも言えない。妹に萌え、妹に恋をし、妹を愛している。それはとてつもなくキモいことだし、異常なことだし、変態だし、あり得ないと思ってきたけれど、君は理解してくれるんだね」

 ――な、な、何を言っているのだ、この人は?

 僕は自分の耳を疑った。あるいはヘッドセットの翻訳機能がいかれたのか……。

 まさか、この人は、そんな性癖がある人だったのか……! 兄が妹に恋をする? 妹を愛している? しかも、それは兄妹愛などという範疇を越えた、異性に対する愛? それも、相手が実の妹という異常な愛……?

 信じられない!

 信じられない!

 信じられない!

 信じられない!

 信じられない!

 ヨスはもう、僕の手を取らんばかりだった。完全に想定外の展開……。でも、それにしては……???。

 ――なぜ、僕に妹との結婚を勧めるのだろうか?

 「まあ、世間的にも、いつかは妹も嫁に行かねばなるまい。でも、どこの馬の骨とも分からないものに妹が嫁ぎ、この家から去っていく……そんなの、だめだ! 許せない! あり得ない!」

 これまでの威厳のある厳格な兄上という風格が、これですべて崩壊した。ギルドでもかなり顔が利くのだが、ギルドの人には決して見せない姿を今僕は目撃しているのではないだろうか。

 「だから、君ならば安心だ。少なくとも馬の骨ではない。とらのあなでもない。アニメイトでももない……何を言っているんだ、私は! とにかく、君ならば気心が知れているし、ほかに家もないからミランダと結婚してもそのままここに住むだろう? つまり、ミランダは嫁に行ってもずっとこの家に、私と一緒に住むことになる」

 そういう魂胆かよ。だったら、ばらすなよ……

 僕は苦笑した。だけれども、僕がミランダと夫婦になったりしたら、嫉妬に苦しむのは自分じゃないかという気もするのだが。

 「とにかくミランダに変な虫がつく前に。実際、知っての通りあの盗賊のボス、ウェアオックスのヒルスがミランダを狙っている。あんな牛男にとられたら、私は気が狂ってしまうだろね。それに比べたら、君がミランダと夫婦になったとしても何の嫉妬も感じない。私はそのために、ずっとミランダと一緒にいられるんだから」

 それは確かにそうかもしれないけど、なんか話が変だぞ。ここまでくればやはりもう異常だ。

 それに、僕にも僕の特殊事情がある。いつ元の世界に戻ることになるか……その事情さえなければ、ミランダは最高の相手……

 ん~~ちょっと待って。同じ屋根の下に嫁になったミランダに恋するシスコン兄貴が住んでいるという図式は、はたして最高だろうか……どんなふうになるのか、実際になってみないと想像もつかない。

 やはり少し時間が必要だった。

 「わかった!」

 ヨスは自分の膝を打った。

 「我が家とあのパーティーの連中とで、どこか保養地に行って静養しよう。温泉がいい」

 保養地での静養、それは僕が考える時間、決意するまでの時間ということなのだろうか?

 そんな、なんだかんだで馬車を一台借りきって出発したのは、一日おいた二日後だった。

 

 早朝に出発して、馬車はしばらくは何も遮るもののない草原を南に向かって進んでいたが、昼過ぎになってやっとうっすらと山が見えてきた。

 あの山の麓にワーヘンブルーフ湖という湖があって、そのほとりにバルニアという施設もあるとヨスは言っていた。でも、それが何の施設なんだか僕には見当もつかなかった。

 馬車の上は僕とヨス、ミランダの兄妹、そしてシャルロッテ、カルラ、アルヴィン、ブラムという例のダンジョンでのパーティーのメンバーだ。さすがに今日は、シャルロッテも鎧は着ていなかった。鎧を着ていないシャルロッテを見るのは初めてで、なんか新鮮だった。

 でもなぜかもう一人……招かれざる客とでも言おうか……

 ――なんで、こいつまでいるんだよ。

 そう思う存在……フロリーナもちゃっかりメンバーに加わっている。

 今、フロリーナはシャルロッテの家に居候しているけど、パーティーのメンバーで保養地に行くと聞いたシャルロッテが、何の考えもなしに当然のこととして荷物持ちだったフロリーナをもつれてきたのだろう。

 シャルロッテは例の事件を全く知らないのだから無理もないかもしれない。

 でも、あんなことがあった以上、こいつと一緒の車に乗るなんて気まずい。でも、当人は何事もなかったようにけろっとして、これまでと全く変わらない様子で他のメンバーと冗談を言って笑い合ってる。

 草原の中を山へ向かって馬車は進んでいるのだけど、それでも石畳の街道がずっと続く上を馬車は走っているのには驚いた。誰がこんなの敷いたんだろうと思う。

 「今日はノイストリア王国との国境の近くまで行くんだ」

 ヨスがそう説明する。それがかなり遠い所だという証拠に、早朝に出発した馬車はかなりの速度で走ってきたのにもう夕方近くだ。

 僕らが住むアウストラジア王国とノイストリア王国、そしてさらにその向こうのバーガント王国の三つの王国はもともとはフランキーシェ王国というひとつの国だった。でも先代のクロータリウス王が亡くなってからは三人の王子に分割相続されたので、今では三つの分王国になってしまったのだという。

 そして、ずっと大平原の中を続いてきた道は森の中へと入っていき、やがてぱっと視界が開けたときには小さな湖が横たわっているのが見えた。

 湖岸は針葉樹林に囲まれ、青い水をたたえる湖だった。

 その湖畔で馬車から下りると、皆大喜びで湖の方へと駆けていく。

 「ひゃっほー!」

 「久しぶりだなあ!」

 そんなことを口ぐちに言っている。

 水打ち際まで来ると、みんな立ち止まって湖とその向こうの森、そして森の上に頭を出しているちょっとは高い山という景色を目に焼き付けて堪能している……と思いきや……、

 「よっしゃ、泳ぐぞ! 早くしないと日が暮れる!」

 アルヴィンの掛け声が合図であるかのように、彼も、ブラムも服を脱ぎ始めた。

 おいおいおいおい、お嬢さん方がいる前で、しかも総てを脱ぎ棄てて、全裸で……ぶらんぶらんさせて湖へ走って行ってばしゃっ!

 でも女子たちはキャーッとか言って指で自分の目を隠し、指の間から覗いている……なんてこともなく、堂々と笑ってそれを見てる。恥ずかしげもなく。

 しかも……しかも、なんと……

 「私たちも行きましょう」

 今度はカルラの掛け声を合図に、女性陣までもが服を脱ぎ始めた。

 ――え? え! え! え! ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとぉぉぉぉぉぉ!

 僕は心の中で叫んでから、目のやり場がないので慌てて後ろ向きになった。その肩をヨスがポンとたたいた。

 「どうした? せっかく湖に来たのに泳がないのかい?」

 そんなことを言って、ヨスまでが服を脱ぎ始める。

 こうなったら腹をくくるしかないのか……ここが度胸の見せどころ?

 思い切って僕も服を脱ぐが、とにかく体を隠すために全速力で水の中へ入った。

 女の子たちはちらっと僕を見ただけで、そんなに注意して視線を向けてこなかくてよかった。なにしろ男性陣も女性陣も水の掛け合いや、それぞれ泳いだりで楽しそうで、僕の姿なんか見ていない。

 僕の元いた世界では考えられない。

 ある程度大人になった男でも女でも互いの前で平気で全裸になって、それを気にしないあっけらかんとした世界だったんだ、ここは。

 このメンバーだけが特殊なのではなかった。

 僕たちが到着した時はまだ人影もまばらだった湖畔だけど、ここは有名な保養地であり観光地であると聞いていた通り、どんどん馬車が着いて人びとが降り始めたのだが……。

 湖畔で遊んでいる人たちもいるけど、僕らと同じように全裸になって湖に飛び込む人々も少なくなかった。それが女の子同士のグループだったり、男の子も含む仲間うちだったり、あるいは家族連れだったりするけど、どれも例外じゃあない。

 皆全裸になることになんら躊躇もせず、それが当たり前であるかのように服を脱ぎ捨てる。年寄りや太ったおばさんまでもが。

 だから、僕だけが裸になることを恥ずかしがったりしていたらかえって不自然かもしれない。

 「ツィーチュン! ぼさっと立ってないで、こっちにおいでよ!」

 カルラが呼んでくれる。

 うわつ! (じか)に見るとこれでもかってくらいの爆弾おっぱい! 裸になったらここまで巨大だったのだと、あらためて感動させられる。

 でも、向こうがあっけらかんと晒している以上、それを気にしているふうは見せてはならない……よし!

 僕もそんなカルラに、声は出せないものの笑顔で水を掛けて、水の掛け合いに加わった。

 互いに普通に服を着ているときは、だいたい相手の顔か目を見ていて、胸や下腹部なんかあんまり見ていない。今、互いに全裸だとしても、そんなふうに服を着ている時と同じようにすればいいんだと、僕は自分に言い聞かせていた。

 もちろん、男相手だとすぐにそれができる。

 でもやはり何というか、女の子が目の前で全裸でいたら、顔だけを見ていろというのは……だからといって、その体をじろじろと観察している余裕なんかない。

 まずは度胸がないし、水の掛け合いをしているのだからそっちにも専念しないといけない。

 それに変に意識したら、男としてまずい状況になる。

 それにしても、まさかミランダの透き通るような白い肌を目の当たりにできるなんて……なんて眩しい……カルラの健康的な茶褐色の、もう一回言うけどはち切れそうな胸。そして、フロリーナも、幼女のような外見とは裏腹な体つき……

 なんてのは見ていない、見てない、断じて見てない! いや、見ちゃいけない。

 水から出られなくなったら大変だ……てか、ほとんどそういう状況になりかけてるんだけど……

 そうしてしばらくは泳いだり、岸に上がって寝そべったりで思い思いに時を過ごした。

 「そろそろ温まろうか」

 ヨスがそういうので皆上がり、荷物の中からタオルを出して体を拭いた。

 僕は……ようやく、ようやくおさまってきたので水から出ることもできた。

 そのまんまみんな全裸で、湖岸にあるドーム状の屋根を持つ建物の方へ歩いて行った。

 それが、ヨスの言っていたバルニアらしい。

 誰もタオルを羽織るでも体に巻くでもなく、全裸のまま堂々と歩いている。入り口でも全裸のままヨスは前を隠すこともなく、入場する人数を告げて係員の女の子にお金を払っている。女の子もヨスが全裸だからといってそのことはなんら意識してなくて、平然としてる。

 それよりも……バルニアっていったい何だ?……と僕は興味津々でみんなの後について中に入った。

 中は大きな一つの部屋しかなく、かがり火で照らされて建物の中にも巨大な水をたたえた池があった。明らかに人工の池だ。

 だが、湯気が立っている。水をたたえているのではなく、お湯をたたえていたのだ。

 つまり、バルニアとは温泉のことだった。

 ドームの天井は何本もの円柱の柱で支えられ、それぞれの柱に見事な女神の彫刻があった。

 温泉の奥には顔だけの大きなライオンの像があって、口から勢いよくお湯を吐き出し続けている。

 「さ、入ろうか」

 「「「「わーい」」」」

 みんなそんな歓声を挙げて、お湯の中へ入る。

 僕も入ってみた。温かい。熱くもなくちょうどいい温度だ。

 これだけの人数が入ってもまだ、ほんの一角しか占領していないほどの巨大な温泉だった。

 そしてほぼ満員状態に、さまざまな階層の、老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)がひしめきあうように入浴していた。そう、男女(なんにょ)がともにである。もちろん、全員が全裸。

 僕はお湯の中に足を投げ出して、横になってみる。

 気持ちいい。

 体の疲れの総てが消えていくようだ。

 考えてみれば不思議だ。

 僕のいた世界ではこんな温泉は、皇帝や貴族くらいしか入れない。庶民は自宅で、自分で沸かしたお湯に入るのがやっとだ。

 この世界では、こんなだれでも自由に入れる巨大な温泉がある。男も女もいっしょくたにみんなで入る温泉なんて、生まれて初めてだ。

 でも、ほかの入浴客たちをあまり見たくはない。全員が若い女性というわけではなく、おっさんも、昔の若い女性も多い。そういった人たちもみんな裸なのだ。

 そんなことを考えていると、いつの間にか隣にフロリーナが来ていた。そして僕の腕をつかむ。こいつ、見た目幼女のくせに胸が豊満なだけでなく、本当ならつるっとしていそうなところがわりと剛も……イヤ、ナンデモナイ。

 「今夜、おらと一緒に寝てけろ」

 フロリーナはそう言って、大きな胸を僕の腕に押しつけてくる。

 「こら! また!」

 それを見つけたヨスが大声を挙げたが、いつの間にか反対側の腕にはカルラがしがみついて、やはり爆弾おっぱいを押しつけてきていた。

 「そんなだめですよ。抜け駆けは」

 すると、後ろからはシャルロッテまでもが僕を羽交い絞めにする形で、当然胸が背中に当たる。

 「いままでいろいろと苦労をかけたな。今日はお姉さんが、お姉さんがいたわってやるぞ」

 ――いや、その……こんな形では……

 ミランダだけが僕の真ん前のお湯の中に座って、こっちを見て笑っていた。そのミランダさえ、胸も前も隠しもしない。モチロン見テナイケド(棒読み)。ミランダって薄毛……はじめて知ったけど髪が銀色だとあそこの毛も銀色なんだ、へーえ~~……←よい子のみんなはここは読まないでね。

 もうミランダまで堂々と僕の前で全裸を(さら)している。いや、本人は裸体を晒しているという意識はないのだろう。普段帽子をかぶっている人がたまに帽子をとって頭のてっぺんを見せているのと同じで、それがどうしたの?って感じなんだろうな。

 「あ、大将ばっかり、なんかずるいっすよ」

 アルヴィンが声を挙げる。

 「俺がいるじゃないか」

 笑いながら迫るブラムに、アルヴィンはお湯をかける。

 「やめてくれ、そんな趣味はない」

 そう言いながらも、アルヴィンも笑っていた。ヨスも笑っている。

 女性たちはどんどん僕に裸の体を押しつけて来る。

 こんなところで、他のお客さんもたくさんいるし、その中には家族連れの小さな子供やお年寄りもいるんだし……。

 それに、そんなことをしたら……嗚呼、もう珠穆朗瑪!……そうなるに決まっているじゃないか……どうしたらいいんだ……僕はもう立つに立てない。いや、勃ってるから……だからお湯から出られない。

 ――やめてくれええええええ! 放して! 放して!

 僕は心の中で、声にならない叫びを挙げていた。そしてなんとかその場から逃げようともがくけれど、もがけばもがくほどぐいぐいと複数の柔らかい肌が締め付けてくる。

 他の入浴客たちは全くそんなことをしている僕らに意識さえ向けず、それぞれがぞれぞれの楽しみ方で楽しんでいる。

 それにしてもなんで僕は、今日はこんなにもててるんだ?

 ついこの間まで引きこもりで、遊戯だけにうつつを抜かしてた遊戯廃人……飢えて生き倒れ寸前だった元寓居衛兵が今や皇帝待遇。

 「さあ、みんな、いちゃいちゃはそれくらいにして、食事にしよう」

 ヨスが手を打つと、盆に入った食事を持ったメイド服の女たちが現れて、器用にその盆をお湯に浮かべる。

 こうして入浴したまま食事をとるなんて、なんという贅沢(ぜいたく)。もちろん盆の上には酒もついている。

 まさに酒池肉林ってこのことだろう。

 ここはなんて素晴らしい世界なんだ……とあらためて思う。

 この素晴らしい世界でゼロから始める異世界生活を求めるのは間違っているだろうか?

 ――エヘン(咳払い)

 もう、外は薄暗くなり始めていた。

 

 温泉から上がってやっと服を着た僕らは、バルニアのすぐ近くに広がっていた町を歩いていた。

 今夜の宿を探す。

 探すまでもなく、この町は宿屋と飲食店と市場だけの町で、宿屋の方が盛んに客引きをしている。そう大きくはない町は多くの観光客でごった返していけど、そんな状況だから宿はすぐに取れた。全員が雑魚寝の大部屋だ。

 なんか悪い予感しかしない。

 できれば男女で部屋を分けてほしかったが、この世界ではそういう習慣もないようだ。

 すでに夕食も終わったことだし、僕らはそれぞれ眠くなるまで自由行動、街を出歩くのもよし、部屋で休むもよしということになった。

 でも、僕は湖に行かなくてはならない。

 先にそこへヨスがミランダを連れ出しているから、あとから僕が行って結婚の話をまとめるという段取りだった。

 ――最初にヨスがミランダと二人で湖畔にいるんですね? じゃあ、僕は行かない方がいいんじゃないですか?

 僕が冗談めかして送った想念を読み取ったヨスは、耳の先まで真っ赤になっていた。

 「な、何を君は言っているのかね」

 そして、何回も咳払いをしていた。

 ――僕は何も言っていませんよ。

 たしかに、僕は口に出しては何も言っていない。無言でいただけだ。

 それはさておき、こうして僕が遅れて湖に行くことになったけど、もちろんすんなりと行けるとは思っていない。町から湖まではほんの至近距離だけど、あのフロリーナが僕を放すはずがない。うまくまかないと……。

 だからまずはフロリーナと夜の町の市場でもからかうという名目で外出し、うまく消えなければならない。でもフロリーナは僕の腕にしがみついて離れようともせず、あっちの果物屋、こっちの菓子屋と僕をひっぱりまわす。

 だいたいこういう観光地の夜の町は、たとえそれが平日であったとしてもまるで祭りの夜のような雰囲気を一年中醸し出している。もっともこの世界の一年がどれくらいの長さなのかは、僕はまだ知らないけど。

 フロリーナは僕にいろんなことを話しかけてくるけれど、僕は答えるすべがない。ただ黙って聞いているだけだ。それでもフロリーナは飽きないらしい。

 そんな時、天の助けかアルヴィンとブラムに出会った。アルヴィンは否定していたけど、この二人も仲がいい。もしかして、一部の腐った女性の(かた)が鼻血を出して喜ぶような関係?……って、今はそんなことはどうでもいい。

 僕はフロリーナに気づかれないようにアルヴィンに目配せをして、ほんの少しの時間フロリーナの相手をしてもらった。そして僕はまるで用事でもあるかのようにブラムを手招きして呼び、自然とフロリーナの腕がほどけたすきに物陰にブラムをつれていった。

 そしてブラムに感謝の手刀を切ると、一目散に湖の方に向かって走り出した。

 もうフロリーナも追ってこないだろう。

 そう思って、走るのをやめて歩き出した。

 湖畔まではすぐだとはいっても、町を出てからちょっとした森の中の道を少しは歩く。

 風が生暖かい。毎日いつも満月である月の光だけを頼りに進む。

 今までは何とかあの連中の目を盗むことばかり考えてたからそれほどでもなかったけれど、ここにきて急に緊張感が走り始めた。

 これからミランダと、ヨスを交えて話し合いになるのだ。今後の僕の人生を決める……。まさかこんな世界で、こんな形でその日を迎えるなんて夢にも思わなかった。

 でも、僕の気持ちもまだはっきりと決まったわけではない。前に躊躇した理由が、まだ残っている。つまり、僕がこの世界にいつまでいられるのか。元の世界に戻ることになるのか、このままこの世界で一生を終えるのか……。それがはっきりと分からない以上、自分の態度も決められない。でも、はっきりと分かるなんて無理だろう。そうしたら今夜これからのことも、成り行きに任せるしかないのかとも思う。

 そう思うけれど、やはり緊張してしまう。胸が熱くなってくる。高鳴ってくる。なんか叫びたくなる衝動に駆られる。

 僕の隣にミランダがいて、二人で甘い新婚生活……うわっ、なんでその妄想の中の僕ら新婚カップルの真ん中に、あのごっつい兄貴――ヨスがにゅっと顔を出してくるんだ?

 そしてそれよりも、僕は何か大事なことを忘れているような気がする。

 いちばん大事なこと……絶対に声を発してはならないこと……? いや、それだけじゃなく、何かもう一つ大事なことがあったような……それを誰が言っていたのか……。

 なんか誰かが僕に忠告していた……誰だろう? 老人だったような気もするけど……そんな人がいたような気がするけど……なんか、仮想現実バーチャル・リアリティーがどうのこうのって……よく思い出せない。

 そんなことを考えて歩いていた時、道端の草むらがざわついた。

 フロリーナ? 一瞬そう思ったけど、フロリーナなら背後から追ってくるはず。

 では、物盗り? あるいはノイストリアの住民?

 ヨスから聞いた話によると、アウストラジアとノイストリアは国境付近で常に小競り合いをするほど仲が悪く、しかもここはそのノイストリアとの国境にも近いはずだ。その兵士か?

 まさか、まさかとは思うけど、モンスター?

 しまった!……剣は宿に置いてきている。

 とりあえず何が来ようと素手で戦うしかないのだから、とりあえず僕は構えた。

 現れたのは……カルラだった。

 テヘって感じでカルラは笑って、首をかしげる。この健康そうな優良児が、呪文一つで華麗な魔法少女に変身してしまうのだから世の中不条理だ。

 ――どうした? と、聞きたいけれど聞けない。

 「行かないで!」

 カルラはそれだけ言った。そして僕に近づき、真剣な目で僕を見つめた。その目は涙目だった。

 「この先にはミランダがいるんでしょ? あなたがミランダを選ぶのなら、それで幸せになるのなら、私は止めない。でも……」

 カルラは大きく息をついた。

 「できれば……」

 少しのためらいの後、カルラは言った。

 「できれば、私を選んで!」

 なんか真剣なだけに、それを跳ねのけて進むのは躊躇してしまう。

 「あなたが……好き……」

 僕まで、ため息をついた。こういう時どういう反応をしたらいいのか? なにしろ、初めてづくしで分からない。ゼロから始める恋愛生活なのだ。

 でも、反応しようにも僕はしゃべれない(と、いうことになっている)のだから、ある意味こういう時には便利である。

 でも、意思は伝えないといけない。僕は、黙って首を横に振りかけた。

 「あ! いたぁぁぁぁぁ!」

 鋭い叫びは疫病神……いや、この時ばかりは助け船のような気もしたが、フロリーナだ。

 「あ、カルラ! おらの兄さんに何してるだ?」

 「いつからあんたのものになったのよ、この山猿!」

 「きいぃぃぃぃっ!」

 たがいに敵対心丸出しでにらみ合う。

 僕はそれに乗じてこっそりと逃げ出そうとしたけれど、フロリーナが故意に出した足につまずいて転んだ。

 その転んだ僕の目の前に、別の足があった。

 見上げると、シャルロッテだ。

 「こら!」

 にらみ合う二つのおっぱい……じゃ、ない、二人の女の子の襟首をシャルロッテはつかんだ。

 「騒ぎを起こすな。宿に帰ってろ! でないと、おまえらのおっぱいを槍で突いて破裂させるぞ!」

 二頭身のシャルロッテの槍で突かれて風船のようにパーンと破裂する二人のおっぱい……僕がそんな妄想をしている間に、突き飛ばされて転がりそうになった二人は悲鳴を挙げて宿へと走って行った。

 僕はため息をついた。シャルロッテも同じだった。

 やっと静けさが戻った。

 「あいつらの気持ちも分かるけどな。とにかくツィーチュン、君がこの国に来てから一番長く一緒に暮らしてきたのは僕だよね」

 まさかシャルロッテまで? 嬉しいんだけど、でも今はそれどころではない。ヨスやミランダをあまりにも待たせすぎてる。

 とにかく僕は両手の掌を広げてシャルロッテに向け、抑えるような仕草をした。

 目の前にいるのは、いつものきりっとした女騎士ではない。いつもの鎧を着ていないから余計にそう感じる。なぜか目がとろんとして、顔も赤い。

 なんで誰も彼もがこんなんなんだ? 人生最大のモテ期か……それともこの世界はやはりこうなるべき素晴らしい世界なのか……いや、これはきっと妖怪の仕業だ……

 ――いた!

 僕は心の中で叫んで、でも実質上は無言で空の一角を指差した。つられてシャルロッテもそこを見る。古典的な方法だけど、今はこれしか思いつかない。とにかく僕は焦っているのだ。

 シャルロッテが僕の指差した方を見ているすきに、僕は走った。慌ててシャルロッテは僕の腕をつかもうとしたけど、空振りだった。

 ――シャルロッテ、ごめん!

 僕は心の中で謝った。走りながら謝った。シャルロッテはすべてを悟ったかのように僕を追うのをやめ、うつむいて立ったまま足元の石ころを軽く蹴っていた。その横顔が月の光に照らされた。

 だいぶ遅くなってしまったけれど、僕は湖畔に向かった。

 ヨスとミランダはいた。

 だが、湖に向かって寄り添うように並んで座っている二人を見ると、僕は声をかけるのをためらった。傍から見たら兄妹というよりも、その雰囲気は恋人同士以外の何ものでもなかった。

 ヘッドセットから、二人の会話が聞こえてくる。例によって普通の肉耳では聞こえないような遠い声も、このヘッドセットは拾って翻訳してくれる。

 「ツィーチュン、遅いな」

 ヨスはそんなふうに呟いている。

 「お兄様、何なんですの? こんなところに呼び出して、ツィーチュンも来るなんて。しかも、来そうもないではないですか」

 「もうちょっと待とう」

 「私、帰ります。話があるのなら明日、帰りの車の中ででも」

 「いや、そんな、ほかの人がいたらだめなんだ」

 しばらく沈黙があった。僕は出るに出られず、物陰に隠れて二人の会話を聞きながら様子をうかがっていた。決して盗み聞きではない。ヘッドセットが勝手に翻訳するんだから。

 「実は」

 ヨスは僕が来ないので痺れを切らせたのだろう。

 「おまえとツィーチュンの結婚話だ。本当は彼も来て、彼の心の声を私が伝えるという形で話し合ってもらいたかったんだが」

 「え?」

 ミランダは目を見ひらいて、首をひねって兄の方を見ていた。その唇は震えているのが遠目でも分かった。

 「私が……結婚?」

 しばらく、時間が止まっていた。

 「兄としては、おまえに幸せになってもらいたい。たしかに彼は言葉を話せないという障害がある。でも、それを乗り越えて余るほどの力と勇気がある」

 おいおいおいおいおい、どこまでよいしょするんだ……それ、ほめすぎだろ……って、僕はヨスの本心をすでに知ってる。ヨスは本当はミランダを遠くに嫁がせたくないから、僕と結婚させようとしてるんだった。

 「ツィーチュンはいい人だし、私も好きです」

 ――え? ミランダもそう言ってくれるの?……

 僕の胸は再び激しく鳴りだして、顔じゅうが熱くなった。自分で自分を抱きしめたくなるような、そんな衝動があった。

 そろそろ姿を見せるべき時かな……そんなふうに思って、足を一歩前に出そうとした。その時、

 「でも……」

 ――え? でも? でも、なんだよ?……

 「私……好きな人がいるんです」

 実際は消え入るようなか細い声だったのだろう。でも、ヘッドセットはそんな声でもしっかりと拾ってしまう。

 今度はヨスが固まる番だった。何か言おうとしているようだけれど、声にならないでいる。手が震えているのが遠目でも分かる。

 「誰なんだ?」

 やっとそれだけ言ったヨスから顔をそむけ、ミランダはうつむいていた。

 でも、そのミランダの言葉は、僕にもかなりの衝撃だった。僕は足がすくんで、またその場から動けなくなった。やはりこれが現実なのか。何から何までうまくいくはずがない。

 ミランダは泣いていた。その涙目で兄を見あげた。

 「私、好きな人がいるんです……それは……」

 「好きな人って、いつからそんな人が……?」

 「もう、ずっと前から。ずっとずっと前から……」

 「ずっと前?」

 ヨスは首をかしげていた。

 「ずっと前から好きでした」

 二人の間に、またかなりの沈黙の時間が流れた。いや、二人と僕の間にもだ。ミランダも、まさか僕までもがこの場面を目撃しているとは思ってはいないだろう。

 「私の好きな人とは…………お兄様……です……」

 ――まじかよ? 

 僕は耳を疑った。

 ヨスが妹にアブノーマルな感情を抱いているのは知っていた。でもまさか、妹までもが……。

 キモい……あり得ない……変態……。

 シスコンの兄とブラコンの妹……この二人、実は血のつながりはない義理の兄妹なんてことはないよな。もしそんな義妹オチだったら怒るよボク。

 ミランダは震えている。自分が言ってしまったことを後悔しているのか。それはそうだろう。でも……実は俺も、ということになるヨスの心中を知っているのは、ヨス本人以外ではここでは僕だけなのだ。いや、ここではというだけではなく、全宇宙でも僕だけかもしれない。

 ヨスは黙っていた。

 何を言ったらいいのか分からないでいるようだ。

 「いいか。俺たちは兄妹なんだ」

 「分かっています。でも、ほかの人なんてあり得ない。だから、苦しかった……こんなこと、誰にも言えない、お兄様にも言えない。だから一人で悩んでて……苦しかった……」

 「そっか」

 ヨスは目をつぶった。そしてミランダがひとしきり泣いて、少し収まるのを待っているかのようだった。

 「ミランダ。ごめんな。俺が悪かった。こんなにもおまえを悩ませていたなんて、苦しめていたなんて。俺は全く思わなかった。俺一人が苦しんでいるつもりでいた」

 「え?」

 ミランダは驚いた様子で、兄の顔を見た。

 「お兄様も苦しんでいた……?」

 「ああ、おまえと同じ苦しみだ」

 ミランダはますます驚きの表情で、その目を見ひらいて兄を見ていた。

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 (この間、実はけっこう長いやり取りがあったのだけど、悲しくなるから言わない)

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 そして、ヨスが信じられないことを最終的には言ったのだ。

 「ミランダ………ツィーチュンの話はもういい………俺と、俺と結婚してくれ」

 え? これってお約束の展開? 兄妹で結婚? あり得ない、あり得ない、あり得ない、あり得ない、あり得ない…………。

 空気が凍りついたように、僕は身動きができなくなった。

 そう、たった一つ言えること、それはもう僕の出番はないってこと。僕は用済み、もう必要ないってこと。

 ――なんだよなんだよなんだよ……。

 全身の力が抜けていく。

 ヨスの方から、僕がミランダと結婚するよう頼んできたんじゃないか。

 その頼んだ張本人が僕を出し抜いて、当のミランダに、しかも実の妹なのに求婚するってどういうことなんだよ?

 こんな人を食った話、あるかい……と思う。もういいってのはなんだよ、もういいってのは……

 僕の立つ瀬がないじゃないか……

 僕は身動きすらできなくなった。それでも最後の力を振り絞って身動きをして、この場を去らねばならない。

 ミランダが涙目のままにっこりと、「はい」なんて答えるのを見るのは死ぬほどつらい。だからその前に……。

 僕は慌てて、でもそっとその場を後にした。

 もし二人がそのあとでがばっと抱き合ったりしたら、僕はもう何をどうしたらいいか分からなくなるに決まってる。だから、そうなるかどうかは分からないけれど、仮にそうなるのならそうなる前に立ち去った方が利口だろう。

 って自分の思考回路が何だかよく分からなくなってきたけれど、とにかくよろめきながら、僕は宿のある町の方へとふらふらと歩いて行った。

 あれほど胸がときめいて、熱くなって、自分を抱きしめたくなるような衝動に駆られながら湖に向かったこの同じ道を、今は胸が張り裂けそうな気持ちで戻っている。胸を切り裂いて、中の内臓を全部外にぶちまけたいような衝動とともに、もと来た道を戻る。

 もしここに来るまでの間のあのフロリーナやカルラ、シャルロッテたちの邪魔だてが入らずにもっと早く来ていたら……いや、あのミランダの覚悟からしたら、もっと惨めな目に遭っていたかもしれない……

 歩きながら、なぜか涙があふれて止まらない僕だった。

 

 その晩、一睡もできなかった。

 みんな寝静まってからまずヨスが、少し間をおいてからミランダが帰ってきた気配があった。二人ともすぐに寝床に入ったけれど二人とも眠れずにいたようで、そのまま朝を迎えた。

 そして早朝から、僕らはもう帰途に就いた。

 フロリーナはもう少し湖で泳いでいくと聞かなかったけれど、早く出発しないと到着が暗くなってからになってしまうとヨスにたしなめられていた。

 昨夜、なぜ僕が湖に来なかったのか、それについてはヨスは僕に何も言わなかった。言えなかったのだろう。また、もう言う必要もなくなったのかもしれない。

 帰りの車の中でヨスもミランダも口数少なかった。相変わらずフロリーナとカルラは僕を奪い合って争い、いい頃合いにシャルロッテが茶々を入れて来るけど、今はそんなのどうでもいい。

 帰りの行程が、僕にはやけに長く感じられた。

 そして気になることがもう一つ。

 もしヨスとミランダが昨日の夜に目撃した……って、実際はミランダがどう返事をしたのかは見ていないんだけど……とにかくあの二人がそういうことになったら、僕はもうあの家には一緒に住めないってことになるな……そんなこともぼんやり考えていた。

 夕方になって馬車が城壁の中に入り、ギルドの前で一同は解散となった。僕とヨスとミランダの三人は城壁の外の家に帰ることになるが、シャルロッテが住む家もそのそばで通り道なので一緒に行く形になる。当然、あいつ、フロリーナも一緒だ。

 たが、僕はとにかくとしてやはりヨスとミランダの二人はほとんど無言だった。さすがにシャルロッテたちも様子が変だと気付いたようだが、あえて何も聞かずにいようとしているようだ。

 もううっすらと暗くなった中で、やがて僕とミランダも暮らすヨスの家が見える坂道までさしかかった。

 異変はすぐに分かった。嫌でも分かった。

 家がなかったのである。

 そこにあったのは焼け落ちた木材と、家の壁や屋根の残骸があるだけだった。

 僕らはみんな立ち止まり、声も発せずにただ口をポカンと開けていた。

 だが、その時間が長くは続かなかった。

 突然の地響きの後、朦々(もうもう)と夕暮れの大地に砂煙が上がった。家のあった場所のすぐそばは谷になっているけれど、地響きと砂煙はそちらから上がってくる。

 僕はなんか遠い昔のデジャヴに襲われたような気がした。

 やっぱり……僕らの目の前にはあの牛の怪物、ウェアオックスのヒリスが甲冑に身を固め、またもや多くの手下をひきつれて現れた。

 まだ諦めてなかったのか……しつこいやつだ。

 でも僕にとって、前にこの連中と遭遇したのはかなり昔だったような感覚がある。

 「昨日、今度こそミランダを頂戴したいと参上したのに、おまえらは留守だったからな、腹いせに家を焼いておいた」

 また怒りがこみ上げる。ヨスとて歯ぎしりをして、ヒリスをにらみつけていた。

 「残念だが、ミランダはもう結婚することが決まったのだ。おまえには渡せん」

 ヨスが叫ぶ。やはりあの後そういうことになったのかと思うが、今はそれにかまっている場合ではない。

 「なに? 結婚だとぉ! そんなことは認めん! それならば、不本意だけど力づくで頂いて行くしかないな」

 ヒリスが合図をすると、手下の牛男たちが一斉に斧や棍棒などの武器を構えた。

 そこで、僕とシャルロッテが前に出て、それぞれ剣と槍を構えた。

 ウェアオックスたちは構えた武器を手に駆け寄せてくる。幸いこいつらは魔法は使えないようで、腕力だけで来るようだ。

 それならばこちらとて同じ、ちょうどいい。

 僕の剣が弧を描く。シャルロッテの槍が炸裂する。牛はそもそもが草食系なのだ。どんなに武器を振り回しても、僕らの剣や槍の敵ではない。

 前に遭遇した時には素手で何もするすべもなく、ただ魔法陣による結界の中に隠れて見ていただけの僕だったけれど、でももうあの時とは違う。

 ただ、兵の数だけは向こうが圧倒している。

 斬っても斬っても、突いても突いても、空中でぱっと消滅した敵の体の向こうから次の敵が束になって押し寄せて来る。その繰り返しだ。危ない時はヨスやミランダ、フロリーナが両手を伸ばして魔法陣を作り、その防御魔法で防いではくれる。

 でも、本来は魔法が効きにくい相手なのだ。

 その時、ひときわ激しい地響きが谷の底から振動してきて、敵も味方もともに動きを止めたほどだ。

 そして谷からぬーーーーーーっと顔を出したのは、ヒリスよりも何倍も巨大な牛の化け物だった。

 足は谷底にあるのに、頭は近くの山の上ほどの位置になる。

 って、それはその時の僕の感覚で感じた大きさで、実際はそれほど大げさでもなかったのだけど、でも、二階建ての家の二倍くらいの高さはあった。

 手には巨大な斧を持っている。

 ヒリスとその手下はその超大型巨牛の方を向いて(ひざまず)いたりしている。さすがにそんな無防備なところを攻撃したりするほど僕らも卑怯ではない。だが実際は、そんな卑怯なことを考える前に、その成り行きに唖然としてしまったというのが実情だ。

 ヒリスが僕らを振り向いた。

 「一同! ご領主様の御前である。()が高い! 控えおろう!」

 なんてどっかで聞いたことのあるような台詞(せりふ)を言っている。もちろん、僕らはそれで控えたりはしない。

 ――あれ? 最初は自分が領主であると、このヒリスは自称していなかったっけ?

 僕は突っ立ったままそう突っ込みを入れたかったけれど、やはり立ったままのヨスがその巨牛を見上げていた。

 「ミノタウロス!」

 「こいつがラスボスですか?」

 振り向きざまに、肩で息をしながらシャルロッテがヨスに尋ねる。

 「おそらくは……でもこいつは盗賊の首領なんかじゃない。れっきとしたモンスターだ。こいつを倒せば一生遊んで暮らせるほどの価値となる」

 しかし、どうやってこいつに勝とうというのか。剣と槍ではあまりにも無力すぎる。

 その時、その巨大な怪物は、すべての山が崩れ去るのではないかと思えるような大声で咆哮(ほうこう)した。実際、近くにあった山は地滑りを起こしている。大地もかなり振動した。

 とにかく臆することなく、僕の足は大地を蹴って、大きく飛び上がり、ミノタウロスの胸元めがけて剣を振り上げた。

 だがその最初の一撃で相手を傷つけられるようには、世の中は仕組まれていない。ミノタウロスが振りあげた斧で弾かれ、バランスを崩しながらも着地し、そのまま後方へと両足を地につけたまま滑った。

 つぎのシャルロッテが槍を構えて突進する。

 最初の斧の一撃はさすがシャルロッテ、うまくかわしたが、槍が相手の体を突く前に斧が地面を叩きつけた衝動で、僕の近くまで飛ばされてきた。

 ミノタウルスは、どす黒い息を吐く。

 二人で戦って倒せる相手ではないようだ。

 おまけにヒリスの手下たちの牛男たちの群れも黙ってはいない。ミノタウロスへの最初の攻撃に失敗して着地した僕らに牛男たちは襲いかかり、僕らを取り囲むようにして攻撃を仕掛けてくる。

 こうなるとその応戦で、ミノタウロスどころではなくなってくる。

 一人ひとり(一匹一匹?)は強くはないけれど、これだけの数に一斉にかかってこられたらたまったもんじゃあない。剣でなぎ倒し、槍で突こうがまるで消耗品のように次から次へと牛男たちは湧いてくるのだ。あの草原で戦ったゴブリンの群れどころの騒ぎではない。しかも強くはないとはいっても、ゴブリンよりはかなり強い。

 もう絶体絶命の大ピンチ!

 そんなとき、やはりお約束の光の束が僕らの周りの牛男たちをなぎ払った。

 どこかで見覚えのある光景だ。だからその時と同じ岩の上を見ると、やはりあの時と同じ赤い甲冑で赤い馬に乗った赤い騎士がいた。

 ――なんだ、なんだ。このデジャヴは?

 しかも今度は単騎ではない。その背後にはおびただしい数の軍勢がいた。しかも、それは正規の軍勢のようだ。皆、きちんと武装し、統率のとれた動きをしている。

 (くれない)の騎士は腕を挙げて、その軍隊を指揮していた。

 なんでこんな軍隊を持っているのか……この騎士は何ものなのか……?

 「また現れたわね。この獲物はあんたには渡さないわよ。この馬鹿でかい牛のお化けを倒して、一生遊んで暮らそうなんてそうはうまくいかなし、いかせない」

 シャルロッテが叫ぶが、それって実は自分の腹の中じゃないのか……

 その時、城壁の方からも別の一団が駆けつけてきていた。ギルドの冒険者たちだ。彼らも緊急クエストを受けてここへ駆けつけてきたらしい。その数、ざっと二百人くらいはいる。その中から僕らを見て真っ先に躍り出てきたのが、アルヴィンやブラム、カルラだった。

 「大将! シャルロッテ!」「来たよ!」「なんてことになってるんだい?」

 口々にそう叫ぶ彼らは、おそらく帰宅してすぐに呼び出されたのだろう。少々不機嫌にクエストを受けてここまで来たものの、ミノタウロスと闘っているのがなんと僕とシャルロッテだったので驚いたようだ。

 これでいつものパーティーの仲間が横一列に並んだ。

 アルヴィンとブラムは矢をつがえ、カルラは早速魔法少女に変身だ。

 おびただしい数のウェアオックスの大軍には、紅の騎士が指揮する正規軍が当たる。

 って、一騎士が正規軍を指揮するなんてのも変だけど、今はこだわっている場合ではない。

 僕らのパーティーは、ミノタウロスと向かい合って立った。

 まずはカルラが空中高い位置まで飛翔して、その杖から火炎魔法をミノタウロスに浴びせた。

 だが、ミノタウロスはびくともしない。

 「やつには魔法は効かない。物理的な力で倒すしかないんだ」

 下からヨスが大声で叫んだ。

 アルヴィンとブラムも盛んに矢をを射かけるが、ミノタウロスに当たっても弾き飛ばされるだけだ。

 やはりここは僕の剣とシャルロッテの槍で戦うしかないようだ。ちゃらちゃらと邪魔をしてうるさかった牛男たちは、紅の騎士の率いる軍勢と交戦中だ。

 そしてミノタウルスも斧を振り回して、僕らと冒険者たちの一団に突進してくる。あの斧になぎ払われたら、たちまち命は亡くなる。

 強さを競った冒険者たちも、とりあえずは斧をかわすので精いっぱいだった。

 その時……

 「静まれー! 静まれ! 静まれ!」

 ミノタウロスの声に負けないくらいの大音声が響いた。

 また、どこかで聞いたような台詞だ。あまりの大声にウェアオックス、つまり牛男たちも闘う動きを止めたくらいだ。

 声は紅の騎士からだった。

 彼(彼女?)が連れてきた正規軍は、一斉に紅の騎士のいる崖の上の方を向いて(ひざまず)いた。

 今度は牛男たちが唖然とする番だ。だが、やつらとて、これを機に一気に反撃しようとは思っていないようで、ただひたすら茫然としている。

 そしてまさかのこの台詞……まさかなんだけど、いくらなんでもこのあと、さっきのヒリスの台詞が台詞だけに「この紋どころが目に入らぬか」なんてまたもやどっかで聞いたような台詞になったらどうしようと少しばかり心配していたら、紅の騎士は印籠を出す代わりに顔全体を覆っていた赤い鎧の頭の部分をとった。

 「予の顔を見忘れたか」

 心配は当たらなかったけれど、別の意味でやはりどこかで聞いた台詞(せりふ)……そしてその台詞はミノタウロスやヒリスたち、そして冒険者たちにも向けられた。

 兜の下の顔は男だった。紅の騎士は男で、しかも結構イケている面の、若い男だった。

 それを見て一番慌てたのは冒険者たちやヨス、ミランダなどだった。そして彼らも軍勢の兵士同様に、その場で腰を低くして畏まり、頭を垂れた。

 シャルロッテなどただ口をぽかんと開けていたが、ことの重大さに(われ)に返り、同じように畏まった。

 「まさか、まさかさかそんな……」

 その口はそんなことをぶつぶつ呟いていたりする。

 僕だけが訳が分からず突っ立っていたが、僕の隣でかしこまっているシャルロッテが小声で僕に囁きかける。

 「領主様です。このレリンスタルド全体を治める、本物の領主様です」

 ――え? 

 だから、領主直属の正規の軍勢を動かすことができたのだ。

 「ちッ! まさかあの騎士が領主様だったなんて」

 シャルロッテは畏まって首をたれながらも悔しそうな顔をして、歯ぎしりまでしていた。

 「皆の者に告ぐ! このミノタウロスはただのモンスターではない!」

 どこから声が出るのかと思うような甲高(かんだか)い大音声で、その声は山野(さんや)に響き渡った。

 「この者は、魔王である! これまでさんざんレリンスタルドの人々を苦しめてきた魔王である! 予は手出しはしない。また、予の軍隊もヒリスやその手下のウェアオックスを相手に闘うのみで、魔王に手出しはさせない」

 実によく通る声だ。

 「冒険者たちよ!」

 一斉に「「「「「「おおーっっ!!!」」」」」」と声が上がる。

 「魔王はそなたたちに任せる。魔王を倒したものは真の勇者として、我が屋敷にそれ相応の待遇で召し抱えようぞ!」

 また一斉に歓声が上がった。

 「待てい!」

 同じような、しかし領主のような透き通った甲高い声ではなく、どこかくぐもった低い大音声が響いた。

 「言いたいことはそれだけか!」

 声はミノタウロスから発せられていた。こいつ、しゃべれるんだと、僕には意外だった。

 「わしは雑魚どもは相手にしたくない。今わしに挑みかかってきている言葉をしゃべらぬ冒険者と闘いたい」

 ――え? 僕のこと?……ミノタウロスが僕をじろっとにらむので、やはりそうらしい。マジかよ……。しかも、僕が言葉をしゃべらないことを、なんでこのミノタウロスは知っているんだ?

 「もし、わしが倒されるようなことがあったら、このヒリスたち盗賊団全員の目をくりぬくことを許そう」

 どこまで上から目線なんだよ。

 「え? いや、ちょっと、それは」

 ヒリスもさすがにそれにはビビっていた。いかつい顔に汗のしずくが流れているのが見えるようだ。

 「だが、わしがこのもの言わぬ男を倒したら、冒険者たちよ、わしはおまえたち全員の心臓を煮て食ってやる」

 ――心臓を食うって、草食系のくせに……

 そんなことを考えているうちに、ヒリスたちは部下に命じて僕らの前に煮えたぎった湯の入った釜と、巨大なフォークを持ち出して並べた。準備がよすぎるだろ!

 僕は、ミノタウルスの前に立った。

 緊張が走る。この冒険者たちの心臓の命運が僕にかかっている。責任重大だ。僕は十分強い!……と、思う。こんな化け物たちに、僕たちの心臓を捧げてたまるか!

 僕は剣を構えた。

 ミノタウロスも斧を構える。振り下ろされた斧をよけて、その腕を狙う。

 だがすぐに斧は翻って、僕の剣をはじく。金属と金属がぶつかり合う音が響き、思い切り火花が走る。

 僕は飛びのいた。後ろへとジャンプして、少し後方に滑りながら着地した。

 「うおぉぉぉぉぉ!」

 ミノタウロスが吠える。吠えて今度は頭上から真っすぐに斧を振りおろしてきた。ぼくはそれを剣で受け止め、弾き、また高く跳躍してなんとかミノタウロスの体の上に乗ろうとした。

 だが、足は肩についたものの弾かれて落下した。

 失敗だった。

 すぐに体勢を立て直さないと、斧で僕の体は真っ二つになって心臓をえぐられる。

 こうして長い時間、互いに討ち合っていたが決着がつかない。

 ミノタウロスも焦ってきたようだ。

 時間が止まったようにも感じられた。

 すると突然、ミノタウロスの腕が伸びて、近くで見ていた冒険者の一団のそばにいたヨスとミランダの兄妹、そのミランダを片手でひょいとつかむと持ち上げた。

 「やめてえぇぇぇぇぇぇぇ!」

 ミランダが叫んでもがくけれど、ミノタウロスはそのままミランダを高く掲げた。

 ――卑怯だぞ!

 僕は切実に叫びたかった。だが、今はできない!

 「わしはな、おまえがひと言も声を発しないのがどうも気に入らないのだ。この娘を返してほしくば、まずは名を名乗れ!」

 「く、苦しいぃぃぃぃ! 息ができない!」

 「ミランダ!」

 ヨスが半狂乱になってミノタウルスに殴りかかろうとするけれど、ヨスは何の武器も持っていない。素手でその足をピタピタ叩いても何の効果もあるはずがない。

 「この男が、ひと言名乗れば済むだけの話だろ」

 ミノタウロスはうすら笑いを浮かべている。

 「この人は口がきけないんだ! そんな無理なことを押しつけずに、堂々と力で勝負しろ!」

 ヨスがありったけの声で叫ぶ。ヒリスや牛男たちもせせら笑っている。

 冒険者たちは手出しもできず、ただ汗をかきながら傍観しているしかないようだ。僕だってそうだ。

 悔しかった。悲しかった。でも僕は、それでも言葉を発して名乗ることはできなかった。それだけはできないという声が、心の中で響く。ここに来てから随分の間本当に一言も声を発していないので、声の出し方すら忘れてしまったような気もする。

 ミランダは空中で足をばたつかせ、両手で自分を握っているミノタウルスの手を叩いたりしている。

 そのうち業を煮やしたミノタウルスは、斧をミランダの足に近付けた。

 「いつまでも黙ったままでいるなら、この娘の足はないぞ」

 ミノタウルスは斧の刃をミランダの足に押し当てた。

 「領主様、それだけでは……! 私はこの娘を妻にと考えているのですから」」

 ヒリスさえも慌ててしまって、そう言ってミノタウルスにしがみついたけれどガン無視された。

 そのうち、斧の刃がミランダの白い足の上で滑る、鮮血と同時にミランダの恐怖にひきつった悲鳴がこだまする。

 「きゃあぁぁぁぁぁぁl!」

 何もできない……じれったい……。

 次の瞬間、僕は目を疑った。斧をちょこんと動かしただけで、ミランダの両足は鮮血を吹きあげながら地面に落ちた。

 僕もヨスも、ほかの仲間もみんな息をのんだ。

 「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ミランダの大絶叫……それでも僕は、黙っていた。

 そして目を疑うついでに、今度は耳を疑った。

 「お願い! ツィーチュン! 助けて! 一言だけでいいから、何か言って! 私を助けて!」

 ミランダは、泣きながら僕に懇願してきているのだ。

 「ずっとずっとあなたの世話をしてきたじゃない! だから、お願い!」

 なんか、一気に引いた。

 僕はひたすら悲しかった。僕は口がきけない(と、いうことになっている)のは、ミランダもよく知っているはずなのに……。

 だいたいメインヒロインがこういう目に遭った時は、「私のことはいいから、戦うのを辞めないで! この町の人々を救うために、この怪物を倒して!」とかなんとか言うもんだろ、ふつう。

 今、怪物の手の中に握られているのは、僕が一度は胸をときめかせたあの愛くるしい笑顔の少女ではなかった。ひたすら自分が助かることだけを考えている、なんか醜い塊のように思えた。

 「助けてくれたら、私、あなたのお嫁さんになる!」

 もう、完全にどん引きだ。

 僕はその場に座り込んだ。涙が流れて止まらなかった。

 「これでもまだ何もしゃべらないつもりか!」

 ついにミノタウルスは、ミランダを握った手にギュッと力を入れた。ミランダの最後の叫びが響いて、ミノタウロスの手の中でミランダの体は砕け、光の粉となって散り、消滅した。

 「ミランダぁぁぁぁぁ!!!」

 ヨスはもう手のつけられない状況になって地面を転がっている。

 だが、半狂乱で騒いでいるのはヨスだけではなかった。

 「貴様っ!」

 僕に駆け寄ってきて、この胸倉をつかんだのはヒリスだった。

 「おまえのせいで、おまえが何もしゃべらないから、ミランダは殺されちまった! おまえのせいだぞ!」

 拳で数発、僕を殴る。僕は抵抗もせず、涙を流してされるがままにしていた。

 「やめろ!」

 シャルロッテや他のパーティーの仲間がヒリスに向かって攻撃をしようとしたが、たちまちその手下たちがヒリスを守るように立ち憚った。しかも僕は、ヒリスの手の中にある。

 ウェアオックスったちとシャルロッテたちの小競り合いは続いていたが、僕は何とヒリスに胸倉を掴まれたままだった。

 その時、腰のあたりの例の装置が赤く光った。三番目のカードが届いていた。その回カードに、今度は「SORROW」と(こんな文字が)書かれてあった。もちろん読めもしないし、意味も分からなかった。

 ヒリスが僕を地面に投げた。そして剣を抜いた。

 「殺してやる!」

 ヒリスの剣が、僕に向かって振りおろされた。

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