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スリーピングビューティ

 真っ先に気づいたのは、温かさだった。

 普段とは違う心地良さ。

 安らぐような、幸せな温かみが傍にある。


 まどろみながら考えてみる、いつもと何が違うんだろう。

 こんなに温かくて、とても気持ちいい。目覚めるのがもったいないくらい。

 でも、喉が渇いた。妙にお腹も空いていた。そろそろ起きた方がいいかもしれない。

 今日は確か休みだったはず。のんびりしていてもいいけど、とりあえず朝ご飯にしよう。そういえば昨日の晩は何も食べていなかったような気がする――。


 目を開けた瞬間、いい気分は即座に吹き飛んだ。

 渋澤課長がいた。

 すぐ隣に。枕に頭を預け、目を閉じて、安らかな寝息を立てている彼が、なぜかいた。

「……ひっ」

 悲鳴を上げそうになり、慌てて喉の奥で抑え込む。

 でも声を上げてもおかしくない状況だ。掛け布団の影を被った裸の胸が、いやでも目に飛び込んでくる。引き締まった腕はこちらへと伸びて、ちょうど私の頭の下にあった。

 思わず身体が凍りつく。

 でも、自分の身体も尋常ではない状態にあった。

 ――私、服を着ていない。


 それでようやく思い出す。

 昨日のこと。

 昨晩、ここであった出来事。

 ここは私の部屋ではなくて、連れて来られた課長の部屋だった。

 昨夜は明かりが消えていたせいで、寝室にはほとんど見覚えがない。彼と二人、同じベッドの中にいる。カーテンの閉ざされた薄暗い部屋、聞こえているのは彼の寝息と私の心臓の音だけだ。

 記憶が甦ると、たちまち居た堪れない気分に襲われた。課長がまだ眠っているのが幸いだった。どんな顔をして朝の挨拶を交わせばいいものやら、わからない。

 昨夜の出来事を思い出すだけで何とも言えない気まずさ、気恥ずかしさに支配されてしまう。


 正視に堪えない課長の寝顔からは目を逸らし、狼狽の中で考える。

 とりあえずは服だ。彼が目を覚ます前に服を着ておかなければ。

 でも――私の服は一体、どこにあるんだろう。昨日、自分で脱いだ記憶はない。というより、あの時は確か、ソファで――。

「……あれ、起きてたのか」

 不意にくぐもった声がして、全身が緊張した。

 恐る恐る視線を戻せば、私の頭の下に敷かれた引き締まった腕の持ち主が、もう片方の手で目を擦っているところだった。その後で少し笑った。

「おはよう」

 笑顔で告げられ、私は口だけを開けた。

 だけど挨拶の言葉なんてとっさに出てくるはずもない。むしろ心臓が飛び出そうになって、すぐに唇を結んだ。


 どうしよう。

 こういう時、どうしたらいいんだろう。何から考えるべきかわからない。

 昨夜の諍いについて謝るべきか、あえて蒸し返さずに明るく応じるべきか、それとも職場での他愛ない世間話を始めてみるべきか――いやそんなことはこの際、どうでもいいはず。


 何よりもまず、服だ。

「あ、あの、課長……」

 意を決し、私は目の前の人に呼びかける。

 途端、彼は意味深長な笑みを浮かべた。

「あれ? 昨日のこと、もう忘れちゃった?」

「え? あの、ええと」

「何て呼べって言ったっけ? 覚えてないとは言わせないよ、一海」

 覚えていないわけではなかった。

 なかったけど――こんな時にそんなことを気にする彼もどうかしている。しかもわざわざ昨日のことを思い出させようとするなんて、恥ずかしくて息が止まりそうだ。

 私は居た堪れない思いで、ようやく答える。

「み、瑞希さん……」

 不自然なほど震える声になった。

 だけど彼は実に満足そうな顔をして

「よくできました。以後、勤務時間外はそう呼ぶように」

 と言って、私を抱き寄せようとする。

 当然、そこは抵抗した。

「だ、駄目ですっ」

「何が? 何で?」

「だって私、服を着てません!」

「それは僕も同じだよ。当たり前だろ?」

「あ、当たり前って……とにかく駄目なんです!」

「危ない、ベッドから落ちる!」

 彼の腕から逃げようともがいた私は、危うく本当にベッドから落ちかけて――結局、彼の腕に抱き留められた。そのままぐいと引っ張られると、腕の中にすっぽり収まってしまう。

 素肌が触れ合い、温かい。

 だけどそれ以上に何とも、居心地が悪い。

「こら、素直じゃないなあ」

 頭上で笑う声がして、私はなぜか泣き出したくなった。

 昨夜こそ夢中で、熱に浮かされて気にする暇もなかったけど、一夜が明ければ冷静にもなる。せめて服を着ないことには、彼と顔も合わせられない。そういえば昨日は化粧も落とさずに寝てしまったようだし、とにかく、何もかもが駄目だった。

「服、着ないと」

 抵抗は諦め、彼の腕の中から訴える。顔を上げる勇気はないものの、彼の胸元を見ているのも気が引ける。もちろん私と比べるまでもなく、彼はどこに出しても問題ないくらいのきれいな人だけど。

「着なくていいって」

 彼に、おかしそうにそう言われた。どうしてこんな時に笑っていられるんだろう。

「着なきゃ駄目です。じゃないと、みっともなくて」

「みっともないなんてことはないけどな。まあ、そこまで言うなら」

 ひやりと冷たい手が私の顎に触れ、半ば強引に上を向かされた。目が合うことには慣れていても、この距離とこの状況では辛すぎた。顔が火照っているのもきっと、ばれている。

 そしていたずらっ子の笑顔が続けてきた。

「自分で取りに行く気があるなら、いいよ、服着ても」

 彼のその言葉に、私は再び昨夜のことを思い出す羽目になる。

「私の、服は確か……」

「多分、リビングにあると思うよ。向こうで脱がせたから」

 平然とした口調で言ってから、課長は小さく首を竦める。

「どうしても着なきゃ気が済まないって言うなら、自分で取っておいで」

 酷い。もう少し優しい人だと思っていたのに。

 そして私は、不安に駆られながら尋ねる。

「……ベッドから出る時、見ないでいてくれますか」

「見るよ。当たり前じゃないか」

「駄目です、お願いですから布団被っててください」

「やだ」

 まるで子どもみたいな言い方だ。私はどうしたらいいのかわからなくなって、課長の顔を睨んだ。それでも彼は笑んでいたけど。

「それが嫌なら諦めること。心配しなくたって、僕しか見てないよ」

「そんな、でも、そもそもお見せできるようなものでは」

 私がそう答えた途端、彼は吹き出した。

「何言ってんだ、昨夜は惜しげもなく見せてくれただろ」

「おし……!? そ、そんなことないですから!」

「いいや、昨夜の君はすごく素直だったよ。それに情熱的だった」

 彼の口からは信じがたい言葉ばかりが飛び出してくる。

 困ったことに、それらは私の記憶とも概ね一致していた。そして蘇る記憶が、冷静になった私をうろたえさせる。

「恥ずかしいです、もう思い出させないでください……」

 私は両手で顔を覆った。

「これ以上思い出したら恥ずかしさで死んじゃう……!」

 すると彼が慌てたように私の頭を撫でてくれる。

「ごめんごめん。あまりにも初々しい反応だったから、可愛くて」

 だからって笑わなくてもいいのに。初めてのことで、慣れていなくて、居た堪れない気持ちでいるくらいなのに。

 そっと両手を外して窺うと、彼は無理矢理笑いを噛み殺した表情で、ようやく言ってくれた。

「しょうがない。服を取ってきてあげよう」

「是非、お願いします」

 縋る思いで頭を下げた。

 彼は私を抱き締めていた腕を解き、むくりと上体を起こしかける。その時、視線が合って、彼はまた意味ありげに笑う。

「取りに行ってくるけど……君は見るつもり?」

「み、見ません!」

 叫んだ声が裏返り、私は慌てて布団を被る。

 上から軽く頭を叩かれた後、彼の気配が遠ざかった。


 一人きりになったベッドで、シーツに顔を押しつけ、私は息を殺していた。

 心臓の音が忙しない。顔が熱くて、頭は浮かされたようにぼうっとしている。運動をした後みたいに呼吸が苦しかった。

 こんなこと、本当に初めてだった。自分の身に起こるなんて、思ったこともなかった。こんなふうに誰かと朝を迎えること――そしてその相手が渋澤課長だったということに、私の心は今頃になってうろたえている。

 どうしよう。どうしているのがいいんだろう。彼の前でどんな顔をしたらいいのかわからない。昨夜のことを思い出す度、私がここでこうしているのがとんでもなく場違いなようにも思えた。

 だけど現実だ。

 昨夜のことは覚えている。どういう経緯でこうなったのか、そして私がその時、彼に何と告げたのかも。こうなることも全て私と彼で選び取った。今更引き返せやしない。消えてしまうこともない。受け止めなくちゃいけない。

 せめてもうすこし落ち着き払っていられたらよかったのに。


 彼のベッドに閉じこもり、私は狼狽する心を抑え込むのに必死だった。そして心静まらぬうちに、この寝室へ、彼の足音が戻ってきた。

「一海、お待たせ」

 優しく私を呼んだ彼は、枕元に膝をつき、そっとこちらを覗き込んだ。

 目が合う。既に服を着た彼の前、何も着ずにいるのは更に気まずい思いがした。

「これ、着ていいよ」

 そして差し出されたのは、昨日着ていた私の服ではなかった。白いパイル地の着衣。

「バスローブ。ちょっと大きいかもしれないけど、君なら丈が余るってこともなさそうだし」

 課長の言葉に、私はこわごわ尋ね返した。

「あ、あの、私の服は……」

「返さない」

「えっ、そんな」

 何のつもりだろう。戸惑っていれば、彼は愉快そうに語を継ぐ。

「今日は休みだ。まさか今すぐ帰るってわけじゃないだろ?」

 返答に窮した。そんなことまでは考える余裕もなかったから。

 確かに、このまま帰ってしまうのはあまり礼儀に適ったことではないかもしれない。かと言って長居をするのもよくないだろうけど。こういう時にどうしたらいいのかまるでわからないから困る。どこまで彼の言葉に甘えていいものか。

 ただ、自分の気持ちだけで答えるなら、もう少し彼といたい気持ちもあった。さっきはろくに言葉も交わせなかったから、落ち着いてからちゃんと話したい。だからもう少しだけ、ここにいさせてほしい。

「それは、その……。課長さえよろしければ、私は……」

 たどたどしく答えた私に、彼は素早くかぶりを振った。

「『課長』じゃない。さっき言ったばかりなのに」

「ええと……瑞希さん、が、よろしければ……」

 この呼び方も慣れない。私の言葉は不自然極まりなかったけど、彼は特に追及することもなく、笑ってくれた。

「よろしい。じゃ、シャワー浴びといで。僕は朝ご飯を用意しとく」

「え?」

「お腹空いてるだろ。昨日、お互いに夕飯食べてないもんな」

 そうだった。昨日は本当に、それどころじゃなかった。

 私が昨日のことを詫びようとする前に、彼はさっとベッドから離れてしまった。足音が遠ざかっていくのを聞いて、何となく心許なくなる。

 さっきまであんなに気まずく思っていたくせに、勝手なものだ。


 その後バスルームを借りて、私は熱いシャワーを浴びた。

 凝り固まっていた気持ちが、少し解れたように感じられた。目が覚めてからずっと凍りついたようになっていたから、じっくり考える余裕もなかった。

 そして今頃になってようやく、さまざまな事柄への実感が湧き始めた。

 私は、あの人のことを好きになった。渋澤課長――瑞希さん。あの人といるとどうしてか不思議と楽しくなれた。懐かしいほどにどきどきする気持ちを貰えた。一緒の時間がとても温かで、幸せだった。

 あの人の気持ちに応えられることが、今はこんなにも嬉しい。

 もう、釣り合わないだなんて思わない。あのきれいな、素敵な人に好きになってもらえたことを幸いだと思うし、私もあの人を幸せにしたいと思う。これからもっと、いっぱい幸せにしてあげたい。そうすることが真っ当な、むしろごくありふれた人の想い方だとわかったから、できることなら何でもしてあげたかった。

 後ろ向きじゃない、誰にも恥じない想いを持っていたい。彼の想いにこそ釣り合うように。


 バスルームを出た後、洗面所で鏡を覗いてみた。

 湯上がりの私は真っ赤な頬をしていて、目つきの鋭さとは裏腹に、いささか不安そうな面持ちに映った。借り受けたバスローブは丈こそ少し長いだけだったけど、肩幅は余って、ぶかぶかだった。そのせいで余計頼りなげに見えた。

 事実、私は頼りない。今の気持ちに辿り着くまでに恐ろしく時間をかけてしまった。彼のことも不安にさせてしまった。

 これからはもっと強い自分でありたい。

 臆病で弱い気持ちでいるのは、きっと私の顔に似合わない。

 鏡の前で笑みを浮かべてみる。力強く、微笑んでみる。その顔をしっかりと覚えてから、私は鏡に背を向けた。


 戻ったリビングには、コーヒーの香りが漂っていた。

 彼はテーブルの上にカップを並べていたところで、戻ってきた私を見るなり、安堵したように微笑んでくれた。

「よかった、少しは元気になってくれたみたいだな。さっきは泣きそうな顔をしてたから」

 かなりうろたえていた自覚もあったので、私は恥ずかしくなって俯いた。

「さっきは、すみません」

 そう告げたら、歩み寄ってきた彼は頷いてくれた。

「いいよ。気にしなくても」

「それと……昨日のことも、ごめんなさい」

 二度目の謝罪は、唇に添えられた人差し指によって遮られる。私がはっとする間もなく、静かに肩を抱き締められた。温かい。

「昨夜のことも、気にしなくていい。お互い理解し合えた結果だけでいい」

 彼はそう言って、その後で、私の顔を覗き込んできた。

 化粧を落とした顔を見られるのには抵抗もあった。でも、寝起きの顔だって見せた相手だ、今更拒むのも妙かもしれない。

 それに、彼に見つめられるのは嫌じゃなかった。

「やっぱり、ちょっと大きかったかな」

 バスローブを着た肩に触れ、彼は言った。言いながらも視線は、じっと私の顔に留まっている。

 私が瞬きをすると、おもむろに眉根を寄せた。どこか困ったような、悩んでいるような顔をしている。どうしたんだろう。

「弱ったな」

 ふと、ぼやく声が聞こえてきた。

「どうか、なさったんですか」

 思わず尋ねれば、すぐに答えがあった。

「ちょっとな。理性を戦わせてたとこ」

「はい?」

「危うく食欲が退けられそうになった」

 その言葉を飲み込むのに、三十秒ほど掛かってしまった。あ、と声を上げたら、彼も照れ笑いを浮かべて、リビングの床を指し示す。

「とりあえず、君を空腹のままにしておく訳にはいかないから。どうぞ座って。朝ご飯にしよう」

 どう答えていいのか、やはりわからない。私も面映さのあまり、俯き加減でそれに従った。


 用意してもらった朝食のメニューは、コーヒーとトーストだった。

 彼はあまり朝食を食べない方らしい。

「いつもは適当に済ませることが多いんだ」

 苦笑いしながら教えてくれた。

「勤務の日は用意をするのも面倒でさ。いつも食パンくらいしか買ってない。君が来るとわかってたら、もう少し何か用意してたんだけどな」

「突然お邪魔してすみません」

 何度目になるかわからない謝罪をすると、すぐに笑ってかぶりを振られた。

「連れてきたのは僕の方。用意が足りなかったのも僕の責任だよ」

 だけど空腹には、簡単なメニューでも十分にありがたかった。コーヒーもトーストも、いつも家で食べているものよりずっと美味しくて、味わううちに元気も出てきた。随分単純なものだと我ながら思う。

 元気を取り戻したところで、疑問に思ったことがあったので、水を向けてみた。

「課長――じゃない、瑞希さんは、ちゃんと自炊なさってるんですね」

 職場でも、それ以外の場でも、彼は完璧な人だった。きっと料理もできる人なんだろうな、と察した。私も自炊はしているけど、疲れている時は手を抜いたりもするので、あまり自慢にはならない。

 そして彼は、はにかんで答える。

「たまにはね」

「やっぱり。すごいですね、見習いたいです」

「いや、そう言ってもらうほどでもないんだ。パスタと焼きそばと焼きうどんのローテーションが果たして自炊に含まれるかどうか……」

 予想とはやや外れた答えだったけど、逆に親近感が湧いた。私は笑いながら頷く。

「十分、含まれると思います」

「ありがとう。ただ、忙しい時期は食生活も荒むから困るよ」

 彼は首を竦めてから続けた。

「それに、一人で食べてると無性に寂しくなる。君と知り合ってからは特にそうだ」

「……ちょっと、わかります」

 私はまた頷いた。

 

 彼と一緒にいる時間が長くなればなるほど、一人の時が寂しくなる。離れがたい気持ちは、もうずっと私の胸裏にあった。

 今こうして、二人で朝食の席を囲んでいても、思う。誰かと一緒にいる時間はとても幸せだった。その上相手が彼となれば、これ以上望むべくもなかった。


 きっと、彼も同じように思ってくれているはずだ。穏やかに笑っている。

「だからこれからは、時々訪ねてきてくれると嬉しいな」

 そう言われて、私はとっさに答えに迷った。ためらう必要は何もないけど、昨夜のことがあっただけに、ストレートな誘いにはどぎまぎした。

 思わず視線を泳がせると、彼の笑い声が追ってくる。

「そんな顔しない。不安になるだろ」

 自分がどんな顔をしているのかは、何となくわかった。きっと心許なげな、頼りなさそうな面持ちでいるに違いなかった。

 幸せなのに、それを上手く表せないのがとても歯痒い。

「あの、私」

 焦れる思いで私は、胸の内を彼へと告げる。

「私、こういうことって初めてで……どんなふうにしていたらいいのか、まるでわからないんです。どう振る舞っていたらいいのか……」

 間を置かず、彼は答えてくれた。

「幸せそうにしててくれたら、それだけでいい」

 それで私は面を上げ、こちらをじっと見つめている彼の優しい表情を見つける。

 彼はずっと笑んでいた。とても、幸せそうに。

「君は今、幸せ?」

 真っ直ぐな問いかけに、私は、今度こそためらわず答えた。

「はい。とっても、幸せです」

 ちゃんと笑えていた、と思う。今こそ彼の為に、笑っていたかった。


 夕刻、私は再度彼の寝顔を眺める機会に恵まれた。

 二人きりのベッドで、彼は私を抱き締めたまま、規則正しい寝息を立てている。触れ合う肌への戸惑いはまだあったけど、今はそれよりも、見つめていたい気持ちの方が勝っていた。

 間近で眺める寝顔はきれいで、いとおしかった。

 どこにも出かけることはなかった休日。それでも楽しくて、嬉しくて、幸せだった。彼もきっと、同じ気持ちでいるだろうと思う。寝顔が幸福そうに笑んでいたから。


 ずっとこのまま、一緒にいられたらいい。

 彼の想いにこそ釣り合うように、私も強く彼を想っていられたらいい。誰にも恥じることなく、もう迷うことも、ためらうこともないように。

 眠る彼の、微かに開いた唇に、私はこっそり口づけた。

 ほんのわずかにだけ、そっと触れただけだった。

 それなのに次の瞬間、抱き締める腕の力がぎゅっと強まる。驚く私を、瑞希さんは目を開けて見て、声を上げて笑って、それで私もつられてくすくす笑った。

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