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リトルレッドライディングフード(1)

 残業のない日の終業後は、同僚たちよりも先に会社を出るようにしている。

 着替えはなるべく早く済ませ、誰かと帰り道が一緒にならないように気をつける。電車で通勤していることは隠していないから、一応は駅までの道を辿る。途中にあるコンビニに立ち寄るふりをして、課長から連絡があるまで、少しの間待つ。

 彼から連絡が来たら、すぐにいつもの待ち合わせ場所へと足を運ぶ。駅前のビルパーキングは夜間でも空きが多く、ほんの数分停めるだけなら料金も掛からない。落ち合う場所としてはうってつけだった。

「疲れてるところ、待たせてごめん」

 見慣れた車のドアを開け、課長はそっと笑いかけてくれる。

「いえ、ちっともです。課長こそ、お疲れじゃありませんか」

「君といられるなら仕事の疲れくらい、どうってことないよ」

 そんなやり取りが面映くて、まだ上手く笑い返せない。


 こうしてほぼ毎晩のように、課長の車に乗り合わせている。

 今週なんて、月曜日から金曜日までずっと送り届けてもらっていた。

 私の部屋と課長の家とはそれほど近いわけでもないから、時々申し訳なくなる。だけど彼に言わせるなら、変に遠慮して断られる方がよほど堪えるのだそうだ。


「でも、君に余計な距離を歩かせるのはかわいそうだな」

 ハンドルを握る課長が、ちらと横顔で笑った。

「人目を忍ぶのもそのうち止めてしまおうか? 堂々と一緒に帰れば楽だ。どう思う、芹生さん?」

「あの、それは……やっぱりよくないですよ」

 私は恐る恐る答える。

 内規で社内恋愛の是非が取り決められているわけではないものの、歴史のある企業だけに、あまり歓迎されてもいないらしいと察していた。渋澤課長自身も、外で会う時はともかく、社内でのふるまいにはある程度気をつけているらしい。だからこうして、帰りは外で待ち合わせをしている。

 もっとも、社内の堅い風潮を気にしていない子たちもたくさんいる。課長へのアピールをおおっぴらに行う女の子ももちろんいるし、私は近頃、とみにそういう子たちの存在が気になるようになってしまった。人目を忍ばずに課長と話ができるその子たちが羨ましく感じていた。嫉妬だなんて、傲慢過ぎる感情だとわかっているけど。


 もしも課長と私の関係が皆に知れたら、どうなってしまうだろう。

 まず、皆がそれを信用するかどうかが問題だ。女性避けのていのいい嘘だと思われてしまうかもしれない。信じてもらえたとして、課長の審美眼のなさに皆は落胆してしまうかもしれない。

 ――どう考えてもプラスになる材料はなかった。


「まあ、単に付き合ってるってだけならまずいだろうけどな」

 ビルパーキングから滑り出した車は、そのまま大通りの流れに合流する。対向車のライトが射し込んできて、車内を薙ぐように照らした。

「それだけじゃなくなれば公表したって差し支えないと思うんだ。どうかな」

 課長が笑んで言った言葉を、私は怪訝に思い、尋ね返した。

「それだけじゃない……? どういうことですか、課長」

「そのうち、教えてあげるよ」

 軽く首を竦めただけで、彼はこの場では答えなかった。深く追及するのもおかしいような気がして、私も口を噤んでしまう。

 課長の考えることは時々わからない。平然としているように見えて、あのきれいな顔の裏側では実にたくさんのことを考えているようだった。その考えは実行に移すまで秘密にされているから、私はいつも驚かされてばかりいる。

 今も、何か驚くようなことを考えているのかもしれない。総務課の美女はなかなかに読めない人だった。

「ところで、明日と明後日は空けてくれてる?」

 車は幹線道路を走り抜けていく。カーラジオから流れるメロディは賑やかで、音を絞っていても明るいリズムが聴こえてきた。金曜日の夜らしい、浮かれたくなるような空気に満ちている。

「はい、大丈夫です」

 私が答えると、課長も嬉しそう顔をしてみせた。

「よかった。今週こそは土日併せて予約したかったんだ」


 先週の土曜日は二人で水族館へ行った。課長は日曜日も会いたいと思ってくれていたようだけど、日曜は先約があったので断らざるを得なかった。そのことを踏まえてか、今週は前々から土日を空けておくように言われていた。

 週末の二日間を一緒に過ごすのは初めてだった。そこまで会いたいと思ってくれているのは嬉しいけど、何をして過ごせばいいんだろう。二日も一緒にいたら話題が尽きてしまわないだろうか。それほど話し上手な方でもないので、課長を退屈させないかどうか不安もあった。

 でも、断ることなんて考えられない。


「明日明後日はみっちり付き合って貰う予定だけど、構わないかな」

 課長は何か考えているのだろうか。にこやかな表情からは読み取れない。

「課長さえよければ私は構いません」

「誘ったのは僕の方だ。君も、楽しみにしてくれてる?」

「はい、とっても」

 その問いには正直に答えた。今はそう答えられることが幸せだった。

「ふうん」

 含むような笑い声が聞こえて、課長は一瞬だけ私を見た。

「芹生さんはわかってるのかわかってないのか、判然としないことがあるからな」

「……何の話ですか?」

 判然としない、というのはどういう意味だろう。

 私の疑問を、渋澤課長は笑い飛ばした。

「何でもない。明日を楽しみにしてくれたら、それだけでいいよ」

「じゃあ、そうします」

 曖昧な物言いに引っ掛かりを覚えつつも、先程と同じように追及はしなかった。きっと明日の予定で私を驚かせるつもりなのだと思う。楽しみ半分、緊張半分の気持ちでいる。


 車はいつしか幹線道路を抜け、もうすぐ通りの向こうに夜の公園が見えてくる。

 一人きりの部屋に帰る時間が近づくと寂しくなる。学生時代から一人暮らしは経験済みで、今更寂しがるのも不思議なものだ。だけど課長と一緒の時間を過ごすようになってから、ふとした瞬間に一人の寂しさを感じるようになった。

 そんなことを口にしたって彼を困らせるだけだろうから、言わずにいるけど、本当は。

「ところで、参考までに聞いておきたいんだけど」

 沈黙を澱ませないタイミングで、課長が口を開いた。

「芹生さんは、例えば友達と出かける時はどういうところに行くのかな」

「私ですか?」

「うん。君の好きな場所なんてあったら、教えて欲しい」

 いきなり尋ねられると答えに詰まる。

 この間連れていって貰った水族館だって、今でこそあまり行かなくなったものの、久し振りに足を運んだらとても楽しかった。好きな場所はたくさんあるけど、よく出かける場所はほとんど限られている。

「友人と会う時は、大抵お酒を飲みに行くだけです」

 私は苦笑した。

 運転席の課長も少し笑う。

「それは僕も同じだな。飲むこと前提で約束するようになる」

「ですよね。一緒に遊びに行くなんてこと、ほとんどなくなりました」

「確かに」

 課長の頷きを見て、私は更に語を継いだ。

「実はこの間の日曜日も、友人たちと飲みに行っただけなんです」

「そうか。仕事があると、皆で時間を合わせるのも難しくなるしな」

「寂しいですけど、仕方ないのかもしれないですね」

「でも、飲みに行くのだって楽しかったんだろ?」

 ごく明るい口調で尋ねられて、私は返答に迷った。

 今度は考えつかなかったというわけではなくて、いろいろと複雑だったから。

 だけど数秒後には気持ちを切り替えて、答えた。

「友人たちと会うのは楽しかったです。でも、知らない人と話すのは得意じゃなくて」

「知らない人? 友達の友達とか?」

「ええ、まあ……実は先週は、合コンだったんですよ」

「――合コン?」

 ふと、息を呑むのが聞こえた。

 当然だろう。私が合コンに招かれるなんてこと、普通に考えたら場違い過ぎる。


 人数が足りないのだと友人に頼み込まれて、仕方なく参加した。

 実は学生時代から何度か呼ばれたこともあった。それで男の人から声を掛けてもらったことはないし、電話番号の交換もしたことはなかったけど、頭数を揃える目的だけは果たせていると思う。私もそれだけでよかった。


「私が呼ばれるなんておかしいですよね」

 自嘲でも謙遜でもなく、それは真っ当な事実だ。

「本当にその場にいるだけ、でしたけど。でも、友人たちを見ていると思うんです。ああいうところで好きな人と出会って、恋に落ちるのも、なかなかロマンチックなものなんじゃないかなって」

 私以外は皆、きれいな子ばかりだから、そうしてめぐり合うことも多々あるようだ。私には無縁の出会いだけど、どんなものなのかなと想像してみることだけはあった。考えてみても想像はつかなくて、結局止めてしまうものの。

「私じゃ相手を楽しませることさえままならないんですけど、そういう場で人を惹きつけられる人は素敵だなと思います。きっと――」

 きっと、課長はそういう人だと思う。

 容貌も、話し方も、その優しさも、全て女の子たちを惹きつけてやまないものだ。課長ならどこへ現れても、あっという間に皆の心を捉えてしまうだろう。

 そう思ったけど、口にするのは止めておいた。実際に課長がそういう場に出て、女の子たちの視線を集める姿を想像するのは嫌だった。傲慢な感情だろうけど、せめてこうして二人でいる時くらいは嫉妬心を持たないようにしたかった。

「芹生さん、合コンなんて行くのか」

 運転席で課長がそう言った。妙に硬い声に聞こえた。


 何となく、課長はそういう席を好まないのかな、と思った。

 当然そう思う人だっているだろう。伝手を頼り、明確に恋愛を求めるような集まりを、よく思わない人がいたって不思議ではない。


「どうして?」

 だからそう問われた時、私はおずおずと答えざるを得なかった。

「誘われたんです、友人に。女の子の数が足りないからって」

「どうして、断らなかったんだ」

 空気にひびが入るような、愕然とした声だった。

 ふと視線を隣へ移せば、先程まで笑んでいた横顔が強張っていた。

「どうしてって……」

 彼は何を聞きたいんだろう。私は戸惑い、言葉に迷う。

 フロントガラスを真っ直ぐに見据えた課長が、何かを抑えるように細い息をつく。

「君がどうしてそんなところに行く必要がある?」

 それは、本来の目的からすればそうだろう。行く必要はない。私が誰かと恋に落ちるなんてことは、絶対にあり得ないから。

「ですから、人数合わせで参加したんです」

「断ればいいじゃないか」

「そんな、だって、断る理由なんて別に――」

「彼氏がいるって言えば断れるだろ」

 いつにない語気の強さにはっとする。

 渋澤課長の横顔が、見たこともないほどに険しく顰められていた。

「怒って……いらっしゃるんですか?」

 車内の温度がすっと下がったような気がした。カーラジオからはまだ陽気なメロディが流れ続けていて、その場違いさがかえって焦りを募らせた。


 失言、だっただろうか。

 もちろん常識で考えれば、告白をされて、デートも重ねている相手がそういう場に出向いたと知らされていい気分になる人はいない。

 でも私は、言わば規格外だ。常識は当てはまらない。合コンに行ったところで、何が起きるはずもないのに。


「怒ってない」

 渋澤課長は短く、投げつけるように答えた。

 それからいくらか感情を和らげて続ける。

「けど、妬いてる」

「え……」

 意外な言葉に、私は打ちのめされた。

 そんな感情、今まで誰からも向けられたことなんてない。

「どうする気だったんだ、誰かに声を掛けられたら。誰かが君を気に入ってしまったら。そんなところへのこのこ出て行くのは、君がフリーだって言ってるのと同じことだろ」

 冷静であろうとしているのか、彼は微かにだけ声を震わせている。

 困惑半分、不安半分の私は、ひたすら課長の横顔を見つめている。

 彼の言うことはわかる。でも、わからない。彼の言う常識は、私に限っては通用するはずもない。

「そんなことあり得ませんよ」

 笑い飛ばすつもりで言ったのに、冷え込む空気に一層上手く笑えなかった。

「あり得ないなんて、どうして断言できる?」

 彼も笑わない。きれいな面立ちが、今は苛立たしそうに顰められていた。

「それは、私の顔が……醜いからです」

 言い慣れた、当たり前の言葉。なのに今はそれを口にするだけで辛かった。

 そして彼はすぐに私の言葉を否定する。

「きれいだよ、君は。だから不安なんだ」

「嘘です、そんなの」

「僕の言うことが信じられないって?」

 彼の声が鋭く尖る。

 私は身を竦めながらも、否定し返さずにはいられない。

「信じてますけど、それは課長だけが思っていらっしゃることでしょう? 他の人はそんなふうには思いません」

「だから、どうしてそう言い切れる?」

「当たり前のことだからです」


 今までずっとそう言われ続けてきたことだから、わかる。私が獣に例えられるような女だってこと、皆から浴びせられた言葉を心に刻み込んできたからわかっている。

 この人だけだ。彼だけだ、私の顔を好きだと言ってくれたのは。

 これからだってそうだろう。きっと、この人以外にはいない。だから何の心配も要らない。嫉妬される権利なんて私にはない。

 ましてこんなにきれいな人が、私の為に心煩わされるのはかわいそうだ。


「僕は、そうは思わない」

 課長は頑迷に主張した。

「君を誰かに取られたくない。誰か、言葉の巧みな奴に攫われてしまうんじゃないかって怖いんだ。僕がまだ掴み切れてない君の心を、容易く掴んでいってしまう奴がいるんじゃないか、そう思うと不安で堪らない」

 誰がそんなことをするだろう。誰が、そんなことを思うだろう。

 私は乾いた唇を結んで、どう言えばこの人を納得させられるかを考えていた。あなたの隣にいる、あなたが好きだと言ってくれている女は、とてもとても醜い野獣のような姿をしている。誰に取られる心配もないのだから、そんな不安なんて持たないで欲しい。

「絶対に、今後はそういうところへ行かないでくれ」

 彼の口調は上司としての命令とは違い、より強固で、揺るがしがたいものに聞こえた。

 だから私は目を伏せてしまう。

「でも……断る理由がありませんから。友人に頼まれたら、どうしても」

「僕がいるって言えばいいだろ。簡単な話だ」

「言えません」

「どうして?」

 問い返されて溜息をつく。

 この期に及んで、ようやく気づいた。私自身の傲慢さ。これまでいかに慢心していたかを。

「信じてもらえるはずがないんです」

「何を」

「私に、私のことを好きだと言ってくれる人がいるなんてこと。あなたみたいなきれいな人が私を好いていてくれてるなんてこと、誰だって信じるはずがありません」

 誰にも言えない。信じて貰えるはずがないから。

 私は傲慢だった。この人の隣にいることを望む時点で身の程知らずだった。

 彼が他の女の子と話をしている、それだけで嫉妬したくなるなんて、酷い傲慢さだった。だって誰が思うだろう、彼のようなきれいな人に、私みたいな女が寄り添いたがっているなんてことはおかしい。あまりにも釣り合わないカップルだ。

 きっと、誰も信じない。目の当たりにしたって信じないだろう。課長がそれほどまでに審美眼のない人だと評されるのも耐えがたい。だから言えない。

「……君は、どうしてそこまで」

 課長が何かを言いかける。

 だけど続かずそこで途切れ、歯噛みするのが聞こえた。


 車が減速し始めたのはその時だった。

 ちょうど、中央公園の脇の道路に差しかかったところで、車は速度を落とし、やがて停止した。

 渋澤課長はためらわずにエンジンを切り、室内灯がぱっと点った後、ゆっくりと消えていく。カーラジオの音もエンジン音も消え、車内はしんと静まり返った。


 前にもこんなふうに、気まずい空気で車を停められたことがあった。

 折りしも同じ、この道で起こったことだった。

 あの頃からすれば私は変わってしまった。何物にも代え難い幸せと引き換えに、身の程を知る謙虚な心を失ってしまったのかもしれない。自分のことを過大評価して慢心したくなるほど、幸せに溺れていたのかもしれない。

 だけど客観的に見れば、やはり私と彼とは釣り合わない。美女と野獣が一緒にいて、いいことなんて一つもない。誰にも信じて貰えないような関係を、この先も続けていけるだろうか。二人だけで密やかに過ごしているならともかく、もし、誰かに打ち明けてしまうのなら――そしてそれを、決して信じては貰えないのなら。


 水銀灯の光がフロントガラスを透かして、課長を冴え冴えと照らしている。

 こうして見てもやはりきれいな人だった。誰もが心惹かれるのもわかる。私だってそうだった。傍にいるだけでこんなにも強く惹きつけられてしまった。

 彼は何を思っているんだろう。

 これから、私のことを叱るだろうか。諌めるだろうか。

 それとも愛想を尽かして突き放してしまうだろうか。

 何を言われても、私は全てのことを潔く受け止められなくてはいけなかった。たとえこの関係が終わってしまっても仕方がない。元々、ずっと続けていけるはずもない関係だったのだから、常に覚悟しておくべきだった。いつ別れを告げられてもいいように心構えが必要だった。

 なのに今、自然と身体が震え出している。取り返しのつかないことをしてしまった、言ってしまった後悔が胸に過ぎった。当たり前のことを率直に告げただけなのに、苦しくて、切なくてしょうがない。


 私は、彼と一緒にいたくなってしまった。

 ずっと一緒に、この先も離れず傍にありたいと思うようになってしまった。

 野獣のような女が思っていいことじゃない。それなのに。


 両手を握り合わせ、私は震えを抑え込もうとしていた。

 シートベルトを締めたままの課長が、ふと口を開く。

「芹生さん」

「はい」

 答えた声はかすれた。

「少し、話がしたい」

 課長の声は硬く、私よりもはっきりとしていた。

 こちらを向いた時の眼差しも、わずかたりとも揺るがない。

「これから時間をくれないか」

「今から、ですか」

 終業してから食事も摂っていない。空腹も感じていたし、くたびれてもいた。でもそれは彼だって同じはずだ。

「君をこのまま帰す気にはなれない」

 そう言って、課長はひどく苦しげに嘆息する。

「このまま別れてしまったら、もう元には戻れない気がするから」


 そうかもしれない。

 でもそれこそが、本来私たちにあるべき係わりだったのかもしれない。

 壊れてしまうのは嫌だけど、それすらも傲慢な思いだとわかっている。私もこのまま帰ってはいけないと思っている。明日と明後日の約束も、これまでの思い出も、何もかもが消えてしまうだろうから帰りたくない。

 それは客観的に見て正しいことだろうか。

 そもそも今は、誰の心を優先させるべきなのだろう。

 私か、彼か、それとも圧倒的大多数の第三者の気持ちか。


「時間をくれる?」

 彼が改めて、有無を言わさぬ調子で尋ねてくる。

 私は迷いのうちに頷いていた。

「……わかりました」

 話し合うことで何かが変わるだろうか。私と彼の意見の相違が埋まることなどあるだろうか。私たち以外の大勢の人たちの心は、どうあっても変えようがないのに。私たちが釣り合っていると思われることなんて、絶対に、絶対にあり得ないのに。

 でも、車は再び動き出した。

「僕の部屋へ行こう」

 課長が感情を押し殺した表情を見せる。

 私はその横顔を注視しながら、未だに心のうちを決めかねていた。あれこれと卑屈なことを思っておきながら、別れの覚悟なんてできてなかった。

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