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アリスインワンダーランド

 いきなり手を繋がれて、ぎょっとした。

 水族館の薄暗がりの中だから、まだいい。だけど人前で手を繋ぐのは初めてだった。

 何の断りもなく私の手を取った課長は、そ知らぬふりで目の前の水槽に見入っている。私がびくりと肩を震わせたのも気づいているはずなのに。


 水族館の中はごく控えめな灯りと、揺れる青い光で照らされていた。

 土曜日の夕方、館内はそれほど混雑しておらず、ちらほらと家族連れやカップルの姿を見かけるだけだった。それでも人目が気になってしょうがなく、私は俯き加減で歩くようにしていた。

 仕事を離れて休日に会うのも今日が初めてだった。日暮れ前に待ち合わせをして、連れて来て貰ったのが街中にあるこの水族館だ。ちょうど空いている時間帯だったのか、私たちはゆっくりと魚たちを見て回ることができた。私は手を繋がれてから、ずっと落ち着かない気分でいたけど。

 時々、渋澤課長の顔を盗み見た。

 水槽でたゆたう青い光を浴びた横顔は、はっとするほどきれいで、石膏細工のように整っていた。仕事をしている時とはまた違う、穏やかでいながら凛々しい表情だ。私は彼に目を向ける度、その顔に見惚れてしまう。


 彼と過ごした時間はまだ短いけど、私はその間にたくさんのことを知った。

 自分を肯定し、必要としてくれる人の存在。

 鏡の中の自分と向き合う意味。

 誰かの為に着飾る楽しさ。

 それから、誰かに心を傾けることの大切さ。

 全て彼がいなければ知り得なかった、気付けなかったことばかりだ。私は彼に感謝していたし、彼と過ごす時間を楽しいと思い始めていたし、そしていつか、彼が向けてくれた想いと同じ想いを、私からも返せるようになれたらと思う。

 だけどそんなふうに思っていながら、共に過ごす休日に浮き足立っていながら、私は他人の目が気になって仕方がなかった。

 釣り合わないことはもちろんわかっている。むしろそれでも傍にいたいからこそ、こうして人目につくところで手を繋いで、私たちの関係をあらわにすることには抵抗があった。きっと誰だって快くは思わず、課長を気の毒がるだろう。隣にいるのが私でいいと、思われるはずがない。

 それでも渋澤課長は私の手を離さない。

 私も振り解く気にはなれなくて、そわそわとしていた。目の前の水槽で小さな魚たちが群れを成すのを、複雑な思いで見つめていた。彼の手はすべすべしていて、心地よいくらいに冷たかった。


「――そろそろかな」

 不意に課長が声を上げた。

 腕時計に落としていた視線を上げ、こちらを向いて微笑む。

「芹生さん、四時からイルカの給餌があるんだ。見に行こう」

 急に話しかけられたので、とっさに答えられなかった私に、課長は重ねて尋ねてくる。

「興味ない?」

「あ、いえ……あります。是非見てみたいです」

 今度はちゃんと答えられた。水槽のイルカに餌を与えるショーは、水族館ではよくあるイベントだろう。やはりイルカは水族館の人気者だし、その優美さに目を奪われる人が多いのもわかる気がする。

 私も子どもの頃は両親と共に、水族館へ足を運んだものだった。その頃の一番の楽しみは当然イルカのショー。帰りにはイルカのぬいぐるみをねだって、両親を困らせた記憶もあった。

 実を言うと、水族館を訪れたのは随分と久し振りのことだった。心が浮き足立っているのはそのせいでもある。大人になってしまえば、なかなかこういうところへは足を運ばなくなる――きっと、デートでもなければ。

「じゃあ、行こう。イルカの水槽は向こうだ」

 課長は私の返事を聞くなり、手を引いて歩き出した。

 私も導かれるように続く。まだそわそわと落ち着かない気持ちでいた。


 イルカの水槽前には、もう既に人が集まっていた。

 水槽の中、ウェットスーツを着たトレーナーが下りてくる。大きなイルカたちがゆっくりと近づく。餌を求めて、トレーナーに頭を擦りつけるようにしたり、くるりと弧を描くように泳いでみせたりする。とても愛らしい姿に、観客たちはすっかり釘づけだった。

 どこまでも青い水の中、餌を与えられている時でさえ、イルカはとても優美だ。しなやかに泳ぎ、動きは決して鈍くないのに悠然としているように見える。優しそうな目、振る舞いの美しさ、触れたらひやりと冷たく、すべすべしていそうな肌――似ているような気がする、と私は課長を横目で見遣る。彼は興味深そうにイルカの水槽を眺めていた。

 イルカに似ていますね、と言ったら、やはり失礼に当たるだろうか。動物に例えてみせるだなんて、上司に対してすべきではないかもしれない。私は込み上げてきた笑いを堪えながら、再びイルカへ視線を戻す。

 でも、どうしても似ているような気がしてならなかった。優美さも、きれいだと溜息をつきたくなるところも。こうして所作の一つ一つで人の目を惹きつけるところも、私の心も捕らえて離さないところも、全てがよく似ている。


「……きれいだ」

 ふと、隣で課長が呟いた。

 優しい瞳がじっとイルカの水槽を見つめている。石膏細工の顔立ちに微笑を浮かべた、彼こそとてもきれいだった。こんなにきれいな人が、心からきれいだと思う瞬間は、それそのものが美しい奇跡のようだ。

 ほんの少し、胸の奥で思った。私もこの人にきれいだと思われるような、そんな姿でいられたらよかった。きれいに、なってみたかった――。

 瞬間的に抱いた愚かしい思いは飲み込んで、私は課長の呟きに頷く。

「きれいですね。とても優美で、悠然としていて」

「本当、きれいな泳ぎ方してる。このくらい泳げたら、気分いいだろうな」

 課長はそう言ってから少し笑った。こちらを見て、そっと尋ねてくる。

「芹生さんは、泳ぐのは好き?」

「……昔は好きでした」

 私は正直に答える。今は嫌い、という意味じゃなかった。

「勤め始めてからは、全く泳ぎに行かなくなりましたから。もう昔のようには泳げないと思います」

 昔は、身体を動かすことが好きだった。そうしていれば嫌なことも、辛いことも忘れていられると知っていたから。昔の私はもう少し活動的で、そして『猛獣注意』の名に相応しい敏捷さをも持ち合わせていたと思う。

 社会に出ると多くのものを失い、代わりに全く違うものを得ることになる。私が得たのは順応性と息を潜める生き方、やり過ごし方。失ったものは、もう思い出せないほどだ。

「そういうものだよな」

 課長が苦笑した。

「僕も十代の頃は泳ぐのが好きだった。学生時代は夏となれば海に出かけていたし、とにかく好き放題遊び歩いていた。でも大人になってしまうとそんなことはできなくなって、行かなくなる場所、しなくなる物事が増えていく。少しもったいない気もするよ」

 そこまで話してから、彼はちらといたずらっ子の表情をひらめかせた。

「なんて、ちょっと老成したぼやきだったかな」

「いいえ、私もそうですから。課長のお気持ち、よくわかります」

 首肯して、私もちょっとだけ笑んだ。課長の気持ちに共感できたことがとても嬉しかった。


 渋澤課長は少年時代、どんな男の子だったのだろう。

 やはり昔から人目を惹いて、女の子たちに慕われる少年だったのだろうか。

 彼なら成績も良かっただろうし、人望だって集めていたはずだ。きっと華やかな少年時代を過ごしてきたに違いなかった。この人にはそれが許される。きれいで優しい人だから。


「実は水族館に来るのも久し振りなんだ」

 彼がそう言った瞬間、私は目を瞠ってしまった。

「えっ、課長も……なんですか」

「ああ。もしかして、君もそうだったのかな」

 課長はどうしてか表情を輝かせた。そこに水槽からの青い光がゆらゆらと揺れる。

「水族館なんてそれこそ学生時代以来だ。こんな機会でもないと足を運ばなくなってしまった。決して飽きたわけでも、嫌いになった訳でもないんだけどな」

「そうですよね」

 大人になるとはそういうことなのだろう。

 好き嫌いに関わらず、ただ大人としての日々に必要か否かを基準として、何かを得たり、失ったりする。

 課長もそうして多くのものを失っているのかもしれない。隙のないように見えるこの人に、何か失われたものがあったなんて想像もつかない。だけど多分、誰しもがそうなのだ。大人になる過程で何も失わずに済む人なんていない。

「でも、君とこうして訪れる機会ができてよかった」

 満足そうな声が、静かに続いた。

「楽しいんだ、君といると。子供の頃みたいに遊ぶことに夢中になって、そのまま、どこへでも行けるような気がして」

 彼の言葉が社交辞令ではないことを、私は察していた。今日の彼は水族館に夢中だった。仕事を離れた大人の顔で、時々いたずらっ子の表情に戻って。私を隣に置いて、ここで過ごす休日を楽しんでくれていることは確かにわかった。

 でも私は、その言葉に答えられなかった。

 私も楽しいです、そう言えたらよかったのに、繋いだ手の中で混ざり合う体温が邪魔をした。

 もっときれいでいられたら、ちゃんと思った通りのことを言えたのかもしれない。そんなこと、あり得るはずもないけど――もっときれいだったら、手を繋いでいても堂々と、胸を張っていられたかもしれないのに。


 水族館を出たのは午後六時、少し前だった。

 課長はまた腕時計をち見た。

「夕食にはまだ早いか……いや、店が混まないうちに行こうか。芹生さん、お腹は空いてる?」

 尋ねられて、私は笑った。

「はい、それなりに。少し早目でも構いませんよ」

「それならいいや。行こう、歩いてすぐのところにいい店があるんだ」

 言いながら、彼は歩き出す。

 私の手はまだ引いたままだ。私は導かれて歩き始めながら、浮かべたばかりの笑みをしまい込む羽目となった。

 日の暮れた街並みは、週末とあってなかなかの人出だった。街灯とネオンサインのせいで光に溢れた街角は、水族館の中とは違い、手を繋いで歩くにはいささか居心地が悪かった。

 思わず課長に声を掛ける。

「課長、あの、手を離した方が……」

「え?」

 渋澤課長が振り返る。訝しそうな顔をしている。

 私は繋がれた手に視線を向けて、早口で告げた。

「会社の人に見つかったりしたら困りませんか。私たち、こんなふうに歩いていたら」

「僕は別に困らないよ」

 即答されて戸惑う私に、課長は首を竦めてみせる。

「勤務外のことまであれこれ言われてもな。彼女選びくらい好きにさせてくれって言い返してやるよ。……とは言え、君が困るなら離してあげてもいい」

「わ、私ですか? 私は……」

 困るのかどうか、自分ではよくわからない。


 同僚たちに見つかったら、何か言われてしまうのは間違いないだろう。

 だけど私は、この手を離したくなかった。

 離れたくなかった。あんなに気にしていた人目よりも、このすべすべした手の方が大切だった。この手の主が私と、手を繋ぎたいと思ってくれている。今は私も、彼と同じ気持ちでありたかった。


「私も、困りません」

 そう答えるのには多少の勇気も必要だった。

 だけど言えた。ちゃんと言えた。

「だから、このままで……いてください、課長」

「当たり前だろ。離さない」

 課長は笑んで、繋いだ手に力を込めてくれた。

 混ざり合う体温はぬるく、お互いの手の中に溶けていくような淡さだった。

 子供の頃のようだ、と不意に思った。

 誰かと手を繋いだ記憶は曖昧だ。誰かとこんなふうに恋をした記憶はない。あるのはただ真っ当な恋にも辿り着けなかった傷痕と、それよりも深い自己嫌悪だけだった。


 でも今、彼と手を繋いでいることが、なぜか無性に懐かしい。失われたものをようやく取り戻せたような、懐かしくて優しい衝動にとらわれている。知らないはずの真っ当な恋の始め方を、どうしてか既に知っていて、思い出してでもいるような感覚だった。

 私は知っているのかもしれない。恋の始め方。人の想い方。それから――。


「芹生さん」

 歩きながら、手を繋ぎながら、課長が小声で囁いてきた。

「聞いてもいいかな。……明日は何か、予定がある?」

「明日、ですか?」

 唐突な問いに驚きつつも、私はすぐに答えた。

「明日は友人と約束しているんですが……何か、ありましたか」

 日曜日の予定はつい昨日埋まったばかりだった。学生時代の友人に呼び出され、会う約束を取り付けていた。仲の良かった子だからむげにもできない。

 私の返答に、課長はしまった、という顔をした。

「そうか。やっぱり二日分の予定を押さえておくんだった」

「何かご用でしたか、課長」

「いや、明日も君と過ごせたら、って思ってたんだ。でもごめん、急に誘われても困るよな」

 残念そうに肩を落とす様子に、申し訳なさを感じた。今日も会ったのに、明日も会いたいと思ってくれているなんて、とても嬉しいことだと思うのに。

 でも、今なら言えそうな気がする。歩くスピードに合わせて、この勢いで告げられそうだ。

「その分、今日を楽しむというのは、駄目でしょうか」

 私は課長に向かって、そう言った。歩いているせいか、それとも他の理由からか、声が少し震えてしまった。

「私も、課長といるとすごく楽しいんです」

 きれいじゃない女だけど、だからこそ嘘はつきたくない。今の気持ちをちゃんと伝えておきたかった。

 隣を歩く渋澤課長が、ふと笑みを消した。真顔になって尋ね返してくる。

「本当?」

 もちろん私は頷いた。

「本当、です」

「……そうか、嬉しいよ」

 安堵に満ちた言葉の後、課長が私の手を軽く引いた。

「こっちだ、このビルの九階に、話してた店がある」

 示されたのは真新しく、すらりと背の高いビルだった。各階にはいくつか飲食店が入っているようで、九階にはイタリア料理の店が名を連ねていた。

「行こうか」

「はい」

 課長の手に導かれるようにして、私はそのビルに初めて足を踏み入れた。


 二人で小さなエレベーターに乗り込む。他に乗員はいなかった。課長が九階のボタンを押し、ゆっくりとドアが閉まった、直後のことだった。

 がくんと揺れたのとほぼ同時に強く引き寄せられ、抱きすくめられた。

 浮かび上がるような奇妙な空気の中でそのまま唇を重ねる。

 ひやりと冷たい唇の温度、感触はとても柔らかい。目を閉じる暇すらなく、幸せそうに伏せられた彼の瞼が間近に見えた。

 何の断りもなくされるのは、いつものことだった。でもここはいつもの場所じゃない。


 温かい腕に包み込まれて、手で髪を撫でられて、一瞬頭の中までがくんと揺れた。

 それでも私は唇を離し、慌てて彼の耳元に尋ねる。

「か、課長、ドアが開いたりしたらどうするんですか……!」

「大丈夫。停まらなきゃドアは開かないから、停まってから止めればいい」

 平然と答える課長は、やはりいたずらっ子の顔になっていた。身を離しかけた私をもう一度きつく、しっかりと抱き締めて、こう言ってきた。

「君に夢中なんだ。わかるかな、僕の気持ちが」

 わかる、ような気がする。子供の頃のように一心に、想いを傾けたくなる衝動。心奪われるその想いは、今も優しく私を揺り動かして、心を浮わつかせている。

「君が好きだ」

 何度目になるかわからない告白に、私は頷くしかできなかった。エレベーターはもうすぐ九階へ辿り着いてしまう。私の答えはそれには間に合いそうにない。


 だけど、間に合うのなら言っていた。

 ――私も、そうです。あなたのことが、好きです。

 私は、彼に恋をし始めている。それはもうずっと前からのことなのに、ようやく気づけた。わかってしまった。恋の始め方も彼を想うやり方も、とうにわかってしまっている。気づいたからには伝えなくてはいけないのに、今日は――こんなふうに思うなら、明日の予定、空けておけばよかった。

 課長が腕を解いて、そっと私の髪を梳いた。

 その時、エレベーターが停止して、私はそっと顔を上げる。

 開いたドアをくぐる横顔に、今、改めて見惚れてしまった。無言のうちに手を繋がれて、私はまたどこまでも導かれていく。

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