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サンブリーナ(3)

「……聞こうか」

 瑞希さんも食事の手を止め、真面目な顔で頷いてくれた。


 彼のいろんな顔をこれまでに見てきたけど、どの顔も好きだと思う。

 優しい笑顔も、何か企んでいる時のいたずらっ子みたいな顔も、たまにだけど拗ねる時の顔も、そして今の真摯な表情も。


 そんな彼に向かって、私は切り出す。

「私、ずっと思っていたんです」

 するすると、胸の奥、一番奥底にしまい込んでいた思いが零れ落ちた。

「実は私……前に、好きな人がいました」

 そう打ち明けた途端、瑞希さんはぎょっとしてみせた。

「好きな人だって?」

 声が裏返っている。驚かせてしまったかと、慌てて説明を添えた。

「む、昔の話です。と言うか、学生時代のことで……」

「……何だ、そうか。びっくりした」

 瑞希さんが一転して胸を撫で下ろす。

 それから心なしか、切なそうに促してきた。

「話の腰を折ってごめん。続けてくれ」

 今から打ち明けるのはもう過去のことで、心配させるような話じゃない。

 だから私は、努めて明るく続けた。

「本当に昔、幼かった頃の話で、すぐに終わってしまった短い恋でした。でも、私が人を好きになってしまったこと、当のその人にはとても嫌がられたんです。誰かを好きになるだけで、その相手に嫌な思いをさせてしまうんだって、わかったんです」


 初めて、人に打ち明けた記憶だった。

 あの頃のクラスメイトは、あの時のことなんてもう覚えていないだろう。クラスにいた、醜い女子生徒の引き起こした騒動なんて、記憶の片隅にも存在していないかもしれない。

 だけど私はずっと忘れられなかった。


「私は恋をしてはいけないんじゃないかって、ずっと思っていました」

 好きだった人の顔も、名前も忘れてしまっても、その時のことだけはずっと覚えていた。痛みだけを一人、引き摺っていた。

 それを取り払ってくれたのは瑞希さんだ。彼の想いもなかなか信じ切れずに、幾度となく疑ってしまったけど、彼の手を借りてようやく向き合うことができるようになった。

「今は、そんなことは思っていません。私は瑞希さんが好きですし、そう言えるようになってよかったと、心から思っています」

 差し向かいにいる彼の表情が硬い。

 私は、それでも最後まで言葉を継ごうと思った。

「最近まではずっと、思っていました。好きになった人を傷つけるくらいなら、誰も好きにならない方がいいって。誰かを好きになるなんて、許されないことだろうって。――だから今は、こうして瑞希さんを好きでいられることが、本当に幸せなんです」

 いつよりも、今が一番満たされていた。

 この上なく幸せで、贅沢な日々の中に私はいた。

「だからこれ以上のことを望んだら、贅沢すぎて罰が当たってしまいそうで、怖いくらいなんです」

 いつか、ちゃんと甘えられるようになる時が来るといいな、と思う。

 瑞希さんに素直に頼れるようになって、そして私の方も、彼に頼られる存在になれたらと思う。


 瑞希さんはずっと、黙って耳を傾けてくれていた。

 そして全てを聴き終えると、深く息をついた。

「……君が贅沢だって言うなら、僕はとても欲張りなんだろうな」

 まだ硬い表情が、わずかに、気遣わしげに緩められる。

「君を手に入れたつもりでいたのに、次から次へといろんなものが欲しくなる。今も、欲しくてしょうがないものがある」

 確かに私の想いは、もう瑞希さんのものだ。今の私は彼を大切に思っているし、心はいつも彼で独占されている。だから『つもり』なんて思わずに、手に入れたと言い切ってくれていいのに。

 彼の言葉を怪訝に思い、私は尋ねた。

「瑞希さんが今欲しいものって、何なんですか?」

 それが私に差し出せるものならいいと思った。

「今は、君の過去が欲しい」

 だけど、彼の答えはそうじゃなかった。

 きっぱりとした回答に私は思わず息を呑む。

 すると瑞希さんも私を見て、ゆっくりかぶりを振った。

「もちろん、どうしても手に入らないものだって知ってるけどな」

 胸が詰まる。

「瑞希さん……あの」

 何か言おうと思ったけど、言葉にならない。

 そんな私に彼は言う。

「わかってる。ちょっと思っただけだ、君と最初に出会ったのが僕だったらよかったのにって」

 その表情には珍しく、ぎこちない笑みが浮かんでいた。じっと私を見つめている彼は、その時やはり切なそうに見えた。

 もしも彼の言う通りだったら、私たちはどんな関係になっていただろう。

 いい思い出の方が少ない学生時代に、もしも瑞希さんがいてくれたら。

 想像を巡らせようとして、やめた。考えてもわかることじゃない。私には今が幸せすぎて、それを過去と置き換えることができそうにない。

「私は……今を大切にしたいです」

 だから考えた末、そう言った。

「私の方から思い出話をしておいて、何ですけど」

「いいや。僕も同じ考えだ」

 瑞希さんが深く頷く。

「欲張りは程々にしないと、君に愛想を尽かされるかもしれないし」

「そんなこと絶対にないです」

「絶対って言ってくれるのか、嬉しいな」

 彼は満足そうに目を伏せ、それから再び焼きそばを食べ始めた。

 私もフォークを手に取って、一緒に焼きそばを食べる。少し冷めかけていたけど美味しいままで、とても幸せな味がした。


 昼食も終わりかけた頃、瑞希さんが何か思い出したような顔をした。

「そういえば言ってたよな。利き手を怪我してるから、お風呂に入るのも大変だって」

 唐突な話題に思えたけど、事実なので私は頷く。

「そうなんです。頭を洗うのも身体を洗うのも左手だけだと大変で……」

「そっか。じゃあ」

 すると瑞希さんは今までで一番嬉しそうに笑んだ。

「ご飯食べたら、一緒にお風呂入ろうか」

「――えっ? ま、まさか」

 心臓が口から飛び出すかと思った。

 お風呂に、一緒に? 瑞希さんと?

 そんなまさか、そんなことってどうなんだろう。私はうろたえてしまったけど、提案者の彼は平然としたものだ。

「洗うの手伝うよ。こういうところでこそ彼氏に甘えて欲しいな」

「い、いえ、一緒にお風呂なんて恥ずかしくて……」

「慎ましいな、一海。でも遠慮なんてしなくていい」

「そういうことじゃなくって、そもそもうちのお風呂は狭いですし」

 一人暮らしのバスルームがそれほど広いはずはない。これまで試したことはないけど、間違いなく二人で入るには手狭だ。

 というより重大なのはその点じゃない。

 ないんだけど、どう言っていいのか。瑞希さんが冷静に振る舞っているから、これは普通のことなのかと自分の常識を疑いたくなる。

 恋人同士って、一緒にお風呂に入ったりもするものなの?

「損はさせない。絶対に楽しいから、僕と入ろう」

 瑞希さんは上機嫌で誘いの言葉を重ねる。

「た、楽しい……ですか?」

 私がまごまごしていれば、彼は誘うように流し目を送ってきた。

「それに、せっかくだからご褒美が欲しいな」

「ご褒美って……」

「君に会えない間も頑張って働いていた僕へのご褒美。待ってたのに君からの連絡はちっともないし、毎日仕事が手につきそうにないくらい心配してたけど、それでも心を奮い立たせて頑張ってた。そういうわけで、僕にも役得があったっていいだろ?」

 そこまで言われてしまったら、断れるはずがない。


 結局、私と瑞希さんは一緒にお風呂に入った。

 髪も身体も彼に洗ってもらって、一人でするよりも楽だった。彼の手つきが丁寧で優しかったから、すごく気持ちがよかったのも事実だ。

 だけど浴槽では狭さを理由に、彼の膝の上でずっと抱き竦められていたから、居心地はあまりよくなかった。というより、どぎまぎしすぎて湯加減を気にする余裕さえなかった。

「一海、寄りかかってもいいよ」

 瑞希さんは笑いを含んだ声で、私を寄りかからせようとする。お湯に浸かった私の背中には、彼の肌が触れている。これ以上近づいたら溶けてしまいそうだ。

「け、結構です」

 とっさの答えは裏返った。そして答えた拍子、肩を掴まれぐっと引き寄せられて、私の背に彼が密着する。お湯がぱしゃりと小さく跳ねる。ほとんど隙間なく、濡れた肌と肌がくっついた。

 心臓がどきどきと速い。

 まだお昼を過ぎたところで、バスルームの窓からは曇りガラス越しの日光が差し込んでいる。その光の中で入るお風呂は奇妙な後ろめたさがあった。

「ほら、楽しいだろ」

 私を膝に乗せた瑞希さんが、後ろから顔を覗き込んでくる。

 いたずらっ子の顔をしていた。どう見ても、彼だけがすごく楽しんでいる。

「でも、あの、緊張します……」

 たどたどしく答えれば、彼はそんな私にそっと唇を寄せてきた。

 濡れた頬にざらりと、温い舌の感触があった。

「そうじゃないと困るよ。多少は緊張して貰わないと」

 それから彼は私の左手を、お湯から掬うようにそっと持ち上げる。

 水につけないように気をつけている右手とは違い、左手はいつも通りの私の手だ。それを大切なもののように持つ彼の手は、水滴をまとい窓からの光を受けてきらきらしている。とてもきれいな手だ。

 その手に取られている私の手まで、何だかきらきらと眩しく見える。

「君の過去はどうしても手に入らないからな」

 吐息混じりの声で、瑞希さんは静かに言った。

「だから次は、君の未来が欲しい。いいかな」

 どういう意味、だろう。

 問い返す前に、彼は空いていた方の手で私の顎を掴んだ。

 そして強引に後ろを向かせたかと思うと、肩越しに深く口づけてきた。

「看病のつもりで来たんだけどな……」

 キスの合間に彼が呟く。

「その分、うんと甘やかすから。……いいよな?」

 期待に満ちた口調でねだられて、とてもじゃないけど駄目なんて言えない。


 繰り返されるキスの間、私はどぎまぎしつつ、のぼせるような幸せを感じている。

 このまま、瑞希さんとずっと一緒にいたい。お伽話みたいな『そしていつまでも幸せに暮らしました』が本当にあればいいのに。

 彼に抱き締められながら、夢見心地でそんなことを思い始めていた。

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