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サンブリーナ(2)

 日曜日の正午頃、瑞希さんは私の部屋へとやってきた。


 私を一目見るなり、彼はとても安堵した様子だった。玄関を開けた直後は強張っていた表情が、迎えに出た私を認めてふっと和らぐのがわかった。

「よかった。思っていたより元気そうだ」

「はい、お蔭様で」

 慌てて私は頭を下げる。

 電話で声を聞いた時は嬉しい気持ちの方が大きかったのに、顔を合わせると後ろめたさの方が強くなった。元気なんだと伝えるのに、電話越しの声だけでは力不足だったのかもしれない。

「怪我の具合はどう?」

「ええ、もう痛みもかなり引きました」

 答えて、包帯を巻いた右手を見せる。

 前に見せたのは怪我をした当日で、あの時は大袈裟にも三角巾を使っていた。今の軽装を見せたなら、彼にも安心してもらえるだろうと思った。

 でも彼は気の毒そうな顔をするばかりだ。

「それでも痛そうだ。本当に大丈夫か?」

「大丈夫です」

「包帯、まだ取れないんだな。辛いだろ」

「そんなことないです。バレーやってた頃は、突き指なんてしょっちゅうでしたから。包帯が懐かしいくらいでした」

 フォローのつもりでわざと明るく振る舞っても、彼は笑ってはくれなかった。あまり心配されるとかえって申し訳なくなる。

「わざわざ来ていただいて、すみません」

 私がそう詫びると、すかさずかぶりを振ってくれたけど。

「謝らなくていい。来たくて来たんだから」

「でも、仕事も休んでしまいましたし、散々ご迷惑をお掛けして……」

「そのことももういいから」

 瑞希さんは再度首を横に振り、苦笑いを浮かべる。

「今日は仕事の話はしないでおこう。勤務時間外だ」

「はい、でも」

「そうしないと君はずっと気に病むだろ。気持ち、切り替えなきゃ駄目だ」

 諭すような言葉を聞かされて、私は返答に詰まる。


 彼の言うことはもっともなのかもしれない。

 だけど、気持ちを切り替えてしまっていいんだろうか。怪我をしたのは自業自得だし、仕事を休んでしまって、瑞希さんにも迷惑を掛けているのに。おまけに酷く心配もさせてしまったし、それで平然としているのも難しいことだ。


「……そんな顔、しないの」

 瑞希さんがそこで、私の額を指先でつんとつついた。

 突然のちょっかいに私が驚くと、彼は困ったように微笑む。

「聞き分けのない子だ。今は君が何を考えてるか、よくわかったよ」

 どうやら、顔に出ていたようだ。

「あ……ええと、すみません」

「謝らなくていいったら」

 そう言うと瑞希さんは、提げていたスーパーの袋を持ち上げた。

 袋の中には丸いキャベツとお肉のパック、他にも数点の品物が見える。何か買ってきてくれたみたいだ。

「お昼ご飯まだだろ? キッチンを借りてもいいかな」

 確かに今はお昼時で、何か食べようかと考えていたところだ。この手では大したおもてなしもできないから、瑞希さんが来てくれたら一緒に買いに行こうと思っていた。

 だけど、台所を借りるって――まさか。

「構いませんけど、どうするんですか?」

 聞き返す私に、瑞希さんはすかさず得意そうにする。

「今日は僕が、君に手料理をごちそうしよう」

「えっ、瑞希さんがですか?」

 意外な提案に思わず声を上げれば、

「君、びっくりしすぎ」

 途端に彼は恨めしげな目を向けてきた。驚いたのは失礼だっただろうか。

 だけど瑞希さんの手料理なんて、予想外すぎて言葉にならない。多少は自炊もする人だと聞いてはいたけど――彼自身は謙遜していたけど、以前いただいた朝食は美味しかった。もしかすると私より上手だったりして。

「そ、そうですね。すみません」

 慌てて詫びれば、彼も気を取り直したように続けた。

「大した料理が作れるわけじゃないから期待はしないように。キッチン、借りるよ」

「わかりました、よろしくお願いいたします」

 私はどう答えていいのかわからず、妙に畏まって答えてしまった。

 もちろんキッチンを使ってもらうのは構わない。気になるのはメニューの方だ。

「ありがとう」

 瑞希さんはそう言って笑うと、スーパーの袋を掲げてみせる。

「材料買ってきちゃったんだけど、君の口に合うかな。焼きそば」

 焼きそば。

 前に聞かされた好きな献立のハンバーグと同様に、彼のイメージには少々そぐわないメニューかもしれない。

 しかも彼の手作りというから、どんなものなのか気になって仕方がない。

 正直に言えば、私は妙にわくわくしていた。怪我で迷惑をかけている時に楽しみだと思ってしまうのも何だけど――でもこんなことでもなければ、彼に作ってもらう機会もきっとなかっただろう。

 それに何より、沈む私の気持ちを切り替える為、彼が手を差し伸べてくれたのだと思う。

「楽しみにしていますね、瑞希さん」

 私の期待に、彼は自信ありげに頷いた。

「任せて。麺類は作り慣れてる」


 瑞希さんに、キッチンとエプロンを預けた。

 男の人に料理をしてもらうなんて、それこそ初めての経験だった。どんなふうに料理をするのか気になったけど、覗くのは失礼かと思い、私は居間でおとなしく待っていた。お蔭で、瑞希さんのエプロン姿もゆっくり眺められなかった。


 だけど暢気なものだ。

 怪我で仕事を休んでおきながら、恋人に部屋へ来てもらって、お昼ご飯を作ってもらって――気持ちを切り替えるようにと言われても、なかなか上手くいかないのが実際だった。今の自分にも後ろめたさ、やましさがある。

 それはなぜかと言えば、どうしても、嬉しいからだ。

 瑞希さんにここへ来てもらったこと、顔を見たいと言われたこと、そして私も瑞希さんの顔を見られたことが、嬉しくてたまらなくて、それらが逆にやましさを加速させた。自分の身に余るような幸せだと思えてしまって仕方がない。

 こんな幸せな時間があっていいんだろうか。優しくて思い遣りに溢れた恋人がいて、怪我をした私を気遣ってくれる。こんな幸せが、私の人生に光を差しかけてくれていることに、ようやく実感が湧き始めていた。


 瑞希さんが振る舞ってくれた焼きそばは、とてもいい出来だった。キャベツやニンジンといった野菜には美味しそうな焦げ目がつき、ソースの香りも食欲をそそる香ばしさだ。丁寧に盛りつけられたお皿を差し出された途端、たちまちお腹が空いてきて、私は喜んでそれをいただいた。

 だけど瑞希さん本人は、今回の出来映えをお気に召さなかったらしい。

「失敗したな」

 焼きそばを箸でつつきながら、しきりにぼやいていた。

「そうですか? とっても美味しいですよ」

 私は本心から言ったつもりだったけど、彼は悔しそうに続ける。

「野菜をちょっと焦がしてるだろ。作り方は覚えてたのに、炒める時に手間取った」

「十分です。生焼けよりはよく火が通っている方が、私は好きです」

「けど、麺もくっついちゃってる。いつもはもっと上手く作れるのに、僕としたことが」

 出来映えに納得がいかないのか、首を捻りながら呟き続けていた。

 でも私は箸が使えず、フォークで食事をしていたから、くっついた麺がありがたいくらいだ。

「食べやすくてちょうどいいですよ」

「……一海は優しいな」

 彼は柔らかく目を細めた後、それでも気に入らない様子で低く唸る。

「せっかくなら美味しく作って、君に誉められたかったのにな……」

 何だかむきになっている瑞希さんが、私には少しおかしかった。


 仕事では常に手を抜かず、完璧にやり遂げる彼のことだ。手料理にも完璧なクオリティを追求したくなったのかもしれない。

 でも、私にとってはこの焼きそばこそが最高のごちそうであり、愛情表現だ。


「場所や道具が違うと、勘が狂ったりすることもありますよ」

 私は瑞希さんを励まそうと言葉を重ねた。

「本当に美味しいですから、あまり気に病まないでください」

 そう告げたら、彼はどうしてか目を丸くしてみせる。

「よりによって君に、そう言われるとは思わなかった」

「え? そうですか?」

「だって、僕も言っただろ。気持ちを切り替えるようにって、さっき君に」

「……はい」

 思い当たって、私は気恥ずかしくなる。

 瑞希さんから言われてもなかなか受け入れられなかったことを、彼に対して説こうとしているのだからおかしな話だ。傍目八目とでもいうんだろうか。

「僕にそう言えるようになったってことは、気持ち、切り替わったのかな」

 テーブル越しに瑞希さんは、私をじっと見つめてきた。


 化粧も満足にしていない顔を注視されると、恥ずかしさと気まずさが一層加速する。

 化粧をしたところで美人ではない私だし、過去には寝起きの顔だって見せたことがある相手だ。それでも彼から真っ直ぐに見つめられるのは――素直に照れた。

 以前のような気後れとは違う、胸がどきどきするような気まずさだ。


「一海」

 俯きかけたその時、すかさず彼に名前を呼ばれた。

 はっとして、私も面を上げて瑞希さんを見る。美女と呼ばれる彼の、きれいで整った顔立ちを見つめ返す。

 すると彼は箸を置き、一層真面目な顔になった。

 私と目を合わせた後、穏やかな口調で切り出す。

「君に、言おうと思ってたことがある」

 改まった調子に聞こえた。

 私も合わせて、居住まいを正す。

「何でしょうか」

 何を言われるのか、不安に思う暇もなく彼が言った。

「君はもう少し、もうちょっとでいいから、僕を頼ってくれないか」

 本当に、心から、意外な言葉だった。

 私はぽかんとしてしまい、瑞希さんに笑われた。

「僕、おかしなこと言ってる?」

「い、いえ、そんなことは……」

「まず、僕は君の上司だろ。……仕事の話はしないって言ったけど、これだけは言わせて欲しい。仕事のことでも何かあったら、ちゃんと頼ってくれないか」


 私は今までだって、彼を頼りにしていたつもりでいた。

 渋澤課長は上司としても頼りがいのある人だったし、部下としてその仕事ぶりに、日頃から尊敬と安心感、それに憧れを覚えていた。

 だけどそう言われたということは、彼は私の勤務態度に意見をしたいと思ったのだろう。

 だから私は黙って、彼の言葉の続きを待った。


「何でも一人でできるなんて思わないでくれ」

 瑞希さんが続けた。

「大変な時は無理しないで、ちゃんと頼ること。もし僕が手が離せなくて、すぐに君を手伝えなくても、他の人に任せたりすることだってできるだろ。無理して怪我をしてしまったら元も子もない」

「……はい」

 捻挫をした時のことを思い出し、私は猛省した。あの時は彼の言う通り、何でも一人でできると思い込んでいた。そんなことはなかったのに、あの時の私は不注意で、無茶をしていただけだった。

 頼もしい上司の下で、私はいい部下でありたかった。有能とは到底言えるような人材じゃないけど、せめて働き者としてありたかった。彼の為に頑張りたい、と心から思った。

 だから、頼ることなんて考えもせず、一人で済ませてしまおうと思った。

 だけど結局、それは自惚れだった。そうすることで彼にどれだけ心配をかけ、辛い思いをさせてしまうかなんて、一切考えていなかった。

「本当に、ごめんなさい」

 私は頭を下げ、瑞希さんはそれを微笑み一つで受け止めてくれた。

「うん、わかってくれればいい。仕事の話はこれで終わりだ」

 それから、まだ穏やかな声が語を継ぐ。

「仕事以外の面でも、是非とも僕を頼って欲しい。君はいつだって遠慮したがるけど、僕は君に頼られた方がずっとずっと嬉しい。わかるよな?」


 わかる。私だってそうだった。

 彼にとって頼れる部下でありたかったし、彼の為に何かできるような、頼れる恋人でありたかった。現実はこんなものだったけど、でもだからこそそう思っていた。彼の為に何かをしたい、ずっとそう思っていた。

 頼られるのはよくても、人に頼るのは得意じゃなかった。これまでは誰にも気が引けて、頼ることも上手くできなかった。瑞希さんに対してもそうで、せっかく傍にいてくれる彼に、これ以上を望んだり、求めたりすることなんて考えられなかった。

 だけど、彼が望んでくれているなら。

 彼が頼って欲しいと思っているなら、私はそれを心に留め、忘れないようにしなくてはならない。


「僕には甘えてくれてもいいんだ。君の為に何かできるなら、僕はそれが一番嬉しい」

 瑞希さんは包み隠さず、胸のうちを明かしてくれた。

 だから私も、満ち足りた思いを彼に打ち明けようと思う。

「ありがとうございます、瑞希さん。私、すごく頼りにしています」

 口にしたのは月並みな台詞だったけど、それでも本心には違いなかった。

 今はすごく、幸せだった。

「だけど、もったいないくらいに幸せで……これ以上を望んだら贅沢じゃないかって思ってました」

「贅沢なんてことない」

 彼は言って、かぶりを振る。

「これからもっと幸せにするよ、一海」

 きれいで、とても優しい人。

 瑞希さんはその言葉ですら、うっとりするほどきれいで美しい。この人を好きになってよかったと、改めて思う。

「……瑞希さん」

 私はフォークを置き、姿勢を正して彼を見つめた。

「あの、私も……お話ししたいことがあるんです。聞いていただけますか?」

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