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楽しいことなんてない。
面白いことなんて起こらない。
それが口癖になってから、もう何年経っただろう。
他人に言われるまま、流されるようにして生きてきた。
自分で何かを決めたことなんて、ほとんどないと思う。
僕はそれでかまわなかった。
客観的に見れば自分は不幸な人間なのだろうけれど、自分の中ではそうは感じていなかった。
みんな同じだ。
どこかしらみんな、大変さを抱えて生きているのだろうから。
だけど。
そんな僕に、神様は要らぬお節介をしてくれたのかもしれない。
比喩ではなく、文字通りの意味で。
夜。
いつものようにシングルサイズのベッドにひとり潜り込んでうとうとしていると、どこからか音が聞こえてきた。
トントン。
トントン。
何だ……?
僕は耳を澄ます。音は近かった。玄関の方ではない。そう、それは紛れもなくベッド横の、カーテンを閉めた窓から聞こえていた。
僕の背中にゾッと寒気が走る。
ここ、八階だぞ……?
音は鳴りやまず、それどころからリズミカルなノリでもって窓を叩き続けている。
トントントットトトントトントン
トントトトトットトントントトト
「うるさい!」
僕は叫んで、意を決してカーテンを開ける。
そこには天使がいた。
天使はかわいい女の子の姿をしていた。
「あーけーてー! あーけーてーくーだーさーい!」
喚きながら彼女は手をグーにして窓を叩く。体でグイグイと窓を押す。
僕はといえば、驚きのあまり呆然と立ちすくんでいた。頭の中はハテナマークで埋め尽くされている。
けれど、とりあえずは……。
僕は彼女に言われるがまま、窓の鍵を開けてスライドさせた。
急に開いた窓に対応しきれなかったのだろう。少女は勢い余って部屋に飛び込んできて、そして僕と衝突した。もつれ込んで床に転がる二人。彼女からは何だか甘い香りがした。
「何なんだ、いったい……」
ようやっと立ち上がりながら僕は呟く。少女は白いフリフリの服を着ていた。ロリータファッション? 僕にはよくわからない領域だ。
彼女はしばし床にうずくまっていたが、ハッと顔を上げ、きょろきょろ辺りを見回す。そして僕を見つけるなりパアッと輝くような笑顔を見せた。
「泉真也さんですね? ですよね?」
「まあ、はい」
「よかったあ。間違えてたらどうしようかと思ったですよー」
彼女はほっと胸をなでおろしたように「てへっ」と笑う。
「全然良くないですよ。何なんですかいったい」
「あああ、ごめんなさいー」
謝ると彼女は、その場にずずいっと正座になり、昔の侍みたいに頭を下げた。背中に生えた小さな羽がよく見えた。
「これから一年間、よろしくお願いします」
「はあ!? 一年間!?」
何を言っているのか本当にわからない。
「えっ、ほんとに何も知らないですか」
「はい」
「おっかしいなあ。通知がもう行っているはずなんですが」
「通知……………………あ」
僕はゴミ箱から一通の封筒を取り出す。宛名にある「天国」の文字を見て速攻で投げ捨てた奴だ。
ぺりぺりと封を開ける。
*
天使試験パートナー当選のお知らせ
泉真也殿
あなたは厳正な抽選の結果、天使試験のパートナーに選ばれました。一年間、天使見習いがあなたの身の回りをサポートいたします。あなたに守るべきことや罰則はありませんので、自由になさってください。
詳細は近日中に訪れる天使見習い自身に尋ねていただければと存じます。
よろしくお願いいたします。
以上。
*
読むんじゃなかった……。
まるきり意味が分からない。
「天使見習い……ってあなたのこと?」
「はい! 加奈っていいます! こんごともよろしくです」
「急にいわれてもなあ……天使試験って何なんですか」
「そうです、天使試験なのです!」
彼女は立ち上がって拳を固めた。
「天使見習いが一人前の天使と認められるための試験なのです! とても大切なものなのです!」
「ふうん……」
国家公務員試験みたいなものだろうか。
「天使試験は私のような天使見習いが地上に降り立って、一年間パートナーさんのお世話や手助けをするのです。それで最後にパートナーさんの幸福度が充分に上がっていれば合格、となるのです。私、がんばるのです!」
何とまあ傍迷惑な話である。
天使の存在そのものには、僕は驚かなかった。この世界に天使という存在がいることは、人類の共通認識になっている。滅多に人前に現れることはないが、現れた際には奇跡を見せてくれるのだとか。
「加奈さん、何歳ですか?」
「百五十歳ですよー」
「ひゃ……」
「人間とは時間の流れが十倍違うんです。だから人間に換算すると十五歳です」
「なるほど……じゃあ同い年だ」
僕は今年ちょうど高校に進学したばかり。それから一月経って今は五月だ。
「そうですよー。パートナーは同年代から選ばれる決まりなんです」
「そのパートナーってやつなんだけど」
僕は訊く。
「パートナーとして、僕は何をすればいいんだろう」
「何もしなくていいです」
あっさりと加奈は言う。
「私が手助けしますから、幸福になってもらえれば、それでいいです」
「じゃあ何さ、いま僕は不幸だと、そういうこと?」
「そうですねー、他人より幸福度が低いのはたしかだと思います。そういう人の中からパートナーは選ばれますので」
「……いい迷惑だよ」
僕は口を曲げて言う。
「勝手に不幸だなんて、決めつけないでほしいな」
「あれれ、幸福なんですか?」
「……」
僕は考えてみる。
自分はいったい、幸福なのか?
「……小学五年生の時さ、交通事故にあったんだ」
「事故?」
「家族旅行の最中に、高速道路でさ。完全に相手のほうが悪かったんだけどね。巻き込まれたみんなが死んで、僕だけギリギリ生き残った」
「あらー……それは大変なことでした」
「そう、大変だった。一時は親戚の人に引き取ってもらったんだけど、あんまり良い人たちじゃなくてさ。結局は追い出されて、一人暮らしすることになった。保険金やら貯蓄やらで、お金は充分にあったしね」
とはいえ大学に行けるかは微妙だけど。
「はあー、それは不幸です」
「だからそれが違うんだよ」
僕は首を振る。
「たしかに客観的に見て点数を弾き出せば、僕は不幸なのかもしれない。でも僕がそう認めなければさ、それは不幸じゃないんだよ。実際僕は『こういう人生もある』としか思ってない。だから僕は不幸でも何でもない、普通の人間なんだ」
僕は話しているうちに少し熱くなっていることに気づく。必死、と言い換えてもいい。
「……どうしてです?」
加奈は心底不思議そうに首を捻った。
「別に、不幸でもいいんじゃないですか?」
「認めたら余計不幸になるじゃないか!」
僕は言う。少しだけ、痛いところを突かれたような感覚があった。
「別に恥ずかしがることでも強く否定することでもないですよ。不幸であるというのはただのステータスです。だからこそ、幸福へと転じることも可能になるんですよー」
まあ、教科書の受け売りですけどー。
そう言って彼女は「てへっ」と笑った。
「心配いりません、真也さん。私が一年間かけて、あなたを幸福にしてみせます!」
「……やれるもんならやってみなよ」
それは僕の諦め宣言だった。
他人に言われるまま、流されるようにして生きてきた。
その方針を、また貫いた。それだけのことだ。
「ありがとうございますー! じゃあ、はじめの挨拶として……」
言うが早いか、彼女はしゃがんで「んんっ」と体を震わせた。途端に、小振りだった翼がバンと巨大に広がった。それは部屋を埋め尽くさんばかりの勢いだった。たくさんの白い羽根があたりをふわふわと舞った。
「あとで掃除しておきますー」
申し訳なさそうに彼女は言ってから、
「じゃ、真也さん。ベランダ開けて、背中に乗ってくださいー」
「背中に?」
「そうですー」
彼女が何をしたいのか、大体は想像がついた。
ため息をつきつつ、僕は彼女の言うとおりにする。
「しっかり肩につかまったくださいねー! それじゃあ、いきますよお!」
ぶおんと一発、大きな羽ばたき。空気の渦がごうごうと鳴ってそして加奈と僕は、宙に浮いた。
「それっ!」
ベランダを飛び出し、見る見るうちに高度を増す。東京の高層ビル群が明るい星空のように眼下に広がっている。
「どうですかー、気持ちいいでしょー」
「……まあ」
そうでないと言うと嘘になる。
僕が今体験してる事柄は、見ている光景は、あまりにも楽しくて美しくて、きっとこれは夢なんだろうと思う。明日になったらまた今まで通りの、楽しいことなんて何もない毎日が始まるに違いない。
「私と真也さんの、最初のランデブーですよー」
「ランデブーの意味が違う!」
加奈の言葉に僕はちょっとだけ笑った。
*
気がつくと僕はシングルベッドで眠っていて。
何だか良い香りがして横を見ると加奈が横で一緒に眠っていた。
「うわわっ!」
僕は思わず飛び起きる。
「何やってるの加奈さん!」
「……へ?」
彼女は寝ぼけ眼で僕を見る。
「……だって、他に寝る場所ないじゃないですかー……」
「だからって、男と女がふたりで……」
「ふたりで何ですー……?」
「だから、その……」
僕は次の言葉が出ない。顔はきっと赤くなっていることだろう。
「楽しかったですねえ……ランデブー……」
むにゃむにゃいいながら加奈はまた眠りについてしまった。
僕は盛大にため息をつく。
天使試験云々が夢でも何でもなかったこと。
加奈の存在が夢でも何でもなかったこと。
一緒に空を飛んだのが夢でも何でもなかったこと。
楽しいことなんてない。
面白いことなんて起こらない。
そんな口癖が、今回ばかりはどうしても口をついて出てこなかった。