8.閉塞感
「昨日のクロック、聴いた~?」
クロック・ロック-クロックのラジオ放送の翌朝、彼女たちの会話はいつもこのセリフで始まる。
「…て、明美は…」
「あ、うん、いい、いい。普通に話、してよ」
幸いにして仲間の輪から外れずに済んだが、一つ、話題についていけなくなった。明美はピンクの財布を思い浮かべた。そうすると胸が温かくなり、何も気にならなくなった。仲間たちが目を輝かせてクロック・ロック-クロックの話題をおさらいするのを、明美は静かに聞いていた。
(みんな、可愛いな…。他愛ないことに夢中になれて、いいな…)
以前は自分もこの中にいた。「灯也くん」という言葉を一日に何十回も口にして…。
「他の人には、名前の由来って、ないのかな」
「灯也くん」
「…なさそうだね。照らす、とか…灯の字に、そのくらいの意味はあるのかな」
「でも、『ともしび』どころじゃなくて、光り輝いちゃったね。光也とか、輝也の方がよかったかもね~」
4人は笑い、明美は微笑んだ。硝子はそんな明美の態度に不快感をおぼえた。
結局、明美は友人の輪の中で、最初の一度だけしか言葉を発しなかった。
『財布使ってる? 捨ててない? 広瀬灯也』
『大切に使ってます。すごく可愛いです。それに、広瀬さんからもらったと思うと自分に不思議な力がわいてくるのを感じます。つらいことがあったり、元気が出なかったりしたら、お財布のことを頭に思い浮かべます。そうすると胸が温かくなって、元気になれます。ありがとうございます。心から嬉しいです』
嬉しいっていう感情を表現する言葉は「嬉しい」だけ…。明美は灯也の言葉を反芻した。でも、やっぱり「嬉しい」なんて言葉では語り尽くせない気がした。「嬉しい」どころじゃないくらいに嬉しいとき、いったい人はそれを何て表現すればいいんだろう。
ふと、『愛している』という言葉が浮かんだ。それは財布のことではなく、自分の、灯也に対して果てしなく広がる気持ち。
(13歳でそんな言葉を使うのは、おかしい。だけど、私の今のこの強い気持ちは、…ただ好きとかそういうものじゃないと思う)
灯也のまなざしひとつを思い出しても溶けていきそうな甘い気持ち。今この瞬間にでも会いに行きたいもどかしい気持ち。
『私が広瀬さんを愛してるって言ったら、驚きますか?』
明美はメールの最後にそう付け加え、そして一文字ずつ丁寧にその一文を消してから、お礼のメールを送信した。
広瀬灯也からプレゼントをもらったからといって、軒田明美はあくまでも控えめなファンの域を逸脱しなかった。灯也は宙を見つめ、不適な笑いを浮かべた。
中学一年生と深い仲になって、それが露呈したら、とんでもないことになるだろう。でも、明美の無垢な世界を壊すことを想像すると、それはあまりに甘美だった。明美はきっと、今まで誰も与えてくれなかった宝物を持っている。
灯也は少し前の閉塞感から解放されていた。歌っている声が自分で気持ちいい。声の振動が体に響く感覚も、気道から空気がすっと抜けていく感覚もいい。作詞は…才能はなかったとしても、「広瀬灯也が書いた詞」ならある程度使ってもらえるだろう。
(俺が広瀬灯也である限り、最悪…ってことはないだろ)
エッセイとか、小説とか、書いてみればきっと売れるだろう。もう少し落ち着いたら、そういう方面にも手を出してみたい。デビューシングルが発売になる日、灯也は、高校生時代から書きためていた小説やエッセイのアイデアのノートを燃やしてしまった。なんだかずっと歌をやって生きていけるような気がしていた。ほんの数年でも、大ヒットしさえすれば十分に儲かって、あとは悠々と自由に生きている気がした。デビューとは、芸能人になるとは、そういうことだと思っていた。
しかし、芸能界に4年近くもいると、案外そうでもないことに気付く。芸能界で成功できたとしても、そこで長く生きていくのがどんなに困難か、灯也はもう知っていた。恐ろしい速さで飽きられていく芸能界。クロック・ロックというバンドの形でなく、自分だけでデビューしていたら、人気は1年ともたなかったんじゃないかと思う。
クロック・ロックが解散するとき、広瀬灯也はどうするんだろう。
灯也は、一応はまだ「遠いもの」としてではあるが、「次の道」を真剣に考えていた。クロックが順風満帆の、今のうちにそれなりの準備をしておかなければならない。人気の名残があるうちに動けるのと動けないのとでは、売り出すときの話題性が全然違う。
灯也はタバコに火をつけた。肺の奥まで吸い込んだら、少しむせた。タバコをやめた方がいいのだろうか。今のこの歌声を失いたくはない。
売り出そうと必死になっていたときより、臆病になり、打算的になっている自分がいる。滑稽だった。灯也はうっすらと自分を笑った。
蓮井まどかは、灯也の携帯電話の留守番電話にメッセージを入れた。
「忙しいの、知ってるけど…約束、待ってます」
ショックだった。ヌード写真集の話が来た。それだけでもショックだったのに、プロデューサーの言葉がもっとショックだった。
『まだ、今なら売れるんじゃないかな。やってみたら?』
「まだ、今なら」…。その言葉に驚いて黙っていたら、先方が提示してきた契約条件を見せられた。ギャラの低さにとどめをさされた。その場で断ったが、事務所が本当にその依頼を断ったかどうかはわからない。
ヌード写真を撮ることについては、そう嫌ではない。でも、美しさを披露するためのヌード写真集と、落ち目で最後の手段として出すヌード写真集は違う。引退も覚悟と言われた後での今回の打診は、間違いなく後者だ。
灯也からの連絡も全然来ない。あしらわれたのかもしれない。
独り暮らしの部屋で、まどかは手首をじっと見た。自殺未遂事件でも起こしたら、誰か同情してくれるだろうか。でも、女優の肌は商品だ。リストカットの跡はつけたくない。
失踪したら、誰か探してくれるだろうか。
蓮井まどかは追いつめられていた。
灯也は自分の番号を非通知にしてまどかに電話をかけた。まどかが電話をとってしまった時はそのまま切った。何度か繰り返して、やっと留守電になっているタイミングに当たった。早速、通知に切り替えてもう一回電話し、留守電を入れた。直接まどかと話さないための手段だ。
「ゴメン、本当に忙しいんだ。約束を忘れた訳じゃないから」
もちろん嘘だ。
(でも、しつっこいから、1回くらい会っとくか…。で、今、好きな人がいるから…とか言って振り払って)
好きな人か、と灯也は苦笑した。
(今、一番好きな女の子は、中学生の明美ちゃん…かな? すっごい、興味はある。そう、解剖したいくらいに)
明美のあらぬ姿を想像すると、えもいわれぬ快感がこみ上げてきた。
(俺なりの恋愛の行き着く先に、中学生が勝手についてくるんだったら、それは犯罪ではないっしょ)
虫ピンで留めて、麻酔をかけて…。灯也はえげつない妄想に身を浸した。
灯也は来月のオフに合わせてウィークリーマンションの契約をした。場所は大塚駅の向こう側。そこを自宅と偽って明美に教えるつもりだった。「外で会うのは、人目があって落ち着かないから…」。すぐに手を出そうなんて思ってはいない。まずは、何度か下準備をしなければ。
そして、灯也は明美にメールを出した。
『10月、2日続けてオフがあるのは13、14日になりそうなんだけど、どっちか会えないかな? 特に、用があるわけじゃないんだけど。その辺を空けておいてくれると嬉しいな。 広瀬灯也』
明美は100回くらいそのメールを読み返した。
『用があるわけじゃないんだけど』
(じゃあ、どうして? …なんで、忙しいのに、少ない休みの時に、用もないのに、私に声をかけるんだろう)
でも、灯也に「どうして?」と訊く勇気はない。
『お誘いありがとうございます。絶対に空けておきます。でも、忙しかったらいくらでもドタキャンしてください』
返事はそれしか書けなかった。自分の中にうぬぼれた期待がわき上がってくるのを抑えられなかった。余計なことばかり書きそうになって、読み返すたびに反省して、煩悶の末に明美の返事は事務的に短いものになった。
翌日、明美はろくに眠れず、朦朧としたまま学校にいた。友人に「ボーッとしすぎ」「どうしたの?」などと言われても、明美は力なく笑顔を作って、
「…ん、…寝不足」
と答え、あとはやっぱり朦朧としていた。
大原硝子は明美をじっと見た。周りは同レベルの優等生だらけだから、テストの点数が5点でも下がれば、順位が平気で何十位も下がる。にもかかわらず、明美は授業中にいつもぼうっとしている。
体育の時間、硝子はわざと教室に忘れ物をした。取りに戻ると言って一人教室に戻り、明美の机を開け、そこにあったノートを開いた。
(…なに、これ)
明美のノートには板書はほとんど写されていなかった。時折思い出したように板書の内容が書きなぐられていたが、ノートのあちこちに『灯也くん』『用はないんだけど』『13、14』という言葉がちりばめられていた。
(…明美、おかしいよ…それ)
彼氏ができたんじゃないかと思っていたが、灯也の名前を繰り返し書いている以上、どうやら違う。
(じゃあ、私の名前を使って夜出掛けてたのも、追っかけに行ってたとか…?)
仲間たちと「追っかけとかやる人って、バカだし、迷惑行為だよね」と盛り上がったこともあった。明美が正直に言えなかったのも無理はないと思った。
とにかく、明美に向けていた不信感がおさまり、硝子は安堵した。
プロデューサーの織部重信は、クロック・ロックリーダーの垣口里留と、里留の自宅近くの飲み屋で今後のクロック・ロックについて話し合っていた。
夏のツアーが成功に終わった時点で、事務所から織部に内示があった。クロック・ロックはもう織部が仕掛けなくても売れる。今、売りたい新人がいくらかいるから、そっちに回ってほしい…ということだった。
「俺の後には、プロデューサーとして中堅どころの誰かをつけるって話だよ。俺は、里留でいいだろって言ったんだけど、事務所としては野放しにはできないから、社内の誰かを絶対つけるってさ」
「誰かって…誰ですか」
「…一応、今年で見切った新人のプロデュースしてたあたりから見繕うらしいけど…、天下のクロック・ロックに見切って手が空いたとこから拾うことはないだろ、って言ったんだけどね。逆に俺が叱られたよ」
織部は笑った。里留はプロデューサーのチェンジを認めたくなかった。クロック・ロックの音楽は自分たちで決める。織部はデビューからここまで連れてきてくれた仲間だから従った。でも、これから来るプロデューサーの言うことを諾々と聞けるとはとても思えない。芸能界が簡単なところじゃないのも知っているし、事務所がこの業界でひととおりの力を持っていることも知っている。だからって、確固たる地位を築きつつあるクロック・ロックが、ただ事務所の言いなりに音楽をやっていくのは…。
「それで、まあ、クロック連中の意見も聞いてみようかと思ってさ。だからとりあえず、里留に相談しに来たんだけど」
「でも、決定なんでしょ?」
「さあ、どうかな。俺がクロックと心中するって言ったら事務所がどうするか、とかね」
「俺らとの心中は、勧められませんけど…。今後、クロックがずっと売れていく保証もないし…」
「いや、クロックが売れなくなったら、他の何かを売り出してそっちについてくから、お構いなく」
里留は、織部の表情特徴から、事務所の内部で交わされた話はもっと厳しいのかもしれないと思った。クロックに、もうトッププロデューサーをつけておく必要はないということか。実は、次のプロデューサーは自分になると信じていた。織部がサブにまわり、クロックのセルフプロデュースの形をとると…。
2人の男は失望をなめながら黙って向かい合って座っていた。やがて、織部が思い出したように顔を上げた。
「ああ、それから、灯也のソロだけは、俺が残るから」
「あ、…そうなんですか、あいつも喜ぶっしょ」
「灯也は不安定だからな。まだ大人になりきれないっていうか、まわりがおだてて歌わせてやらないといけないところあるし」
里留は苦笑した。
「それはあいつの才能と表裏一体だから仕方ないでしょ。俺は、大人になったら、灯也の歌は枯れると思ってます。あいつの魅力とパワーは、子どものソレですからね」
「うん、…それでもあいつなりに、最近成長してきたなと思うけど。作詞の時は、ふてて投げ出すかと思ったら、いいものに直してきたし…」
「さすがにいつまでも子どもってわけにもね。歌で売れなくなったらどうしよう、っていう考えが時々浮かぶんだって言ってましたよ。でも、そういう計算を始めたら、俺、灯也はただ歌が上手いだけのありふれたシンガーになってしまいそうな気がして…。灯也がいつまで剛速球を投げていられるか…、まあ、荒れ玉ですけどね。でも、結果を恐れないで投げないと出せない160キロのストレート、俺はそれを失ってほしくない」
今まで、「変わっていく」ということは、楽しいことばかりだった。けれど、この変化を漠然と「危機」のように感じている自分に気付き、里留は、確かに今がクロック・ロックのひとつのピークなのかもしれないと思った。