7.恋愛感情
以前も来た新宿の「落陽」で、灯也と明美はお茶を飲んでいた。灯也は明美の態度の変化を感じ、心地よい背徳感に身を浸していた。
以前は灯也の顔もまともに見られなかった明美が、熱のこもった瞳で見つめるようになった。口調は相変わらず遠慮に遠慮を重ねていたが、その中にほんの少し、服の端をつかむような執着心が見て取れた。文庫本を一冊貸すのにも明美はしどろもどろで、言いながら感情が激しく入り乱れているようだった。返してもらうときに会いたい、でもそれは言えない、でも少しわかってもらいたい…、そんな態度だった。
灯也は明美に借りた本をバッグに仕舞った。それだけで明美の顔が輝いた。灯也はそのまま、開いたバッグからプレゼントの包みを取り出した。
「それでね、今日は、明美ちゃんにお礼をしようと思って…」
明美の顔が、頬でも打たれたかのように衝撃を受けた変化を見せた。灯也は笑いそうになったが、なんとか普通の笑顔に切り替えた。
「君と話した内容で詞を書いたから…」
灯也は明美の前に包みを差し出した。明美はまばたきを繰り返すだけで微動だにしなかった。
「…受け取ってよ。別に、ほんの気持ち程度のものだから」
明美がそれでも動かなかったので、灯也は、
「手がつっちゃう」
と言って明美をにらんだ。
「…いや、あの…」
明美はそう言って目を上げて灯也を見て、それから慌てて包みに目を落とし、両手で受け取った。でもそのまま、また静止した。
「受け取ってよ。女の子にプレゼント受け取ってもらえなかったなんて、俺、すげーみじめになっちゃうから。別に、それで援助交際させろとか、そーいう話じゃないし」
灯也の言葉が終わるより早く、明美は真っ赤になってうつむいた。
「…え? 俺、なんか言った? って、…援助交際のとこ、本気にしたの??」
灯也は驚いて訊いた。明美は必死で両手と首を横に振った。
「冗談なのはわかってます。でも、冗談でも、そういう…」
自分と灯也がいかがわしい関係になるなんて、言葉でだってこの世界に存在してはいけない。相手がどんなに好きな人でも、どんなに憧れた相手でも、性的な仮定なんか入ってきてほしくはなかった。
灯也には明美の中にそんな感覚があることに思いは至らなかったが、明美が反応したキーワードが「援助交際」だったことは把握した。
「ゴメン、『じゃない』って言ってるんだからカンベンして。俺、犯罪者になりたくないし」
冗談なのは明美にもわかっている。ただ、精神世界に、まだ誰も――自分でさえ踏み込んでいない領域があって、その場所を意識させられたのがショックだった。明美のそんな感情に気付かないまま、灯也は話を続けた。
「明美ちゃんが、国語で教わったって言ってたじゃない。名作文学が、嬉しいんだったら、嬉しいって言葉を使わないで表現するって。俺ね、それを参考にさせてもらったの」
灯也はそこで満面の笑みになった。心の中には深い嘲笑をたたえていた。
「俺、名作文学とか嫌いでさ。なんか、延々と退屈な自然描写続けて、そこから何も感じ取れない奴はバカだ、みたいな授業、楽しい? …葉っぱが揺れたとか、雲が流れたとか、そんなのを読んで主人公が嬉しいとか悲しいとか、そんなの表現できた気になってるのは作者だけじゃない? 空がどんなに晴れてたって失恋する時はするし、木漏れ日がまぶしくて風が涼しかったって人は死ぬんだよ。…明美ちゃんがその国語の授業の話をしてくれた時に、俺、その先生にちょっと腹が立ってさ」
明美は目を見開いて、驚きの表情でじっと聞いていた。
「嬉しい時は嬉しいんだよ。その感情を表現するために嬉しいって言葉があるんだよ。嬉しい感情を一番正確に表現してるのは、嬉しいって言葉そのものなんだよ。例えば、俺のことをいろんなネタ使って描写することはできるけど、俺を指す言葉って『広瀬灯也』しかないんだよね。それをまわりからちょっとずつ特徴言って、俺を表現した気になんて、なってほしくないなって思って」
灯也は勝ち誇ったようにしゃべっている自分が不思議だった。中学校の先生の言葉に反発して、中学生相手に息巻いてどうするんだろう。でも――「大人の世界」では口にできなかったたくさんのことが、この閉じた世界では、いくらでも言えた。
「それでね、ダメ出しされた俺の詞を直したよ。痛いとか、熱いとか、はっきりと伝えたいところは思いっきりストレートな言葉にしたんだ。たぶん国語の試験ではいい点なんてとれないと思うけど、メンバーも、プロデューサーもOK出してくれたよ。…俺、だから、すごく明美ちゃんには感謝してるんだよ」
明美はぽかんとしていた。灯也が国語の先生の言葉に反発した理由がちっともわからない。嬉しい、楽しい、悔しい、悲しい…なんて言葉ばかりでは「この本をよんで、たのしかったです」という小学校低学年の作文になってしまう。
「…まあ、難しいことはいいよ。俺はこれでも一応社会人で、しかも一応、プロと名のつく仕事をやらせてもらってるんだからさ。君にはわからない世界もあるよ」
明美は自分が灯也との会話にしばしばついていけなくなることにショックを感じながら、それを悟られないように、とにかくうなずくだけうなずいてみせた。
「包み、開けてみてよ。…ってなんかさ、目の前で開けさせるのって傲慢というか、あとロマンもないような気もするし、俺はあんまりやらないんだけど…今日は、特別」
明美は灯也の言葉に素直に従った。まるで夢みたいで、これが単なる空箱だっていいと思った。
開けると、中身はスモーキーピンクの財布だった。明美の、可愛らしくて地味な風貌にとても似合っていた。明美の好みにも合っていて、すぐに「可愛い」と思った。しかし、さりげなくついている焼印のマークを見て、明美はびっくりした。ブランド名なんかほとんど知らない明美ですら、有名すぎて知っているブランド名が入っていた。
「これ、高いんじゃないんですか?」
明美の悲鳴に、灯也は思いっきり笑顔を作った。
「高いよ。でも、俺の収入も高いんだよ。キミには高いかもしれないけど、俺の仕事からくる社会のバランスっていうものがあるの。だから、堂々と受け取って使ってよ」
さあ、どう出るかな、と灯也は思った。ブランド物に飛びつくのはバカと言い切っていた明美が、このプレゼントをどう感じ、どう対処するか。
「…私、…受け取れません…」
明美はうつむいた。灯也は何よりその理由が知りたかった。遠慮なのか、それとも…。
「それは、ブランド物が嫌いだから?」
「え、いえ、違います」
明美は慌てて顔を上げ、必死の顔で灯也を見返した。
「じゃあ、なんで?」
「あの、中学生にはこんな高級品、身分不相応です。良さもちゃんとわかんないし、高価すぎるし、私には…」
一瞬、明美の脳裏に硝子をはじめ友人一同の顔が浮かんだ。自分がこれを使っていたらどういう顔をするだろう。
「明美ちゃん、それは違うよ。それは、俺、値段とかブランドとか、そういう理由で選んだわけじゃないんだよ。キミに似合うと思ったから、キミに使ってほしいから選んだんだよ。もしそれが一山いくらのワゴンの中にあったって、俺はそれを買ってたと思うよ」
灯也は真摯な顔をしながら、内心では舌を出していた。
「それとも、明美ちゃんは、俺のこともブランドに飛びつくバカって思ってる? 成金趣味のろくでもない奴とか」
明美は慌てて両手を振りながら、
「絶対に、そんなこと思ってません」
と言った。灯也はとどめとばかりに優しい声で訴えた。
「ブランドだからって理由だけで買う人と、ブランドだからって理由だけで認めない人って、結局、同じじゃない? 俺はブランドであろうがなかろうが、それがいいものかどうか、自分の価値観で決めただけだよ」
明美は自分の鼓動が早くなるのを感じた。
(…ブランドだからってだけで、全部なんでもバカにしてたかもしれない。今だって、ブランドのマーク見たら、硝子の顔とか浮かんだし。私がどう思ったかとか、このお財布がどうとかはなくて、「ブランド物だ」としか感じ取れなかった、…そんな私って、もしかして、すごく視野の狭い人間だ…)
母にも言われた。『世間の子が普通にやってることをみんなバカ、バカって言ってるじゃない?』…。
そう、目の前のこのスモーキーピンクのお財布が明美にとってどうなのか、そして広瀬灯也が明美にプレゼントしたいと思ってくれたその気持ちがどうなのか、プレゼントは本来それだけのものだ。
スモーキーピンクをじっと見つめると、子供みたいな少女趣味でもなく、下品な安っぽい色でもなく、確かに可愛いけれど適度に控えめで、とても雰囲気がよかった。大人っぽくもなく、これ見よがしに高級そうでもなく、そして可愛い。
「…やっぱり、気に入らない?」
灯也は明美の中の変化をしっかり感じ取りながら、笑いをこらえていた。
(俺だって、ブランドだからなんでもいいっていうのはおかしいと思うよ。でも、ブランドって、名前があるからこそ、作るのに手が抜けないっていうのはあるんだよ。無名の人だったら、立ちションしたって風俗行ったって勝手だけど、俺は、広瀬灯也って名前があるから最低限品行方正にしてるんだよ。それは、無名の人より確実に責任が重くて、維持するのに努力を必要とするんだよ。名前って、重いんだよ)
灯也が心の中でそんな言葉を投げつけていると、明美は今にも泣きそうな顔でつぶやいた。
「…すごく可愛いです。…それから、…広瀬さんがこれ、私に似合うとか思って、店で買ってるの考えたら、すごく嬉しくて…」
明美は目を潤ませていた。
「うん、受け取ってよ。ブランドのマークが気に入らないければ、上からなんか書いちゃってもいいし。ね」
灯也のいたずらっぽい瞳に、明美は慌てて、
「あ、あの、私、別にブランドだからどうとか、もう思ってないですから」
と必死で言い返した。
明美は、もらった財布を温めるように両手で包んでずっと見つめていた。灯也はすっかりいい気分になった。
「明美ちゃん、それ、10年でも20年でももつ、いいものだと思うから、使ってよ。よく、プレゼント大切に仕舞いこんじゃう子いるけど、俺は使ってほしいほうだから」
灯也は財布のスポンサーを怪しまれたときのアドバイスも抜け目なく教えて、その日も地下駐車場から帰っていった。
夕食の席で、明美は早速親に言い訳を始めた。
「実はさー、こんなの当たっちゃって」
そうして、プレゼントの包みごと財布をテーブルの上に出した。
「当たった?」
両親は同時に言った。明美は、緊張していたはずが、灯也のことを思い出して嬉しそうに笑ってしまった。その態度はうまく緊張を隠してくれた。
「今日の昼、ラジオの公開録音に行ったら、ファンサービスの抽選会があって、当たった」
「ラジオ?」
「私いつも聴いてるじゃん、クロック・ロック-クロック」
「ああ、クロック・ロックのラジオか」
父親は淡泊な返事をした。母親は「そういえば」程度の顔をした。
明美は財布を開いて、ブランドのマークを親に見せた。
「あら、それ、ブランドじゃない、そんな高いの…」
「偽物なんだって」
ブランド物が嫌いな明美が急にブランド物を持つようになったら絶対に怪しまれる。友達ならまだしも、親に怪しまれるのはやっかいだ。灯也はこのプレゼントから自分のしっぽがつかまれることのないよう、先手を打って明美に指南しておいた。明美はぬかりなく灯也の言うとおりの芝居をしただけだった。
「明美ちゃん、これどうするの?」
母親は財布のあちこちを丁寧に検証しながら言った。明美は少しだけ緊張して、
「ん、使うよ」
と答えた。
「…あら、ブランド嫌いだって言ってたのに」
「え、でも多分これ、偽物だって気付かない人いっぱいいると思うし、デザインとか気に入ったし…、偽物を堂々と使ってるくらいの方が、反・ブランド派としてはいいよ」
やけに説明的なセリフを吐きながら、明美はなんでもないふりをしてご飯を食べた。
親と広瀬灯也の存在を比べたら、今の明美にとって親なんて軽いものだった。失敗したら灯也との縁が切れてしまうかもしれない。必死の思いが明美に力を与えていた。明美はその日、両親に、灯也に教わったとおりのたくさんの嘘をついた。
明美は自分の部屋に戻って財布を抱きしめた。
「…灯也くん」
親に怪しまれただろうか。いや、追及されなかったんだからもう大丈夫だ。今後外出をとがめられたり、素行調査をされたりしなければそれでいい。
明美は灯也とのメールをメディアにバックアップした。そしてメールを全部消した。親がその気になれば、明美のパソコンの中身をチェックできることくらい知っている。アドレスは残っているけれど…灯也のメールをそのまま登録したので、登録名は灯也の設定した表示の「Toya」だけ。これを広瀬灯也だと思う人なんて絶対にいない。
携帯電話がほしかった。携帯電話のメールなら、いつでもそばに灯也のメールを置いておける。もしかしたら直接、電話をもらえるかもしれない。そうしたら、メールだけのやり取りより会えるチャンスが増えるかもしれない。留守番電話にメッセージが入ったりしたら、永遠に消さずにおきたい…。
スモーキーピンクの財布。灯也は自分をどう見ているんだろう。どう思っているんだろう。明美は灯也がピンクを選んでくれたことが嬉しかった。女の子らしい、可愛い、そんな色に感じられた。ピンクはハートの色、恋の色。
(恋になるなんてこと…)
絶対にないと言えるだろうか。25歳って一体、どんな年齢なんだろう。自分は13歳。…でも、恋はできる。
明美はベッドに背中から倒れこんだ。何もする気になれなかった。
(灯也くん。会いたい。…2人っきりじゃなくても。ステージを見てるだけでもいい。目の前にいてほしい)
苦しかった。灯也と話せる立場にいる、会える立場にいる、メールも、プレゼントももらえる自分、それを嬉しいとは思うけれど…。
(灯也くんにとって、私なんて結局…)
ただのファン。何よりもそれが切ない。ただのファン…その言葉を明美は果てしなく繰り返した。
翌日、明美は硝子はじめ、クラスの仲間たちに、クロック・ロックのラジオの録音のメンバーから外してほしいと告げた。
「え、どうしたの」
「明美、クロック、飽きたの?」
驚く友人たちを前にして、明美はみんなの顔を見られなかった。録音の頭数からは抜けても、友人としての輪から外れたくはない。不安だった。でも、明美は正直に、
「ううん、全然飽きてない。…なんか、本気で灯也くんのこと好きになってきちゃって、つらいから」
と質問に答えた。硝子はじめ誰も言葉を返せなかった。クロック・ロックのメンバーと出会って、恋をしたい…。中学生の女の子たちの心の中に「もしかして」という気持ちは多かれ少なかれあった。明美を嘲笑したり、あきれたりする気にはなれなかった。
「たかがバンドのラジオのことだから、変に気にしないでよ」
「そうそう、これは趣味であって、義務じゃないんだしさ」
仲間たちは口々に言いながらも、明美に違和感を感じ取っていた。明美が、どんな形であれ、輪から外れたがるなんてことはこれまでなかった。
硝子は明美をじっと見つめた。自分の名前を使って親に嘘をついた明美は、今、また友人に隠し事をしているのではないだろうか。
(本気で好きになったのは、灯也くんじゃなくて、別の誰かのことじゃないのかな)
でも、みんなが明美に許容を示している以上、自分だけ異論を唱えるわけにいかない。逆に自分が仲間を外れるような事態になるのは避けたい。了解の態度を示しつつ、硝子は可能な限り明美を観察することに決めた。
明美は硝子のそんな気持ちに全く気付かず、案外穏やかにラジオの録音から抜けられたことを喜んだ。ラジオのトークなんて聞きたくなかった。それは、所詮大勢の人に向けた無難なトークにすぎない。
灯也にもらった財布を見つめた。援助交際、という灯也の声を思い出し、明美はヒヤッとした。
(どこまでが援助交際なんだろう? こんな高いものもらって、はたから見たら、これってそう見えるかな…)
本当は、自分は…灯也と会うことをデートと言いたい。でも今会っているのはデートじゃない。…だったら、灯也は一体何を考えているんだろう。もしかしたら援助交際だって、可能性のひとつとしてはないわけじゃない。灯也の「会おうよ」はいつか重大な出来事につながっていくんじゃないか…。
灯也から恋の言葉が聞けたら。手をつないで街を歩けたら。不意に抱きしめられたら。部屋の隅のCDプレーヤーから流れるクロック・ロックの歌が、灯也のリアルな声になって明美の中を通り過ぎていった。
『真夜中のシミュレーション 明日会ったらどうしてくれよう!
真夜中のシミュレーション 好きだ、そのままイキナリ抱擁!
そこから恋が始まる予定』
『お互いに震える唇 まさかと思いながら触れた
こんなこと ありえなかった 多分 昨日の今頃までは
奇跡なんて こんな月並みの ありふれた出来事
遠いとばかり思っていたふたり こんな近くにいたなんて』
『初めてでも大丈夫、目をつぶってればそれで終わります
枕元の花の香りでも楽しんでいらっしゃい
キレイになるとっておきのエステ いい男にシテモラエバそれが最高!』