5.池袋デート
「あ、お母さん、今日、晩ごはん友達と食べるから、いらない」
明美は平静を装って言った。前回はそれで通用したが、今回はそうはいかなかった。
「…あら、二度目ね」
母親は明美の顔を見た。明美は表情が変わらないように努力したが、あいにく親への隠し事に慣れていない優等生にはうまくできなかった。
「お友達って、誰?」
明美はますます顔が引きつった。父親も新聞から顔を上げた。
「そういえば、最近パソコンばっかりやってるみたいだけど、おかしなサイトとか、行ってるんじゃないだろうな」
明美は母親の質問を無視して、父親の言葉に反論した。
「おかしなサイトって、出会い系とかでしょ? 絶対、そんなとこ、アクセスしないよ。殺されに行くようなものじゃない。私、そんなバカじゃないよ」
「出会い系じゃなくたって、いろいろ、悪徳商法とかもあるみたいじゃないか。宗教とか、変なセミナーとかもあるし」
「そういうのにひっかかるのって、バカな人だけでしょ?」
「そういう先入観をもって、自分は関係ないと思ってる子がひっかかるんだ」
父親と明美がにらみ合っていると、母親が口を挟んだ。
「お父さん、明美は、そういうのにはひっかからないわよ。私は、彼氏でもできたのかと思って、心配して訊いてるんだけど」
「彼氏って、明美は中学入ったばっかじゃないか」
「最近の子は小学生でも男女交際なんかあたりまえなのよ」
両親の会話に、明美は思わず、
「私、そんなバカじゃないわよ。まだ13なのに」
と強い口調で言い返した。母親が逆に強い口調で言った。
「明美はそういうとこ、あるのよね。男女交際してるとバカ、2時間ドラマ見てるとバカ、髪の毛染めてるとバカ、世間の子が普通にやってることをみんなバカ、バカって言ってるじゃない? 明美が品行方性な真面目な子に育ってよかったと思うけど、だからってそういう、なんだか人を見下したような子にはなってほしくないんだけど」
にらみ合いは母親と明美になった。父親が割って入った。
「わかったからさ、明美、誰と行くのか言えばいいんだよ。変な友達でも、変な用事でもないんだったらさ」
明美は言い返すように、
「硝子とかに決まってるでしょ」
と言った。こういうときは、硝子の名前しか頭に浮かばなかった。
「だったらはじめから、そう言えばケンカにならないのに」
母親は憮然として明美に言った。明美もそっくり同じ表情で、
「いちいちプライベートなことを詮索しないでよ。私、バカじゃないんだから」
と言い返した。
明美はその会話のほとぼりが冷めた頃に「コンビニに行く」と言って家を出た。そして慌てて公衆電話から硝子の家に電話をかけた。明美は携帯電話を持っていない。親も持つのは反対だったし、自分自身も「中学生に携帯は必要ない」と毛嫌いしていた。
硝子も親に携帯電話を禁止されている。硝子の母親が電話をとり、硝子は不在だと言った。明美は硝子に「一緒にご飯食べることにして」と頼もうとしたのだが、当てが外れた。
とうとう硝子に連絡はつかなかったが、17:00になったので、明美は家を出た。はじめて、硝子が携帯電話を持っていないことを恨めしく思った。
(…こうやって、みんな、携帯電話を使って親に内緒で遊んだりするんだ)
自分を「でも私は悪い遊びじゃないから」と非難の対象から排除して、明美は思った。
(やっぱり携帯電話を持つのは良くない。親に内緒で、なんでもできちゃうから。家の電話だと、遠慮するしかないこともあるのに)
それから不安になって心細いため息をついた。
(…今日は硝子と一緒じゃないって、どこかからバレたらどうしよう)
それは確かに気が気じゃないけれど、池袋が近づいてくるにつれ、違うドキドキが明美の頭を支配しはじめた。
(灯也くんは来られるのかな…。それとも、気が変わって、もう私とは会ってくれないとか…。それとか、今日のことが、マスコミとかにバレて、変な風に書かれたら…)
(灯也くんは今日、何着てくるのかな。私…一生懸命オシャレはしたつもりだけど、このためにわざわざ服を買うお金もらったりできなかったから、すごく普通だし…。ホントは、ファッション雑誌くらい買って研究するべきだったかもしれない)
(それとも、もっと大人のファッション雑誌を見るべきだったかな。灯也くんが会社員の格好だったら、一緒にいるのがこんなチェックのスカートじゃおかしいのかな)
(それとも、メイクとか…。でも中学生にメイクとか、絶対必要ないけど…。でも、やっぱり、大人の人と会うなら少しはしたほうがいいのかも…。硝子とかも、眉毛はちょっと抜いたりしてるみたいだし…)
(…マスコミに見つかって、何か書かれたらどうしよう。迷惑かけちゃうよね)
(それでも、…灯也くんの彼女…とか、書かれたい)
電車のドアのそばの手すりに顔を埋めるようにもたれかかり、明美は自分を恥じた。
(私、自分を何歳だと思ってるの? 灯也くんも、私が相手だったら変なゴシップも書かれないと思って、それで会ってくれるんだよ。だって、13歳だよ)
それでも、どうしても…。
(もしも…でも、もしも…灯也くんが、私を気に入ってくれたら…)
池袋西口には副都心線の乗り場があるが、その西口奥の地下道は人通りが比較的少ない。待ち合わせはその地下道の一番奥だった。明美は目立たない位置にそっと立った。
(…でも、今日は来ないかも…)
明美がそう思った途端、軽やかに駆け寄って来る若い男性が見えた。
「明美ちゃん、じゃあ、行こうか」
明美が顔を上げた時には灯也は前を通り過ぎていて、明美は慌てて後を追った。白いTシャツと、ジーパン。でも、厚い眼鏡はかけている。
明美は灯也と並んでいいものか戸惑い、3歩ほど後ろの位置につけた。灯也は振り返り、
「大丈夫だよ、並んで歩いても」
と言った。明美は少しだけ近づいたが、最後の1歩は灯也が詰めた。
「元気そうだね」
耳の少し上から響く声に、明美は胸を突き刺されるような気がした。うつむいたまま、返事ができなかった。
本日のスタイルが自分で非常に気に入って、灯也は上機嫌だった。顔に目立つほくろを3箇所も描いてある。時々、ニキビ跡のような赤い肌荒れを描いてみることもある。こうして肌に加工すると、気付いて視線を投げてきた女性も「違うかも」と思ってくれる。
「ライブ呼んであげられなくて、ゴメンね。俺もチケット取れないんだよ」
「とんでもないです!」
驚いて明美は顔を上げた。灯也は前髪をまっすぐに厚ぼったく下ろしていて、厚手の眼鏡のせいもあって地味で暗い男の子に見えた。けれどその顔立ちはやはり整っていて、明美はまた胸に痛みを感じてうつむいた。
「あの、私、ゆすりでも、たかりでもないですから。なんか要求するつもりとか、ないですから。迷惑になるのは、絶対、嫌なんで…」
相変わらず明美が必死に言葉を返すので、灯也は可笑しくて仕方がなかった。
「なんか要求されてるなんて思ってないよ。ライブの合間に会いに来て、手ぶらってのは失礼だったかなと思っただけ。そんな、必死に否定しなくても大丈夫だよ。知らない人に何かもらっちゃダメだって、お母さんに言われてるもんね」
灯也は笑った。明美は子供扱いされ、とてもガッカリした。心の奥底ではデートのつもりでいたのに…。
明美の反応がないので、灯也はお世辞のつもりで、
「…まあ、明美ちゃんもあと何年かしたら、5000円のライブチケットどころか、何万円のブランドのバッグとかその辺の男にどんどん買ってもらう、きれーなお嬢さんになってるんだろうけどね」
と言ってみた。けれど、明美は必死になって言い返してきた。
「私、そんな人に育つつもり、ないですから」
灯也にしてみれば「きれーなお嬢さんになる」のところを言いたかったのだが、明美はそうはとらなかった。
「あの、男の人にたかったりするつもりもないし、高いだけのブランドものに飛びつくようなうすっぺらい人になるつもりもないですから」
明美と友人たちは、「ブランド志向」をいつもバカにしていた。ブランドメーカーとブランドの名前に飛びつく人々を「悪徳商法と、群がるバカ」という構図でしか認識していなかった。だから、明美は自分がブランドものを評価していると思われたくなかったし、ましてそれを男にたかるような傲慢な女性だとも思われたくなかった。
「…嫌い? ブランドもの。それに、男からのプレゼントも、受け取らないの?」
灯也は真剣な明美の反応に面食らった。灯也にとっては、社交辞令、お世辞、その程度のジョークでしかなかった。
「私…、30万のバッグを持っているからすごい人だとか、おしゃれな人だとか思えないし…。むしろ、金さえ出せば一流みたいなのって、間違ってると思います。それに、…女に何十万も貢ぐ男も嫌いだし…」
明美の声は遠慮がちだったが、言葉の選び方は容赦がなかった。
「ふーん、嫌いなんだ、ブランドもの。確かに名前だけで飛びついてる人もいると思うけど、ちゃんと、お金かけて買ったものをしっかり使うっていう信念で買ってる人も多いと思うよ」
灯也は、時折こうして明美が見せる偏見の強さにいくばくかの反感を感じた。でも、年齢の差を考えて、子供なのだと理解して、できるだけ優しい声で言った。
「それに、好きな人に、とびっきり無理してプレゼントを贈りたいっていう男の気持ちもわかるけどね。…男って、カッコつけたいものなんだよ。…まあ、キミはまだそういう年頃じゃないから、俺みたいな歳の連中の価値観を押し付けるのも良くないと思うけど…」
明美は、灯也との会話に行き違いが生じていることに気づいて、
「…そうですか…」
とだけ言い、お茶を濁した。言いたいことはいろいろあったが、灯也の言うことを否定したくなかった。灯也は、明美の中にまだ言いたいことがあるらしいことを察したが、おそらくこの話を続けるのはよくないと思って話をそらした。
「ねえ、なんか、いつもメシとか、お茶とか、そういうので恐縮なんだけど、メシにしない? 俺もやっぱ、外をこう…女の子とぶらぶらしてるのってなんとなくビクビクするんだよね。写真とか撮られてもイヤだし、明美ちゃんが変なファンに襲撃されても困るしさ」
「今までに、襲撃とか、あったんですか?」
「いや、ないけど。最近、身近でそういう話を聞いたからね」
「そういうのって…。ファンとして、相手に迷惑かけるなんて絶対ダメです。私はやりません。私が広瀬さんに迷惑かけそうになったら、はっきり私にやめろって言ってください」
灯也は苦笑した。明美は何に対しても優等生でいたいのだろう。ファンとしても、中学生としても。それなら…。
(…恋人としても?)
灯也は明美を盗み見た。生まれてから13年間、すべての道を踏み外さずにきた幼稚な優等生は、とても都合のいい生き物に見えた。
(とりあえず、次回、ブランドものでもプレゼントしてやろっかな。…受け取らないかな? いや、絶対、そんなことないでしょ)
明美はきっと夢見心地で大切にするだろう。所詮、十代の女の子の信念なんて恋愛には勝てないものだ。そう考えると、時折鼻につく明美の子供っぽい頑なさも、解くのが楽しいパズルのように感じられた。
(くだらない理想論とか、枠にはまった価値観とか、全部俺が壊しちゃおっかな)
そして、最後には…おそらく強固に持っているであろう貞操観念も…。
池袋西口の、小さくてオシャレなエスニックカレー屋に入った。窓際を勧められたが、目立たない奥の席にしてもらった。
「ライブ、どうですか?」
これを訊かないのは失礼だろうと思い、明美は座るなり言った。
「ライブねえ…。…正直なとこ、多分、言ったらガッカリする」
「え?」
「…ちょっとね、サラリーマン気分。今日の仕事はこれ、ノルマはこのレベルで、こんなカンジで仕上げればOK。…中だるみかな」
「そうなんですか? テレビでちょっと映った時、楽しそうでしたけど…」
「そりゃあ楽しいよ。それなりに。スポット浴びるのは好きだしね。でもね…やっぱ、デビューして初めての全国ツアーとか、そういうのに比べて…こなさなきゃ、っていう意識がちょっと強くなってきたのは、ごまかせない事実」
灯也は本音を吐いた。クロック・ロックのメンバーや、スタッフには言えない。他の音楽関係、マスコミ関係の人にも言えない。明美は、「灯也本人から聞いた」と他人に言うことができない、閉じた相手。だから言える。
「仕事だからね、やりたいときにやりたいことだけやるってわけにいかないんだよ。好きなことを仕事にしているからってさ、気分が乗らない日もあるし、調子が悪い日もある。なんとか終えたけど納得いかなくて落ち込むこともある。会社員がさ、今日売上のノルマが達成できなかったとか、上司に怒られたとかね、そういうのと結構一緒なの。…あ、オヤジくさいね、こういうの」
最近、音楽を「仕事だから」と思っている自分がいる。他のメンバーが必死で音を作っていても、自分は「曲が来たら、音符の通りに歌えばいい」と、受け身にしか思えない。「おまえはそのままでいいんだ」と里留に言われていた。でも最近、どことなく行き詰まりを感じていた。
明美は心配そうに灯也を見ていた。灯也は真剣なファンの視線に照れ、恥じた。
「…ゴメン、応援してくれてるのにね」
「いえ…」
明美は不思議に思った。スポットライトを浴びるトップアーティストの生活が、どう会社員と一緒なのかわからない。たしかに自分の父親は好きだし尊敬しているけど、普通の人の普通の生活だ。広瀬灯也は特殊な才能を授けられたヒーローで、特別な生き方を許された特別な人のはずだ。
「たぶんね、スランプなんだと思うんだ。でも、プロだとね、そうは言えないのよ。明美ちゃんだって、なんか勉強が頭に入らないとか、理由もなくテストの成績が落ちたとか、あるでしょ。…でもね、それが仕事だと、今は不調だからとか、理由もなくうまくいかないとか、そういうわけにいかないの」
なんとなく調子が悪い…それだけの理由で休めたらどんなにいいか。ひとこと、「里留、今日はムリ。ゴメン」と言えれば…。
「まさか、今日はボーカル里留がやるから…ってわけいかないでしょ。一部、喜ぶ人もいるだろうけどさ。でも、クロック・ロックは、俺が歌わないと…ね」
中学生の女の子相手に愚痴るつもりなんかなかった。でも、灯也はどうしても言葉を止めることができなかった。
「でも…今、なんで歌ってるんだ、って思ったら…それは、歌わなきゃいけないから歌ってるんだよね。売れない時期があって、それからわーって売れて、すげー、俺たち、売れてる~…って思って、それから…1年たって、芸能界にもやっと慣れたし、そしたら…周りも見えるようになって、自分も見えるようになって、突然…今後の目標もなんにもないような気がしてさ。メンバーは曲作ってたりもするけど、俺は歌うだけで、歌詞書いてもダメが出て、クロックの音楽的な部分には全然関われてないし」
灯也は自分の言葉にふと顔を上げた。ここのところ感じていた閉塞感の正体が、自分の言葉の中に見えた。
(…歌う以外に音楽的才能のない俺)
黄色い声を上げている女の子たちにはとびっきり高く評価されていても、音楽の専門家達の中で、自分はどう言われているんだろう…。
『歌は上手いけど、音楽はやれてないよね』――そんな風に言われている気がする。
「ああ、ゴメン、勝手にしゃべっちゃって」
灯也は思い出したように食事を再開した。明美はぼんやりと灯也を見ていた。
(…灯也くんにも、悩みがあるんだ)
前髪を野暮ったく下ろして、厚い眼鏡をかけて、仕事の愚痴をこぼす広瀬灯也。それは、不思議な光景だった。
(やっぱり…仕事を持っている大人の人っていうのは、誰でも悩みとか、あるんだ)
自分が最近悩んだことは…友達同士のラジオ番組の録音係をすっぽかしたこと。みんなでいままでやってきたのに、自分だけ失敗して、しばらく自己嫌悪だった。しかも、広瀬灯也と会っていたせいで、浮かれて、正当な理由もなくみんなを裏切ったから…。
(バカみたい)
悩みの重さがあまりに違う気がした。
(私って、やっぱり子供なんだ。灯也くんには、大人の、社会人の世界があるんだ)
灯也が遠い遠い人のような気がした。けれど、その感覚は明美の心を、疎外感でなく尊敬へと傾けていくだけだった。
「…やっぱり、一流の仕事をしてる人はすごいです」
明美は噛みしめるように言った。
「今の自分に納得しないで、何かを目指したり、悩んだり、そういう風に思えるのが。私だったら、俺はこれでカンペキだ、とか思っちゃうと思います。やっぱり…アーティストって、そういうものなんですね…」
灯也は面食らった。
(やっぱり、中学生には…俺の仕事の愚痴なんか、言ってもムダだよな)
より上を目指しているんじゃない。アーティストだから悩んでいるわけでもない。ただ、自分が今の仕事の中で、大したことをしていないように感じるだけだ。自分が単純作業に明け暮れていることが空しい。プロデューサーに作詞を言われたはいいが、まだ一作たりともOKが出ない。内心、文章を書く方にも才能があると思っていたのに…。
「『アーティスト』か。いい響きだよね、だって、一体何ができる人かわかんないもんね」
灯也は、明美と対等に話そうとしていた自分を嘲笑して、思いっきり大人の顔になった。最近感じる引け目、…今まで感じなかったコンプレックスのようなもの。自分への閉塞感。結局それは誰にも言えない。
明美は灯也が何を言いたいのかわからなかった。
(…灯也くんと、普通の会話もできないのかな…私。やっぱり、世界が違うから? それとも、歳が12歳も違うから?)
とりあえずの返答さえできずに、明美は黙っていた。灯也はその様子を見て、自分の感情がどんどん冷めてくるのを感じた。
(13歳の、何の悩みもない女の子を、俺は…どうしようっていうんだろうね。狭いカゴで、あったかくして、ただ餌を与えられて体だけ大きくなった子供でしょ? 擬似恋愛にしたって中味がなすぎるよ。刺激だけほしいんだったら、もっと他に、なんかあるでしょ。こんな、なんにもわかってない子をバカな遊びにつき合わせても…多分、俺が一番空しいし、後味が悪い)
灯也は、今日を最後に明美と会うのはやめようかと思った。元々、明美自身に興味があったわけでも何でもない。
「明美ちゃん、料理冷めるよ」
灯也は商業用の笑顔を作った。明美はそれを商業用と感じるだけの経験はなかった。灯也が笑ったので、明美も笑った。
「明美ちゃんは、どんな悩みがあるの。俺、愚痴っちゃったからさ。キミの悩みも聞くよ。どんなことでも聞かせてよ。いい話あったら、差し支えない程度に作詞に生かさせてもらうかもしれないしさ」
とにかく、詞を作らなければならない。これ以上ダメを出されたら、「灯也に詞は無理だ」と判断されるだろう。そうしたら、「歌うだけの自分」を抜け出せない。
「悩み…ですか」
明美は真剣に考えた。でも、あまりに情けない悩みしか浮かんでこなかった。肩を落としていると、灯也がハッパをかけてきた。
「何でもいいんだよ。俺、いろいろ作った詞が全部却下されてさ、なんかこう…インスピレーションがほしいんだよ。例えば、ブランドものに飛びつくのはバカみたいだとか、そんなことでもいいんだよ、俺が『そんなの、普通じゃん』とか思っちゃってるようなことに、ああ、そういう感覚があったかあ、って思いたいだけだから。テストが0点だったらそれを歌にしてみるとか、考えるきっかけにはなるじゃない」
ひとりでそうまくし立てて、突然灯也は手帳を取り出した。
「0点、使おう。なんか使える気がしてきた。『0点』っていう響きはカッコよくないから、言い方は変えるけど」
灯也は手帳に『恋愛で0点とった気持ち』と書いた。明美は面くらい、そして笑った。
「はい、続き、続き。なにかない?」
「え、…えっと、…将来、どういう仕事しようかなとか…は、思いますけど…」
「えー! そんなの、大学生の悩みだよ!」
「そんなことないですよ、ウチの中学、エスカレーターじゃないし…。高校受験は絶対にしないといけないし…。就職まで視野に入れて、大学、高校って逆算して考えろ、って先生に言われますよ」
「げげっ! 今から計算ずくの人生? …俺はイヤだな、そういうの」
「…でも、ある程度やりたいこととか、ちゃんと見極めた方が…」
「13歳でしょ? 今やりたいことと、将来やりたいことって、絶対違うよ。俺、キミくらいの頃、小説家になりたかったもん。そしたら今、実際はボーカルやってて、詞のひとつも書けないわけでしょ? 俺が文学目指して大学の国文学科に行ったところで、どうだったのかなあ? 俺は、今となっては絶対、小説家よりボーカルの方がよかったと思うけどね。中学で人生決めてたら、今頃、小説家になれなくて路頭に迷ってるんじゃない?」
「やりたいことが変わってきたら、路線変更します。今はとりあえず、今の目標をまっすぐ見て進もうと思って…」
「いや、やめた方がいいよ~。それなら、歌って踊れる小説家になりたい、小説の挿絵も自分で描いて、それを舞台にして自分が演出やりたい、主演も自分がやるんだ…とか言って、スクールで歌とダンスやって、文学勉強しながら小説書いて、絵も勉強してスケッチ旅行とか行って、舞台見に行って、劇団入って、全部やる」
「…そんなにいろいろ、できないですよ」
「でも、5つやってみたら2つできるかもしれないよ。1つに決めちゃったら、ゼロか1か、どっちかじゃない?」
灯也はまた手帳を広げ、『1つに決めたら、ゼロか1しかない』と書いた。
「…何か浮かんだんですか?」
明美は不思議そうにまばたきをした。灯也は商業用でない笑顔で答えた。
「うん、なんか伝えたいことが見つかった。キミみたいにおとなしい子に、もっといろいろやろうよって伝えたい。勉強だけじゃないよ、もっとできるよ、もっと試してみようよ、ってことを言いたいね」
明美は困った顔をした。灯也が折角そう言っているのに、自分の中では「でも、やっぱり人生を逆算して今から考えなきゃ」という結論がどっかり座って動かなかった。
灯也ははじめて、プロデューサーに言われた歌詞への感想に納得する気になった。
『自然描写が多くてわざとらしいよ。美辞麗句だらけ、つくりものくさい』
言われた時は「ちゃんと歌詞を書いたじゃないか」としか思わなかった。でも、自分が一番気に入っていた詞のフレーズを思い返してみると、まるで目の前にいる明美が学校の課題で書いた詩のようだと思った。世間がいいと言いそうな単語を選んだような…格好良さそうな言葉を並べて、かえって計算が見え隠れする、できそこないの美辞麗句。
「…作詞って、やっぱり、難しいんですね」
明美は灯也の言ったことを否定しないよう、一生懸命返事をした。灯也は手帳を開いたまま冗談を言った。
「うん、難しい。国語の先生、なんかいいこと言ってなかった? 参考にするから」
「えーと…」
明美は真剣に考えた。灯也が「冗談だよ」と言おうとすると、明美は嬉しそうに答えた。
「ああ、そうだ、感情を文章で表現するときは、例えば嬉しいんだったら、嬉しいって言葉を使わないで表現するんだって言ってました。『胸の中がコトン、と優しい音を立てた』とか。『急に目の前の緑が鮮やかになったような気がした』とか。…いま、教科書でやってる名作文学の解説で、先生が黒板に書きました」
何か言えることを見つけられて良かったと、その瞳はきらきら輝いていた。
灯也は一瞬考え込んだように視線を止め、それから、
「…それは、いいことを聞いたかも」
と手帳にメモをとった。
結局3時間近くカレー屋で粘り、そのまま店の外で別れた。灯也は「じゃあ、またね」と手を振ったが、明美ともう一度会うかどうかは非常に微妙だった。明美は素直に「またね」という言葉をかみしめて、ドキドキしながら帰途についた。