4.計画進行
広瀬灯也は上機嫌でハンドルを握っていた。
「いいね、中学生」
芸能界で知り合う女の子はたいがい自己主張が強かったし、おとなしそうだったりしてもしっかり男性の扱い方をわきまえた「大人」だった。一方、姿を見せて群がってくるファンの女の子たちはギラギラした異様なエネルギーを感じさせた。
「生き残ってるね、まだまだ地味な女の子ってのも」
明美が灯也をテレビの中の偶像と思っていたのと同じように、灯也にとっても天然ものの真面目系女子中学生は架空の生物だった。
「ご足労、御中、敬語しっかり使えます。そして…2時間ドラマはオバちゃん向け、恋愛ドラマはバカOL向け点か。それはかしこいね…」
灯也は苦笑した。なんのことはない、明美は頭でっかちで視野の狭い子供に過ぎない。オバちゃんがヒマとは限らないし、OLがバカばっかりだったら世の中は回らない。おかしな先入観と固定観念が、まさにマスコミの情報に踊らされているということだ。実社会を見ずに、情報だけで社会を判断している子供。ただの子供。
運転中は火をつけずに煙草をくわえるのが灯也のクセだ。灯也は唇で煙草をくわえ、前歯でフィルター部分を軽くもぐもぐ噛んだ。
「でも、そういう浅知恵が、子供らしくて可愛い、可愛い」
明美は優等生の立派なマントを着た赤ずきん。自分は小利口な彼女をつけ狙うオオカミ。
「広瀬灯也、女子中学生と交際か!」
「いえ、彼女は特別だっただけです。恋愛感情? もちろんです。僕は今まで、嘘の恋愛をしたことはないですよ」
「女子中学生に対して、淫行じゃないかという非難の声があがっていますが!」
「とんでもない。清い交際です。僕は彼女にオトナの恋愛を押し付けようなんて…」
灯也は脇の歯で煙草を噛んで上下させながら、一人で芸能レポートの真似をして、自分で答えた。そして、「純愛」というフレーズを口にして吹き出し、煙草を一緒に飛ばしてしまった。
「純愛! 俺はそんな気ないよ、明美ちゃん」
仕事、仕事の毎日に追われながら、気持ちだけ退屈している自分がいた。そして、確かに、明美は面白そうな相手だった。13歳未満の女の子に手を出したら、状況はどうあれ刑法上の犯罪になる。でも、13歳になっていれば問題はないのだ。
――灯也はそう思っていた。しかし、それはあくまでも「刑法上」の話でしかなかった。青少年を守るための法律や条令は他にもある。灯也は、いささか勉強不足だった。
「明美、録音は?」
大原硝子に言われて、明美は飛び上がった。
「私だっけ!」
「えーっ、忘れたの!」
硝子の声に驚いて、いつもの仲間たちが首を揃えた。
「え、明美、忘れたの?」
「どうすんのー、記録が途切れちゃったじゃーん!」
明美は呆然とした。昨夜は録音当番だったが、当のクロック・ロックメンバーと生で対峙した恍惚感からすっかり忘れていた。中学生の女の子たちの間では、これはあまりに重大な失態だった。
「…ごめ、…」
最後の「ん」は、息が詰まって声にならなかった。明美は胸元が滝になってすーっと地面に落ちるような絶望感を味わっていた。この小社会で平等に任されていた仕事をたった一人でしくじるなんて、もはや、取り返しがつかない事件だった。
「えー、なんで忘れたの、聴いてなかったの?」
「…うん、ゴメン、ちょっと、昨夜、出かけてた…」
「そんな遅くまで?」
クロック・ロック・クロックは22時半から30分間のラジオだ。明美はもう家にいた。ただ、ぼうっとして、ラジオのことなんかすっかり忘れていただけだ。
「みんな、昨夜、聴いてたのは聴いてたの?」
「うん、聴いた」
「…そっか、よかったね~、明美のせいで聴けない子、出なくて~」
「ホントゴメン…」
消沈する明美に、硝子はニヤッと笑った。
「実は私、毎回録ってるんだよね。絶対、いつか誰か失敗すると思ってたから、予備で毎回消しながら録ってる分があんの。だから、まあ、次回気をつけるように、明美」
「えっ、マジ」
「なーんだ、硝子~」
仲間は口々に硝子をたたえ、明美はホッとした。小社会に再び平和が訪れた。
「昨夜、誰と誰だったの?」
明美は恐る恐る訊いた。硝子はため息をついた。
「バカねー、2回連続で灯也くんだったのに」
「えーっ!」
あのあとラジオに出たのかと思って明美は叫んだが、すぐに、
(…そっか、…録音か…)
と気を取り直した。硝子は過剰にびっくりしている明美の顔を覗き込んだ。
「明美、貸してあげよっか? 昨夜の」
「もう、ホントゴメン! お願い…」
明美は、そんなやりとりをしながらも、なんだか現実感が希薄な気がした。広瀬灯也と会ったことのほうが現実で、こうして中学生達に囲まれて過ごすのは、違う自分のような気がした。昨夜の、厚い眼鏡の向こうからのぞいたいたずらっぽい眼がまぶたをよぎり、明美は全身の力が抜けるのを感じた。
(ここにこうしている私って、なんなんだろう。…昨夜のは、あれは、夢? …ううん、こっちが夢みたい。学校なんて)
明美はその日、授業のノートを一行も取らなかった。13年にわたる明美の優等生人生において、大きな事件だった。
放課後、明美たち5人組は教室に残ってしゃべっていた。
「なんか、3組の有田優亜、5組の坂本豊飛とつきあってるらしいよー?」
「まじでー」
「部活とか、いっしょだっけ」
「それがさー、謎なんだよね~。部活とか委員会とか、一緒じゃないし」
「中学生でつきあうとか、なんかのドラマとかに影響されすぎだよねー」
「そうだよねー、絶対はやいよねー」
「今、小学生とかもつきあってる奴とかいっぱいいるんでしょー?」
「なんか、世の中乱れてるよねー」
「子供のうちから恋愛ごときにかまけてるとか、むなしくないのかなー」
明美はぼんやりと会話を聞き流していた。何組の誰がつきあったなんてどうでもよかった。あまりに子供っぽくてバカバカしいと思った。
帰宅してすぐ、明美はパソコンを開いた。一日に何度もメールチェックをしてしまう。広瀬灯也の文字をひたすら待っている。まめにメールが来るわけでもないのに、気になってしょうがない。
何度もメールが入っていなくてガッカリして、そして自分からメールを出した。
『先日はありがとうございました。本当に夢みたいでした。私みたいな単なる一中学生におつきあいいただいて、本当に光栄です。
このメールからは広瀬さん本人じゃなくて別の代理の人が見て返信しているなんてことのないよう祈っています。お忙しいと思うので返事はいただけなくて構わないのですが、今後もメールを送ってもいいでしょうか。ご迷惑になるようだったら言ってください。あきらめます。クロック・ロックと広瀬さんの両方をこれからもずっと応援します』
部屋の壁のクロック・ロックのポスターの中では、前髪を半分だけ垂らし、あとはバサバサに散らしたワイルドな髪型の広瀬灯也が、黒い服をシャープに着こなして中央に立っている。その横の灯也一人のポスターは、一転して明るいパステルカラーのシャツでアイドル風に決めている。クロック・ロックは写真集でもグッズでもさまざまなファッションとアートの遊びがちりばめられていた。
(灯也くん)
明美はぼうっと壁の灯也を見つめた。いろんな衣裳を着こなす灯也を知っていたが、まるっきり目立たない会社員のスーツに厚手の眼鏡姿は、自分だけのものだ。
(どうしてあんなに格好いい人がこの世の中にいるんだろう。同じ世界にいて同じ空気でつながってるなんて、それだけで感動的…)
明美は「灯也くんノート」をつけるのをやめた。「灯也くんと会った」と書いたら、誰かに見られたとき困る。本当のこととバレても、妄想だと思われても困る。「灯也くんからメールがきた」とも書けない。それに、ラジオやテレビのクロック・ロックをメモしても、もう何の意味もない気がした。テレビで女性タレントと灯也が同じ画面に映っているだけで、明美は嫉妬を覚えて苦しかった。灯也は突然、偶像でなく現実の人になった。
『メールありがとう。やっと俺も広瀬灯也と認めてもらえて嬉しいよ。
今回のメールは沖縄から出しています。今週から全国ツアーなので、これからどんどん北上していきます。パソコンはずっと持ち歩きます。君とメールするため…っていうのは、さすがにウソだけどね。やっぱパソコンは必需品。特に俺は次のアルバムで詞を書くことになってて、その下書きをデータに入れてるし。
作詞は、夜、ホテルで頭を悩ませています。1作目はあっけなく没にされました。自然描写がわざとらしい、美辞麗句だらけ、だって。感情論だけ並べたら没にされると思って一生懸命書いたんだけどね。
返事はマメに書けないと思うけど、メールしてよ。俺は24歳で(もうすぐ25だけど)、頭の中身はもう大人になっちゃってて、君くらいの頃の感性って大事だなと思うよ。俺自身一応そういうの失ってないつもりなんだけど、やっぱ若い子にはハッとさせられることが多い。だから、いろいろ話しかけてきて。できるだけ頑張って返事するから。じゃあまた。 広瀬灯也』
『頑張って返事するより、よく寝てください。過労死なんかされたら、日本全国何千万のクロック・ロックファンが泣きます。
作詞は難しいんですね。普通、曲が先にあるんですか? 詞が先にあるんですか?
東京公演のチケットは、友達みんなで一生懸命電話したんですが、とれませんでした。とれないっていう話は聞いてたので、ダメモトだったんですが…。友人のお姉さんがファンクラブに入っていて、それはとれたそうです。多分、ファンのうちほとんどの人が、コンサートに行けないと思います。そういう私たちみたいなファンがいっぱいいることも忘れないで下さい。またおたよりしますが、無理して返事しないで下さい』
『友達全員チケット取れないんだ。自分で、クロック・ロックにすごい人気があるっていう自覚はあるんだけど、ライブで見てる満員の客席って一部の人だけなんだね。身が引き締まる気がします。
作詞は、曲と詞どっちが先っていうのは多分、ケースバイケースじゃないかな。クロック・ロックでは大体曲が先。でも、歌いながら作る曲もあるらしいから、同時も多いと思うよ。それじゃ、またメールください。 広瀬灯也』
『ツアー中のラジオは、録りだめしておくんですか? 今夜の放送で青森さんが歌っていた「飛ぶゴキブリの歌」はすっごいおかしかったです。3分くらい笑いが止まらなくて、死ぬかと思いました。
青森さんは、なんであんなに不思議な雰囲気なんですか? あれは商業用ですか?
なんかラジオ聞いてて興奮したので突然送ってしまいました。ホントに面白かったです』
『ツアーはどうですか。私は末テストが終わりました。私は部活に入っていないので、夏休みにやることがありません。去年は中学受験の勉強をしていたのですが、今年は何にもありません。時間を無駄にしないようにと焦るのですが、高校受験の勉強を始めるには早いし…。広瀬さんは中学時代の夏休みって、何をやっていましたか?』
『明美ちゃん、ご無沙汰してました。ラジオは大体1週間分まとめて録音します。メンバーを組みかえながら一気に録ってます。孝司の「ゴキブリ」、すっごい評判で、ハガキとメールが殺到してるの。また歌うことになるでしょう。あいつはあれ、完全に天然だよ。音楽も独特の感性があって、天才って、ああいう奴のことを言うのかな…と時々思うよ。
それから、夏休み。俺は中学くらいの頃、カッコつけて「部活なんてやってらんねーよ」とかいってぶらぶらしてた。今思うと、ホントに勿体なかった。でも、勉強に費やすのも勿体ないと思うんだよね…。明美ちゃんなんかもういい学校行ってるし、夏休みにまで勉強することないんじゃない? オススメは、明美ちゃんなら、読書? 横溝正史の次は島田走士を勧めます。最初は、絶対「十二支殺人事件」ね。読んでみて。
ちょっと長くなっちゃったけど、これで全部答えたよね。 広瀬灯也』
『全部答えてもらってすみませんでした。今後質問はできるだけ控えます。
早速「十二支殺人事件」買ってきました。その日のうちに全部読んでしまいました。最近の推理小説ってなんか軽そうと思ってたんだけど、王道で本格的で面白かったです。なんか見方が変わったので、ちょっとこの夏は推理小説マニアになってみようかなと思います。目標、一日三冊。広瀬さんは本をいろいろ読むんですか? あ、また質問してしまいました。質問の返事はなくてもいいです。体に気をつけて、ツアー頑張ってください』
『広瀬さん、お誕生日おめでとうございます。今日、朝の番組でクロック・ロックのステージの様子が映りました。ステージ衣裳がカッコいいですね。どこかの民族衣装ですか?
今年の夏は、広瀬さんにもらった目標があってすっごい有意義な気がします。「御子柴シリーズ」は全部読みました。「庚申塚事件」は大泣きでした。推理小説をいろいろ読んでいたら、図書館で「加藤甚吾郎」っていう作家を見つけて、今それにはまっています。普通の推理作家だと思ったら、恋愛推理小説っていうか、しみじみしたすっごいロマンチックなのがいっぱいあって気に入りました。加藤甚吾郎は読んだことがありますか。でも女性向けかもしれません。広瀬さん、体を壊さないように、がんばってください』
『もう御子柴シリーズ読んじゃったんだ。加藤甚吾郎は読んだことないです。俺も本は結構読むほうだと思う。一時期、作家になろうかなと思ったこともあるんだよ。歌うほうが才能あったから、今はボーカルだけど。でも、将来の夢に関しては浮気性で、服飾デザイナーになりたいなと思ったこともある。ステージ衣裳ほめてくれてありがとう。あれ、自分でスケッチしてデザイナーさんに渡したものなんだ。よかった。
そろそろツアーも東京に近づいてきたよ。明美ちゃんの家ってどのへん? 俺の自宅から近いかな? 加藤甚吾郎、買ったのあったら貸して。また、次に会う時にでも。 広瀬灯也』
明美は飛び上がった。何度も文面を読み返した。
『また、次に会う時にでも』
また会ってくれるなんて思ってもみなかった。メールの相手が本当に灯也なのかと不安になることもあったが、こうしてまた会う話が出るならきっと本人だろう。
明美はこの夏、ひたすら本を読んでいた。毎日毎日図書館に通って、帰りに本屋に寄って帰ってくる。手当たり次第に読むのは図書館。気に入ったものだけ買う。今や明美にとって、本は、灯也に与えられた大切なものだった。
『本は喜んでお貸ししますが、またお目にかかれるなんて思っていなかったので、びっくりしています。いいんでしょうか? お送りしてもかまいません。ファンに住所を教えるのはきっと嫌だと思いますので、確実に届く送り先を教えてください。事務所とかに宛てて送ればいいですか? 私の家ですが、東京都練馬区にあります。西武池袋線と大江戸線を使うエリアに住んでいます。
ステージ衣裳、本当に格好良かったです。私はあんまり服のセンスとかないんですが、なんか奇抜だけど落ち着いてていいなあとか、いい色だなあとか、いろいろ思いました』
灯也は明美のメールに満足げにうなずいた。
「いいね~、控えめな子だね~。これが、純情ぶって俺をたぶらかすためのお芝居だったらすごいけど。…そろそろ、メル友以上に進んでみようか。キミがこのまま増長しなかったら、お兄さんとレンアイしてみようよ」
灯也は、ドラマのセリフを読み上げるように、わざとらしく雰囲気を出しながら言った。
「キミがハタチになった頃、俺はまだ31だよ。そうしたら、また違う関係が築けるかもしれないね。でも、今は…やっぱり、13歳と25歳っていうこの恋愛に、違和感があって…。キミが子供だからっていうのとは違うよ。俺はキミのこと、大人として、女性として扱ってきたじゃない、でも…世間では、いろいろ言う人がいるし、それを気にしないでいられるほど、俺は自分に自信がないんだよ。それに、人気商売だからっていうのはある。俺、悪いけど、仕事とキミと天秤にかけたら、仕事の方が大切なんだ」
灯也は声を殺して笑った。エリート中学の制服を着た、幼い女の子に手を伸ばす自分。退廃的な醜悪さが鼻について、灯也には麻薬のように魅力的だった。ふと、世によくある、幼い少女に対する性犯罪の記事がよぎる。しかし、そうではない…そういうことではないのだ。灯也は自分の頭の中で境界線を引く。ただの恋愛だ。だって、ちゃんと彼女を選んで段階を踏んで、こうして徐々に親しくなっていっているわけだから…。そう、親しく。親しくなった先になにがあったところで、それも自由恋愛だ。
灯也は恋愛なのだと繰り返した。明美に対する恋愛感情もないままに。
『俺の家は大塚にあります。芸能人の住処としては異色でしょ。明美ちゃんの家から、近いといえば近いし、遠いといえば遠いね。君の家は、大江戸線と池袋線だったら、まんま練馬かな。まあ、俺もストーカーとか思われたくないので住所は訊かないけど。
来週、ついに東京に一時帰還するよ。ちょっとオフがあるんだけど、その時にまたゴハンでも食べない? 8月2日の夜希望。どうかな、都合つくかな? 広瀬灯也』
着々とからめとっていくような感触が楽しかった。明美はきっと、この誘いに飛びついてくるだろう。
明美は「もし恋愛になったら」という、ドキドキするような、でも果てしなくありえないはずの可能性を、一生懸命心の奥底に仕舞い込みながら返信を書いた。
『お誘いありがとうございます。すごく嬉しいです。でも、なんだか不思議です。たまたまスタジオを覗いていただけのファンにすぎないのに…。もちろん、うかがいますが、なにか起きたりしたらどうぞすっぽかしてください。1時間待っても来なかったら帰ります。それから、加藤甚吾郎持っていきます』
『OK、場所はどうしようか。新宿の次は、渋谷…といきたいところなんだけど渋谷って芸能人の目撃率高くない? お互いにそこそこ近い、池袋はどうかな。西口のほうにのびてる地下道の突き当たりにいてくれれば拾います。時刻は17:30、大丈夫かな。 広瀬灯也』
『どこでもうかがいます。8月2日17:30、池袋西口地下道突き当たりでお待ちしてます』