3.新宿デート
その日が近づいてくるにつれ、明美は毎日呼吸もままならないほど緊張した。胸が命の危険を訴えるようにギュウギュウ締まり、食事ものどを通らなかった。犯罪の可能性は必ず同時に思い浮かんだ。でも、胸を締め付けている強い力は危機感ではなかった。まるで好きな人に告白する寸前のような、耐えがたい焦燥感だった。
(絶対、犯罪だって。ひと目につくからホテルの部屋に…とか言われたら、逃げないと。…でも、顔見て灯也くん本人だったら、逃げる必要なんかないよね。でも、灯也くんって、ホントは人知れず連続殺人を続けているような人だったりして? だって、例えば、私がどこかで殺されてたとして、誰が灯也くんと会ってたなんて思うかな?)
止まりそうもない胸の痛みをこらえながら、明美は一生懸命に「犯罪者・広瀬灯也からどうやって逃げ延びるか?」ということを考え続けていた。携帯電話を持とうかとか、郵便を出しておいて行方不明になったら親に開けてもらおうとか、証拠用の録音メディアをカバンに仕込んで変な話になったらそれを盾に取引をしようとか…。しかし、その発想はテレビドラマのレベルを超えなかった。
(恋とか、始まったら?)
そして、どんなに叱責しても、その思いを消すことができなかった。絶対ない、必死でそう繰り返し、明美は長い長い一日を何度も過ごしていた。
一方の広瀬灯也はというと、昔の恋人から頻繁に電話がかかってきて、いささかうんざりしていた。人気が低迷した女優さんは、今をときめくトップスター「クロック・ロックの灯也くん」がかつて自分の彼氏だったことを自分の栄養にしようと思い立つらしい。
灯也の携帯電話から響くやや甘ったれた声は、蓮井まどかという22歳の女優だ。「今は彼女いないの?」というまどかの問いに、灯也は冷たく答えた。
「あんまり訊かれたくないし、答えたくもないな」
蓮井まどかは灯也の声色に気付いたが、落ち込んだ声を作ってもうひと押しを試みた。
「別に、灯也とやりなおしたいとか、思ってるわけじゃないの。ちょっと懐かしくなって、灯也の声が聞きたくなっただけ」
蓮井まどかは少女趣味のロマンチストで、灯也にしてみれば扱いやすいタイプだったが、こういうときはいささかうっとうしい。いつまでも特別な人のつもりでいられたら困る。
「悪いけど俺、明日までに詞を2つ、作らないといけないんだよね。メンバーに迷惑かけたくないんだよ。ホントに、悪気はないんだけど、とにかく忙しいんだ。しばらく集中したいんだよ。冷たい言い方になっちゃうけど」
「ゴメン、そうだね、私…勝手だった。がんばってね。じゃあね」
まどかは切ないヒロイン口調で電話を切った。
「めんどくせー」
灯也は電話を切りながらつぶやいた。以前ならこうしてむやみに女が近づいてくるのも自分の魅力の証明みたいな気がしていたが、今はいちいち対処するのが面倒だ。
蓮井まどかは最近ドラマでも使われなくなってきている。彼女の抱いている孤独や焦燥感はなんとなく見えた。でも、それはこの世界にいれば、いつでも、どこでも、誰にでも起こることだ。
灯也は煙草に火をつけてぼんやりとテーブルの上の灰皿を見ていた。まどかは「ワン・オブ・ゼム」…灯也の周りに散らばるたくさんの恋愛経験の1つでしかない。そして、それらは多くなりすぎてしまって、どれもがささいなことに見えた。
明美は新宿Pホテルを見つけ、わかりにくい入口から中に入った。できるだけきちんとしたワンピースを着てきたが、新宿Pホテルは考えていたようなゴージャスなホテルではなかった。入ってすぐのところにいたボーイに「ロビーはここですか?」と訊くと、下の階だと言われた。背広姿の男性やアジア系の外国人がちらほらいるだけで、まるでビジネスホテルのようだった。
フロントの組み替え式の卓上カレンダーに「6月26日」と表示されていた。間違いなく、約束の日。明美は胸を締めつける痛みがひときわ強くなるのを感じた。時刻は16:50を指していた。
耐えがたい動悸、息切れ、胸の痛みの中、明美はなんとか「雑貨屋みたいな一角」を探した。それは本当に小さなコーナーで、あっという間に見終わってしまいそうだ。それでも、明美はこれ見よがしにカバンを肩にかけ、灯也の缶バッジがよく見えるような姿勢で雑貨を覗き込んだ。
人が通るたびに緊張したが、すべて、奥のケーキバイキングの客だった。雑貨コーナーにはほとんど人の姿がなかった。
(…新宿Pホテルって、なんかイメージと違うんだな…)
明美は、Pホテルを有名芸能人が結婚披露宴に使ったりする、ものすごい高級ホテルだと思っていた。しかし、新宿のPホテルはいささか狭くて雑多な雰囲気で、客層がビジネスマン中心だ。
でも、だからこそ灯也は待ち合わせによくここを使っていた。それに、灯也のその日の変装はとっておきだった。明美も灯也のすぐ横を気づかずに通り過ぎた。
灯也は立ち上がって明美に近づいて行った。人待ち顔の明美の態度はひどく不自然で、一緒にいたらかえって人目を引いてしまいそうだ。灯也は苦笑した。
「明美ちゃん」
声をひそめて、灯也は後ろから声をかけた。灯也の写真と名前が入った黒の缶バッジが3つもついている布のバッグは、明美が着ているせっかくのワンピースに全然似合っていなかった。
一瞬だけ遅れて、明美が「はいっ」と言って直立して、それから正確に回れ右をするようにぐるっと顔を後ろに向けた。
「どうかな、偽者に見えるかな」
灯也はニコッと笑った。灰色のスーツに厚ぼったい眼鏡をかけ、髪をまっすぐに額に下ろした灯也は、年齢相応の24歳か、あるいはもっと年上に見えた。片手にスポーツ新聞を持っているのは、ちょっとした小道具だ。
明美は、手にしているスポーツ新聞を見て、1階にこの『サラリーマン』がいたことを思い出した。スポーツ新聞に目を走らせて「うわ、オヤジ」と思った記憶があった。新聞から少しずつ、恐る恐る視線を上に向けると、広瀬灯也によく似た男性が立っていた。
灯也はちょっと眼鏡をずらして明美に目を見せてから、すぐに眼鏡をかけなおした。
「明美ちゃん――は間違いないよね」
灯也が言うと、明美は深々とうなずいた。
「俺は、納得いった?」
明美は首を横に振った。
「だったら、目をつぶってみて。しゃべるから」
明美は慌てて目をつぶった。灯也は笑いそうになるのをこらえ、少し声を小さめにして「商業用の声」をつくった。
「えー本日のクロック・ロック-クロック、担当は広瀬灯也と垣口里留でーす。クロック・ロック-クロック、早口言葉みたいだよね。クロック・ロックロッ、にならない? 里留」
昨日のクロック・ロック-クロックの冒頭だった。明美は夢から覚めるように目を開けた。
「それとも俺、ものまね番組にでも出たほうがいいかな?」
それでも明美にはやっぱり信じられなくて、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「立ち往生してると目立つから、行こうか」
明美の背中に温かくて大きな手が触れた。明美はとぼとぼと(その時の明美の歩き方はそんな感じだった)灯也に背中を押されて歩き始めた。
灯也は、明美がびっくりしたまま全然しゃべらないので、好感を持っていた。ここで嬉々として芸能人とおしゃべりができるような、妙なテレビ感覚の女性は面倒だ。たまたま会話したファンの子に、後日「覚えてるー?」なんて声をかけられるのも腹が立つ。実際覚えていることもあったが、基本的には「覚えてるわけ、ないじゃん」だ。
明美は歩きながら、おそるおそる灯也の顔を見上げてきた。灯也は笑って、
「どう? 本物に見える?」
と訊いた。明美はやっと口を開いた。
「あの、…そっくりに整形した詐欺師…っていう可能性が、どうしても消せないんですけど…」
灯也はこらえきれずに吹き出した。明美が肩をすくめて小さくなったのがわかった。
「よくよく、お父さんに、知らないおじさんについて行っちゃダメ、信用しちゃダメって育てられたんだね!」
「すみません…」
灯也はそれからしばらく笑い続け、明美はただただ恐縮していた。
「オッケー、じゃあ、カラオケでも行こうか!」
灯也は軽く言った。明美は爆弾を放り込まれたようにすごい顔になって灯也を見上げた。
「とんでもないです!!」
明美は必死になって顔の前で手を振った。
「なんで? ラッキーじゃない? 広瀬灯也オンステージ、独り占めできるよ?」
「そんなの絶対ダメですよ、勿体ないですよ、なんか一生分の運を全部使っちゃいます、それに、他のファンの人とかにも悪いし…」
灯也はまた大笑いした。
「明美ちゃん、俺のこと本物だってちゃんと思ってるじゃん」
「えっ、いえ、あの…でも、本物っぽいけど、やっぱプロの詐欺師なら私なんかひとたまりもないし…」
「悪いけど、俺、詐欺師だったらキミは狙わないなあ。中学生が金持ってるとは思えないし、誘拐するにも、キミのお父さん、マスコミ関係者だしね~」
「でも、…あるじゃないですか、猟奇殺人、とか」
明美が真剣に言っている分だけ、灯也には可笑しかった。考えているようで案外浅はかな発想も可愛く――女性としてではなく、子供として――感じられた。
「猟奇殺人か~。明美ちゃん、推理ものの2時間ドラマとか見てるクチでしょ~」
「え、見てないですよ、なんか、そういうのはアタマワルイから」
「へー…そうなの?」
「だって、そうじゃないですか? 2時間ドラマはオバちゃん向けのアタマワルイ系、月9はヒマなOL向けの軽薄系…とか。私たち、みんなで敬遠してるんです」
灯也は、その明美の言葉に嫌なものを感じたが、何気ないふりでおしゃべりを続けた。
「ふーん。それで、猟奇殺人ドラマはしっかり見るの?」
「それは、ドラマじゃなくて、本で読むのが好きなんです。横溝正史が今、クラスで流行ってて…」
「うっそ! 中学1年生って、そういうの文庫本で読んじゃうんだ。すごいなー、俺、その頃ってまだ絵本読んでたな~」
灯也がそんな冗談を言った時、目の前に「落陽」という店が現れた。
「中途半端な時間だけど、軽食食ってかない? 俺、昼の弁当がマズかったからすっごい腹へってんの。入んない?」
「…あ、なんでも…」
「落陽」は、小さくてもオシャレな店だった。天井から各テーブルを仕切るように中国風の模様が入った布が垂れていた。
「のれんみたいですね」
「うん、これで顔が隠れる感じがちょっと落ち着くんだよね」
向かい合って座ると、灯也はやっと落ち着き、反対に明美はそわそわした。
「…というわけで、僕がキミのメル友の、広瀬灯也です」
灯也はお辞儀をした。明美は慌てて深々とお辞儀をして、テーブルすれすれまで額を下げた。そしてそのまましばらく顔を上げなかった。
「明美ちゃん、まあ、そうかしこまらないでよ」
灯也はちょっとした王様気分になった。かたや天下のクロック・ロックのボーカル、かたやしがない女子中学生。圧倒的に自分が上位だ。
明美は顔を上げ、一瞬灯也を見て、さっと慌てて目を伏せた。明美が恐縮ばかりしていてらちがあかず、灯也はさっさと明美の分まで注文を済ませた。
「あっそーか、もう眼鏡なくてもいいんだ」
灯也が眼鏡をテーブルに置くと、明美は不思議そうな顔をした。
「…え、これ、なくて平気なんですか? レンズ厚いですけど…度は…?」
「ああ、これはわざと眼鏡屋さんに作ってもらった厚めのダテ眼鏡。完璧、変装用だね」
「じゃあ、目はいいんですか?」
「かなりいいよ。だから、目が悪い人に見えるような変装用眼鏡ほしいなって思って作ったの。今の話からすると、明美ちゃんは目、悪いんだ?」
「…そろそろ0.1に近づいてます。コンタクトなんです」
「…ふーん、すごいね~。中学1年生…12歳だっけ」
「13になりました」
灯也はそこで明美の年齢が増えたことにハッとしたが、涼しい顔をして会話を続けた。
「あっそう、13歳でそんなに目悪いんだ。勉強ばっかりしてたんでしょ」
「え、いえ、それは、勉強より、読書です」
「俺にとって、読書は勉強だよ~」
飲茶が運ばれてきた。灯也は明美に勧めたが、明美は手をつけそうになかった。灯也は取り皿に片っ端から乗せ、明美の前に置いた。
「キミも食ってくれないと、俺が食いにくいでしょー」
「すみません」
灯也はさっさと飲茶を口に運んだ。明美はしばらくもじもじしていたが、箸で小さく切って食べ始めた。
「明美ちゃ~ん、切ったら肉汁出ちゃうって。普通に食いなよ~」
「あの、すみません、恥ずかしくて…」
明美はそれだけ言うと真っ赤になった。顔色を変えないようにがんばっていたはずが、口を開いてしまったら一気に血が上った。
「いい加減、俺が広瀬灯也だってわかってもらったと思うんだけどさ」
灯也がそう言うと、明美はそれでもなお戸惑った顔をした。
「…詐欺師説? じゃあ、これならいいかな?」
灯也は財布から免許証を出し、明美の目の前に出した。そして、しまったと思った。免許証には現住所が表示されていた。灯也はさりげなく急いで、手元に免許証を戻した。
「広瀬灯也って、本名なんですね~」
明美が感心したので、灯也は、
「んでも、別にわざわざ芸名にしたほどの名前じゃないじゃん?」
と言葉を返した。現住所を覚えられていたら引っ越せばいいやと思った。
「素敵な名前ですよね。いいな、私も綺麗な名前がよかったです」
「なんで? 明美ちゃんだっていいじゃない、明るく、美しく。シンプルだけど、親御さんが望んだとおりの素直な名前の付け方でしょ?」
「だって、この名前、いつも水商売って言われるんですよ。アケミっていう名前の人が全員水商売じゃないし、水商売の人が全員アケミって名乗ってるわけじゃないのに…」
「そんなの別にいいじゃん。気にしなきゃ」
「…それは、広瀬さんが普通の、綺麗な名前だから思うんですよ」
明美は少しふくれた。灯也は、明美に表情が出てきたので「よかった」と思った。明美は単なる礼儀正しい子供。自分が扱いさえ間違えなければ大丈夫そうだ。
「クロック・ロックは、全員本名だよ。別にわざわざカタカナとか横文字とかの、それも名前だけとかやっても、なんかかえって恥ずかしくない?」
「実際カッコよくて、売れればいいんでしょうけど、あんまりカッコよくなくて、しかもマイナーなのに変な横文字の名前とかやってると、なんかなって思いますね」
明美は少しリラックスしたのか、笑顔になった。灯也は安心した。
「ま、同姓同名の男が詐欺師やってる…とか言われたらもうどーにもならないんだけどさ、とにかく、俺がクロック・ロックのボーカル、広瀬灯也なんで、信用してください」
明美はちょっと夢見るような潤んだ瞳になって、
「あの、もし偽物でも、これだけそっくりならいいです、感動です」
と言った。灯也はガックリした。
「本物だって信用したから感動した、って言ってよ~。もう、このあとカラオケの刑。直接歌聴いて。それでOKでしょ」
明美は動転した。
「ダメです、絶対ダメです、バチがあたりますから、勿体ないし、そんな、一人のファンのために歌ってのどを使ったりしたら、ダメですよ」
「いーよ、俺、カラオケ好きだから一人でも行くし。断った方がバチが当たるよ」
「…じゃあ、全部広瀬さんが歌ってください。私、聴いてますから」
「え? いいじゃん、普通に歌えば」
「あの、…広瀬さんは歌がうまいからわからないかもしれないですけど…、うまい人の前で下手な歌を歌うのって、ホントにつらいんです…」
灯也はさっさと食事を終えたが、明美にゆっくりデザートを食べさせてから店を出た。明美は灯也が支払いをしているときに金額を必死で遠目に覗き込み、店を出てから財布を開けて、丁度半額を差し出した。
「明美ちゃん、冗談はやめてよー。24歳の男が、13歳の女の子との食事で、大半自分で食ったうえ、ワリカンにしたなんて物笑いだよ」
「あの、でも、…有り難い思いをさせていただいてるのは私だから…」
「え、なんで。俺が会おうよって言ったんじゃん」
「私がファンで、それで、お目にかかってるわけだし…。広瀬さんに、忙しいところご足労いただいてるわけだし…」
灯也はしばらく呆然と明美の顔を見ていた。
「…よくすらすら『お目にかかる』とか『ご足労』とか出てくるね。そんなの、中学校で習ったっけ…」
明美も灯也のそんな反応にびっくりした。
「え、でも、母が普通に使ってますよ」
「…てことは、明美ちゃん、郵便はちゃんと『御中』つけるんだ」
「…だって、普通じゃないんですか? 母に、『行』は書き直せって教わりましたけど。人なら様、団体なら御中」
「すっごい優等生! クイズ番組で常識王とっちゃうんじゃない? 今、大人も全然できないのに。そういうの」
灯也はいくらか身構えた。どうも、単純に子供だと侮ってはいけないらしい。
「とにかくさ、俺とキミの立場から言うと、ここで俺がキミからたとえ1円でもお金を徴収したらね、俺は非常識ってことになるの。もう非常識も非常識、男の恥、人として最低、生物として失格くらい、いっちゃうわけ。俺にも立場があるし、プライドってモンもあるのよ」
「…でも、あの、知り合いっていうか、そこまでも行かない以上、どっちかが負担するっていうのはどうかと思うんですけど…」
「ダメ、ダメ。俺は社会人、キミは義務教育でしょ! キミの言ってるのは理屈で、俺の言ってるのは社会常識なの。大人は社会常識に則って行動しなきゃいけないの。ハイ、財布仕舞って」
「…わかりました…、すみません、ありがとうございます」
灯也は恐縮する明美を横目でちらっと見て、またひとつ「合格点」をつけた。この歳から「男が払って当たり前」と思っているような女の子は危険だ。とはいえ、しっかり半額計算して、最初からぴったりの額を突き出してくるのも思いがけないリアクションだった。
(…けっこう面白いな、インテリ女子中学生)
灯也は明美に気づかれないよう肩でふふっと笑った。そのままカラオケボックスに明美を連れていき、まずクロック・ロックを1曲歌ってみせた。
「納得いった?」
明美は歓喜の表情で拍手をしながら何度もうなずいた。
「そしたら、お礼になんかもらってもいい?」
「え、何でしょう、私、何にも持ってないですけど…」
灯也は冗談で「キスの一つでも」と言おうかと思ったが、一世一代の覚悟でOKされても困るので、やめた。
「…一曲、歌おうよ。一人で歌うのが嫌だったら、一緒に」
「えっ」
「それがお礼。あと、今後のメールはちゃんと俺本人に対して書いて。それだけかな」
明美はさんざん渋ったが、結局クロック・ロックのデビュー曲を灯也と一緒に歌った。緊張の頂点で歌ったので、あまりうまくない明美の歌はもっとよろしくなくなった。灯也は、その下手さ加減もたまらなくおかしかったが、大人の男らしくフォローした。
「俺、悪いけど俺より歌うまい奴見たことないから、誰がどのくらい俺よりヘタとか、わかんないんだよね。明美ちゃんも、俺よりはヘタだよね」
明美は真っ赤になって真下を向いたままうなずいた。そしてカラオケボックスを出た。
「新宿までクルマで来たから、家まで送ってあげたいのはやまやまなんだけど、クルマに2人で乗ってるのはいろいろとヤバイからさ、ここでいい?」
灯也はそう言い、明美は深々とうなずいた。灯也は少し落ち着かない様子で手を振って、地下道に下りていった。明美は灯也の消えた地下道への入口をいつまでもぼうっと見つめていた。