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22/22

22.刻印

 部屋に沈黙が流れた。TVからはコマーシャルの音が流れていたのに、そこはまるで森の中のように静かだった。待っても灯也のリアクションがないことを確かめ、明美は立ち上がり、灯也に背を向けた。

「…ゴメンね。それだけ言いたかったの…」

 訊きたかったたくさんのことは、知らない方が幸せだという予感がした。

「明美ちゃん」

 名前を呼ばれ、明美は足を止めた。灯也が立ち上がる気配があった。明美の心臓が強く、ドキンと打った。

「…俺も、告白しないといけないことがあるんだけど」

 灯也が近づく気配がして、腕がつかまれた。明美はなぜか怖くて振り向けなかった。

「俺は明美ちゃんをどう思ってたか…そういうの、聞きたくないの?」

「いいの、帰りたい」

 少し前に進もうとしたが、灯也のつかむ腕に阻まれて動けなかった。

「言葉はもうちょっと勉強した方がいいよ、優等生。好きだとか、恋してるとか、愛してるとか…キミが言ってるのは、恋愛感情じゃないよ。偶像崇拝って言うんだよ」

 灯也の手に力がこもり、明美は痛みに耐えた。

「恋愛って、結局、生殖行為なんだよ。そこまで覚悟して言ってんの。…ねえ優等生。教科書には書いてないけど、女が愛してるって言うことは、あなたの精子で子どもを産みたいって意味だよ…簡単に言うなよ」

 明美はふっと、こんな灯也の叫びを今までに何度も聞いたと思った。やるせない憤り…灯也はこんな風に、底の底に憤りの渦を乗せて言葉を吐く…。

「俺は明美ちゃんのこと、なんとも思ってねえよ。一度、ガキとヤってみたかっただけだよ。犯罪にならないギリギリが13歳だから中学生に声かけただけだよ。俺は、さいしょっから最後まで、ヤることしか考えてなかったよ。だから、愛してる…なんて言われたら、ああそうですかって、今、ここで、ヤるぞ? そーいうのわかってねえで、ガキが吹いてんじゃねえよ。帰れよ」

 灯也は明美の腕を放した。これで終わりだ…明美は逃げ帰る、そして、…そして自分はどうしよう? そう思い、そのままヘナヘナと力が抜けて、灯也はその場に座り込んだ。手っ取り早く、一番近くにあった壁にもたれて体を支えた。

「…帰れよ」

 明美は振り向いて灯也を見下ろした。

(灯也くんこそ、わかってない…)

 生殖…そんなことは、よくわからない。だけど、何もかも失ってもいいと思いつめて、たくさんの無理をしてきたこの気持ち…これは何だというのだろう。

「灯也くん、私、親にうそもついたし、学校の成績も落ちたし、友達ともうまくいかなくなっちゃったの。灯也くんのために、全部、…いろいろ、たくさん…捨てたし、変わったんだよ。確かに大人の人の言葉とは…違っちゃうのかもしれない。でも、ただ中学生の恋愛っていうのとも…もう、違うんだよ。私は…」

 中学生が中学生に愛しているという言葉を使ったとしても、多分それは自己満足にすぎない。でも、相手がそれを受け止められる大人の人なら、少なくともその言葉は重い。

「もうファンじゃないよ。灯也くん、私に…キスしたじゃない。そういうこと、されたのわかってて言ってるんだよ。13歳で、ファーストキスなんてショックだけど、…でも灯也くんだからいいんだって、私は、一生懸命飲み込んだの。そういうの…恋じゃないとか…愛じゃないとか…言われたくない。私、応えたよ。好きだもん。愛してるって思うもん。灯也くんのすること応えたし、応えられるよ。キスされるかもしれないってわかってて、ちゃんと言ってるのに…」

 灯也の上目遣いの目が明美を捉えた。明美は言葉を止めた。

「わかってねえ…と言ってる意味が、全然わかってねえ」

 それでも灯也は逡巡した。けれど、伝えなければならないような気がした。

「男を挑発するな。言ったろ、おまえとヤる気だったって。応えられるって、…何にだ。何をだ」

 明美の心に、いつもの灯也の声と言葉が去来する。優しい声と親切な言葉は、ただの演技だったのだろうか。本当の広瀬灯也は、どういう人なんだろう…。

「一度、思い知った方がいいんじゃないの」

 灯也が立ち上がると同時に明美は後ずさり、玄関へ逃げた。鍵が2つ…チェーンまで、かけたのは自分だった。チェーンは間に合わなかった。明美はチェーンを持つ手を無理やりはがされ、力ずくで引きずられていった。そして居間のすぐ横の狭いベッドルームに連れ込まれて投げ出され、起き上がろうとする間もなくベッドに押しつけられた。

「いちいち、丁寧にムード作ったりしないで…最初からこうすりゃよかった」

 灯也は明美の両手を手首のところで束ねて押さえつけ、容赦なくスカートをまくった。

「ゴメンなさい、やだ、灯也くん…ゴメンなさい!」

 明美の悲鳴が響く。何を謝っているんだろう…と思いながら、明美はひたすら「ゴメンなさい」を連呼した。灯也は明美の下着を脚から引っこ抜き、それで十分嗜虐心が満たされた気がした。とても疲れていたし、それ以上のひどい男にはなれそうもなかった。

「反省しろ」

 灯也はベッドルームを出た。すでに後味が悪かった。

(…あんとき、里留の邪魔が入らなくても、結局デキなかったな、多分…)

 灯也は内心で自分を嘲笑して、またテーブルのそばに座った。クッションを立てて背当てにして、壁にもたれた。明美はベッドで放心して、天井をぼうっと見ていた。やめてくれたことが、とてつもない奇跡のように思えた。

(帰っちゃったら、もう会えない…)

 灯也が結婚してしまう。明美にとって、結婚はおとぎ話の素敵なラストシーンのはずだった。けれど灯也にこれから訪れる結婚はそういうものではない。

(灯也くん…それでいいの?)

 このまま黙って帰っていいのだろうか。確かに怖いことをされたけれど、脅しだけだった。本当は、やっぱり、優しい人なんじゃないだろうか…?

 明美はベッドを下り、下着を拾ってはき直した。胸を貫くような甘い衝撃が走った。

 しばらく胸をきつく押さえて心を鎮め、明美はおずおずと居間に現れた。灯也は額を掌で覆い、壁にぐったりともたれていた。

「…ゴメンな、明美ちゃん…」

 いつもの灯也の声がした。

「13歳の女の子とソウイウコトしてやろうと思ってて…それはウソじゃないけど。それだけだったって言ったのは、ウソだよ。…明美ちゃんがいてくれてよかったって…思ったこと、たくさんあるんだよ。…ゴメン。言わずに、帰らせちゃうとこだった…」

 灯也の優しい声に心が傾いていく。明美は自分でそっと唇に触れた。もう一度、触れてほしい…。自分への思いがただの劣情でなかったなら、優しく…。

「やっと、少し…結婚するしかないってわかってきたからさ。子どもは…生まれたら、可愛いかもしれない」

 灯也は、そばの床から小さな音が聞こえたのに気付き、その方向を見た。滴がいくつも落ちていた。そのうち、また、はたはたと打つように滴が落ちてきた。明美の顔を覆った指の間から涙がこぼれて、雫が床を叩いていた。

「…明美ちゃん…」

 灯也の声に促されるように、明美はゆっくりと正座の形に座った。

「そんな結婚、しないでよ…。私、すごく長いけど…10年、したら、23歳になるのに…。灯也くんは、それでも35歳だから…、普通に、釣り合う、歳になれるのに…」

 明美は震える声で言った。灯也は哀しい笑いを浮かべ、明美の肩に手を回して抱き寄せた。二人は壁にもたれ、寄り添った。

「10年か…。そのくらい、俺も、いろんな恋愛したり…いろんな無茶やったりして、幼稚に生きていたかったな…」

 灯也は、今が最後の幸せな時間だと感じた。果てしなく優しい空気が自分を包んでいる気がした。

「もう一度だけ…キス、してもいい…?」

 そんな声に明美が顔を起こし、灯也の目を見つめる。その瞳がわずかにうるみ、まつげが下を向く。震えるまぶたが答えを告げていた。

 優しいキスが二人を満たす。一度離れ、それから…もう一度。

 灯也の腕がきつく明美を抱いた。掌が、肩から腕、掌へと落ちた。掌がきつく結ばれた。

 そんなつもりじゃないはずだ…と、灯也は頭の中でつぶやいた。だが確かに、ゆっくりと、自分の腕が明美を床に横たえさせていた。少し乱れた髪をそっと払い、耳の後ろから首筋を撫でると、明美の肩がわずかに震えた。けれど、おとなしく目を閉じていた。

 思惑はもう捨てたはずだ。明美を無事帰して、自分はまたうんざりする悩みの中に身を投じる…。けれど手が明美の胸のボタンに伸びる。生の花を扱うようにそうっと、一つずつ外していく。明美はまるで魔法にかかったように安らかに目を閉じている。そのまま、肩から服を下ろしていく。眩しい、と灯也は思った。ここまで若い肌を、女として見るのは初めてだ。

 夢なのかもしれない――と灯也は思った。明日から違う毎日を生きなければならない。今日までの人生、最後に思い描いた夢だけはかなえようと…そんな、神様の悪戯。

 夢なのかもしれない――と明美は思った。優しいキスに、自分自身が溶けてしまったみたいだ。安らかな水面に一枚の葉となってたゆたうように、ゆらゆらと心地よく…。

 いけない、という声は聞こえている。13歳で、こんなのは…イケナイこと。だけど、…止めたくない。肌を撫でる温かい灯也の掌。安らかな気持ち。眠ってしまいそうな…。

(灯也くん…今なら、「愛してる」って…言ってもいい? 私、…ちゃんと応えてるよ…)

 ――怖いと、思ったときにはもう遅かった。


 翌日、灯也はクロック・ロックのメンバーに電話を入れた。それから事務所の織部に「これから行く」と告げたが、事務所の周りがマスコミだらけなので、来るなと言われた。結婚か…と、現実味のない言葉を頭でつぶやいた途端、織部が電話の向こうで声を潜めた。

「灯也…、蓮井まどかが救急車で運ばれた」

「え…、なんで?」

「おまえは、今日は出るな。向こうの状況を見てから、だな」

 午後のワイドショーは一斉に蓮井まどか入院を報じた。関係者ともみ合って階段から落ちた…ということだった。


 その前夜。

 まどかのマンションをマネージャーが訪ねてきた。普段ならマネージャーとはいえ男を部屋には上げないが、妊娠中の女性タレントに、この真面目なマネージャーが何をするはずもなかった。

 まどかがお茶をいれに立つと、マネージャーはその背中に向かって突然、

「まどかちゃん、ゴメン」

 と叫んだ。まどかが驚いて振り返ると、マネージャーはカーペットに頭をこすりつけるように土下座していた。

「…まどかちゃんを、この後、ヌードで売る予定だったんだよ。今撮ってる写真集も、はじめからヌード写真集の予定だった。脱がせて、移籍先に高く売るっていう話で…。連ドラも、チョイ役でいいからってこっちが金払って、もらってきただけで…」

 妙に脱がせたがるカメラマン。特に売れだす理由もないのに舞い込んできたドラマ出演。微妙な違和感をおぼえていたさまざまなことがやっと一本の線でつながった。まどかはその場に座り込んだ。怒りを感じてはいたが、脱力感の方が大きかった。

「マネージャー、何で、そんなこと言いに来たの? …あなた事務所の人じゃない」

「まどかちゃんが妊娠したのは僕のせいだって…」

「それは関係ないじゃない」

「全部責任とらされることになったんだ。4月からマネージャー職を外されて、地方事務所の事務員になるのが決まった。まどかちゃんを売り払えなかった責任をとれって」

 まどかの頭に血が上った。自分への処遇はある意味、仕方ない。しかし自分に何一つ知らせずにこそこそ裏で立ち回り、本人の納得しない形で売り払おうとして、失敗した責任はすべて下っ端のマネージャーなのか。マネージャーに肩入れする気はなかったが、こうした売却について、マネージャーが何一つ口出しできない立場なのは知っていた。自分のみじめさを正義の怒りに振り替えることで、自分の心を守りたかった。

 マネージャーはさらに驚くようなことを言った。

「…今日、今度は、まどかちゃんが売れないなら、広瀬灯也と事務所を訴えて賠償金をせしめられないかって、弁護士と話してたみたい…。ああ、もうダメだこの会社…って思って、それで僕は今日、ここに来て、全部話そうって…」

 まどかはいきなり立ち上がり、バッグをつかんで外に飛び出した。マネージャーは慌てて後を追い、まどかより一瞬早くエレベーターにたどり着いてボタンを塞いだ。興奮したまどかは踵を返し、背後にあった非常階段のかんぬきを外して外に出た。マネージャーは慌てて追いつき、外の階段でまどかをつかまえた。

「落ち着いて。…お腹の子に障るから。大切にしないと…広瀬くん、恋人なんでしょ?」

 マネージャーの言葉にまどかはあっけにとられ、それから笑った。

「とっくに別れてるわよ。結婚なんて迫ったって、不幸になるだけ。…おろすわよ。でももう仕事なくなっちゃうし…結婚できたらいいなって…。…そしたら楽だから…」

 しばらく黙り、マネージャーは思いつめたような声で言った。

「…そんな結婚するんだったら、相手は僕でも同じじゃないかな…」

 まどかはキッと顔を上げ、マネージャーをにらんだ。

「こんな時なら落とせると思わないで!!」

 仕事に決して持ち込まない顔をして、マネージャーが心の奥底で恋愛感情を持っていることには気づいていた。決して仕事の立場から逸脱しないのを心の奥底で嘲笑しつつも、その積み重ねは確実に信頼感へとつながっていた。こんな時にその仮面を外してみせるのは反則だとまどかは思った。

 マネージャーの手を振り払い、思いっきり平手を見舞って突き飛ばした。そのまま非常階段を駆け下りようとして、まどかはバランスを崩した。


 翌日、まどかが流産したことを事務所経由で知らされ、灯也はすぐさま事務所の用意した車でまどかのいる病院に向かった。

 子どもが消えた…灯也は複雑な気持ちでいた。責任だけで結婚したくなんかないし、責任だけの結婚はお互いに不幸だろう。そして、唯一の大義名分だった子どもは消えてしまった。だが、相手が流産したから結婚しなくていい…というわけに、いくのだろうか?

 責任…嫌な言葉だ。そこには希望がない。灯也は目を閉じた。だったら、13歳の女の子を穢した責任はどうなるんだろう。明美は「今まで楽しかったです」と急ぐように言ってお辞儀をし、出ていった。…あの背中は、泣いていたのではないか…。

「つきましたよ」

 運転手の声で灯也は我に返った。地下の駐車場から通され、野次馬にもマスコミにも会うことなくまどかのところにたどりついた。

「まどか、ゴメン」

 灯也は病室へ足を踏み入れた。まどかはベッドの中から窓の外を見ていて、顔が見えなかった。灯也は戸惑い、そのまま立っていた。ずっと感じていたまどかへの憤りのようなものがいつの間にか穏やかになっていることに気付いた。その感情は明美との最後の時間が浄化してくれたような気がした。

「…座って。椅子があるでしょ?」

 まどかの声がして、灯也はとりあえず座った。まどかが何も言わなかったので、灯也も黙っていた。

「ゴメン。…しゃべると、泣いちゃうの。だから上手くしゃべれない」

 力むようにまどかは言った。灯也の胸が痛んだ。

「まどかから、逃げてたわけじゃないんだ…。まどかはいつも慎重だったから、妊娠なんて可能性考えてなくて…だから電話は…もう俺は悩み相談の相手できないと思って…」

「疑わないの、子どもの父親」

 ぶっきらぼうなまどかの声は、いちいち灯也の胸をついた。

「それは、全然疑わなかった。今も疑ってないけど…」

 まどかは少なくともそういう女ではない、と灯也は思った。でも、本当は自分でなければいいとは思った。どうしても思った。

「いいの、100%灯也。そういう嘘はつかない」

 責任は消えない…。灯也は覚悟を決め、できるだけ優しく言った。

「大丈夫だよ、責任はとるから…」

 でも、もしも、流産してしまったことで責任をとらなくていいと言われたら…その時は、ホッとするだろうとも思っていた。

「…いい」

 その、あまりに簡単なまどかの返事に、灯也は驚いた。

「あのね。責任…とってもらうの、別の人に」

「別の人?」

「流産の原因。…マネージャー」

 沈黙が続いた。結婚しなくていい…そのことが灯也に、体中の力を奪うほどの安堵をもたらしていた。立っていたらくずおれてしまいそうだった。

「騙されてたの、私。事務所に。写真集出すって言ったでしょ。あれね…ヌード写真集の予定だったらしいの。それでね、脱いだら裸専門でよそに売っちゃおうって」

 まどかは震える声で語った。灯也に顔を見せないようにしながら泣いているようだった。

「マネージャーが全部話して、謝ってくれたの。それで、私…彼ともめて、階段、落ちちゃった」

「マネージャーの人とは、ずっと…?」

「違う。成り行きって、言ったらおかしいけど。灯也と無理やり結婚して後ろめたく生きるのは嫌。逃げるの、灯也から。彼が、自分のとこに逃げていいって。責任取るって」

 まどかの震える声は続いた。

「私は、まだまだ自分はやれるって思ってて…、なのに妊娠で芸能界にいられなくなったと思ったの。灯也は、妊娠の原因のクセに、何の問題もなくこれからも芸能界にいるんだって思ったら、耐えられなくて…事務所の一斉送信使って勝手にマスコミにFAX送って…。バカなことしちゃった…。ホントはもう、脱がなきゃ売れないって思われてたのに…。灯也のせいじゃなかった…。私が売れなくなった責任を灯也に取らせるなんて絶対嫌だ。このままじゃ世間もおさまらないでしょ。私は逃げるの。マネージャーと結婚するから、広瀬灯也とは示談にしたいの。元々、灯也とは結婚する気ありませんでした、だから話し合いで解決しました、って。だからサヨナラ。私、引退するから」

 まどかの声が止まった。それから、2人はしばらく静かに時間を過ごした。

 灯也が病室を出ると、まどかのマネージャーがやってくるのが見えた。灯也の姿を見つけると、マネージャーは立ち止まり、深く頭を下げた。灯也も頭を下げた。灯也は何か言わなければいかないかと口を開きかけたが、それを避けるようにマネージャーが再び頭を深々と下げてその場を去った。

 すべて、終わったんだ…そう思った。

 何のための騒ぎだったのか…。それは、まるで自分と明美を結びつけるためのような…灯也には、そんな気がした。


 まどかは損害賠償請求を取り下げた。しかし、広瀬灯也のスキャンダルが一件落着してつつがなく始動するはずだったクロック・ロックは、その後、姿を消すことになる。

 蓮井まどかとの契約が切れた「元」所属事務所が、広瀬灯也と所属事務所に対して損害賠償請求訴訟を起こした。灯也の道徳心を欠いた女性問題に巻き込まれ、そのために移籍の手続きが進みつつあった蓮井まどかを失うことになった金銭的損害を弁償しろという内容だった。

 裁判の過程において、灯也の女性関係がさらに多数、明らかになった。灯也は裁判とマスコミ報道で徹底的に傷ついた。クロック・ロックの人気も評価もガタガタになった。

 裁判は、蓮井まどか自身が灯也の弁護に立ったこともあり、個人的な恋愛関係であるとして損害賠償請求が棄却される形で決着した。灯也はそのまま、失踪するような形で芸能界を去った。

 クロック・ロックは、織部重信プロデューサーのもとで、インストゥルメンタルバンド「クロック-クロック」として再デビューを果たした。そもそもクロック・ロックの活動休止は灯也一人の事件が原因だったので、他の三人の復帰はさほど困難ではなかった。

 織部はクロック-クロックをいろいろなボーカルと組ませたがったが、リーダーの里留はそれを断固拒否した。


 明美は大人たちの繰り広げる醜聞にまるでついていけず、灯也との思い出と、恋に傷ついた体を抱いたまま、当たり前の日常に戻っていった。何もかもがただの夢になった。

 そして、どこにも広瀬灯也のいない歳月がひたすら流れていった――

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