19.ほころび
昼休み、明美はいつもと同じように硝子たちの輪の中にいた。
「聞いた? なんか、4組の女の子何人か、合コンやったらしいよ」
「えっ、マジで? 中学生で合コンとか、終わりすぎじゃない?」
「コンパって、お酒飲んだの?」
「さすがにそれはないらしい。ファミレスで別の中学の人何人かと集まって、恋愛を前提の集会をやったらしいよ。さいあく」
「そうまでしてガツガツ恋愛したいのとか、変だよね」
「ほかにやることないのかね。13とかで恋愛がすべてって、ほんと終わってるよね」
「そういえばさ、鈴木さん彼氏と別れたらしいじゃん」
「別れたの? だって先月とかじゃなかった? つきあったって話してたの」
「バカだよね、大して親しくもない人にまで彼氏ができたとかって言いふらして。それでひと月で別れてみんなにバレて、その方がよっぽど悲惨じゃん」
「だいたいさー、彼氏って、なんなの。そういう年じゃないじゃん。マジ勉強しろよ。どうせこの歳の恋愛なんて大した恋愛じゃないんだしさー」
「恋愛ごっこだよね、恋愛ごっこ。こんな歳から運命の人に出会ったなんて話、聞いたことないんだけど」
「言えてる~。絶対、カンチガイだよね~」
「カンチガイっていうより、単なる妄想だよね」
騒ぐ友人達の声を聞きながら、明美は内心イライラしていた。
(恋愛に夢中な人も変かもしれないけど、恋してる人をみんなバカにするのも間違ってない?)
誰かと群れていないわけにはいかない。別の群れに移ることは許されない。だからずっと、クラス替えまではここにいなければならない。明美はただ黙っていた。
(ひがんでるだけじゃないのかな、みんな…。自分は縁がないから。クラスの男の子とかのこともみんなレベル低くて終わってるとか言ってるけど、それって相手からもおんなじこと思われてないかな。そんなに、なんでもバカにするほど、私たちって偉いのかな。男の子とつきあったらバカで、オシャレしたらバカで、勉強してれば何でも偉いのかな。…勉強できれば、それだけで偉いのかな)
明美の成績は落ちていた。明美は最近「勉強ができなくても、他に大切なことはたくさんある」と口にするようになっていた。友人たちは明美のいないところで「勉強できなくなったらいきなり『勉強なんか大事じゃない』とか言いだしたよね」と陰口を言っていた。
自分はろくな片想いをしたこともないのに、恋愛というだけで「バカのやること」と蔑む友人たちを、明美は憐憫のまなざしで見つめていた。だって、バカバカしいと言いながら、いつも恋の話ばかりしている。人の恋愛の噂と中傷、それから全く進展しない自分の片想いの話。自分に「好きな人」がいても、誰かに彼氏ができると途端に「この歳で、恋愛なんて」になる。
(なんだか、みんな一緒にビリでゴールしようねって言い合ってるマラソンみたい)
本当は絶対、抜け駆けする人や、仲間を見捨てる人が出るのに。
明美は顔に出していないつもりでも、毎日一緒にいる仲間たちは明美が自分たちに向ける感情に気付いていた。それでも、仲間はずれやいじめなんてものは「優等生の私たち」の中にあってはいけないことだから、友人たちは陰口を言うばかりで、明美の前では何も言えなかった。
硝子が手を尽くして保ってきた友人たちと明美の関係は、もうフォローのきかないものになりつつあった。硝子も最近はもはやあきらめていた。硝子自身も、明美にバカにされているように感じることがあった。
(明美は、なんで変わったのかな…。まだ、携帯電話は持ってるのかな…)
明美が間違っているなら、明美にハッキリとそう告げることも友情だ。それは自分の役目だ…自分がこのグループのリーダーだから。硝子は明美のしっぽをつかみたかった。
蓮井まどかはハワイで写真集の撮影をしていた。しかしあいにく、時差ボケと飛行機酔いで気分が悪かった。チャンスを失いたくないから気丈に撮影を続けていたが、食欲が全然わかなかった。
撮影の注文にきわどいものが多いな…とまどかは思った。用意された水着は必要以上に露出が大きい。これでは、女優の写真集というより売り出し中のグラビアアイドルだ。
担当のカメラマンは貝塚悟郎といって、人物、特に女性を被写体としたフォトグラファーとしては名のある一人だった。カメラを持っていなかったら写真家とはとてもわからないような地味な男だ。ハワイだからポロシャツを着ているが、スーツでカメラを構えることもよくある。その清潔感は清純派の女性の写真集には絶大な力を発揮する。熱の入ったあおり言葉を吐きながらガツガツとシャッターを切る時には決して引き出せない表情を、貝塚はスーツで紳士然として撮ることで引き出すことができる。
まどかも、はじめは露出の大きさや微妙にエロチックな注文に戸惑っていたが、それでも眉ひとつ動かさないストイックな貝塚のキャラクターに安心していった。さらには、そんな貝塚を挑発してみようかという気にもなっていった。
硝子は教室移動のスキをついて、明美のカバンを再度あさってみた。タオルに包んだ携帯電話らしきものが触れた。おそるおそる取り出して着信履歴を見たが、非通知が5件あるだけだった。しかも、恐ろしくまばらなペースで。これではなにもわからない。
次に硝子は明美の手帳を探した。一度、明美が落とした時に拾ってあげようとしたら、明美は信じられない早さでそれをひったくって片付けた。その時に感じた、理不尽で違和感な疑念…。机の中にその手帳はあった。急いで戻したのでほとんど見られなかったが、一番新しい記載がひとつだけ、映像として記憶に残った。
『成人の日、昼2時に大塚』
クリスマスからはもうだいぶ日が経ったような気がしたのに、まだ半月ちょっとしかたっていない。明美はそんな時間の進み方を不思議だと思った。時間の流れはいつも一定だったはずなのに、灯也に出会ってから早かったり遅かったりする。
成人の日、駅には何人も晴れ着の女性がいた。明美は「ひとりでショッピングに行く」と言って出てきた。優等生の娘を信用している親は何も疑わなかった。2学期の成績が落ちたことは心配されたが、「まわりのレベルが高すぎる」と言い訳をした。頑張ったのに上位の人についていけなかったと言ったら親は沈黙した。
(私の人生は私のものだったんだ。親がいいって言うとか、世間的にそれが普通とか…そういうのじゃなくて、私がこうして、灯也くんに会いたいからって自分で考えていろいろやってて、それが私の人生なんだ。灯也くんに出会って、私、どんどん変わってく。すごい出会いなんだ。灯也くんが私に出会うのは運命でも何でもないのかもしれない。でも、私にとって灯也くんは人生を変えるために必要だった、すごい運命の人なんだ)
もう駅前で待ち合わせはしない。明美は、大塚駅の改札を抜けて一人で灯也の部屋に向かう。途中で、明美は足を止めた。
(ケーキ買っていこう。灯也くん、好きだって言ってたし…)
危うく見逃すところだった、と硝子は思った。明美がケーキ屋に足を止めなければおそらく見逃していただろう。大塚駅前には、明美を探りに来た硝子がいた。
硝子は明美を救おうと思っていた。明美の身に何か起きている。もしかしたら悪いことかもしれない。あんな子じゃなかった。おとなしいけれど、素直で優しくて、頭のいい子だった。友達に嫌われるような子じゃない。だから、元通りの明美に戻ってもらって、これからも仲良くしよう。そして、それは私がやらなければならない…リーダーだから。
明美はケーキを買い、一目散に進んでいく。硝子は後を追った。しばらく先で、明美がマンションの入口に入るのを見たが、オートロックをインターホンで開けてもらう入口ではついていきようがない。すぐに出てくるかもしれないと思い、待つことにした。マンションの入口をずっとじろじろ見ているわけにはいかないので、自然なふりをして周囲をウロウロすることにした。少々不審だが、通行人もあまりいないので大丈夫だろう。
黙ってドアを開ける灯也、黙ってそそくさと中に入る明美。居間に入って、灯也が「いらっしゃい」と言う。明美が黙ってケーキの箱を差し出す。灯也が笑顔で受け取る。
明美がコートを脱ぐと、「座ってなよ」という優しい声がする。素直に座る…。
(ドキドキは、してるけど…。なんだか落ち着いていられる)
この空気は何だろう。明美が初めて体験するもの。他人の、歳の離れた、憧れの男性のそばにいて、安らいでいる自分。
灯也がお茶を運んでくる。優しくて、ひたすら温かい雰囲気。
「これ、新商品だね。カラメルスノーショコラ。早速買ってきてくれたんだ」
「昨日発売って書いてあったから…灯也くん、食べてないかなと思って」
「ウン、まだだった。ありがとう」
会話はそこで途切れる。でも、どっちも無理に口を開いたりはしない。その無言の時間が明美をまた酔わせてゆく。
灯也はしたたかに笑みを作った。明美の感情が手に取るようにわかる。恋愛という関係になることができたという甘い陶酔感。まだ何も確かなものなんかないのに、生まれて初めての微妙な空気が勝手に明美をあおってゆく。
(俺たちの関係は、何でしょう?)
灯也は心の中で言葉を投げて、明美に何食わぬ顔で話しかけた。
「寒くなかった? このごろ、来させてばっかりみたいになっててゴメン。…でも、なんかこうして明美ちゃんとなんとなく向かい合って過ごしてるだけって、俺は割と快適なんだ。人の目もないし、どこ行こうとか考えなくていいし…」
明美はうっとりとした上目遣いで答える。
「私も、やっぱり灯也くんに迷惑かけたくないし…、お部屋に呼んでもらえるっていうのも、なんか…何て言ったらいいか…」
特別な関係、という言葉を使えずに、明美は少し言葉を探す。
「ファンとして、すごく…光栄っていうか…恵まれてて、嬉しい…」
「…ファンとして、…か…」
灯也は少しガッカリしたような声を出す。明美がリアクションに戸惑ったスキに、
「紅茶にミルク入れる?」
と席を立って台所に消えてみる。証拠は与えない。ひたすら不穏な気配だけ。
蜘蛛の巣はもう完成している。蝶はもう両の翅をからめとられている。明美の甘い視線は、間違いなく広瀬灯也を愛している、…つもりになっている。
灯也はミルクとともにまた明美の前に現れ、座った。また会話はなくなる。スイートな気配だけがじわじわと部屋を満たしていく。
「そういえば、街の中は晴れ着でいっぱいだった? 成人の日だもんね、今日」
「あ、うん、たくさん見た」
「明美ちゃんの成人式って…まだ、7年も先か…。でも、俺が幼稚なのかもしれないけど、こうしてると距離を感じないね。13歳なんて、俺、もっと遠い存在かと思ってた。中学、1年だよね? 俺、中1なんて、もう10年以上前だよ」
明美は、灯也が年齢の話をするのを少し淋しいと思った。13歳…その数字は、とてもじゃないが灯也の恋人には似つかわしくない。
「ねえ、明美ちゃん」
灯也の声色が少し変わる。明美はドキッとして顔を上げる。
「…俺、明美ちゃんのこと、13歳だとか、中学生だとか…思わなくてもいい?」
灯也の伏せた目、沈んだような真剣な声、張りつめた雰囲気。明美は生まれてから一度も感じたことのない不思議な緊迫感に追い詰められた。
さて、どこまでいけるか…。そう、今日は成人の日。素晴らしいナゾかけだ。今日のこのめでたい日に、13歳の女の子が成人を迎えるという選択肢もあったっけ…。
明美の姿はいつまで待っても見えなかった。硝子はバカバカしくなってきた。
(あと一周だけしたら、帰ろう)
硝子は明美の入っていったマンションの脇を通り抜け、少し細い路地を回った。すると、一方通行を間違って入ってきてしまった車とハチ合わせた。車はバックしながら路地を戻っていこうとしている。道幅が狭かったので、硝子はしばらくぼうっとその車と向かい合っていた。運転席の男が、立ち止まる硝子に軽く手を挙げて詫びた。
(…え…、ま、まさか??)
垣口里留。わかりづらいように眼鏡をかけて、おかしなオールバックみたいな髪型にしているが、間違いない。こんな時、まずは…気付かなかったふりをすること。近くの枝に野鳥が止まったときのように…。
硝子は車がバックで出ていくのをぼうっと待っているふりをしながら、視界の隅で里留を必死に見ていた。里留の車は器用にバックして切り返し、路地に消えていった。
(見間違い? …ホンモノ? …でも、ホンモノに見えたけど、…ホンモノ?)
硝子は今の車の行方を探して歩きだした。この辺りに家があるのだろうか。
(周さんだったら、もっとよかったのに…)
だが、知り合うことができれば、周とも知り合えるかもしれない。明美が灯也を本気で好きだと言っていた…そんな夢は、あるいはこんな風にかなうこともあるのかもしれない。
硝子はふと、足を止めた。明美がウロウロしている建物の近くを、クロック・ロックのメンバーの車が通る。これは、偶然なのだろうか。
(…まさか?)
明美の態度はずっとおかしかった。みんなも腹を立てているし、自分も不快に感じている明美の変化…その原因は自分たちには見えない。「その原因」は、もしかして…。
硝子は明美の入っていったマンションの前へと踵を返した。
灯也は一瞬だけ迷った。そして息を殺して、テーブル越しに明美の手に触れた。明美は凍りついた。灯也の手の意味がわからず、どうしたらいいのかわからなかった。
灯也は明美の手を引き寄せながら、テーブル越しの位置から直角の位置へ回り込んだ。明美は身動き一つできないまま、灯也を伏せた視界の隅で見ていた。
灯也は明美を引き寄せた。抱きしめるのは2度目だ。針金のように細く固くなって、明美は腕の中に収まった。社会通念上、好ましくない状況。ゾクゾクするほど気持ちいい。優等生のお子様は、今、何を思って腕の中にいるのか…。
灯也は明美の背中を意味深にまさぐる。明美は体の硬直の度合いを高めてゆく。この無知な小鳥は、これからの出来事にどれだけついてこられるのか…。
明美の体のバランスを崩し、支えた。灯也が手を離したら明美はひっくり返る、そういう位置に追い込んで唇を近づけた。
(13歳でファーストキスなんて、絶対いけない)
明美の心はそう叫んだが、動けなかった。憧れていたキスの場面。自分にはあと5年以上はないと思っていたファーストキス。
灯也は「好きだよ」と言おうか迷った。けれど、ハッキリした言葉はかえってあとあと厄介ごとを招きそうだ。明美はしっかと目を開けている。言い訳の選択肢はたくさん残しておいた方がいいだろう。
灯也と明美の唇が触れた。
里留は路地に車を停車し、灯也に十数回目の電話をかけた。何度も繰り返されるコールのあと、留守番電話に切り替わった。
「あいつ、何やってんだよ」
ここ3日は確かにオフだが…周の母親がもう保たないだろうから、仕事を入れない代わりに、全員が申し合わせて自宅にいることになっていた。けれど、自宅は留守で、携帯電話にも出ない。里留がハンドルに両手を掛けてうつむき加減にため息を吐いたとき、車のドアにノックがあった。
里留は驚いて顔を上げた。サングラスの女性がのぞき込んでいた。里留があからさまに怪訝な顔をすると、女性はサングラスを少しだけ上げた。
「あ、…蓮井まどかさん…」
里留は何食わぬ顔を装ったが、灯也の家のそばで蓮井まどかとハチ合わせるのは不穏でしかない。しかし無視もできず、運転席を出た。車の中にまどかを入れたくはない。
「あの、垣口さん、…お願いがあるんです。どうしても、灯也と連絡が取りたいんです」
まどかは今にも泣きだしそうな顔で里留に言った。
「芸能系の裏サイト使って住所までは調べたんです。電話番号は、前は知ってたけど、消しちゃって…。でも、どうしても灯也に連絡取らなきゃいけなくなっちゃって…、お願いします…」
まどかの様子は尋常ではなかった。けれど、灯也がまどかを迷惑がっていたことを知っていて、みすみす連絡先を教えるわけにはいかなかった。
「灯也の家の前にずっといたら、垣口さんが来たのが見えて…。駅の向こうから、ずっと、ここまで追っかけてきてやっと追いついたんです。あの、どうしても…」
まどかは必死だった。里留は困って、とりあえず、
「ちょっと待って、何があったの? 理由を教えてよ」
と訊いた。まどかは少しだけ迷ったが、すぐに答えた。
「灯也本人に、最初に言わなきゃいけないことだから…」
里留の脳裏を不吉な予感がよぎった。けれど、どうあっても自分の口から灯也の連絡先は教えられない。
「…ゴメン、メンバーの連絡先を誰かに教えないっていうの…、全員で約束してるから。ほんとにゴメン」
まどかの視線はせわしく揺れたが、意を決したように、
「わかりました」
と答えた。
「すみませんでした。…あの、灯也に…緊急事態だから、何が何でも連絡くれって…伝えてもらっていいですか?」
里留はうなずいた。まどかは里留に携帯電話の番号を書いた紙を渡して、お辞儀をするようにうつむいて、肩を落として去っていった。
里留はまどかの後ろ姿を信用していなかった。背中を見せておいて、ここからまた追ってくるかも知れない。今日これから、うかつに灯也と接触できなくなった…困った。
里留は車の中に戻り、もう一度灯也の携帯電話を呼び出した。
金属のかたまりが床に落ちる音がして、それからものすごい振動音が鳴り響いた。
灯也は背後から心臓に銃弾を撃ち込まれたように驚き、慌てて振り向いた。
(…携帯か!!)
携帯電話は、振動に切り替えて荷物の上に置いてあった。急な連絡がつかないと困るが、電話に鳴られても困る。だから、着信だけはするように…。
灯也は押し倒しかかった明美をバランスよく座り直させ、
「ゴメン、ちょっと」
と台所に行った。床で携帯電話が暴れていた。
里留からの着信。灯也はヒヤリとした。里留から連絡が来るとしたら…。
とりあえず、取らずに見送った。静かになった携帯電話の液晶を見ると、里留からかなりの回数の着信があった。
(…天の神様は、俺の行いを見てたってことなのかな?)
懲りずに、また携帯電話が震えだした。電源を切りでもしない限り、電話はずっと鳴り続けるだろう。里留の用件がわかっている以上、とらないわけにはいかない。
「…はい、里留?」
灯也は覚悟を決めて電話を取った。里留の怒ったような声が聞こえた。
「灯也、どこにいるんだよ。家、留守だったじゃないか。すぐに戻って来いよ。多少遠くにいるなら、俺、車だから、拾いに行くから」
灯也は平静を装って答えた。
「ゴメン、ちょっとメシ食いに出てただけだよ」
すぐ隣の部屋にいる明美にも聞こえるだろうから、うかつに「今、自宅にいない」とは言えない。これなら、「今」いないのか、「さっき」いなかったのかわからない言い方だ。
「何度も電話したの、気付かなかったのかよ」
「ゴメン、それは気付かなかった。うっかりしてた」
「…周のオフクロさん、今日の昼過ぎに亡くなったよ。孝司は先に、直接行った。おまえはちょっと遠いから迎えに来たんだよ。連絡つかねえし…」
灯也は「わかった、今すぐ帰る」と言いたかったが、明美にここが本当の自宅でないことがバレてしまうのはまずい。灯也が言葉を探していると、里留の声の方が早かった。
「今、外なら、ちょっと自宅には戻るな。…少々、ややこしいことになってる」
「…ややこしいこと?」
「詳しくは後で話すよ。…ちょっと離れたところで落ち合った方がいいな。おまえ、タクシーで西巣鴨あたりまで来いよ。明治通りに曲がって、すぐに来られるだろ」
「ああ」
「メシは、もう食い終わったのか?」
灯也は苦笑した。残念ながら、まだだ。大変惜しいごちそうが…。
「…いや、でもしょうがないだろ、すぐ行くよ」
電話を切って一息、肩で吐き出す。…まさか、3日間の待機の、初日に亡くなるとは思わなかった。
明美のいる部屋に戻ると、心配そうな瞳が待っていた。
「…ゴメン、明美ちゃん…。さっき、周のお母さんが亡くなったらしい」
どうせ発表されることだ。嘘をついたらかえってややこしい。明美の顔色が心配から驚きに変わった。
「俺もすぐに行かなきゃ。里留が迎えに来てくれるんだ。…それで、明美ちゃんと一緒にいたのがわかったら困るから、先に帰ってくれるかな…。ほんとにゴメン…」
灯也は心の底から明美に謝った。あの場面から途中退出なんて、女性に失礼だ。
明美は弾かれたように立ち上がって、慌ててコートとカバンを拾った。
「急いで行ってあげてください!」
明美は唇が触れたことなど忘れたように必死で言った。灯也はすまなそうな顔をしながらその顔色を観察して、あまりに扱いやすい明美に心の中でほくそ笑んだ。
(…ファーストキスは、そんなに簡単に放り出しちゃっていいものなの?)
まるで何事もなかったかのように、明美は急いで玄関に向かった。それから逃げるように靴を履き、カギを外してドアを開けた。そしてお辞儀をして、無理やり押し込むようにドアを閉めた。
灯也は渋い顔をした。どうしたって失敗するはずはなかったのに。明美は、たかがキスすら逃げられなかったのに。おそらく想定外であろうその先の関係を、自分で止めるほどのスキルはあるまい…。
(…それどころじゃねえな、周は今…悲しみに暮れてるわけだし)
とりあえず、身ひとつで行けばいいだろう。必要なものはマネージャーに揃えてもらえばいい。明美のことはあとだ。もう、どうにでもなるだろう。どうにでもできるだろう。
とにかく、里留にどやされないうちに、西巣鴨に向かわなければ。ウィークリーマンションは幸い、明後日まで借りている。ここはこのまま放っておいてもかまわないだろう。いざとなったら、ネットで契約の延長をすればいい。
灯也は支度をはじめた。