17.夜明け
「何人目か」と訊かれたら「君だけだよ」と言うのが当然の礼儀だ。でも、家族のような錯覚に囚われて現実感のない中で、灯也は今、明美に手を出す気にはとてもなれなかった。
「明美ちゃん」
灯也は怒ったような声で言った。
「俺の話聞いてた?」
「…どうして?」
ほんの少しだけ、明美の視線が上に動いた。でも灯也の顔を見上げる高さには至らなかった。灯也の胸元あたりを見るともなしに見る瞳は妙にうつろだった。
「…俺たちって変かなって言ったの、聞いてなかったの?」
「聞いてたけど…」
「俺はこの時間をなんか貴重だなって思ってたのに、明美ちゃんに普通のつまらないことだって言われたみたいですごく納得いかない」
「私にとっては夢みたいだって、言ったじゃない」
「だから、俺だってなんだか夢みたいだって思って言ったんだよ。何人目って…そういうの、俺に対して、失礼だって思わない?」
妹…という、さっきまで浮かんでいた言葉は飲み込んだ。
「ねえ明美ちゃん」
灯也はテーブルの上に乗り出して、明美を至近距離から見つめた。明美は少し後ろに下がった。
「キミといる時間は俺にとって特別なものなんだよ。だから無理して時間作って、未成年のキミを、よくないってわかっててこんな時間に呼び出してるんだよ」
恋愛のようなことを言っている、と灯也は思った。特別というより異様なことで、異常なことで、おかしなこと。自分にとっては悪ふざけ、「おたわむれ」にすぎない。恋愛のつもりなんか、かけらもない。
目の前の灯也からこぼれてくる言葉を、明美は一言一句逃すことのないよう耳に収めた。言いがかりをつけたのは…単なる嘘。他のファンの子とこんな風に会っているはずなんかないと思っていた。卑屈な言葉を口にしたらきっと否定してくれると思った。キミひとりだと言われたかった。
明美は怒ったような灯也の口元をすぐそばに感じていた。灯也は、明美がすぐそばにある灯也の唇を気にしながら、決して距離をとってはいないのを感じた。
(キミの方が恋愛モード全開じゃない? 俺、改心しかかってたんだけどな?)
そして一瞬で判断して、テーブル越しに引き寄せ、右頬の上に軽くキスをした。そしていかがわしくならないようにすぐに離れ、台所へ行くふりをして立ち上がった。
「今のは罰ね。せっかくのイブなのに、変なこと訊くんだから。他には誰もいないよ! ヤキモチなんか、焼かないの!」
硬直している明美を放ったまま台所に引っ込むと、灯也は失笑をこらえきれなくなった。いつまでも物音がしないのは不自然なので、灯也はとりあえず冷蔵庫を開けた。
明美は「恋」という言葉をむやみに頭の中で繰り返していた。今の頬へのキスはどういう意味だろう。ビンがかち合う音が聞こえる。灯也にとってこんなのはあいさつ程度のことなのか、それとも恋の照れ隠しなのか…。
恋愛なんてわからない。少女漫画や小説でしか読んだことがない。男の子と話をするのだって苦手だ。たぶん、恋愛的には、日本中の女の子の中でも最後尾に位置しているだろう。なのに、どうしてよりによって自分がこんなことになっているのだろう…。
灯也の気配が近づくのを感じ、明美は慌ててテーブルに視線を落とした。
「飲まない?」
灯也が念入りに選んだ、甘口のロゼワインだった。飲み口がとても軽い、うっかり飲み過ぎてしまいそうなオススメ品。
「…えっ!」
明美はだいぶ遅れて反応した。
「…お酒は、私、未成年だから」
「そんなの、ちょっとだけだから大丈夫だって」
「私、絶対に二十歳までは飲まないって決めてるの。絶対」
多少の抵抗を見せるだろうと思っていたが、明美の意志はとても固かった。しばらく問答したが、明美はてこでも動きそうになかった。
「明美ちゃんのためにいろいろ考えて選んだのに…」
「あの、…だったら、ラベルだけほしい…。二十歳になったら最初にこれ、飲むから」
「その頃には、キミは俺のことなんか忘れちゃってるよ。わかったよ、俺一人で飲むよ」
灯也のちょっと拗ねた声を聞いて、明美ののどから「じゃあ、飲む」という言葉が出かかった。でも、やっぱり「社会のルール」を破りたくなかった。
「…ごめんなさい。でも、…私、二十歳になって、灯也くんのこと覚えてないなんてこと、絶対ないと思う」
「そう? でも、7年も後だよ?」
「きっとその頃はもうこんな風に会えてないと思うけど、でも、お財布も、ワインのラベルも大切にしてて、そして灯也くんのこと大好きだと思う」
「大好き、ね」
軽く聞き流せるようでいて、少し微妙な響きを秘めた言葉。灯也も明美もそれ以上何も言わなかった。
灯也は手際よくコルクを抜き、手酌でワインを注いだ。明美はそれを見ていたが、すぐ、
「あっ、すみません、お酌!」
と言った。灯也は笑って、
「いいよ、ワインだから」
と言った。ワインとは、女性が注ぐものではないらしい。そもそも中学生に酌なんか期待していないし、明美にそんな知識はなくてよかった。
「コドモ向けのノンアルコールカクテルでも作ろうか?」
「え、…私は、紅茶でいい」
「せっかくだから乾杯しようよ」
灯也はもう一度台所に立った。そして、トロピカルフルーツのジュースで、しっかりアルコール入りのカクテルを作った。
こんなクリスマスの支度は、とても楽しかった。何をどうやって明美の頑ななヨロイをはぐか…。ジュースを買い、ワインを買い、ケーキを選び、グラスを選び、セリフも選んだ。蜘蛛が丁寧に丁寧に巣を編み上げるように。
久しぶりに楽しいクリスマスだ、と灯也は思った。クリスマスなんて、寄ってくる女の子を喜ばせるためだけのイベントだと思っていた。
これって犯罪だよね、と灯也は声に出さずに口だけを動かした。ゆっくりと、鳥肌のような感触が肌を這った。
明美はぼうっと灯也を待っていた。さっき頬に触れたばかりの唇を思い出す。ものすごくハッピーな出来事には違いない。でもキスの意味がわからない。的は頬だったから、親愛の情にすぎないということだろうけれど。
(13歳で恋なんて…って言ってきたけど、でも、違うんだ。私がこんな風に灯也くんに一生懸命になるのと同じで、たぶん、同じように男の子の誰かのことが好きな女の子だっているんだ。理性が伴ってきちんとしてる子なら、恋愛は…私みたいなこともあるわけだし、やっぱり…)
好きな人が思いがけず自分に振り向いてくれて、一緒にいられることになったら、ただ大人の言いなりのいい子でなんてとてもいられないんじゃないか…。交際相手がいる同学年の子たちを、「色気づいて、バカみたい」と言ってきた。しかし、自分は夜中、男の人の部屋にいる。わかっていても、どうにもならない気持ちがある。
自分が変わっていく。明美は甘い幸福感に酔った。自分で自分を陶酔に向けて煽る。
「じゃ、明美ちゃんはこれならいいかな」
灯也の声に顔を上げると、目の前に赤い液体が置かれた。そして灯也は営業スマイルを浮かべて座った。
「赤はグレナデンシロップっていう、カクテルによく使うシロップで出したんだ。クリスマスだからね」
「ごめんなさい、つきあえなくて…」
「いいよ。じゃあ、さっきよりは少し大人っぽく…」
明美がグラスを持った。灯也はわずかの緊張と大きな期待を抱いてそれを眺め、優しすぎる表情と甘すぎる声色をつくって溶けるように言った。
「…乾杯」
明美がおそるおそる飲むのを灯也は視界のすみで眺めていた。
「不思議な味がする」
「今、流行ってるんだよ、ノンアルコールカクテル。これは俺のお気に入り」
嘘ばっかりだ。
「明美ちゃんのご両親って飲むの?」
「父はすごく飲むの。仕事柄って本人は言ってるけど。母は…アルコールがだめなわけじゃないけど、飲むのはあんまり好きじゃないみたい」
「じゃあ、明美ちゃんも将来は飲めるね」
飲ませても、体質的な差支えは出ないようだ。でも具合が悪くなったらどうしようか。それなりにいろんな心配を抱えつつ、灯也は快活に明美に話し続けた。大学時代の話、「クロック-クロック」との出会い、そしてデビュー。
「里留たちのバンドがデビューするはずだったのに、俺が割り込んじゃったんだよ。俺にとってはタナボタだったんだけど、事務所的には、先にクロック-クロックの3人の方に声かけてたってことはあんまり言わないね」
「そうなんだ、全然知らない。元々、灯也くんもいて、大学で人気のあったバンドですっごい良かったからスカウトされたんだと思ってた」
「事務所はスカウトって言葉使ってないよ。世間でなんとなく広まってるイメージで都合がいいから放っておいてるだけ」
灯也も、ほかのメンバーも、意識して「事務所のレッスンを受けた」という部分は口にしない。灯也は特にそこに気を配っていた。3人はプロになるのに半年のレッスンを受けたが、自分はそこをスルーしている。そのことを言うのは、自分の方が才能があったように言うのと同じだ。でも、明美には「3人が先に事務所と接触した」ということまではつい話していた。明美が誰に、何を言っても、誰が本当のことだと信じるだろう。灯也は気が大きくなっていた。
明美のグラスは空になりかけている。初めて飲むにはハイペースだ。目下、酔った様子はないが…。わざとそういう子を選んだのに、あまりにも無防備で、無知で、無垢で…傷つけるのは想定のうちだが、思いもよらない事態にも陥りそうな危うさがある。法律上、確か13歳からは自分の意思が伴えば男性と深い関係になってもいいはずだったが…ふと自信が揺らいでくる。法律に詳しいわけじゃない。刑法は調べた。でも、その他になにか落とし穴がないだろうか…。
灯也が表面を繕いつつ考え事をしている間、明美は必死で気を奮い立たせていた。猛烈に眠かった。気を抜くと寝てしまいそうだった。
(暖房の温度下げてとか言っちゃダメかな。普段起きてる時間なのに、なんでこんなに眠いんだろう)
とにかく暑くてぼうっとした。明美はそれを暖房のせいと思っていた。灯也にも明美が朦朧としてきているのがわかった。気付かれないように時刻を確認すると、あと15分で日付が変わるところだった。明美が「帰るはずの」時刻まであと少し。さて、どうするか。
「…明美ちゃん、眠いんじゃない?」
優しく訊いた。明美ははじかれたように顔を上げたが、1秒後にまぶたが半分閉じた。
「眠いなんて、そんなことはないです」
広瀬灯也といるのに眠いなんて失礼だと思い、明美はなんとか普通を装った。灯也は優しく笑って、
「そうでもないみたい。今、『です』って言った」
と言った。どうやら明美がタメ口をきいているのはいまだに努力のたまものらしい。
「…そうだっけ…」
さっきどんな言葉を口にしたかもろくに思い出せない。このまま崩れてしまいそうに眠い。とにかく暑くて仕方がない。
「あと15分あるから、少し寝てから帰れば? 10分でも、寝るとスッキリするよ」
親切を装う。一人暮らしの男の部屋で寝入るなんてうかつなこと、大人の女性はしないけれど…。
「すみません、少しだけ寝ます…」
それ以上何も考えられず、明美はその場にそのままゆっくりと横になった。灯也は内心で快哉を叫んだ。10分で起こしてやる気なんかない。「起こしたけど、起きないから、車で送るつもりで」終電を逃す。そうしたら、夜明けまで十分時間はある。
横向きに丸まるように寝ている明美を見ていて心は決まった。あとは上手に時間を見計らい、自然さを演出することだ。目的を果たすには、今明美が寝ているスペースではいささか狭い。灯也は物音を立てないように周囲を片づけ、テーブルを自分の方に引き寄せた。しばらくは所在なく座っていたが、やがて明美の鑑賞を始めた。
とにかく「新品だ」と思う。販売店に並ぶ新車のような肌のつやがまぶしい。まだニキビが出て悩む年頃にも至らないのだろう、目鼻などのあるべきもの以外には何もない肌。体の凹凸は断然足りないが、それは割とどうでもいい。人にはそれぞれ長所と短所がある。
見かけも新しいが、中身もまだまだ新しい。頭の中にはイロイロ詰め込んだようだが、大人の目から見れば何も知らないに等しい。
膝から下が見えている。細いが、シルエットがまっすぐすぎる。それはこれから変わっていくだろう。それより注目すべきは、脚より足だ。足の肌の若さにはやっぱりごまかしがきかない。明美の足は若い。女性の若さに特に執着はないつもりだったが、目の前に陳列されれば若さの魅力を感じないわけにはいかない。
真っ黒な髪、まっすぐなまつげ、短く切った爪。天然物だな、と灯也は思った。周囲は養殖物や加工品の女性ばかりだ。スーパーで安く売るには後から見栄えを盛り付けるのも仕方ないが、新鮮さを売りにするのならそのままのほうがいい。
灯也は明美をしばらく執拗に眺めていた。
時計が0時を越え、灯也は明美のそばに座り直した。近くにいなければ「起こしたんだけど」が通用しない。自分でもいささか周到すぎるというか、ねちっこいような気がした。
そばに座ると自然と手が伸びる。灯也はしばらく手を上げたり引っ込めたりしていたが、思い切って腰の微妙なあたりに手をかけた。驚いて明美が起きたとしても、「起こそうとした」で済む位置。明美がなんの反応も示さなかったので、灯也はそのまま手をのせていた。女性の腰独特のカーブが、それだけで心地よい。
少し、揺り起こすように動かしてみた。明美の反応はなかった。灯也はそのまま掌を微妙な位置まで撫で下ろしていった。明美は目を覚まさなかった。それで度胸がついた。もし起きてしまったらそのまま口説けばいい。スカートのすそに手を伸ばし、そっと引き上げた。思いのほか丈が長く、緊張が続いた。露出していく脚が頼りなく細い。そして、さすがにこれ以上は…というところで止めた。素足の先から脚の付け根まで、すべてが綺麗だった。子ども相手じゃ欲情しないかという気もしていたが、それは杞憂だった。
オオカミの吐息を聞かせるわけにいかず、必死で息を殺す。スカートをもう一歩たくしあげた。瞬間、中学生にしたっていくらなんでも野暮ったすぎる、真っ白なショーツがチラリと覗いた。灯也はギクリとした。あらためて、明美が子どもだということを思い知らされた気がした。
明美が首を動かすのが見えて、灯也は慌ててスカートを元に戻した。明美はそのまましばらく身動きを続け、突如、起き上がった。灯也は叫びそうになるほど驚いた。
「あ、夢じゃなかった…」
灯也を見つけ、明美はつぶやいた。。
「灯也くんとクリスマスなんて、やっぱり夢だったのかと思った」
明美は何かに気付いた風でもなく、無邪気にただ座っていた。灯也は、まだフォローできる段階で目を覚ましてくれて良かったと思った。
「…あ、時間!」
時計が0時7分を指しているのを見て、明美は呆然とした。灯也はいささか慌てたが、シナリオ通りのセリフを思い出し、なんとか取り繕った。
「ゴメン、起こしたんだけど、すごくよく寝ちゃってて…。俺が酔いをさまして車で送っていけば何とかなると思って、起こすの、諦めようかと思ってたところ…」
「…私、起きなかったんだ…。そういえば、揺すられたかもしれない。ごめんなさい」
腰のあたりに灯也が触れた感触がかすかに記憶として明美に残っていた。灯也は明美の言動にいちいちヒヤヒヤした。
明美はあらためて時計を見て不安に苛まれた。だが、身の危険という不安は全く感じていなかった。両親に知られたくないという焦りだけが明美を満たしていた。
「ゴメン明美ちゃん、もう少しお酒抜けたら、俺、クルマ出すから」
そう言ってから、ちょっと待て、と灯也は思った。自分は今、明美を真面目に帰すつもりでいる。電車の始発まで4時間以上あって、それまで引っ張ったほうが獲物もどうにかできそうだし、電車で帰ってもらえた方が人目につかなくて好都合なのに…。
「あの、でも…車は、いいから」
明美は不安をふっきって少し芝居がかった笑みを浮かべた。自分がいないことが騒ぎになるなら、もうとっくになっているだろう。今焦っても事態はもはや変わらない。もし「どこに行った」と訊かれるなら…。
(そうだ、前に考えた、「広瀬灯也の追っかけ」になるのが一番いい)
コッソリ夜中に抜け出して、芸能人の自宅を訪ねてきたことにすればいい。自分の親に対しての立場も、友人に知れた時の世間体も最悪になるが、そのかわりにもっと大事なものを守ることができる。
「私、始発で帰るから…もう少し、いてもいい?」
明美は自分の危機をまるで自覚することなく灯也に打診した。灯也は明美の意図をさぐろうと顔をのぞき込んだが、そこには恋愛や性的な思惑が完全に抜け落ちていた。
「灯也くん、明日、ファンクラブのイベントでしょ?」
まっすぐ向けられた視線をまっすぐ見返すことができないまま、灯也は、
「…そうだけど」
と答えた。
「あの、だったら、寝て。ファンの人、絶対、灯也くんの歌声楽しみにしてると思うし。私はもう満足したし、たくさんのファンの人の方がずっと大事だから」
明美は灯也の仕事を優先する自分に酔った。灯也はそんな少女趣味な感傷に気付かなかった。蓮井まどかも言いそうなセリフなのに、明美の年齢に目がくらんでいた。
灯也は不意に落とし穴に落ちるように、ふっと自分が嫌になった。中学生の身で仕事のことを優先してくれる明美への不思議な感慨が湧き上がった。
邪な気持ちではなく、ただ抱きしめたくて、灯也の視線は明美の肩のあたりを這った。無言の時間が少しだけ流れて、それから、灯也はそっと明美を抱きしめた。明美は少し驚いたが、なんだかこうなるような気がしていた。灯也のゲーム的な策略のせいで、明美の中には恋愛の始まるような予感が充分に満ちていた。
灯也は明美を抱きしめたまま、言い訳に、
「ありがとう」
と言った。この抱擁は、感謝の抱擁。「恋愛じゃないから」と釘を刺したつもり。
「…ホントに俺、寝るけど、怒らない?」
明美は灯也の胸から動けないまま、
「ちゃんと寝ないと、怒る」
と言った。
灯也は隣の寝室のベッドに入って、まるで当たり前の一日のように普通に眠った。
明美は居間で恋のはじまりを繰り返しかみしめながら、眠れずに夜明けを迎えた。