16.危機その2―クリスマス
広瀬灯也、25歳。出身は東京都町田市、学歴は大学卒。友人は少ない。元来社交的なタイプなのだが、どこかで心を開ききれないところがある。その場でつるむ仲間、友人はいても、一生のつきあいにはならなかった。大学時代親かった仲間とは、就職活動の時期に微妙な溝ができ、灯也が芸能界に入ってからは連絡をとらなくなった。
灯也は就職したくなかった。けれど、就職をしないわけにはいかないだろうと一応普通の就職活動をした。だが、「できれば就職したくない」という気持ちで活動しても結果は出なかった。
そのまま大学4年の秋を迎えた灯也は、学園祭のメインステージの割り当てを、ソロボーカルとして取った。そして何気なくステージの割り当て表を見ていて驚いた。
「クロック-クロックがないじゃん」
前年の学園祭の後、垣口里留に「1曲、一緒にやろう」と言われたことを覚えていた。
クロック-クロックの側は忘れているかな…と灯也は思ったが、里留はちゃんと覚えていた。「ステージは取れなかったが、教室でのライブでよければ歌ってくれ」と言った。灯也は答えた。
「ああ、だったら、俺のステージでやろうよ。そっち、メインでいいから」
里留には純粋な好意を装ったが、灯也は「クロック-クロック」がプロになる可能性があることを知人から聞いていた。そして、学園祭に事務所の人が来るらしいということも知っていた。
周りの友人たちはみんな「普通に」就職を決めていく。でも自分は就職したくない。他に特にやりたいこともない。芸能人になるなんて、それまで考えたこともなかった。プロになれるかもしれないバンドと一緒にステージに立ったら、もしかして就職活動なんか要らなくなるかもしれない。歌でメシが食えたら楽だし、最高だ。
彼らの実力に敬意を表する意識もあったが、なによりも「あわよくば…」という思いから、灯也はステージをクロック-クロックに譲った。結果、クロック-クロックは広瀬灯也を含めた「クロック・ロック」としてデビューすることになった。
灯也は3人に感謝している。やりたいこともなく、行き場もなかった自分を芸能界に連れてきてくれた。彼らの地道な努力がきっかけをつくったのであり、自分は所詮、そこに便乗しただけだ。自分に歌の才能があったのは確かなのだろう。だが、飛行機が飛ぶためには滑走路が必要だ。滑走路を造ったのはクロック-クロックの3人だ。
灯也は時折、「普通」であるために努力しているたくさんの人の存在を、近すぎる背後に感じることがある。大学時代、「普通」に就職していく友人に引け目を感じながら疎ましく思ったり、「凡人」と侮ったりしてきた。でも、結局自分を飛ばせてくれたのは、まるで就職活動をするみたいに地道に音楽活動と売り込みを続けてきた3人だ。
何もできない奴だったのは、普通に就職した友人より、何もやらなかった自分だ。歌しかとりえのない自分…、売れてはしゃいでいる頃は楽しいだけだったが、最近、普通の人が地道に続ける努力が怖い。灯也はこれまで、努力をおざなりにしてきてしまった。
30歳までは遊んで過ごすつもりでいた。けれど、30歳になっても自分が何もできないままなんじゃないかという漠然とした不安が、灯也の心の中にいつも居座っていた。
12月24日の夜、携帯電話が震えた。できるだけいつも自分の部屋で電話を抱えて過ごしていたので、明美はすぐに電話を取ることができた。
「もしもし」
「明美ちゃん、今一人? 平気?」
「平気…」
明美はカレンダーを見上げた。12月24日、クリスマスイブ。もしも今日会えたら最高なのにと思っていた。
「クリスマスイブだね」
灯也の声に、明美はドキッとした。
「うん…」
「…あのさ、…今夜、出てこられないかな」
灯也は舌を出した。すでに明美を呼ぶためのウイークリーマンションにいる。明日はファンクラブイベントで早いが、徹夜明けのステージなんてよくあることだ。
「時間は空かないんだけど…クリスマスプレゼントを買ったんだ。年が明けちゃうと思うんだ。だから、無理してでも今夜、渡したいんだよ」
明美の返事はなかった。
「…でも、やっぱり無理か、そんなの…」
灯也は明美を遠回しにせかした。明美がNOと言わないことなんて、先刻承知だった。
「ううん、そうじゃなくて」
明美は慌てて答えた。時計を見ると22時だった。両親とも、夜になると明美の部屋に来ることはない。寝たふりをしてしまえばいい。ただ…。
「あの、…帰りの電車がなくなったらと思って…。終電の時間、わからないから…」
灯也はこっそりと苦笑した。
(終電なんて関係ないのに。お泊まりだから)
それでも、警戒させてはいけない。灯也は優しく言った。
「大丈夫だよ、そんなに遅くはならないようにするよ。それに、何かあって終電逃すようなことになったら、その時は人目がどうのとか言わないで、車で送ってく」
言ってから、灯也は「何かあって」という言い回しをまずいなと思った。微妙な響きを明美が聞き取らなかったかどうか…。
明美はそんな響きをカケラも感じ取ることなく、計算に必死になっていた。
(お父さんが夜中一番遅く電車で帰ってくる時間って、もっと遅いから大丈夫だよね。それに、遅くなって灯也くんの車に乗せてもらうことになったら、すごく格好いいな…。記者とかに見つかったら困るけど…ううん、ファンが勝手に家まで夜中に押し掛けて来ちゃって、灯也くんが危ないから家まで送ってあげるとか、そういうことにすればいいんだ)
きっと大丈夫。そして、次に明美が気にしたのは、自分が灯也宛のプレゼントを買っていないことだった。
「灯也くん、私、プレゼント買ってないの…。今から間に合わないよ…」
灯也はゾクゾクするような期待に身を浸した。買ったプレゼントなんか要らない。ただ身ひとつで来てくれれば、もらうものはいくらでもある。
「いいよ。俺の都合がハッキリしなかったんだし。それに、…中学生の女の子のお小遣いを取り上げるみたいで気が引けちゃうよ。明美ちゃんも開き直ってよ。そこはやっぱり年の差の分だと思って、気にしないで」
「…うん…」
こういうとき、明美が引き下がるまでにかかる時間が短くなった。灯也は満足した。
「家、出られる? 無理かな」
一刻も早く家を出てきてほしくて灯也はせかした。明美は背中を押され、
「絶対、なんとかする」
と答えた。
電話を切り、明美は大きなバッグを取り出した。そこに、クリスマスに会えるならと思って用意していた服とアクセサリーを詰め込み、財布、携帯電話、ハンカチを入れた。両親に見とがめられた時、お洒落な服装をしているわけには絶対にいかない。だから普段着で出ていかなければならない。全部、荷物にして持っていくしかない。
(出てくとこを見つかったら、「コンビニにコピーに行く」って言おう。「ノート明日返さなきゃならないの、忘れてたから」って言えばこの時間でも怪しまれないよね)
居間から廊下に出るドアは閉められている。玄関で物音を立てないようにすれば見つからないだろう。家の鍵は持っている。帰ってきたところを見つかっても、コピーに行っていたという言い訳が使えるだろう。
(だって、私はいつも真面目だもん。夜中にノートコピーに行っても、明日返す約束を守るためだって言えば絶対通じるよ)
明美は布団の中にタオルやセーターを詰めてふくらみを作った。そして黒いカーディガンを取り出し、枕のところに丸めて置き、布団を深くかけた。電気を消して豆電球だけにすると、人が寝ているように見える。きっと、親が部屋を覗いても大丈夫だろう。
明美は部屋を出た。階段がきしまないように注意しながらそっと下り、居間からことさらにぎやかな音がしているタイミングを見計らって廊下を通り抜けた。そして玄関に靴下のまま下り、靴をつかんで玄関の鍵をそっと外し、外に出た。冷たい風が玄関に吹き込み、誰かが外に出た痕跡になりそうで焦った。でも、あとは行動あるのみだった。
音がしないように念入りにドアを閉め、そっと施錠した。それから靴を履いた。石の上に靴下で立っていても冷たいと感じなかった。外の寒さも気にならない。明美の体中が熱く火照っていた。
誰にも会うわけにいかない。明美は表通りを避け、遠回りして暗い道を駅に向かった。このところひったくりや通り魔の話をよく聞く。でも、この時間に外出したことを誰かに知られる方がもっと怖い。
駅に着き、駆け上がるように改札を抜け、池袋行きホームの一番端に立った。練馬駅は見通しがいい。端にいても目立つような気がして、明美は電車が入ってくるまで気が気ではなかった。すいている各駅停車に飛び込み、隅の席に座った。そして髪で顔を隠すようにして寝たふりをした。
本当は練馬駅でクリスマス用の服に着替えるつもりだったのに、忘れてしまった。池袋は人が多いので長くいたくない。着替えは大塚駅のトイレにしようと思った。
大塚駅に着き、時計を見ると、もう22:45になっていた。
(あっ、…終電の時間、調べてこなかった…)
知り合いに会うのではないかと気が急いて、練馬駅で時刻表を見てこなかった。大塚駅で山手線の終電を見ても池袋までしかわからない。練馬に帰れなければ意味がない。
(どうしよう…、あとどのくらい時間があるのかな)
考えながら明美はホームの階段を下りた。そして、改札を抜けてから気がついた。
(あっ、着替えてない…)
トイレは改札の中だった。周りを見回しても、とても着替えられそうなところはなかった。それよりも、灯也といられる時間がほとんどないと思い、明美は急いで灯也の家…明美と会うためのウイークリーマンションへ向かった。
灯也は甘い妄想に浸りつつ明美を待っていた。冷蔵庫にはケーキも酒もある。プレゼントは、クロック・ロックの非売品のグッズで十分だろう。クリスマス前後に中学生が高級品を手に入れたら目立つ。いっぱしのプレゼントを贈ると面倒そうだ。
明美を終電に乗せてやるつもりはない。一人で妄想の海を泳いでいると、呼び鈴が鳴った。さすがの灯也もドッキリした。気を静めるように自分に言い聞かせながら、わざとゆっくりインターホンに出た。マンションの入口は、内側からインターホンごしに開けないと誰も入れない。
明美と短いやりとりをして入口を開け、待っていると、今度はドアのところでインターホンが鳴った。学校に行くようなコートを着込んだ明美が、大きなバッグを抱きしめて立っていた。
「入って」
灯也は急いで明美を招き入れ、ドアを閉め、鍵をかけた。振り向くと、明美はバッグを抱いたまま立っていた。
「灯也くん、あの、おトイレ…借りていい?」
「ああ、勝手に使って。冷えちゃった?」
明美は手を横に振った。
「そうじゃなくて、あの、普段着で来ちゃったから…」
そして明美はトイレに飛び込んだ。
ドアが閉まる音を聞いて、灯也は音が鳴らないようにしながら指を鳴らす仕草をして、舌打ちの真似をした。
(着替え? …着ないでいいのに)
とりあえず紅茶を入れ始めたが、今、明美が服を脱いでいることを考えると、それだけでたまらないような気がした。男の家で着替えるなんて…ある意味挑発なんだけど。
明美は慌てて着替えてトイレを飛び出した。クリスマスプレゼントにと、親に買ってもらったワンピース。今履いてきたスニーカーとは全然合わない、すとんとしたシンプルなデザイン。色は紺。灯也と街なかで会う時のことを考えて、目立たない色を選んだ。
おそるおそる灯也の待つ部屋に入ると、紅茶の香りが満ちていた。灯也は丁度台所からクリスマスケーキを運んできたところだった。
「座ってよ。…可愛いね、そのワンピース。大人と子どもの中間、って感じで」
灯也は盆をテーブルに置き、それから座った。
(…履いて来たの、確か、スニーカーだったよなあ。…それに、紺のワンピースに白の靴下か…。前にも言ったのに)
「あのさ、明美ちゃん」
白い靴下、それはそれでなかなかロリコン心をくすぐるアイテムだろうが…灯也は元々ロリコンではない。それよりは、トータルコーディネートの方が気になる。
「そのワンピースだと、靴下より、ストッキングの方が合うよ。次に着るときは、ストッキングにしなよ」
灯也は笑顔を作って優しく言ったが、明美はパッと赤くなって靴下を脱いだ。
「あの、慌ててたから…」
明美の素足は灯也の心をくすぐった。冬に素足はふさわしくない。そんな違和感が官能的だ。
「家、うまく出てこられた?」
灯也は自分の気を紛らわせつつ声をかけた。明美はおずおずと座り、
「うん、多分…」
と答えた。今頃、自分が家を抜け出したのがバレて、大変なことになっているかもしれない。今まで一度もそんなことをしたことがないから、両親は心配するだろう。警察にまで行って、捜索願が出ているかもしれない。
(…ずっと、散歩してたって言おう。散歩じゃないって証明することなんか絶対にできない。冬の夜中、散歩する中学生がいないとは限らない)
明美は不安を振り払って、気を奮い立たせて顔を上げた。親に内緒で深夜に外出するなんて初めてだ。夜中にウロウロする少年少女を友人たちとどう言っていたか覚えている。
(…でも、私は違う。事情が違うから。遊びに出たとか、ふらふらしてるのとは違うから)
そう、広瀬灯也と会うには特別な環境も仕方ない。例えば、夜中に男の人と2人っきりで部屋の中にいても…。
(夜中に、男の人と2人っきり…)
明美は灯也の顔を見て、急に客観的になった。一瞬不安を覚えたが、打ち消した。
(…でも、有名人がおかしなこと、できるはずないもん。しかも、ここは灯也くんの家だし。ここで犯罪とかあったらすぐにバレちゃうし、それに、…)
でも、性犯罪、という言葉が不意に浮かんだ。
「夜中にケーキ食べると太っちゃう…とか、思ってる?」
灯也の声で明美は我に返った。灯也はいたずらっぽい上目遣いで明美を見ていた。
(…さすがの明美ちゃんも、なんかヤバいかな…くらいには思ったかな?)
チャンスは今回だけとは限らない。明美の態度次第では、実際に終電で帰そうと灯也は思った。明美の終電は調べてある。余裕を見たって、大塚を深夜0時に出れば電車で帰れる。あと1時間ある。普通にクリスマスごっこをするには十分だろう。
明美は灯也の明るい表情にひとり、こっそりと気まずさをかみしめた。
(私の方が、一人で変なこと考えてるんだ…)
灯也は顔色を読み、
「ケーキじゃなくて、コンニャクにすれば食べてくれた?」
と、明美の戸惑いを徹底的にケーキのせいにした。
「え、そうじゃなくて、…太るけど、でも、クリスマスだから」
明美は笑顔を作ったが、まだ未熟な作り笑いは灯也にはすぐ読めた。
(さすがに情報化社会に生きてれば、この状況に不審をおぼえるくらいの知識はあるか…)
「紅茶だけど、明美ちゃん、乾杯しようよ」
灯也はカップを手にした。明美も慌てて同じようにした。
「…じゃあ、メリークリスマス」
灯也はとびっきりの優しさを瞳にたたえて明美に甘い声をかけた。明美は気が遠くなるような感覚に陥りながら
「メリークリスマス…」
と消え入るような声で唱和した。
「明美ちゃん、12時にここを出れば電車で帰れるよ。まだ1時間近くあるから、そのくらい…いられるでしょ?」
灯也は先手を打った。明美は時計を見た。23時だった。
「…あ、…うん。そっか、そんなに終電って、遅いんだ…」
明美はホッとした。あと1時間いられる。終電で帰れる。そして、あと1時間と限定してくれるなら安心だ。
明美は灯也を見つめた。少し童顔でハタチ前後に見えるとはいえ、それだって明美から見たらずっと年上だ。造作が綺麗というのとは違う、いわゆる「カッコイイ系」で「カワイイ系」の顔。少年の瞳。そして、TVで見るのとは違う、細工のしていない髪。明美はもうこういう自然体の灯也を見慣れていた。それは、すごいことだった。
「あの、…周さんのお母さんのご様子とか、どうなんですか?」
二人でいることがなんとなく恥ずかしくなり、明美は無理やり話題を作った。
「うん、…1月はね、ちょっと休もうかってことになってる。クロック全体で。お母さんが保っても保たなくても、周は休めた方がいいでしょ。だから、俺もちょっと自由。明美ちゃんにも会いたいけどね、少し旅行にも行きたいな。大学の卒業旅行からずっと『旅行』は行ってないんだ。PVのロケとかは行ったけどね」
「旅行…どの辺に行くの?」
「ん、どうだろう。明美ちゃん、おみやげ何がほしい?」
「え?」
「明美ちゃんがおみやげもらいたいところに行こうかな」
「え、そんな変な決め方しちゃダメでしょ!?」
明美が驚くと、灯也は笑った。
「そのくらいどこでもいいんだよ。国内でも、国外でも」
灯也は安らいだ気分に満たされた。自分の言葉がとても気持ちいいものに感じられた。自分が入れた紅茶。クリスマスイブに紅茶とケーキなんて、20年ぶり…まではいかないが、とにかく小学生のとき以来だろう。
妹、という言葉が不意に浮かんできた。灯也は一人っ子だ。きょうだいに憧れたこともあるが、それは「カッコイイ兄貴がほしい」とか「きれいな姉貴がほしい」とかいう実現しない空想みたいなもので、実際に自分にきょうだいができるなんてことは考えたことがなかった。だから、実際に「きょうだい」がどういう存在なのか、灯也は知らない。そして、永遠にわからない。中学生の女の子は深夜の一人暮らしの部屋にはあまりに似つかわしくなくて、そしてその不自然さが時折自然さに錯覚されてくる。クリスマスイブ、深夜、家に一緒にいて、紅茶とケーキでお祝いをするなら…それはやっぱり身近なもの、家族…そんな気がする。
「…明美ちゃんは、きょうだいって…?」
「え、一人っ子…」
答えながら、明美は気後れしたような表情になった。灯也にも覚えがある。「一人っ子」と言うと、すぐに「ワガママ」と言われる。一人っ子と名乗るには言い訳がしたくなる。
「俺もだよ、て…知ってるか。俺が明美ちゃんのこと知ってる何十倍も、君たちって俺のこと知ってるんだもんね。雑誌で何度も徹底解剖されてるし」
明美は微妙な笑顔になった。プロフィール系の記事は片っ端からスクラップしている。でも、本当のことが必ず書いてあるわけじゃないということもわかっている。
「知ってるけど、でも…中には、ウソもあるでしょう?」
灯也は明美の反応を懐かしく思った。メールのやり取りを始めた頃、メールの差出人が広瀬灯也だと信じようとしなかった明美のかたくなな態度が、今は、妹が小さな子どもだった頃の思い出のように微笑ましく感じられた。
「俺たちはウソは少ないよ。特に俺はね、自然にしててもモテるから、作る必要ないし」
灯也が得意げな顔を作ってみせると、明美は一瞬灯也の顔を見て、それから慌てたように手元に目を落とした。
「あ、軽蔑された」
灯也は「シマッタ」という顔を作った。明美はその気配を視界の上の方で感じながらそっと肩をすぼめ、小さく言った。
「そうじゃなくて、ホントにそう思うの。灯也くんは…なんかすごく、特別な存在っていう気がする…」
灯也には、明美の言葉の裏に潜む恋愛感情がハッキリ見えた。こんなに真面目でオクテでも、しっかり男への恋愛光線の発し方は心得ているらしい。明美は間違いなく女の子だ。恋愛的な意味で未熟なのではなく、隠す方法を知らないという意味で未熟なだけだ。
やっぱり、兄妹ゴッコじゃダメだということか…。
TVをつけるでもなく、音楽をかけるでもなく、向かい合って座っている25歳と13歳。ここは架空の世界。広瀬灯也の家はニセモノ、広瀬灯也の優しさもニセモノ…。
「…ねえ明美ちゃん、やっぱ、俺たちって変かな」
灯也は大マジメに訊いてみた。
「え? 俺たちって、クロック・ロックが?」
「え、違うよ、俺たちだよ。明美ちゃんと、俺」
「…え…」
「客観的に見て、今の俺たちって変だと思ってさ。なんだか、すごく不思議な気分になったんだよ。なんか懐かしいような、でもあり得ない風景で、…現実じゃないような…」
家族のような居心地のいい錯覚。縁の薄かった妹と過ごすような、パラレルワールドに迷い込んだ不思議な気分。現実には、明美から見れば夢物語でも、灯也の側にはリスクだけでメリットのない関係。愚行でしかないが、もしもそこにも縁というものがあるのなら、この縁は何なのだろう。
明美は灯也の顔をぼうっと見つめながら言った。
「…私はいつも夢だと思ってるから…。灯也くんにとっては普通のことだったり当たり前のことだったりするかもしれないけど、私にはいつも現実じゃない世界だから…」
「俺にとっては普通…って?」
「…それは、だって…」
明美は少し切ない声になって、視線をテーブルに落として言った。
「ファンの子、きっとたくさん、こうやって面倒みてあげてるんだろうなって思って。だから、灯也くんにとっては普通…」
なんだか、そんなはずじゃなかったのに、明美は灯也に気持ちをぶつけずにはいられなかった。さっきまでここに別のファンの子がこうして座っていた景色を思い浮かべていた。昨日は別の子「たち」がいて…。一日に何人、こうやって遊んで過ごすんだろう…。
「ねえ灯也くん、私って今年のクリスマス、何人目なの?」
明美の手が震えて、カップがカタカタと2回、小さな音を立てた。
口説くには絶妙のタイミングを前に、灯也は気持ちを決めかねていた。