13.危機その1
12月2日、灯也からメールが入った。
『待ち合わせ場所、やっぱり直接ウチまで来てくれない? 場所を覚えてなければ、わかるところくらいまでは行くから。 広瀬灯也』
明美は何の疑問も、ためらいもなく返信した。
『わかりました、場所もわかると思うので、直接伺います。時刻は、16時で変更ないでしょうか。すごく楽しみです。お茶菓子とか、買っていきますが、何がいいでしょうか?』
12月3日、灯也の仕事はさんざんだった。
「広瀬さん、もっとクールな感じでお願いします。表情が、なんとなく笑ってるんですよ」
雑誌の撮影が何度も撮り直しになった。クロックのメンバーからもブーイングが出た。
「おまえだけ別撮りしろ、俺たちは先にインタビュー受けるから」
「えー、俺、真面目にやってるよ。元々、こういう顔なんだよ」
灯也は言い返したが、明日への期待に表情が崩れているのは感じていた。勝手に想像した明美のあらぬ姿がちらついた。
(13歳か…キレイだろーなー、ビューティフルじゃないだろうけど、プレーンで、クリーンで)
悪魔的な喜びがどうしても脳裏を離れなかった。撮影は時間をだいぶオーバーした。
灯也は、明美と今後何度会うかの計算をはじめた。
(1回でポイじゃ、ご両親が出てきて訴訟沙汰になりかねないよな。やっぱ、それなりの期間は恋愛関係じゃないと。真剣な恋愛だからそーいう関係になったんだよ、てことでね。でも、夢が夢のまま、現実にならないうちに別れないと、泥沼になるし。真剣だけど深入りしないくらいで…)
念入りに計画しよう。遊びでも恋愛でも、周到に。それが広瀬灯也のモットー。
かくして迎えた12月4日、明美はのこのこと「広瀬灯也のマンション」にやってきた。そこは明美を捕らえるためだけの蜘蛛の巣、たんなるウィークリーマンションだ。
「入って」
灯也は人目をはばかり、明美をそそくさと部屋に入れた。明美は先日買った新しい服を着ていた。灯也はすぐに気付いた。
「なんか、感じが違うね。少しお姉さんになった…なんて言ったら、ガッカリされちゃうかな? 明美ちゃんっぽくないけど、そういうのもいいね」
「…似合わなかったら、言ってください…」
「え、いいよ、それ。ちょっと背伸びした感じが、中学生の色気」
明美は「たぶんこれは、ほめられてない」と思った。やっぱり子どもが見栄をはっているくらいにしか思われてない…。
「あの、これ…」
明美は服の話をフォローするように菓子の包みを出した。
「えーっ、明美ちゃん、買ってこないでって言ったじゃない、俺も買ってあるんだよ」
「いえ、あの、…上がり込んだうえにそんな、お世話になっちゃいけないと思って」
今日は「図書館に行く」と親に言ってある。図書館の閉館は19時だから、その頃には帰らなければならない。図書館は近所だがここは遠いから、18時半にはここを出ないと怪しまれる。たった2時間しかない…、明美は親が疎ましくなった。
「何買ってきてくれたの?」
灯也は包みを受け取った。クッキーらしかった。
「あ、俺、和菓子だ。両方あってもいいか。お茶はどうする? 日本茶、紅茶」
「…あ…、…そうですね、日本茶の方が、両方に合うかも…」
灯也は明美を座らせ、一人で台所に立った。明美は手伝うと言ったが灯也は断った。ありあわせの食器の位置がわからなかったりして、ボロが出たら困る。
自宅から持ってきた急須で手際よくお茶をいれ、灯也は居間に戻ってきた。
「広いんですね、家…」
明美は初めて来たようなことを言った。灯也はすぐに返した。
「こないだも来たじゃん」
「でも…なんかやっと、…えと…灯也くんが、ここで暮らしてるんだ~って感じがしてきたから…。やっぱり、キレイ好きなんですね…」
「明美ちゃん呼ぶから、片付けただけだって」
灯也はやや焦った。キレイというより、この部屋には生活感がない。灯也の本当の部屋は、そこそこ片づいてはいるものの、やっぱり生活臭が漂う小物がごちゃごちゃと置いてある。録画したDVDが積んであったり、ハンドシュレッダーにゴミが入ったままだったり、卓上カレンダーにメモが書き込まれていたり、棚にクリップで留めた鰹節が置いてあったりする。暮らすっていうのはそういうことだ。こんなに何もないなんて、絶対おかしい。「キレイ好き」なんて言葉はむしろしらじらしいほどに。それに、広瀬灯也の年収だったら、こんなに平凡で狭くてささやかなところには住まないだろう。
「明美ちゃん、ミニアルバム聴いてくれた?」
「はい、CDで予約してたんで、おとといには…」
「そっか、そーだよね。あげるって言っておけばよかった」
「えっ! ダメです、私、自分で価値を認めたものは、自分でちゃんと買うことに決めてるんです。クロック・ロックのアルバムは、絶対にお金を払って聴くべきです」
「そういう風に思ってくれてるんだ。DLじゃなくてCD買うんだね、意外。中学生じゃお金あんまりないだろうし、レンタルとか中古とか、それに違法ダウンロードとかもあるから買わないのかもなって思ってたんだよね」
「違います、認めたものは買いたいんです。試したいものはあるけど、試して良ければ、それはちゃんと買うんです」
明美は熱心に訴えた。灯也は何も答えず、黙って明美をじっと見つめた。明美は必要以上の視線に焦ったが、身動きできなかった。灯也はしばらく楽しんでから会話を再開した。
「明美ちゃん、『灯也くん』は定着したみたいだけどさ、…もう、タメ口はきいてくれないのかな」
灯也は口をとがらせた。そう、重要なこと。ただのファンのエリアは越えたんだという自覚をもってほしい。ファンの憧れにつけこんで一方的に手を出したんじゃなくて、親しくなっていったうえでの自然な成り行きなのだから。
「…あの、でも…」
「それとも…キミにとって、俺ってすごくオジサンで、仲良くなんてなれないのかな」
不必要に真剣に灯也は言った。明美は動揺しながら、
「そんなことないです、ただ、憧れの人だから…」
とつぶやくように言った。
「かしこまっちゃうじゃん。普通にしゃべりたいな、俺」
灯也に瞳をのぞき込まれ、明美は心臓が激しく鼓動した。いつも通りの気持ちを維持しようと努めていたが、「恋」という言葉が浮かんでしまったら、もう止められなかった。
(灯也くんの気持ちって、何なの?)
言葉にしたかった。でも、思いが雨のように降り注いで、言葉は淡雪のように消えていく。
灯也は甘く微妙なムードに退廃的な喜びを感じていた。相手が相応の年齢の女性なら、ここから一気になだれこんでもいいが…なにせ、相手が相手だ。
「優等生、別に、年上の人相手なら絶対敬語なんてことはないよ。親しくなったんだよとか、なろうよとか、そういう気持ちをお互いにもてたら、いいんだよ、そんなの」
「あの、その『優等生』っていうの、やめてください。私、灯也くんに出会ってから今までの自分が嫌いになったんです。多分、灯也くんが言う、その『優等生』なところが」
そこで明美は「そうだ、です、ますをできるだけやめなくちゃ」と思った。
「私、灯也くんといろいろおしゃべりさせてもらって、すごく視野が広がったと思う」
灯也は危うく笑ってしまうところだった。言葉の変化にも、言っている中身にも…。
(素晴らしい、子ども的開眼。…憧れの男ひとりに価値観変えられちゃうって、若い女の子にありがちだよね)
「そうなの? でも、明美ちゃんは今まで優等生で良かったんでしょ? それを、俺みたいな軽薄な奴の言ってることなんかで変な意識改革して、悪い子になっちゃったらマズいんじゃない?」
「そうじゃないんです、悪い子になるんじゃなくて、勝手な決めつけで人とかものを判断するのは、やめようと思ったの」
語尾を普通にタメ口にしたら、明美の胸を焦りがヒヤッと通り過ぎた。灯也はその心境も読みとったが、気付かないふりをしてあげた。
「そうなんだ、…それがいいか悪いかはわからないけど…でも、そうだね、『ブランドもの持ってる人はバカ』っていう考え方は、やっぱり傲慢だと思うよ。ホントはね、財布プレゼントしたとき、そういう風に言ってあげたかった。でも、反論されたら勝てなそうでさ。俺、理論的な説明とかできないし。知ってるだけなんだよね、バカだけじゃないよって、経験的に。でも、経験で知ったことって、筋が通ってるとも、理屈が合ってるとも限らないんだよね。それをわかってもらうのは難しい。明美ちゃんは自分でいろいろ考えてくれたんだ。やっぱりその年で、そういうことをわかれるのって、頭がいいんだと思うよ」
(そう、「頭がいい」…ね。経験なしでわかった気になっちゃうお利口さん。経験してみるとまた、違うんだけどね。マスコミが煽れば「バカ」と思って、憧れの男がプレゼントすれば「そうとは限らない」と思って、…次に何か起こったとき、キミは、どう変化するんだろうね)
でも灯也は、そんな自分の気持ちも「優越感」だなと思った。25年生きてきた自分はちょっとマシな感覚を身につけているだけであって、中学生の感覚を責めても仕方ない。
ふと、思い出す。自分が明美ぐらいの年の頃、一度だけ同級生を殴ったことがある。
「え、おまえのとこ、トラックなんだ」
「トラック」の響きに軽蔑の意思を感じ取った。相手は自分の親が国家公務員なのを誇りに思っていて、常々「親父を尊敬している」と言っていた。そんな彼が「トラック」と言ったときの瞳の奥には「そんな職」という侮蔑の念が潜んでいた。
トラックで何が悪い。父がやっと見つけた仕事だ。朝3時に北海道を目指して発つこともある。国家公務員、だから何だ。国家公務員は朝3時から肉体労働をする大変さを知っているのか…。
(…明美ちゃんに対する感情は、性的興味だけじゃないのかもしれないな…)
明美の傲慢な思い込みに憤ることもある。でも、次の瞬間にはそれをバカにしている自分がいる。何かを変えてやろうと、思い知らせてやろうと思っている自分がいる。
「あの、オジサンとかそういう意味じゃなくて…、灯也くんは、大人だなって思う。それに、やっぱりアーティストなんだなって思う。…あの、こういう風に言うのも生意気かもしれないですけど、私、灯也くんのこと、すごく尊敬する…」
明美は恋心を精一杯込めて告白した。好きだという言葉の代わり。
灯也は苦笑をかみ殺して笑顔を作った。
「かいかぶりすぎだと思うよ。でも、ありがとう。自信になるよ」
優越感がじわじわと広がる。この快感も、明美とここまで関わってきた理由なのかもしれない。バンドとか、ボーカルとか、そういう仕事をバカにするヤツはいくらでもいる。会社員、公務員…スーツで出勤する人々は、芸能人より偉いのか?
『へー、バンドで食ってくの?』そんな不安定な仕事でいいのかという嘲笑を秘めた言葉を向けられる中に、どこかであの日の同級生の「トラックなんだ」とつながるニュアンスがある。自分を見下す目が世間にあることは知っている。
明美は今、広瀬灯也に憧れている。でも、例えば将来息子が「音楽で食っていきたい」と言い出したら、止めるんじゃないのか。「そんなこと」と言うんじゃないのか。
ウィークリーマンションでは他愛ない会話が続いていた。
「あ、明美ちゃんって今、ラジオ聴いてないんだ! 聴いてくれてるつもりで話しちゃった。ウソー、飽きられた?」
「そうじゃなくて…、あの、変かもしれないけど、ラジオにシナリオがあるって聞いて、なんだか、作られたものなのかな…って思っちゃって。そしたら、なんとなく…」
「あれはあれでショーみたいなものだよ。楽しんでよ。別に、嘘しゃべってるわけじゃないんだしさ。曲も、かけてるのに…」
「ごめんなさい、シナリオか~って思ったら…」
「それだって一から十まで放送作家が書いてるワケじゃないし、取材があったり、俺たちがネタ集めて出してまとめてもらったりしてるんだよ~? 面白いハガキとかだって、アレは、30枚にしぼるのはスタッフだけど、10枚にしぼるのは俺たちよ? じゃあ、友達もみんな、やめちゃってるんだ、聴くの…」
「え、違います、みんなは相変わらず交代で録音してるの。…すみません」
「そうか、よかった、明美ちゃん以外はまだクロックを愛してくれて」
「私もクロック・ロック、ちゃんと、今も大好きです」
「じゃあ、俺を愛してないんだ」
「え、…そんなことないですよ、…」
「ホラ、言いにくそう」
「そんなことないです、…今も、…今はもっと、灯也くんのこと、大好きです」
明美は、勇気を振り絞って言ったはずだったのに、ものすごく後悔した。恥ずかしくてまともでいられず、前髪を引っ張って顔を隠して真下を向いた。
「明美ちゃん、恥ずかしくておかしな発作起こしちゃった?」
灯也は大笑いした。冗談だと思ってくれたらしいと、明美はホッとした。
「そういえば、明美ちゃんは好きな人、いないって言ってたけど…」
灯也はさりげなく微妙な雰囲気を蒸し返し、明美をちらっと見た。明美はドキッとした。
「キミらぐらいの年齢って、特に女の子って、好きな人くらい…いない? ホントなのかなって、ずっと、気になってるの」
灯也はたくさんの違和感を投げる。明美が溺れるように。たくさんの言葉を飲み込んで息も絶え絶えになったところを、網ですくうから。
明美はしっかりその声の違和感を感じ取った。そして、勇気を奮い起こした。
(それなりには、本当の気持ちを伝えなくっちゃ。だって、私が消極的だと、中学生だとか、そういう理由で灯也くんが遠ざかっちゃうかもしれない…)
「好きな人って…あの、変な意味じゃなくて…いるとしたら、灯也くんだけだし…」
でも、口に出す言葉にはブレーキが必要になる。微妙な響きは禁止。おかしなファンだと思われるわけにはいかないから。
「ふーん、変な意味じゃないんだ…」
灯也は微妙な口調でつぶやいた。明美は切迫した重圧を感じた。灯也のこんな態度はどう解釈すべきなんだろう。そしてどう対処すべきなんだろう。
灯也は何事もなかったように明るく話を続けた。
「ねえ、キミの友達って、恋とかそういうのはどうなの?」
明美は少しガッカリした。
「えっ…友達、ですか」
灯也は、明美の視線が平静を装いながら不必要に下がったり上がったりするのを見ていた。下がっているときは、多分、恋心が活発に動いている。上がっているときは理性。普通にしなきゃ、という時。
(ガンバレ、明美ちゃん。そういう戸惑いの先に、大人への道があるんだよ)
普通の会話に混ぜる違和感は、恋の伏線。伏線は砂をかけて、今は消しておく。後になって思い出して掘り返してくれればいい。
「友達は…恋してるのか、してないのか、わからない状態、かな…。同じクラスに好きな人がいても、なんとなく、3ヶ月後には別のクラスの人を好きになってたり。クロック・ロックの周さんと部活の先輩、どっちが好きか決められなかったり。1番好きな人から3番目に好きな人までいたり。恋なのか、憧れなのか、それとも、恋がしたいから恋だと思い込んでるだけなのか、なんだか、わからない…」
自分の「恋」がそうだった。クラスに好きな人がいても、今、灯也に感じているような切実なものではなくて…「好きな人がほしい」から、「一番好意を持っている男の子」を「好きな人」と定義して「恋」と呼んでいた気がする。
灯也は明美の答えが意外だった。こんな年頃の女の子は盲目的だと思い込んでいた。恋に恋するお年頃だというのをちゃんと自覚しているとは思わなかった。
「へー。でも、小学校から男とつきあってる子とかって、いるんじゃないの?」
「そういう人もいるけど、それって本当に恋なのかわからないなって、最近、思ってるの。なんか恋をしなきゃとか、相手がいると嬉しいとか、そういう感覚じゃないかって。友達はみんな、――」
(中学生でつきあうなんて、とかも言ってるけど…でも、そんなことはない…)
中学生の自分が恋愛対象から外されないように、明美は言葉を選んだ。
「――小学生じゃ早いよね、っていう感覚の子ばっかりだから、まだ片思いしかしないんだけど…多分、その片思いって、まだハッキリしないものだと思う。みんなと恋愛の話してて、なんだか、みんな不安定…」
灯也は笑顔を作りながら、どこか自分のことを言われているような気がしていた。
(好きな人がいても、なんとなく、3ヶ月後には別の人を好きになってたり。どっちが好きか比べられなかったり。1番好きな人から3番目に好きな人までいたり。それって、今まで生きてきた俺の歴代の恋愛感情、そのまんまじゃん)
確かにそんな恋の仕方をしてきたが、どんな恋愛がいいとか、悪いとか、そんなことを決めても仕方ない。今後も楽しく恋愛したいし、あるいはいい歳になったら「結婚しようかな」と思える女性が見つかるだろうし、…自分の恋愛スタイルにこだわりはない。どれが正しいなんてどこにも答えはない。でも、明美にそのことを「周囲の子供な中学生といっしょ」と言われたような気がした。
灯也は時計を見た。そして、このあたりで勝負に出ることにした。
「明美ちゃん、今日の服に合わせて、髪型とか少し変えてみない?」
「え、…やっぱり、変ですか?」
「変じゃないよ。着こなしがまだちょっと子どもっぽいってこと。だって、その服にショートブーツなのに、白の靴下、下にはくことないじゃない? それに、髪型…」
灯也は膝で立ち上がり、明美のそばに座り直した。怪しい雰囲気を全く感じさせない非常に無駄のないシンプルな動き。にじり寄ったりしたら下心が感知されてしまう。
「これさ、美容院の人、腕が良くないと思うよ。ちょっといい?」
灯也は明美の髪に触れた。触れた瞬間、明美ははじめてドキッとした。
(…えっ、なんか、すごい接近…)
灯也は少し無造作に明美の髪に手を差し入れた。この時のポーカーフェイスを見ていたら、クロックのメンバーは「昨日の撮影で、その顔をしろ!」と文句を言っただろう。
「うん、普通、中の方もっとボリューム調整するよ」
灯也の指が髪の中を下り、首筋に触れた。
「前髪も、普通もっと立体的に作るよ」
首筋から抜いた手を額にかけた。親指だけ不必要に明美の顔にかかって、不自然さを醸し出している。
(さて、そろそろ、ナンカ感じるでしょ? 中学生)
明美は口から心臓が出そうなほどドキドキしながら、ずっと自分同士で戦っていた。
(こういうの、灯也くんにとっては別に、変な意味とかないよ。私が考えすぎなんだよ)
(なんでもないよ)
(でも、もしかして…抱きしめられたりとか、したらどうしよう…)
灯也は明美がそれなりに「いろんなこと」を考えているのを感じ取った。でも、それが「抱きしめられたら」程度のささやかなことにとどまっているとまでは思わなかった。十分に「いろんなこと」を考えただろうと思い、灯也は快哉を叫んだ。
(簡単じゃん、13歳!)
うわずる声を必死でこらえて、灯也は冷静なフリをした。
「…近くで見ると、すごくキレイなんだね…。肌とか、髪とか…」
いかがわしく言ったのではダメ。高尚な芸術を鑑賞するように、クリーンな響きで…。
「若いアイドルとか、手入れしてる女優さんとかも見るけど、やっぱ13歳は違うね~。もうちょっと見せて。すごくキレイ」
明美の顔が少しうつむく。正面から灯也を見ていられなくなったらしい。でも、それに伴って拒絶の意思表示があるでもない。これなら逃げない。
(すげー、俺! これはこのままイケるっしょ!)
灯也は明美の手を取った。明美の目が一瞬動いたが、それだけだった。
「…キレイ」
そう、あくまでも見ているだけ。手を握ったわけじゃなくて。だから握った手は持ち上げて、鑑賞させてもらう。ほとんど、もはやポーズだけれど。
「…明美ちゃん、…可愛いよ。キミって、すごく…」
声の調子が変わる。もう尋常じゃない状態なのは伝わるだろう。もう一押し…。
けれど、そこに明美からの細い声がした。
「灯也くん、…今、何時…」
明美は18時半を回った時点から時間をずっと気にしていた。図書館が閉まる時刻からあまり遅くなることはできないが、帰りたくないからずっと黙っていた。でももう余裕はない。そこに、こんな非常事態がふりかかったら、「帰る」と言うしかなかった。
灯也は内心「どーいうこと!」と地団駄を踏んだ。だって、まだ19時前だ。灯也は残りの可能性に賭けて、雰囲気を崩さないように優しく、
「…ん、6時50分…ちょっとすぎ、かな」
と答えた。明美は灯也に捕らえられたまま、息も絶え絶えに言った。
「親に、図書館に行くって言っちゃったの。もう図書館閉まる時間だし…、嘘ついたの、ばれたら困るし…、もう、ホントは帰らないといけない時間なの…」
灯也は、まさかまさかの事態に、叫び出したいくらい悔しかった。これを言われた後で押し倒したら、言い訳が成立しない。
「そっか、ゴメン。なんかキレイで、つい、見とれちゃった」
灯也はにっこり笑った。明美は音がしそうなくらいに引きつったまま、無理やり笑顔になった。
(…まったく、優等生は、親が最大障壁か…)
「大丈夫? 車で送ったりとか、できればいいんだけどね」
「いえ、それは、灯也くんがそういう仕事なのは私もわかってるから…」
明美を玄関まで送り、灯也は秘密兵器を渡した。
「明美ちゃん。メールが途絶えたら連絡とれないから、隠して、持っててくれないかな」
プリペイド型携帯電話だった。
「仕事の都合で、余計に持ってるんだけど…使ってないから持ってて。鳴っても、無理に取らなくていいよ、連絡つかなかったらまた別の時に電話するから。それに、渡しておいてすごく勝手なんだけど、俺の番号は教えられない、ゴメン。この電話に俺のケータイ番号だけ登録されてたら、電話の相手が俺って、わかる人にはわかっちゃうじゃない。番号の流出とかあっても困るし…。なんかいろいろ言い訳ばっかりするけど、…実は、…クリスマス前後に、予定が空いたら…会いたいなって思って。メールでやりとりするより、『今日、今、空いてる?』で済んだら、その方が会えるなって思って…」
明美は呆然と電話を見つめていた。灯也は頑張ってしばらく待ち、それから、
「…あ、…迷惑ならいいんだ」
と言いながら電話を引っ込めかけた。
明美はあわてて電話を受け取った。また一つ、明美に蜘蛛の糸がからみついた。