第8章 港の女
第8章 港の女
夢の中でゴーゴーという船のエンジン音が絶え間なく続いていた。眠ったのか、眠らなかったのか、定かでない。
(手をつなぐぐらいでいい、並んで歩くぐらいがちょうどいい、それすら、あやういから、大切な人は友だちくらいがいい……)
中村中が歌う『友達の詩』のサビのパートが、何度も何度も頭の中でリピートしていた。ジェンダー・アイデンティティーの不一致による性同一性障害である彼女と一緒にするのは早計過ぎるかもしれないが、ゲラ子の顔が浮かんで消えた。私と由佳里も友だちくらいでちょうどよかったのかもしれない。その距離をちぢめようとした私の無理が今の状況を作り出したのだ。それにしても『友達の詩』とは、あまりにできすぎている。ゲラ子の登場が中村の出演をプロデュースしたにちがいない。中村は男でありながら女として生きる道を選択したのだが、この歌の切なさは半端じゃない。好きで好きでたまらないのに、それ以上、発展することができない苦しさ。自分が彼にとって異質な存在であることを思って、永遠に友だちとして生きることを誓う。人を愛することが、自分の存在を否定するという究極のジレンマ。女心以上の女心……。
そんなことより、と、思ったら深い眠りがすべての音を消し去っていた。
午前六時十分。別府港に着くまで私は眠りから覚めなかった。なにやら騒がしい空気が、耳元を過ぎていく。私は円窓から外を眺めた。別段これといった風景が広がっているわけではない。漁船やヨットが係留されているような港町の風情もあまり見えなかった。別府国際観光港という名のとおり、ローカルな港町というのではなく、港駅という雰囲気の、ある意味、殺風景な港だと思った。身支度をすませて通路に出、甲板から別府の山々を見て私は驚嘆した。火山が噴火したような温泉の湯けむりがあちらこちらに上がっているのである。その数は半端じゃない。数えきれない湯の煙は、別府が世界に誇る温泉町である証拠である。兵庫県にも、有馬や城崎など有名な温泉地があるが、湯量が乏しく、湯けむりは足元をかすめる程度である。その別府とのスケールの違いに度肝を抜かれた。
冷たい風が私を容赦なく打ちすえていた。それでも寒さをあまり感じなかった。海と山と港があるこの風景は、港町神戸と同じである。私は郷愁と感動で胸が暖かくなっていた。
「しぐれ雄介さんですか?」
タカラジェンヌのような背の高い女性が、下船して待合に出てきた私に声をかけた。ベージュのワンピースの上からキャメルのフレンチコートを羽織っていた。その姿は、容姿端麗に眉目秀麗(通常はイケメン男性に使う言葉)の期待通りの美形である。写真とは趣きの違うストレートのロングヘアーがビシッと決まっている。
(ゲラ子だ! 間違いない)
「はい、しぐれ、で、す、が……」
私は何故か言葉の選択に窮(困ること)した。
「真紀子ママからしぐれさんをご案内するようにお聞きしています」
低く切れのある声が聞こえてくると思ったが、違った。意外と甲高い女性らしいといえば、彼、いや彼女に失礼か。
「それは、どうも。よろしくお願いするよ」
「承知しました。こちらへどうぞ。車を待たせていますので」
キレイな標準語。それにキビキビとした接し方をするゲラ子に、私は好感をもった。女として生きる覚悟ができている。まねてはできない上質の品が備わっていた。幼少時代もそれなりの家庭で育ったのだろう。男性をエスコートするスマートさは、夜の街で鍛えられたに違いない。
ゲラ子は駐車場に停めてあった地元のタクシーに私を乗せると、「おとなり、よろしいですか?」と車の中をのぞきこむようにして言った。ゲラ子から嗅ぎなれた夜の香りがした。柑橘系のクールな香りはゲラ子にとっても似合っている。
「どうぞどうぞ」
私は自分の反応がおかしくなって、含み笑いをしてしまった。どうも、なんだか微妙に不自然である。しかも、ゲラ子が中村中に見えてくるのには本当に困った。
「どちらへ」
帽子から白髪がのぞく老齢の運転手が聞いた。
「北浜の永久劇場へ行ってください」
ゲラ子は迷わず言った。
(永久劇場……?)
朝から劇場とは、ゲラ子の真意がはかりかねた。
「お客さん。あそこは今、営業してないよ」
「ええ、知ってます」
ゲラ子はすまし顔で答える。
「時間の問題じゃなくて、閉館してるよ」
運転手が食い下がった。
「それも知ってます。近くまで行ってくれたらいいから」
「はい、了解」
運転手は短くそう言って車を走らせた。
「ゲラ子くん、いや、ゲラちゃん、いや、ゲラ子さん?」
私はゲラ子をどう呼ぶか、混乱した。
「お気になさらず、ゲラ子でけっこうです」
「それじゃ、俺も、ゆうさん、って呼んでくれたらいいよ」
「ええ、わかりました。そしたら、ゆうさん」
ゲラ子は可愛い声色で言った。
「なに?」
「こちらでの宿泊先は、どちらかに決めていらっしゃいますか」
「いや。決めてない。関西弁でいう『行きあたりばったり』やな」
「まかせてくれますか」
おねだりするような仕草は女性そのものである。
「そりゃ、ええよ。せやけど、あまり高いところはノーサンキューや。ちっこいこというてすまんけど予算があるからな」
「了解しました」
微笑んだゲラ子がやっぱり可愛いと思った。
「ゲラ子、立ちいったことを聞いて悪いけど、俺につきあって仕事は大丈夫か。夜出てるとは思うけど昼は?」
「ご心配なく。昼勤はありません。夜一本です。自分で店をしています。
「たいしたもんやな。まだ若いのに」
私はいたく感心した。
「真紀子ママが応援してくれました。実をいうと店の資金はママが出してくれました。ママと故郷が一緒で、大阪に家出した十代の頃から、ずいぶんお世話になっています」
「そうなんか。店の名前は、なんていうんや?」
「『友達の詩』といいます」
(そのままやな……)と思ったが口にはしなかった。
「ところで永久劇場って、どこにあるんや」
「街なかです。北浜1丁目の1番地」
ゲラ子はすべて知っているようだった。
「ゆうさん、わたし、まわりくどいのが嫌なので、ママからのミッションをそのまま伝えようと思うのですが、どうでしょう」
「俺も、それのほうがありがたい。ゲラ子も知ってると思うけど、俺は由佳里という女性に会いに別府まで来たんや。それ以外に目的はない。ええおっさんが、ようやるなぁ、と思うかしれんけど、心動かされてしもたんや。急におらんことなって心配でしょうがない。神戸から消えた原因が俺にあるんやないかと、気になってどうしょうもあらへん」
「わたしは、由佳里も由佳里のママも、それに真紀子ママも、真紀子ママの娘の清子(:托卵小景1985の聖依子のモデル)ちゃんも、みんなよく知っています。それぞれの過去やその関係も」
ゲラ子は平然として行った。
「なんやて」
私は身体がガタガタと震えた。
「ゆうさん、ゆうさんは大人やからすべてを知っても後悔しないと思いますけど、すべてを知られたくないと思っている人がいることもわかってあげてください」
ゲラ子がいうことはもっともだった。長いつきあいの真紀子が今の今まで話さずにいたことである。
「わかった。ゲラ子にまかせるよ。語るのも見せるのもゲラ子の好きなようにしてくれたらええ」
私は腕を組んで瞳を閉じた。
〈この章 了〉




