第7章 離愁の海
第七章 離愁の海
船室に戻り、ウイスキーのボトルをサイドテーブルの上に置いて袋の中をのぞくと、ピンクのノースリーブ姿のかわいい女性の写真が一枚入っていた。夏に撮影したものだろうか、被写体もバックも明るい陽が差し込んでいるような絵柄だった。瞳が大きく鼻筋が通ったかなりの美形である。おそらく私を迎えに来てくれる女性に違いない。ゲラ子とは変わった源氏名である。どんな人物か多少の不安があるが、真紀子が以前可愛がっていたというから間違いないだろう。何の当てもなくさまようよりは道案内がいてくれるのはありがたい。というより、おそらく真紀子は私の行動を監視するためにゲラ子を紹介したのだろう。
「そっとしておいてほしいこともある」といった真紀子の切実な訴えを無視して私は海を渡ろうとしている。由佳里によせる私の思いは一方通行かもしれない。日を追うごとに冷静になろうとするもう一人の自分がいる。しかし抑えきれないもう一人の衝動は障害を乗り越えて行こうと右往左往している。
相思相愛のカップルが別れるときに激しく心に痛みをともなうのは、強力な磁石を引き離すのと同じである。愛情(磁力)が深かったものほど離すのは困難である。私が由佳里によせる思いは、由佳里の私へよせる思いをはるかに超えているだろう。今は誰にとめられても進路を変更する意思はない。
一等船室は二人使用だが、今夜は私一人。両サイドにベッド。中央に大型の液晶テレビが据えてあった。洗面も部屋にある贅沢なつくりだった。
私はバッグから佐希子ママから預かった由佳里の時計を取り出し、テーブルの上に置いた。私がプレゼントしたGUCCIのドレスウォッチである。由佳里が店のロッカーに置いていたものを佐希子ママが私にことづけたのである。じっと眺めていると文字盤に由佳里の顔が浮かんでいた。今も変わらず愛しさはつのり続けている。逢いたい気持ちは揺るぎなかった。ぼんやりとしていると急に寂しさを感じはじめた。私は大きなためいきをついた。そして服も着替えずベッドに横になると、ウイスキーの酔いとシンクロするように睡魔が襲ってきた。心地よいまどろみに瞳を閉じると、五年前、初めて由佳里とデートした日のことが思い出された。
すなっく噂(真紀子の以前のスナック)
「ゆうさん、あの子のことどない思う」
カウンター越しに真紀子が言った。
「どないって、なにが?」
真紀子の問いの意味が理解できなかった。店にふさわしいということか、それとも容姿についてのなになのか、私は首を何度もひねった。
「じつはな、あの子、ゆうさんに気があるみたいや」
「なんやて、まだ2回しか会ってないで。なんで俺なんや。わからんな最近の子は」
「そんなもん、うちにもわからんわ。へんなおっちゃんやから興味があるんとちがいまっか」
「よう言うの。せやけど、なかなかべっぴんさんやし、前途有望ちゃうか。いまどきの子にしたら落ちつきがあるし、少し影があるところも魅力かもしれん」
「知り合いから頼まれたんやけど、よう考えたらカウンターだけの店で、3人も女はいらんし、奈緒子残して、あの子はどこか別の店に紹介してあげようかと思ってるねん」
「もったいないで。あの子のしっとりした雰囲気はなんやほっとするな。昭和のオッチャンごのみや。ちょっときばって置いてあげや。色気はそんなにないけど化けそうな感じがする」
「そうか。なんや、あんた、よう見てるな。ひょっとしてあの子のこと気になってんとちがうか。そうや、きっとそうや」
真紀子は真顔で何度もうなずきながら言った。
「アホぬかせ。娘ほど年の離れてる子にいれあげてどうないするいうねん」
「ゆうさん、カッコつけんでもええよ。あんただけやのうて、男は何を考えてるのかようわからん。だいたい男には節操というものがない。昔も今も単細胞や。ちっとも進化しとらん」
真紀子が口をとがらせて言った。
「そらそうや。その単細胞に惚れるのが女という生物や。ところがこの生物、最近進化して肉体的にも精神的にも男をしのぐ力をもつようになってきたから恐ろしい」
私は真紀子をじっと見つめた。
「着物で縛りつけて、スカートはかせて、女らしくって、いったいなにや。そんな古風な考え方は昭和で終わった。演歌と一緒で昭和四十年から一歩も前に行きよらん。今の女は、危険を感じて背中見せよったあの頃の女と違って、危険を感じたら前を向いて立ちはだかる。まあ、ゆうさんが言うように由佳里は少し昔の女の香りがするのは確かやけど……。まあ、そんな話はええ。それより店あがったら、ちょっとあの子とつきおうてあげてか。ゆうさんのことお父ちゃんみたいに思うてるみたいや。あの子、可愛そうな子でな、お父ちゃんを知らんと育ったさかい。あんじょうたのむわ。せやけど、変な気おこしたら承知せんからな。もし事をおこしたら、うちは阿部定(事件:嫉妬から愛人男性の性器を切り取った)になって、あんたのあそこ引っこ抜くからな。昔も怖い女がおったんやで」
真紀子の眉が吊りあがっていた。
「あ~こわい、こわい。マキねえが怖いのはよう知ってます。絶対に事はおこしません。約束破ったら死んでもええわ」
私は由佳里をつれてスナック踊り子へ向かった。
「ゆうさんはどんな女の人が好きなん?」
由佳里はジントニックを一口飲むと私の顔を見つめながら言った。
「そうやな。静かな人がええ」
「しずかなひと?」
由佳里は小首をかしげた。その初々しい姿が愛らしかった。
「利口だとか愚かだとか、そういうことを感じさせない人が好きやな。シクラメンの香りや」
「むずかしいなぁ。子どもにわかるように話してください」
「シクラメンはユリや菊のように強い香りがない」
「わがままが嫌い?」
「いや、それは違う」
「やっぱむずかしいわ」
由佳里はうつむいて二口目のジントニックをゆっくりと飲んだ。
「なんも難しいことあらへん。日本女性はもともとそうだった。大和撫子。やさしく美しくそれでいて自立する強さを持っている」
私はシガレットケースに残った最後の一本を取り出し、右手で持ちながら左手親指の爪に吸い口をトントンあてながら煙草の葉をつめた。
「あたしには無理。ぜったい無理」
「えらい悲観的やな。由佳里にはその素質があると思うけどな」
「それは、ゆうさんの思いすごし。ゆうさん、あたしの本性知らんから。あたしは、こう見えても激しいよ。恋のためなら人を傷つけても平気や。頭に血がのぼると自分でもようわからんくらい。それで、猫かぶってるねん」
「俺は激情することを否定せいへん。人を傷つけるのも人を愛するがゆえのことや。尊敬に値するで」
由佳里は黙してカウンターにうつぶせになってしまった。
「あたし、なにしてるんやろ。ゆうさん、あたし、利口? 愚か者? どっちやろ」
「どっちでもない。由佳里は素敵な女や」
「ありがとう。あたしね、ほんとうのことをいうと、ゆうさんに気があるの」
由佳里は顔をあげると微笑をうかべた。
「冗談を言いなさんな。俺みたいな売れない貧乏作家のどこがええんや。冗談よしこさんやで。おっちゃんをからかうのはアカンで」
「ゆうさんのその憂うつ顔、それに、その、静かさと空気のようなやさしさ。あたしのまわりに今までいなかったタイプなの。ゆうさんに初めて逢った時、こういう人がそばにいてくれたらいいなって思ったの」
「空気のようなやさしさ……それってほめてんのか?」
「もちろん。あたしをゆうさんの愛人にしてくれないかな」
「アホ言うな。うれしいけど、いや、それはアカンアカン」
瞳を充血させ鬼の形相をした真紀子の顔が浮かんだ。
「なんかあったんか?」
由佳里に見える影の要因となりえる事情がありそうな気がした。
「べつに、べつにないよ」
そう答える由佳里は少しさびしそうな感じがした。
「ゆうさん、マッチ売りの少女、知ってる?」
「アンデルセンか。それがどうかしたんか?」
「あたし、あの話が好きなんや。雪の降る大晦日の夜、マッチ売って歩いて、ちっとも売れんで、最後に売れ残ったマッチをすったら、一本はストーブになって、二本目は大きなテーブルにごちそうが出てきて、三本目はクリスマスツリー、最後はローソクの火が天にのぼり、流れ星になるんよ」
「その流れ星は……大好きなおばあさんやろ。おばあさんが死んだんや。おばあさんがいつもいってた『流れ星は誰かが天に召されたのよ』を思い出して私も連れて行ってと、おねがいしながら少女も死んでいく。さびしい話や。なんでこんな悲しい話が好きなんや」
「あたしのとこ、小さい頃から貧乏で友だちみたいにゲームとか買ってもらえんかった。家にあるのは古本ばっかり。おかあちゃんが本ばっかり買ってきて、いっぱいためてたから、あたしも読むようになったんよ」
「そうか」
身なりも清潔で、礼儀正しい態度の由佳里からはみじんも想像できない。
「おかあちゃんの口癖で、食べ物とお金、それに下半身の話はするなって言われてた。その三つは黙ってたら他人にわからん。着るものだけは上等でなくていいからキレイなものを身につけなアカンいうて。財布の中はいつも百万円入っているつもりでおれ。そしたら人は悪くいわん。品というものは二つある。生まれつきとやせ我慢。あたしはあとのほうです」
由佳里は瞳を輝かせて母の自慢をした。
「カッコええこというな、由佳里のおかあちゃん」
「おかあちゃん、あたしがいうのもへんやけど、めっちゃべっぴんやで。あたしが生まれた頃にゆうさんが会ってたら、きっと惚れてるわ」
「そうか、それは惜しいことしたな。ほんで、おかあちゃんは今も元気にしてるんか?」
「まあ、ぼちぼちです」
物憂げな表情をした由佳里の顔を見て、私は彼女がそれ以上の詮索を求めていないことを察した。
「ゆうさん、あたしが死んでからでええから、あたしのこと、書いてくれんかな」
「縁起でもないこというな」
自分を書いてくれという夜華はたくさんいたが、自分が死んでから書いてくれと頼まれたのは由佳里が初めてだった。
「ゆうさん、ええねん。あたしが死んでからで。それのほうが絵になるんや。それにタイトル決めてるし」
由佳里は少しむくれた顔をした。それは私にではなく、人生に背を向けた態度だと思った。
「どんなタイトルや?」
「マッチ売りの少女」
「アホいうな。俺はその仕事、百万積んでもせん。初めてデートして、一杯も飲まんうちから死んだ後の話をしてどないするんや。由佳里、ええか、逃げたらアカン、人生から逃げたらアカンねや。人生いうのは人が生きることや。ええも悪いもあらへん。前を向いて生きる。それが人間や。俺もえらそうなこといえんけど、由佳里みたいにまだ人生これからの人間が後ろを向くのはゆるせんな」
由佳里は黙して左の瞳から涙をこぼした。
「由佳里、おまえのおかあちゃん、いっぺん会わせてくれや」
「そのうちね」
由佳里は涙を落したその瞳でウインクした。
携帯が鳴った。
「もしもし、ゆうさん」
想い出の名場面を消したのはミユキだった。
「なんや」
少し不機嫌な私である。
「ゆうさんに大事な話があるんや」
「そやからなんや」
「えらいご機嫌斜めやな、なんかあったんか」
「あらへん、おまえに心配されるようなことはなんにもあらへん」
「ほな言わせてもらいますけど、べつにおっさんの心配なんかしてないわ。それより別府行きの船に乗ったん?」
「おかげさんで。ミユキ、礼をいうの忘れてたな。奈緒子の連絡先聞きだしてくれておおきに。奈緒子がええ情報をくれて、おそらく俺の読みは間違いないわ」
「そうか、それはよかったやん。ゆうさん、土産はいらんで」
「催促するな、ボケ」
「ボケはよぶんやろ」
私はミユキのテンポの良さにいやされる。
「すまん、すまん。俺の読みとはいうものの、真紀子ママにはお見通しのようや」
「なんで」
「真紀子が案内人を港に待たせてるんや。ゲラ子いうべっぴんを」
私はゲラ子の写真をもう一度取り上げて見た。
「ゲラ子?」
ミユキの反応は明らかになにかを知っている。
「おまえ、ゲラ子を知ってるんか」
「おそらく、新地(大阪梅田北新地)のゲイバーに出てた子やないかな。たしか真紀子ママからいっぺんだけ聞いたことがある」
「ゲイバーって、それはなにか?」
「なにかいうて、なにかやわ。ニューハーフや。新地ではゲラ子は評判やったみたいやで。ゆうさん、別府で楽しみでけたな」
そういえば痩せているわりに肩幅が広い。のどに仏もある。酔いは完全にさめた。
「そらそうと、ミユキ、大事な話ってなにや」
「このあいだ、北野坂で朝まで飲んだ時のことやけど」
「お前が舗道に大の字で寝た、あのときのことか」
「そうや。あのときやけど、あのとき、店出るときに、うち、ひっくりかえったやろ、ゆうさん、おぼえてるか」
「おぼえてるわ。お前をかつぎ出すのが大変やった」
「あんとき、ゆうさん、うちのパンツ見たやろ! 正直にいうてみ」
「アホいうな。お前のパンツの色なんか興味ないわ」
「それは、見たいうことやな」
「お前、酔うてんのか」
「いや、ちょっとさびしかったから電話した」
「そうか。ちょっと行ってくる。また神戸に帰ったらご馳走するわ」
「おおきに、ゆうさん」
ミユキは電話を切った。
私は神戸を離れるのを実感した。由佳里への思慕だけが私を突き動かしてきた。それが今、やすらぎに背を向けるという寂しさが私の胸に去来している。真紀子やミユキとの別れが惜しまれた。
「これでいいのか……」
独り言を大きな声で発し、私は再び横になった。
〈この章 了〉




