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第5章 新神戸雪情

 神戸に雪が降った。

 今年初めての雪である。というより、ずいぶん久しぶりの雪というのが正しい。神戸市内、近年はほとんど雪は降らない。日本全国温暖化の影響大である。

 地下鉄新神戸駅を降りて、新幹線連絡通路のエスカレーターで地上へ上がると、淡く大きな雪が駅舎を被っていた。私は駅構内にある喫茶店で奈緒子を待つことにした。奈緒子に会うのは、あの交差点の夜、以来である。奈緒子は夜の仕事を辞め、保険の外交員になっていた。ミユキに奈緒子のケイタイナンバーを調べてもらい、電話をすると、登録のない番号にもかかわらず奈緒子は着信拒否することなくでてくれた。奈緒子は由佳里が失踪したことを当然知らなかった。話を聞いて奈緒子はかなり驚いた様子だった。私は奈緒子に会って聞いておきたいことがあった。由佳里のことである。詳しいことはあって話そうということになり、急遽、新神戸駅で落ち合うことにした。

 小さな喫茶店は客が多く、一人でテーブル席を占有できる余裕はなかった。入れ替わり立ち替わり、足早に他人が眼前を通り過ぎていく。夜の散歩に慣れている私にとっては異次元のスピードである。企業戦士、今なお健在なり、頑張れニッポン、と、どうでもいいようなことを考えているうちに約束の時間が過ぎていた。

「ゆうさん、ごめんなさい」

 カウンターの隅でエスプレッソをちびちび舐めていた私は、目の前に立っている奈緒子を見て驚いた。以前の男を惑わすような妖しい色香を放った女性ではなく、黒のスーツに身をつつんだ奈緒子はキャリアを感じさせるビジネスウーマンに変貌していた。ショートカットの髪にすらりと伸びた脚は以前と変わらないのだが、全身からみなぎる清新な生気は、まったく別人だった。

「よう、ビジネスマン、元気か?」

 私はなんだか嬉しくなって、茶化すように言った。

「なに言ってんのよ、ゆうさん、どうかしたの」

 奈緒子は私の隣に座ると、水を運んできたウエイトレスにカフェオレを注文した。

「ゆうさん、ごめんなさい。あたし、このあと、2時の新幹線で福岡まで行かなきゃならないの。それでここ(駅)にしたの」

 奈緒子は肩に担いでいた黒くて大きなセールスバッグを自分の隣に置いた。

「忙しいんだな」

「まだ研修中よ。博多支社に実地研修で行くの。ほんとう、世界が変わったみたい。毎日が充実しているわ」

 元々、関東出身者だけあって、標準語の言葉づかいもすっかり板についている。なんだか別人と話しているような気分になっていた。

「忙しいのに呼び出してすまん。まわりくどいことは言わんと、単刀直入に聞くで」

 私はエスプレッソを飲み干して奈緒子を見つめた。

「ゆうさん、怖い顔してるね」

 奈緒子は身を乗り出して私の顔を見つめた。夜のあのきわどい香りはなく、昼の草花のような清く純粋な香りが私の鼻腔をくすぐった。惰性は少しずつ人間から美しさを削り落していく。明日の希望の原動力となるのは、まちがいなく自分がこの世に必要であるという自覚だ。それが生きがいというものだろう。愛情もその一つ。相手にとっての自分自身である。

「奈緒子は由佳里と仲が良かったやろ」

 私は探りを入れた。

「お前、真紀子のスナックで二人一緒に勤めていたはずや。調べはついてるんや。由佳里のことなにか知ってることがあれば教えてくれや」

 由佳里への思慕が胸を引き裂くように湧きでてくる。恥ずかしさを通り越していた。

「ゆうさん、わたしも正直にいうけど、よくは知らないの。どういうわけか由佳里は普段から自分の話はしなかったわ。人は他人のことをほじくり出すのが好きなようだけど、わたしはゆうさんも知ってのとおり、今が良ければい~じゃんの、ノー天気だから、それで気があったんだと思うわ。それでも話を聞いてもらっていたのはわたしのほうで、由佳里は年上の私と精神年齢は変わらなかったみたい。しっかりしてた。きっと小さなころから苦労してきたのよ」

 ウエイターが奈緒子の前にカフェオレを置いた。奈緒子は砂糖を入れずに一口すすった。

「砂糖を入れないのか」

 いつもはココアに砂糖をいれる甘党である。

「すこし身体をしめなきゃねぇ。夜の自堕落な生活に甘えて生きてきたからね」

 まぎれもなく奈緒子に女性として美しく再生する自覚が芽生えていた。

「私の人生って、つまらない石ころにつまずいてばかりいたからね。今度はそれを飛び越えてやろうと思って頑張ってる」

 奈緒子の瞳が輝いている。

「無理をして飛び越えんでもええ」

「どうして?」

 グラビアアイドルのように首をひねった奈緒子が可愛いと思った。

「つまずいた石ころは、きっとお前の踏み石になる」

 自分の言ったことに少し照れた私は、空になったコーヒーカップをもう一度すすった。

「さすが、ゆうさん、うまいこというじゃん。素敵な贈る言葉をいただいてありがとう。私の知る限りの由佳里情報をお教えします」

 奈緒子はセールスバッグをひろげ、ピンクのクリアファイルに挟んでいたハガキを一枚、私の前に差し出した。

「ミユキから、ゆうさんの用事はきっと由佳里のことだと思うよ、って言われてたんで、家にあったこれ、真紀子ママのスナック時代、由佳里が今回みたいにいなくなった時、失踪先から私宛にくれたハガキをもってきたの」

「そうか。おおきに」

 私は手にとりハガキに目をおとした。


『ナオちゃん、ごめん。事情があってしばらく神戸に帰れません。ナオちゃんがいたから今日までがんばれました。元気にやってるから心配しないで。必ず神戸に帰ります。真紀子ママのことよろしくお願いします』

 消印 大分県別府市北浜郵便局

 住所 別府市北浜1丁目―1


「別府はわかるけど北浜って、どこや?」

 私は耳慣れない地名に首をひねった。

「調べてあげるわ」

 奈緒子はスマホで「別府北浜1丁目」を検索した。

「海岸近くのホテルがたくさんあるところよ。繁華街みたいやね。料理店の紹介がいっぱい出てる。駅も近くにあるし神戸でいえば元町か三宮みたいなところとちがうかな」

 奈緒子はスマホにうつる別府の地図を指先で器用に拡大しながら私に見せてくれた。

「別府か……」

 別府と聞いて、私の脳裏に真紀子の顔が浮かんだ。

「やっぱり、あいつ、なんか知ってるな」

 由佳里がどこに消えたのかまったく定かではない。しかし、この奈緒子がくれた情報はかなり有力である。おそらく由佳里の出生は大分県に違いない。真紀子の縁者であるというのもほぼ確定的である。三十年来のつきあいである私に真紀子は何を隠しているのか。あの『托卵小景1985』の由紀子のくだりは、酔いつぶれた真紀子が「うちのこと書いて」といって寝物語に話したことを脚色したものである。あの小説の中で由佳里はひとつだけ事実と違うところがあると言った。それはいったいなにか?

「別府か……」

 何度もひとりごとをする私を奈緒子は笑って見ている。

「ゆうさん、由佳里にぞっこんやね。由佳里がうらやましいな」

「今日の奈緒子も俺は好きや。自分の足でしっかり立ってる」

「あたりまえや。足がなかったら幽霊じゃん」

 奈緒子が目を丸くして言った。

「そりゃそうや。まるで吉本やのぉ」

 ふたりで爆笑した。奈緒子も腹をかかえて笑っていた。奈緒子の瞳はキラキラと輝いていた。過去はけっして未来を汚さない。奈緒子の再生を心から祈る気分になっていた。

「このハガキ借りてええか?」

「いいよ。ゆうさんには色々とお世話になりましたから。お役に立つなら使ってください」

 私は奈緒子を新幹線のホームまで見送ることにした。奈緒子は照れるからやめてくれと言ったが、私は強引にお見送りを演出することにした。

 山のふもとに建てられた駅舎は東西をトンネルとトンネルに挟まれた斬新なスタイルである。上りも下りもトンネルをぬけてホームに入り、そしてトンネルに消えていく。別れが似合う港町は山間にある駅でもロマンチックである。そのホームに雪が降りそそいでいた。雪の合間をくぐりぬけるようにして、新幹線が滑り込んできた。

「ゆうさん、もういいから、寒いからいいよ」

 扉の前で振り返った奈緒子は何度もそう言った。

「元気でがんばれよ!」

 私はデッキに乗り込んだ奈緒子へ場所に不釣り合いな大声を出した。

「まるでどこか遠くに行くみたいじゃない。すぐに帰ってくるんだから」

 奈緒子の言うとおりだった。

「ゆうさん、由佳里が言ってたよ」

 奈緒子が口に手を添えて言った。

「なんって?」

「うちはゆうさんが、ゆうさんがね……○○○○○」

 奈緒子の言葉を遮るように無情にも扉が閉まった。

 最後は口パクになってしまい聞き取れなった。聞きたかったが聞くのが怖いという気持ちも心のどこかにあった。

 由佳里が私によせた想いと私が由佳里によせた想いは、どこかですれ違っていたのかもしれない。いずれにせよ由佳里が私の心を占有している事実だけは厳然として今もある。このままにしておけないことだけは間違いない。

 奈緒子を乗せた新幹線は雪の合間をくぐりぬけ再びトンネルの中に消えて言った。

 私は『なごり雪』のあの主人公のように、線路に落ちては溶ける淡い雪をしばらく見つめていた。

「別府か……」

 私は会うことができなくても由佳里を追って別府へ行こうと決めた。30年前、私は真紀子(托卵小景1985:由紀子)と別府へ行くために休暇をとったが、結局、行く事が出来なかった。私はおおげさなようだが、別府へ行かなければならない宿命のようなものを感じていた。

 私は振り返ると、ジャケットの内ポケットから取り出した由佳里のハガキをもう一度読んだ。

「別府北浜1丁目1番地」

 降りこむ雪で文字がにじんでいた。〈この章 了〉


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