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第2章 恋を知らない女

 東門街レンガ筋 クラブ『貴婦人』

 

 

 オートのグランドピアノがオールディーズのナンバーから『そっとおやすみ』に変わった。キャンドルライトのローソクがほのかに揺れてふけゆく大人の世界がある。華女を追う男たちの視線があちらこちらで交錯すると、華女をつつむパルファムの香りが幾重にも流れた。そして酔客は一夜の夢を見る。

 黒服のマネージャーがアイスペールと携帯電話をもって私の席に来て言った。

「ゆうさん、お電話です」

「俺に、それは?」

 ピンク色をしたケイタイは店の電話ではない。

「心配ご無用。真紀子ママのケイタイです」

「誰から?」

 マネージャーは振り返りカウンターの中の真紀子を見た。着物姿の真紀子は私をチラ見すると右目でウインクした。なにやら思わせぶりである。しかたがないから電話に出ることにした。

「もしもし」

「どうして来てくれないの? 電話もでないし。今夜は来てくれると言ったじゃない……」

 由佳里の声がか細くふるえている。今にも泣きだしそうな様子である。

「すまん。今夜は用事ができて行けそうにない。土曜日には必ず行くから」

「わかりました。もういいです……ゆうさん、わたし、消えます。わたしが死んだら、カサブランカで祭壇を作ってください。それからわたしの棺にゆうさんの写真をいれてください。さようなら」

 由佳里はそれだけいうと黙り込んでしまった。

「おい、脅すなよ。ごめんやから、今夜だけはゆるしてくれよ。なあ、たのむから」

 私は困り果て、黙した。言葉がない。

「うそ、ぴょ~ん! 土曜日同伴、神戸ステーキの特上プラス年代物の赤ワイン。にいさん、これで手を打ちまひょか?」

 由佳里は別人のごとく明るく豹変し、ヤクザ口調で言い放った。

「こいつ、やりやがったな」

 見事に由佳里に一本とられた。ヤキモキした自分がおかしかった。

「ゆうさん、でも今夜の約束が女やったらイケンよ。女がそばにおっちょったら許さんよ。ゆうさん、九州の女が怖いのは知っちょるやろ」

「わかってる。ここの真紀子ママで懲りてるわい。わかってるさかい、土曜日同伴で了解や」

 私は電話を切ってテーブルの上に置いた。

「ゆうさんって、うそつきなのね」

 となりに座っている奈緒子が私の顔をのぞきこんで聞く。真紀子から呼び出されてこの店へ来たのだが、真紀子は私の席に着くことなく、奈緒子を残し消えてしまった。

「人聞きがわるいな」

 大柄だが華奢な奈緒子は脚が美しく長い。ショートヘヤの耳もとに大きなパールのイヤリング。ライトピンクのダブルのスーツがよく似合っている。二つの大きな瞳が、ややアンバランス距離にあるのだが、それが魅力でもある。

「だって……かわいそうじゃん」

 横浜から流れてきた奈緒子は酔うと関東弁のため口がでる。

「うそも方便というだろう」

「ゆうさん、歳いくつ? おじいちゃんみたいなことをいうね」

「じいちゃん?」

 今夜はどうも女に一本とられるようだ。

「となりにこんなキレイな女性がいるのに、席をかわるのはもったいないやろ」

 私は一気に形勢逆転を狙う。女は美的形容詞に敏感に反応するはずだ。

「がっかり、やっぱ、ゆうさんは、うそつきじゃん。わたしのどこがキレイですか? 年齢はこの店で最年長。人生いろいろ、人にいえない歳をかさねてきました。ゆうさん、知ってるでしょ?」

 奈緒子は水割りを一気にあおった。

「やめろ、むちゃするな」

 ミユキの泥酔が脳裏に浮かんだ。二の舞はご免である。

「わたしはそうやってやさしく叱ってくれる人が好きなの。なのに……まあ、いいか。わたしのことより、ゆうさんのこと話してよ」

 奈緒子は二つの空いたグラスにアイスをいれながら言った。

「職業年齢不詳。バツイチだけは事実や」

「ふ~ん。でも仕事は知ってるよ。真紀子ママがゆうさんは作家だっていってたもん。酒場の女を書く変なモノ書きだって」

 奈緒子は私を見つめた。

「変な、は余分だ」

 私はシガレットケースからお気に入りのジタンを一本手にとった。奈緒子がベストのポケットからマッチをとりだし間髪いれずに火をつけた。白く細い指先に青白い炎がある。そしてジタンのきつい香りが二人の間に漂う。

「いまどきマッチとは古風やな」

「真紀子ママが百円ライターじゃ味がないって。マッチを擦る仕草も女の魅力のひとつだから練習しろって、このあいだミーティングでロープレさせられたんだもの。でもわたしは、ゆうさんのそのタバコのほうがクラシックだと思うけどね」

 私にとってジタンはバブル時代の残り香みたいなものだ。

「ゆうさん、どんな小説書いてるの?」

「つまらない夜の街を書いている。そう、酒場に咲く『夜華』が主人公の失恋物語」

「おもしろそうじゃん」

 ふと、瞳を輝かせた奈緒子が可愛いと思った。女性の涙は最大の武器だといった総理大臣がいたが、私は心を許した女性の笑顔がリーサルウエポン(最終兵器)だと思う。

「あなたたち、えらく盛りあがっているじゃないの」

 真紀子が現われた。真紀子と入れ替わりに奈緒子が奥に消えた。

 真紀子はクラブのママにしては実に素人ぽい。いつも学校の先生が着るような紺色のスーツで店に出ている。化粧も薄く、どこから見ても高級クラブのママには見えない。親しみやすくおっとりしていて、夜の世界独特のあの気どった斜にかまえたところがまったくない。中肉中背で胸が大きいのが売りである。色白の丸顔は歳を重ねた今も若く見える。今夜の金地に白梅をあしらった着物姿はいつもの雰囲気とずいぶん違う。

 真紀子とは長いつきあいで、私がこの街にデビューした頃からだ。スナックを転々とした真紀子を追いかけるように私は飲み歩いた。やがて真紀子はクラブのママとなった。これ以上語ると歳がわかるので割愛するが、私との関係は未遂が二度。酔いつぶれた私が役に立たなかった? 真紀子の事は以前発表した『托卵小景たくらんしょうけい1985』に登場する由紀子のモデルとして描いた。私のもっとも愛着のある作品である。昔話はもうよそう。

「その格好はいったいどないしたんや。結婚式でも呼ばれたんか」

 私は真紀子の襟足を見つめながら言った。

「うちや。うちが嫁にいくんや」

 言葉にシャネルの5番が香った。

「なんやて! ほんまかいな、誰とや」

「ゆうさん、知ってるやろ。成田先生や」

 成田先生はK大学の名誉教授でオープンからここの常連。六甲の豪邸に住んでいる。

「歳が、だいぶいってるやろ?」

「心配せんでもあっちのほうは誰かさんより元気があるで」

 真紀子はそういうと思わせぶりに私の膝へ手を乗せた。

「なんや、ゆうさん、妬いてんのか?」

「そんなことあるかい。お幸せにどうぞ」

 私はタバコをもみ消し、グラスをほした。

「そんな話はええんや。それより奈緒子のことなんやけど、また男ができたみたいやねん。それで店を辞めるいうんや。懲りへん子や」

 真紀子はためいきをつくと両手で帯を引きあげるしぐさをした。

「人が人を好きになるのはしょうがないわ。誰にも止められん」

「そりゃそうやけど、あの子の場合は特別や。苦労が見えてるんや。うちにはわかる。先にあがらせて北野坂の『ニコレ』で待たせるから、話、聞いてやってくれん?」

 真紀子は私をひとり残し、帰り支度を始めた団体客の見送りに行った。

「ゆうさん、もう一杯飲んでいってください。ママからのことづけです」

 マネージャーが私の席に来て、薄い水割りをつくった。

 しばらくして、見送りに出ていたホステスたちが真紀子を先頭に店に戻ってきた。

「ゆうさん、ほなお願いね」

 私は『貴婦人』を出た。雪はないが、寒さは半端じゃなく厳しい。アスコットタイを締めなおし、コートの襟をたてて足早に北野坂を目指した。けたたましく数台のパトカーがサイレンを鳴らしながら中山手通りを疾走した。

「ゆうさん?」

 奈緒子が横断歩道手前で待っていた。

「寒いやろ、こんなところで」

「そんなにつめたくないよ」

 奈緒子はそういって私に肩を寄せた。

「ゆうさん、わたしとつきあってくれるん?」

「一杯飲むだけや。あんまり深く考えんでええ」

「『花の木』の由佳里ちゃんに叱られるわ。きっと後悔するで」


 奈緒子は仕事を離れると男をその気にさせる危険な色香を漂わせる。真紀子から聞いた話だが、奈緒子は十四のとき、五十男と駆け落ちして二年間同棲。のちに捨てられて別れる。二十一で再婚。子供が二人できて落ちついたかにみえたが、この男がアル中のでたらめ亭主。定職もたずにバクチ三昧。奈緒子が夜の勤めでなんとか生計をたてていたが、二年前に家を飛び出し、今度は八つ下の若いツバメと同棲。子供二人引き取って新生活をスタートさせた。ところがこの若いツバメは嫉妬深く、客と電話しただけで殴る始末。顔を傷つけられていたこともあった。階段でひっくり返ったとか、物が落ちてきてぶつけたとか、みえみえの嘘は悲しすぎる。

 先日も真紀子が、「奈緒子ね、今朝早く、わたしの携帯に電話してきたの。どないしたん?って聞いたら、今、ホテルで知らない男と寝てるっていうの。エッチしたのかどうかもわからへんいうもんやから、『シャワーでも浴びて頭を冷やせアホ!』っていうてやったんよ。そうしたら、また少しして電話がかかってきて、下着がウラ、オモテやからエッチしたみたいだっていうんや。家に帰って殴られるよりましかもしれんけど、それでもね。男と酒を飲むと悲しいぐらい節操がなくなるんや、あの子。理性みたいなもんが完全に抜け落ちてるな」とやっぱりためいきをついた。

 今までにも似たような女性に出会ったことはあるが、奈緒子は特別だった。幼くして身についたゆがんだ人生観が、彼女の不純行為の裏付けになっているのに違いない。


「後悔するいうて、なんでや。奈緒子と一杯飲んでなんで俺が後悔するんや」

「おとぼけやね、ゆうさん。わたしが次から次と知らない男と寝てること知ってるでしょ?」

 信号が青にかわった。

「自分でもわからないの。どうしてそうなるのか」

 奈緒子も私も横断歩道を渡らず、信号を見つめていた。

「ゆうさん、わたしね、今の亭主と離婚しようと思っているの」

 私は答えずにいた。話の核心はまだ先だ。

「結婚なんかしててもつまらないもの。どうして男と女が一緒に暮さなきゃいけないの」

 そういいながら、また寂しさを埋めるために男を求める自分がわかっていない。

「そりゃ、やっぱり好きやからや。好きやから一緒にいたいと思う。あたりまえやそんなこと」

「ゆうさん、わたしね、人を好きになったことがないの。初恋も知らないし、好きな人のことを思って胸が痛くなったこともない」

「ほな、なんで結婚するんや、アホ! 好きでもないやつと一緒にいて楽しいか?」

「ごめんなさい……」

 奈緒子はしゃがみこみ両足を抱え込んで泣き出した。

「抱かれることが愛しあっていることだと……」

「人を好きになれんもんが、一人前にエッチだけしてどないなるんや。世の中に不幸をばらまいているようなもんや!」

 私は語気を強めて言った。やさしい言葉は今、奈緒子にとって役に立たない。やさしくすればこの俺がミイラになってしまう。

「人を好きになれん奴は、自分を大事にもせん。まわりが苦労する」

 奈緒子は肩を震わせ泣いた。

「どうせ泣くんやったら、相手のことを死ぬほど好きになって、好きになって、それで破れて、くやしくて、くやしくて、泣くほうがましや」

 ふと、先日のいさぎよいミユキの顔が浮かんだ。

「小学生の子に好きな子ができてもエッチするか? その子と一緒にいたい。一目会いたいと思うだけやろ。俺の知ってる女に『セックスが上手なところが好きになった』というのがおったけど、アホらしゅうて話にならん。もてん男も、もてん女も、皆、好かれることばかり考えて、恋をすることを忘れてるんや。粋な男と女はいつも恋をしてる。ただ女には恋をせんでも色気を出せる術ちゅうもんがある。その性に自分が翻弄されてしもうたらおしまいや。抱かれることに自分の恋を見つけようとしても無駄なこと。心配せんでもこの世に生きているうちに、きっと大切に思える人が現れる。奈緒子が本当の恋を見つけることを祈ってる。俺の言ってることが子供だましに聞こえたら、聞き流してくれたらええ」

 奈緒子が立ちあがった、

「ゆうさん、さようなら」

 奈緒子はそういうと赤になった信号を無視して、横断歩道を駈けだした。

『奈緒子には夜の勤めは似合わないわ』

 今日、電話をくれた時に言った真紀子の言葉を思い出した。


 数日後、奈緒子は店を辞めた。

 今、シングルマザーとして保険の外交員をしている。

              

                 この頁 了


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