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鼻腔に滑り込んできた淡い花の匂いに、違和感を強烈に刺激されて目を覚ました。
おかしい、拘束されていたはずの体の痛みが和らいでいる。どうやら自分はどこかに寝かされているようで、身体の下の柔らかさが心地好かった。薄く瞼を開けると柔らかな白光が飛び込んできて少しだけ頭が痛んだが、もう一度ギュッと目をつぶって痛みを追い払い、再びゆっくりと目を開ける。
明るい色の天井が見えた。もう何日もあの暗がりにいた目には随分と眩しく映る。衰弱しているのか身体が鉛のように重い為、視線だけ動かして周囲の確認を試みた。ゆっくりと視線を横へずらしていく。自分の左側は真っ白い壁で、その反対には明るい陽光を室内に振りまく窓が見えた。
そしてその前に置かれた一脚の椅子に腰かける人物。
思わず息を呑んだ。
美しかった。
人間とは思えないほどの美しさを持つその男は、どうやら船を漕いでいるようだった。こくりと頭が揺れるたびにさらさらと揺れる髪は、日に照らされて殆ど銀に見えるほど明るいブロンド。纏っている真っ黒な長衣とその上から掛けられたロザリオとのコントラストが、一種の絵画のような雰囲気を醸し出していた。
まだ休息が必要だと体が訴えるのも半ば忘れ、殆ど無意識のうちに身体を起こすと、寝かされているベッドが小さくギシリと鳴いた。
その音で目を覚ましたのか、男がゆっくりと目を開けた。ゾッとするほど鮮やかなライムグリーンの瞳がぼんやりとこちらを見つめた後、少し驚いたように見開かれた。
「あぁ、目が覚めましたか。良かった。すみません寝てしまっていて」
優しい声音だった。美しい男は座っていた椅子から立ち上がりこちらへと歩み寄ってきた。すぐ傍まで歩いてきたと思ったら、その手が額に押し当てられる。体温が低めなのかひんやりとした感触が心地いい。
「熱が少しだけありますね。でも薬の前に何か食べないと……セロンにお願いしてきましょう。準備ができるまで、まだ眠っていて下さい」
額に当てられた手に緩く力が込められ、ゆっくりと横たえられる。襲ってくる睡魔に抗う気力すら無く目を閉じれば、すぐに深い眠りに落ちていった。
頭のすぐ傍で何者かが動く気配を感じて意識が浮上した。それと同時に、ずっと漂っていた花の香りに食べ物の匂いが混じっているのに気付き、空きすぎて最早忘れていた空腹感が呼び起こされる。
「おーい、飯だよー」
先程のブロンドの男とは違う声がして、額をぺちぺちと叩かれた。幾分遠慮のない勢いで叩いてくる相手に少しだけ怒りを覚えながら目を開けると、赤い目がこちらを覗き込んでいた。その目がにっこりと笑う。
「ん、起きた起きた。おはよう病人。ご飯の時間ですよ」
その男は首から下げたあの青年と似たようなデザインのロザリオを揺らしながら、窓際から椅子を引っ張ってくるとそこにどっかりと腰かけ、ベッド横のテーブルから湯気の立つ器を木の匙と共に差し出してきた。受け取ろうかどうか悩んでいると、あははと面白そうに笑い声をあげた。
「警戒心強いねぇ……安心しなよ、毒なんて入っちゃいないから。アンタ2日も寝てたんだよ。お腹ペコペコでしょ?」
言われて、それに答えるように自分の胃が大音量で空腹を訴えた。思わず顔が熱くなるのを感じながら、再び面白そうに笑う男から器を受け取った。
ほかほかと湯気を上げる卵粥の温度が両手に沁みる。
一匙掬って少し冷ましてから口に運ぶと、薄味ながらも非常に美味しく感じられた。最初は一口一口ゆっくりと食べていたが次第に止まらなくなり、最終的には半ばかき込むようにして完食してしまった。
「……ごちそうさま、でした」
「はい、お粗末さまでした。じゃあ次は薬だね。……はい、これ。あとお水」
何日かぶりのまともな食事ですっかり気の抜けた気持ちで薬とコップを受け取ると、一息で飲み込む。ふぅ、と一息ついた自分に優しい目で一度笑いかけた後、ちょっと待っててと言い残して赤い目の男は空になった食器を手にこの部屋を出ていった。
数分で戻ってきた男の手には、なみなみとお湯が張られた陶器の盆と何枚かのタオル、更には衣服らしきものがあった。それらをテーブルの上に置くと、男はこちらを向いて手招いた。
「髪と体拭くよ。熱が下がるまでは風呂に入れらんないからね。……ほれ、その汚れた服脱いじゃいな」
「へ、あ、いや、それくらい自分で……」
「病人が何言ってんだ。それに一人じゃあ背中とかキツいでしょ、手伝ってあげるからほら早く脱ぎなって」
優男な外見に似合わず割と押しの強い言葉に負け、渋々上だけ服を脱いだ。流石に下着になるのは気が引ける。というか羞恥でそんなことできない。そこら辺はどうやら汲んでくれたらしく、ズボンを履いたまま背中を向けても何も言われなかった。
背後で水音が聞こえ、頭に適度に絞られた濡れタオルが被せられた。そのまま少々乱暴な手つきでガシガシと頭を拭かれる。痛くない訳ではなかったが、囚われの身で水浴びなんて久しく出来ていなかった身としては、汚れが落ちていく感覚が気持ちいい。
何度かタオルを替えられながら暫くされるがままになっていると、「よし」という声と共に軽く頭をはたかれ、髪を拭いていたタオルが離れた。再びの水音の後、綺麗な濡れタオルが肩越しに差し出された。
「はい、背中は俺がやるから前は自分で拭いてね。洗いたかったらまたタオルこっちに渡して」
「は、はい」
タオルを受け取り自分の体を拭う。囚われていたのはそこまで長い間ではなかっただろうが、周りの環境のせいか随分と体は汚れていた。こんな状態で清潔なベッドに寝かされていたのが少々申し訳ない。あの日々を必死に思い出さないようにしながら一通り体の前面、ついでに両腕を拭き終わると、それとほぼ同時に後ろの彼も終わりだと声をあげた。
「……あー……下はどうする?やろうか?」
「い、いや!流石にそれは……!」
「だよねぇ。じゃあ俺は出ていこう。このお湯とタオル、好きに使っていいから。あとこれ新しい服ね。体拭き終わったらこれに着替えるといいよ」
「あ、は、はい。ありがとうございます……」
「良いんだよ。聖職者たるもの困ってる人を見捨てるわけにはいかないからね」
そう言った彼は、胸元に下がるロザリオを軽く指で弾きにっこりと笑った。
「うわっ、オレめっちゃ汚ねぇ……」
後に改めて自分の汚れを拭き取ったタオルをみて、ちょっと自分の汚れっぷりにドン引きしたのは、また別の話だ。